【完結済】すべて、青

月波結

1-(1)

 見上げた空を大きな鳥が旋回している。

 鳥はあんなに高いところから、餌を探すことができるんだろうか? 広い空に一羽でいるのは心細くないんだろうか?

 シルエットは大きく孤を描いて、やがて、視界から消える。


 授業の終わった教室は、あちこちで明日までの短い別れの挨拶が交わされる。

「じゃあね」

「またね」

 斜め後ろの席の女の子が声をかけてくれる。

「青山さん、またね」

「うん、またね」

 ――そういう普通のことに気が引けるようになったのはどうしてなんだろう? もうゴールデンウィークも明けたのにクラスでのわたしの立場はいまだ『浮遊層』。どっちつかずのクラゲみたいにふわふわしてる。

 要するに、特に親しい友だちができない。

 元々同じ中学から来た女の子もクラスにいないし、もうできあがってるグループに入るのが難しい。

 体育の時間に「ペアができない人」、それがいつの間にかわたしだった。


名璃子なりこ、帰るところ?」

「もう帰るけど」

「お願いだよ、帰る前に数学教えてくれよ。俺、明日当たるんだ」

 幼なじみの佳祐けいすけが立ち上がってわたしを呼び止めた。小さい頃とは違って、いまは立って並ぶとずいぶん見上げなければ顔が見えなくなってしまった。というのは大袈裟だけど、中学時代バスケ部でがんばってきた彼の身長は高い。

 数学の問題が当たるのはわたしも嫌だ。わたしたちは理系クラスなので毎日数学はあるわけだけど、人前に出て黒板を使って問題を解くのは恥ずかしい。まして間違ってしまったりしたら消えてなくなりたくなる。


「今日やったの、因数分解でしょう? 中学の時からずっとやってるんだからちゃんとひとりで解けるって」

「そんなこと言うなよ、俺と名璃子の」

 出たでた、『俺と名璃子の』。君子、危うきに近寄らず。

『俺と名璃子の』なんてものはない。わたしは厄介事に巻き込まれたくない。巻き込まれたくないんだけど……。頼む、と佳祐は頭を下げた。

「仕方ないなぁ……」

 背負ったばかりのリュックを机に戻す。ドサッとリュックの重みが音になる。

「ちょっとだけだよ」

「悪いな、いつも」

 佳祐は理科全般が得意だ。わたしにはちっとも理解できない物理や化学の問題をすらすら解く。わたしはダメ。数式をいじるのはすきなんだけど、それ以上発展しない。

 なんのために理系選抜にわざわざ入ったのかわからない。


「ねえ、ねえ、まだ帰んないの? 昇降口で待ってたんだけど、佳祐、来ないんだもん」

 気が付くと小さくてかわいい綾乃あやのが、廊下からツインテールを揺らして現れた。綾乃の髪はふわふわのカールが緩くかかっていて、直毛のわたしはいつもうらやましいと思ってる。まるで甘くて綿菓子みたいな女の子だ。


「ほら、綾乃に教わりなよ。ひとの恋路を邪魔するやつはさっさと帰るね」

「名璃子、そんなこと言わないで教えてくれって」

「ねえ、ねえ、なにやってたの?」

「数学。佳祐、明日当たるんだって」

 うわ、大変、と綾乃は少し大袈裟に驚いた。そして佳祐の顔をのぞきこむ。

「いいよ、綾乃に聞いて?」

「無理だよ、綾乃、文系クラスじゃん。教科書とカリキュラムが違うんだよ」

「同じ数学だよ、どこ?」

「名璃子!」

 名璃子、と重ねて呼ぶ声に足を止めず、じゃあね、と振り向かずに手を振った。リア充のふたりの間に入っていられない。


 教室を出ようとした時、ちらりと目の端に入ったのは誰も座っていない席。

 ベランダ側のいちばん後ろのその席は、誰かが歩く時に邪魔になったりしない場所だ。誰もそこに近寄らない。間違えて机に座ってしまったりしない。

 机はいつも通りひっそりとそこにあった。


 高校に入学してひと月が経った。いまのところ『五月病』がやって来る気配はない。

 学校はまだ少し緊張する。でも嫌いなわけじゃない。

 クラスの中に同じ中学から来た子は佳祐しかいない。さっきも言ったとおり、女の子の特に親しい子ができない。

 でもたぶん大丈夫。そろそろ同じ中学から来た子たちのグループも改編されて、わたしもどこかのグループに誘われると思う。話せる子も増えたし。気の合う子、話の合う子同士でグループができていくと思う。そこには入れるはずだ。楽観的に考えよう。


 問題なのは佳祐で、綾乃というかわいい彼女がいるのにすぐ馴れ馴れしく話しかけてきたりする。クラスの子に「付き合ってるの?」って何度も聞かれた。

 もしかすると佳祐は、わたしがクラスで浮き気味なのを心配してくれてるのかもしれない。その気持ちはありがたいんだけど、物事はそんなに単純じゃない。


 わたしと佳祐と綾乃は、同じマンションに住んでいる幼なじみだ。保育園からずっと一緒。でも高校合格が決まった日、綾乃に佳祐への気持ちを聞かされた。「告白したいんだけど、どう思う?」

 わたしは佳祐じゃないので成功率はわからなかった。でも綾乃はどこを取っても女の子らしい。小さい頃から背の低い綾乃は小さなお姫様みたいだった。だから、できるだけ応援するよ、と約束した。


