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「相応しくないとか、理由つけるなよ。誰だって逃げたくなるだろう、そんな時には」

「……そうかもしれない。僕は考えすぎで、思い込みが強くて、臆病なんだ。さ、カレー、冷めちゃうよ。せっかく青山さんが作ってくれたし、温かいものがいつまで食べられるかわからないんだからさ」

 いただきます、ともう一度言い直して湖西はカレーをスプーンですくった。そうしてそれを咀嚼すると、うん、おいしい、としっかりした声で言った。


「ねね、湖西くんは何座?」

「え? ……乙女座」

「なるほどぉ、確かにそんな感じ。繊細なんだね。好きなことはなに? 勉強より好きなこともあるでしょう?」

「ああ、あの、笑うかもしれないけどずっとピアノを習ってるんだ。全然上手くならないけどピアノは好きだよ」

「うわぁ、ロマンティック! 今度、音楽室で弾いてよ」

「……楽譜がないから上手く弾けるかわからないけどそれでも良ければ」

「いいよ、っていうか、うれしい。これって娯楽でしょう? 娯楽のない人生なんてつまらないじゃん」

 湖西はまた赤くなってうつむいた。

 綾乃は上手いな、と思う。

 湖西の心の中のこと、聞かなくちゃいけない理由はないんだしってずっと思ってたけど、聞いたらずっと身近に感じるようになった。


 そっか、そうなんだ。

 わたしの前ではあたかも年上、といった余裕が感じられたけど、心の中にそんなに大きな葛藤を抱えてたなんて。

 ――不思議なことに、わたしの中に小さな化学変化が起こって、彼を支えてあげたい気持ちが湧いてきた。

 わたしが? 自分のことでいっぱいいっぱいのわたしが?


「……で、気がついたかわからないけど、向こうの方角に駅のホームが見えるんだ」

「ホーム? 電車は?」

「電車はいないみたい。駅ビルはどうなったかよく見えない」

「野鳥観察同好会に双眼鏡があるんじゃないか?」

「ああ、あるかもしれないね。でも明日、明るくなってからじゃないと」

「だな」

 男の子たちのやり取りは女の子たちのそれとは違ってスピーディーで、わたしと綾乃は黙ってご飯を食べていた。邪魔をしたらいけないことだけはわかっていた。


 野鳥観察同好会は言うまでもなく、干潟の野鳥観察バードウォッチングをするための同好会で、むかしは部だったらしいんだけど、いまは同好会に降格している。

 興味のある子は自分で干潟に行ったし、わざわざ他人と都合を合わせていくほど珍しい場所ではなかったからだろう。

 わたしも誘われたけれどとても入る気にはなれなかった。うちならベランダからでも十分に観察できる。


 わたしたちの最初の食事会は和やかなようで少しぎこちなく進んで行った。

 みんながわたしのカレーを褒めてくれて、綾乃の豆腐サラダを褒めた。

 暗くなる前に食べ始めた空は、流れる雲がちょうど夕焼けの赤と暗闇の青が混ざり合い、そのパレットの上で薔薇色を描いていた。

 五月の夕暮れは昼間と違って少し肌寒くて、わたしたちの食事会は楽しいだけじゃないんだということをピリリと思い出させてくれる。


 ――ここが理想郷ユートピアなわけじゃないんだ。


 例え好きな友だちと楽しく時間を過ごしたって、人生はオンライン上の仮想空間とは違う。ずーっと変わらず楽しいままでいられるわけがない。

 おままごとをしていればいいんじゃない。

 前に進まないと。


 薄暗い闇の中、片付けは男子がしてくれることになったので綾乃と一緒に体を拭く。

 コンビニでTシャツと下着、タオルと靴下を新調した。新品のTシャツは肌にさらっとした触感を残した。

「ねぇ、名璃子」

「どうしたの?」

 綾乃にしては珍しくなにも話し始めない。

 話すことを忘れちゃったのかなと思い出した頃、綾乃は口を開いた。

「昨日、佳祐に迫ったの、体育館の倉庫で」

 えっ? と言葉が口をつくのと同時に体が固まった。

「大丈夫、下ネタはないから。……断られたの、勇気出したのにバカみたい。あーあ!」

 見るからに落ち込んだ様子の綾乃を見て、どう声をかけたらいいんだろうと頭の中でぐるぐる考えたけど、いい答えはひとつも出てこなかった。

 それも当然だ。わたしは付き合った経験はおろか、誰かを『好き』になったことがない。

「なんて言ったかな……。『まだ早い』とか『いまはそんな時じゃない』とか。押し問答ってやつ。『わたしは佳祐ならいいんだよ』とか言っちゃったのになにも意味がなかったの。ふたりっきりの夜なのに全然ロマンティックじゃなかったんだよ」

「そうなんだ」

 佳祐の言いたいことはわかる気がした。もちろん、男性としての佳祐がどんな気持ちだったのかはちっとも見当がつかない。綾乃みたいにかわいい子なら……って思うのが普通じゃないのかな、と思う。


 でももしもわたしが佳祐なら、とてもロマンティックにはなれない。

 だって目の前にとてつもなく大きな壁がある。まして昨日のふたりには食料のあてもなかった。

 どうにもならないことには目をつむって、やるだけやっちゃうこともできるかもしれないけど、たぶん、わたしも佳祐もそのタイプじゃない。

 よく言えば冷静だけど、悪く言えば頭でっかち。綾乃の気持ちに応える余裕がないと思う。

 それに、相手を好きだからこそ、先に事態を好転させておきたいと思うんじゃないかな。

 わたしはそれを上手く伝えようと口を開いて短く息を吸った。


 けどわたしがなにかを言うより前に「魅力的じゃないの、わたし、佳祐から見たら、たぶん」という呟きが夜の中にことりと落ちた。

 そんなことないよ、と言おうとしてまた口をつぐむ。それじゃ綾乃に調子を合わせてるだけじゃないかな? わたしの言いたいことはもっと。


「名璃子みたいに頭が良く生まれればよかったなぁ。わたし、名璃子に憧れてるの。頭が良くて、家事もできて、クールで。つやつやのロングヘアに真っ白い肌、すっごい憧れ。あ、明日からは日焼け止め使わないとダメだよ。名璃子、すぐそばかすできちゃう。せっかくコンビニで十本ももらってきたのに。基礎化粧品もちゃんとそろってるからね」

「……もらいすぎ。それにそばかすなんて気にしないし」

「わたしはする。名璃子には完璧でいてほしい。そうじゃないと困るの。だから日焼け止めしようね?」

 綾乃の考えはわたしにはいまいち伝わらなかった。

 わたしが完璧?

 それはない。

 わたしは欠けている。どうしようもなく。

 他のひとが持っていて、わたしにはないものがある。みんなから見えなくても、わたしは虚ろな人間だ。

 だから、たぶん誰とも寄り添うことができない。手を繋げない。

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