1-(2)
薄明かりがぼんやり視界を鮮明にしていく。視界と共に、思考も目覚める。
少しずつ、顔を上げる。
ああ、古文の時間だったっけ。先生の朗々とした声がいつも眠気を誘う。がんばって起きようとしてもやけに眠い。まどろみが体を再び支配しようとする。
――目が覚めたの?
聴き慣れない声だ。でもなぜか耳に心地いい。どこで聞いた声だっけ? ……さっき、今さっきまで聞いていた声。
「ごめんなさい! わたしひとりで寝ちゃって」
「そんなに長い時間じゃないよ。ほら、まだ空も青いし」
夏至に向かおうとしている空は、四角い窓のフレームから見るとまだ青さを保っていた。ふと見ると腕時計の文字盤は泥で汚れている。
……ああ、夢じゃなかった。
そうだ、あの後わたしたちはひたすら足を動かして学校に着いたんだ。
もしもあれが夢だったら、わたしと湖西がふたりでここにいることはない。わたしにしても、湖西にしても、お互い、すごい他人だ。
廊下側一番前のわたしの席と窓側、一番後ろの湖西の席。教室のほぼ対角線上に座っていることがふたりの心の距離を物語っている。
そう、ここは学校だ。
わたしたちは自分たちのクラスにたどり着いた。
世界が水に覆われていると知って、わたしはひとり混乱した。
公園ももちろん水没していた。しかもまっさらな土地に浅い水。地球全体が水という膜に覆われているように、ごく浅い、くるぶしまでの透き通った水。
「落ち着いて」と湖西が深い声で言った。それは聞いたことのない、大きくてしっかりした声だった。
「だって、マンションは? ママはどこに帰ってくるの? そうだ、佳祐と綾乃! スマホは?」
「落ち着いて、青山さん、まだなにもわからないよ。だから、一緒に探そう」
「なにを……? なにもないのに」
湖西はわたしの目線をその人差し指で動かした。緩やかにぐるりと視野は半周する。
「あそこに行ってみない? もしかしたら誰かに会えるかもしれない。いや、それ以前に今よりずっとましだと思うけど。立ちっぱなしも水に浸かりっぱなしも疲れるでしょう?」
信じられないことにその指先の向こうには、さっきまでわたしがいたところ、学校があった。学校は少し高台に建っていた。その足元にあるゴミゴミした小さな家やアパートもそこにはあるように見えた。
でも、他に高台だったところが残っている気配はない。
わたしの心に極小の希望が湧いた。
それからは最低だった。
いつもなら十五分ほどの道のりが、砂に浅瀬となると足を取られて上手く歩けない。
ローファーの中は溺れるように水がガバガバ入ってきて、脱ぎたくて仕方がなかった。
でも湖西はダメだと言った。砂の中になにが紛れているかわからないと。
彼の言うことは至極真っ当だった。
この砂の中のことはまだなにもわからない。手で持ち上げるとさらさらと指の間から逃げていく。
「生き物はいるかな?」
干潟には小さな生き物がいて、野鳥たちはそれを食べにくる。
「さあ、どうかな。いまのところ見てないけど」
彼は額の汗を拭った。
「野鳥はどこに行ったんだろうね?」
「さあ、少なくともここにはいないね」
わたしのリュックも重かったけど、彼のカバンも重さでたわんで見えた。
男の子だな、と思う。この状況で愚痴一つこぼさない。
いや、佳祐なら愚痴ばっかり言って、わたしに同意を求めるに違いない。わたしは笑いながら、その話には乗らない。
佳祐は、綾乃は無事かな? LINEに既読はつかないままだった。
あのまま教室で喋っていたなら助かったかもしれない。
もしこの現象がよくわからないけど地震から起こったとしたなら、学校の中は安全なんだろうか? 不意に不安になる。
でも仕方ない。ほかに行くところがない。
とにかく座りたかった。
水に浸かった足がだるい。
でもしゃがんだだけでスカートの裾が濡れてしまう。仕方ない。
わたしは一言、「アイスが食べたい」と言った。湖西が笑った。
水面はいやらしいくらい日差しを反射して、日焼けは免れないだろう。もし、これが夢でなければ。
そうしてわたしたちは浅瀬を抜けて学校の坂のふもとにたどり着いた。
わたしは期待していた。自転車で走り回る子供や、大きな音量でテレビを見ているおじいさん、学校前のコンビニで生徒たちが帰りに寄ってアイスやジュースを買っていく。
暑い……。
ポカリスエットを一口飲む。
「湖西くんは喉、乾かないの?」
取ってつけたように忘れてたことを言葉に出す。そうだ、彼は何も口にしていない。
「大丈夫だよ。一口でももったいない気もするし、それに座って飲みたいよ」
だね、とわたしは苦笑した。ポカリスエットはあと三分の一。学校は水が出るんだろうか?
坂のふもとに着く。
一年中鳴っている、どこかの軒先に出しっぱなしの風鈴がチリンチリンと音を立てている。置き忘れられた三輪車は乗る人を失って錆び付いている。
いつもと同じなのに、同じじゃない。
だって人の気配がしない。
「青山さん、あの電柱の影のところで少し休もう。暑いし疲れたんだよ。足が重い」
「学校まであと少しだよ?」
「あと少しだからこそ、ゆっくり歩いても学校は逃げないよ」
逃げない、か。確かに笑える。あんまり楽しいと思えなかった高校が、まだここにある。地面もちゃんとある。彼だってこんなふうに学校に行く日が来るとは思わなかったに違いない。
誘われたところは階段状になっていて、腰を下ろして、ふぅと息をつく。湖西もべったりと隣に座って、後ろ側に手をついた。
「疲れたなぁ。学校、遠いよ」
「本当にね。学校、遠い」
「誰がこんな遠くに作ったんだろう?」
「無責任だよね、その誰かって」
顔を見合わせてくすくす笑う。
心の奥の凝り固まった部分が少しずつ溶けていく。ああ、もうすぐとにかく学校に着く。
いなくなっちゃった人たちのことは、申し訳ないけど後回しだ。自分たちの安全を確保しなければならない。
それとも――。
みんなで体育館に避難してたりするだろうか? どう見たって未曾有の大災害だ。そうなってても不思議じゃない。
見渡す限りここにしか避難場所はなかった。
テレビではどう報道されているんだろう? どれくらいの広範囲で、水に侵食されているんだろう。ディズニーランドまで沈んじゃったのだろうか? 東京湾がいつかの台風の時みたいにすべてを飲み込んじゃったの?
……疲れた。
行こう、と促して立ち上がる。右手を差し出す。一瞬驚いた顔をして、湖西はわたしの手を握った。ぎゅっと手を握って足に力を入れる。
わたしより少し背の高い湖西を起こすにはちょっと力が必要だった。
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