 心配するまでもなく思ったとおり返事は即日OKで、『三』人だったわたしたちは『二足す一』になった。だからって同情はされたくない。気を使わなくていい。ひとりだって通学はできるし、マンションにもちゃんと帰れる。ひとりもそんなに悪いものじゃない。


『三』というのはあんまり気持ちのいい数字じゃない。割り切れない。

 たとえばわたしが佳祐をすきになっても佳祐が増えるわけじゃないし、逆もまた然り。安定しない数字だ。

 でもこれはあくまで仮定の話で、わたしたちの間にそういうのはない。もしもあったらきっとわたしは笑ってしまう。「十五年も一緒にいたのにいつから?」って。


 大通りをわざと通らずに住宅地の古い路地を抜けて歩いていく。わたしたちのマンションは海沿いに建っている。『海沿い』というと聞こえはいいけど、実際はの前に建っている。干潟というのはつまり、海と陸の間の緩衝材みたいな地形のことだ。具体的に言うと、海水でこねられた泥のかたまり。中途半端に海で、中途半端に陸。

 ママは「海の近いマンションなんて素敵ね」ってここの購入を決めたらしいんだけど、いまでは「潮臭い」と窓を開ける度に口にする。


 小さな子供がバケツで水をひっくりかえしたような場所、それが干潟だ。昔は各地にあったらしいけど、干拓されていまはとても貴重なのだそうだ。干潟にはたくさんの命が生きている。ミミズみたいにニョロニョロしたものから浅瀬に住む魚、カニなど。そしてそれらを狙う鳥。まるでここは自分たちの場所だと言いたげに我が物顔で干潟を歩く。似ているようで似ていないたくさんの種類の鳥たちがそこには集まってくる。


 干潟には野鳥だけじゃなく、たくさんのバードウォッチャーが訪れる。珍しい鳥が来ると日本中からそれを見るためにその人たちはやって来る。彼らは双眼鏡や、大掛かりな望遠レンズ付きのカメラを持って干潟を囲んでいる。

 それから地元のバードウォッチャー。この辺のひとはウォーキングしながら、犬の散歩をしながら野鳥を見ている。時々立ち止まっては双眼鏡をのぞく。

 そういうひとたちがずらっと並んでいる干潟のフェンス沿いがわたしは苦手だった。野鳥はいつもいるもので、列をなして見るものだとは思えなかったから。


 苦手なフェンス沿いの道を避けて、マンションに真っ直ぐ帰らずいつものコンビニに寄る。少し寄り道してもママの帰る時間はまだまだ先だ。五月の日差しはわたしの足を早めるのに十分な熱さだった。

 コンビニ前には『しおさい公園』というちょっとした公園がある。そこには干潟に張り出した部分があって、いつもどこかの親子連れがそのフェンス越しに、かわりばんこにカモメに餌をあげている。餌は決まってパンの耳だ。カモメは滑るように飛んできて餌をキャッチする。この辺のひとはカモメに餌をあげることをひとつのボランティアだと思っているようだ。

 その変わらぬ風景を見ながら、いつものベンチに座ってポカリスエットのキャップをひねって口をつけた。

「あーあ、どうしてこんなことになっちゃったんだろうなぁ」

 体の中のネジが少し緩む。学校に行くだけでこんなに緊張してるなんて、なんだか笑える。望んで入った学校のはずなのに。


「バウ!」

 大きな体をした優しい瞳の茶色いレトリバーがおじさんに引かれてやって来て、大きな声を上げた。公園の向こう側はマンションが無く、戸建ての住宅地が続いているので大型犬を飼っているひともいる。でも、普段は大人しいはずのレトリバーが大きな声でひと鳴きしたので、自然とみんなの目がその犬に集まった。

「バウワウ!」

 なにが気に入らないのか、レトリバーはまた吠えた。今度はなにかを警戒するように、或いは威嚇するように。早く冷静になってくれたらいいのに、と思いながら……。


「バウワウ!」


 犬の鳴き声が不思議と遠ざかる気がして、体が不自然に傾く。世界がぐにゃりと曲がって、そこに水平な大地は無くなってしまい代わりに干潟のように足元が不安定になる感じがする。ひどい耳鳴りが体を突き抜けて。

 ――あれ、このままじゃ……。

「青山さん!」

 聞き覚えのない声がどこからか聞こえて、誰かがわたしの名を呼ぶ。わたしの意識はぐんと現実に引き戻される。彼はわたしの方に真っ直ぐ走ってきて、わたしの体はその人に支えられた。

「青山さん!」

 じっとその顔を見る。目の前が真っ暗になりそうになって、顔は歪んで見える。徐々に焦点が合ってくる。

「……湖西くん? 湖西くんだよね? 助けてくれてありがとう。なんだかめまいがして――」

 足元がどうにも気持ち悪くて下を見る。湖西くんに支えられて立っているその足は、くるぶしまで水に浸かっていた。キレイな水だ。さっきのは経験したことのない大きな地震で、どこかの水道管が破裂したのかもしれない。だけど、その考えはすぐに打ち消された。ゆっくり周りを見渡すと……。


 そこにはなにもなかった。

 カモメに餌をやる親子も、おじさんとレトリバーも、コンビニも、住宅地もすべて。すべてが無くなって、すべてが水に浸されていた。水平線が元干潟だった向こう側に見える。水は静かに凪いで、心地の良い微風が水面を撫でた。

 ――世界は見渡す限り、水に支配されていた。


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