1-(5)

 貴重な冷気を逃さないように、給湯室の冷蔵庫に食べ残したものをそっとしまった。

 開けている時間が少なければ、少なくとも一日は庫内は冷えたままでいてくれそうだ。

 重たい足を持ち上げるようにしてベッドに上がる。そしていつもより硬いベッドに横たわる。


 ……ふぅ。

 ため息は確かにその時聞こえてきて、ああ、彼も同じように疲れているんだよなと、姿の見えないひとのことを考える。

 こんなに近くにいてもちっともわからない。自分のことで精一杯で、彼の疲れを考えてあげられなかった……。

 知らないんだ。

 彼がどんなひとで、どんな癖があって、どんなことが好きなのか。

 声を上げて笑う様子、午後の授業の眠たげな横顔、男の子同士でどんなふうにしゃべるのか。

 なにも知らない。

 だって湖西はたった一日学校に来て、翌日からは姿を見せなかったんだ。


『不登校』。

 やめるんじゃないの、と噂されていた。


 なぜ彼だけが最初の日、前の扉から入ってきたのか――。

 彼は去年、うちの高校を単願で受けて不合格だったそうだ。それでもどこかの二次を受けたりせず、目標としていたこの高校に一年遅れで入学した。

 そんな事情、黙っていればわからなかったのに、彼はまるで転校生のように前の扉から入ってきた。先生が強要したとは考えにくいから、噂になる前に説明をしておこうと了承済みのことだったのかもしれない。

 そうして、わたしの前を通る時、彼は確かにわたしを一瞥してから教壇で先生に紹介された。

「よろしくお願いします」という声は固かった。


 どうして念願だった高校に進学できたのに登校しなくなったのか、それは彼にしかわからない。

 でもなんとなくわかる気もする。

 ひとは、自分がその集団から異物と判断されたと思った時、そこに居場所を持てなくなるんだ。

 わたしも同じ、というほどでもないけど、自信はない。

 わたしの居場所はどこなんだろう?


 ――佳祐ったら結局、問題解けなくてわたしまでドキドキしたんだから。

 綾乃はわたしの言葉にころころ笑う。自分の彼氏の失敗談がそれほどツボに入ったのかと思ったけど、わたしたち三人は気の置けない幼なじみだ。失敗も笑い話に変わる。

 うるさいなぁ、だから名璃子が最初から教えてくれてればさぁ。せめてノートだけでも見せてくれればさぁ。

 真っ赤になった情けない顔に、また三人で笑う。

 なんで理系クラス志望したの?

 名璃子だってなんで。

 わたし? わたしは……。


 まぶたの裏側をまばゆい光が照らす。

 ああ。

 昨日の出来事が頭を駆け巡る。

 そうだ、わたしにそんな今日は来ないんだ。

 カーテンを開けると、保健室の窓からは光を一面に受けた金色の水面がどこまでも見渡せた。水面をなぞっていくと、水平線で水は空と溶け合う。金色に走る一本の線。


 もう一枚のカーテンが開く音がして、そのひとを振り向く。

 昨日までは知らなかったひと、湖西がそこにはいた。

「おはよう。よく眠れた?」

「うん、ぐっすり。昨日は疲れたもんね」

「そうだね、顔を洗ってサッパリして、朝ご飯にする? もう少し横になっててもいいよ」

「うーん、もう少し寝てたい気もするけど、お腹空いちゃったかも」

 にこり、と湖西は微笑んで保健室のドアを開けた。また違った眩しさに目を瞑る。


 ドアを開けた本人は――なぜかその場に固まった。

「……どうしたの?」

 怖々と彼の背後に回る。彼は微動だにしない。なにが起こったのか、恐怖より好奇心が勝る。


 廊下の窓の外、遥か先に、なにか建造物が見える。あれは。

「駅? 駅じゃないの? ホームだよね、あの高さ」

 そう言えば駅はごく緩やかな盆地に建っている。海からの自然な起伏で海抜が少し高い。

 残念なことにその他の建物はその時見つけることができなかった。

 それでももしかしたら孤立しているのがわたしたちだけじゃないかもしれない、という大きな希望がわたしを満たした。

「ねぇ、駅には誰かいるんじゃないかな? あそこまで昨日みたいに歩けるかな?」

 湖西の口はすぐには開かなかった。

 現状を理解するのに時間がかかっているのかもしれない。

 それはそうだ、「誰かいるかもしれない」という期待は自然に胸いっぱいに膨れ上がってしまうもの。


「……青山さん。とりあえず今日は僕たちのための水と食料を確保したいんだ。確かにあそこにもひとがいるかもしれないけど、まずは自分たちの安全を確保してからじゃないと動いたら危ないんじゃないかな?」

「……わたし、思ったんだけどは飲めないのかな? 少なくとも潮臭くなかったよ」

「そうかもしれないけど、それでもどんな物質が入っているかわからないでしょう? 有害なバクテリアがいないとは言えないし。飲料水は昨日言った通り、当てがあるから大丈夫だよ。そうだ、あの水は青山さんの靴下を洗うには使えるかもしれないね」

 くすくすと少し意地悪そうに彼は笑った。なんだかちょっと感じ悪い。

 だってほら、全部、彼の言う通りだ。

 自分たちの身の安全を確保しないで危ないことをするのはバカげている。それに……確かに下におりて水を汲めば洗濯ができるかもしれない。家庭科室に洗剤があるかもしれないし。


 朝は昨日、食べなかったおにぎりを食べた。

 塩鮭と梅干し。

 偶然にしては腐りにくい良い組み合わせ。やっぱり冷たくても白いご飯が食べられるのはうれしい。

「あったかいお茶にしようか?」

「うん、いいね。日本人て感じ」

 彼はまたくすくす笑った。

 表情の豊かなひとだ。顔に気持ちが真っ直ぐに表されているような。

 ビーカーからきれいな緑色の日本茶を湯のみに注ぐ。今日も昼間は暑くなりそうだ。

 太陽は昇ればのぼるほど、その光度を上げた。


 ちょっと職員室に行ってくるね、とたぶん慣れない学校の中に湖西はひとりで行ってしまった。……言ってくれれば一緒に行ったのにな、と水臭く感じる。

 でもこのひとりの間にできることはしてしまおう。

 昨日の冗談は別にして、顔を洗ったりした水で靴下を洗わせてもらう。ついでに制服のブラウスも着替えに洗う。もちろん節水。下着は……しばらくあきらめ。

 並んでいる蛇口のどれからも水が出ない日があるなんて、考えたこともなかった。こうしていると、蛇口は廊下に沿って延々に続いているような錯覚に陥りそうになる。

 当たり前に水が出るというのは素晴らしいことなんだな、と忘れずにいようと思う。


 新しい水を少しもらって、ハンドタオルを濡らして特に顔、首筋や肘の内側などのくびれを拭く。――お風呂に入れない、それはわたしには恐怖だった。この状態が何日続くかもわからないのに。

 拭き終えたハンドタオルを水ですすいでギュッと絞った。


「青山さん、行こう!」

 え、と口に出すより早く彼は走り出した。

 え、え、え。

 どこへ? なにがあったの?

「ねぇ!」

「あったんだよ」

「なんの話?」

 そこまで言うと彼は立ち止まってわたしを振り返った。

「見つけたんだ、これを」

 彼の手の中には黄色いプラスチックのタグがついた鍵があった。

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