2-(2)

 なんとなくみんなぼんやりしていた。

 綾乃だけが元気だった。

 あの話し合いの後、綾乃は音楽室の棚からピアノの譜面をたくさん探してきてどれか弾いてほしいと湖西に頼んだ。

 湖西は繊細で軽快な『子犬のワルツ』を弾いて綾乃を喜ばせた。


 その間わたしの心はここにはなく揺れていて、深いところでドビュッシーの『アラベスク第一番』が流れていた。

 ドビュッシーは元々好きな作曲家だった。

『アラベスク』というのはイスラムの草花の紋様のことだと教わったけれど、わたしには水音を表す曲のように思えた。

 学校のある高台から坂を下るとそこは遠浅の湖のようだ。水底はきれいな砂で覆われている。

 キラキラと輝く水がまるでわたしたちを囲い込むかのように岸辺に打ち寄せる。微風に寄せられて。そこに『アラベスク』が重なる。


 気がつくとピアノ演奏会は終わっていて、どれくらいの時間が経ってしまったのかとうろたえた。

「名璃子、見つけた」

 音楽室の入口に手をかけて、佳祐が立っていた。

 もしかするとぼーっとしていたわたしを見られたのかもしれないと思って、どうやってごまかそうかという考えが頭をめぐる。

「あ、ごめん。あんまり単独行動しないって約束だよね」

「音楽室にいたって聞いてたから大丈夫だよ。名璃子こそ大丈夫?」

「……? なにが?」

「けっこう厳しい顔してる時が多い」

 ついでに軽くデコピンされる。

 世界が水に覆われてから、こんなに佳祐に近いのは初めてだ。


「厳しい顔なんかしてないよ。気のせい」

「そうかなぁ、そうは思わないなぁ。……眉間にシワ寄ってるの気がついてる?」

 慌てて手でおでこを隠す。

 そんなに顔に出てるんだろうか、本当はいろいろ思っていることが。大丈夫、なんとかなるって自分自身思い込もうとがんばってるのにそれは空回りなのかな?

「なに考えてる?」

「なにが?」

「名璃子が、だよ」

 なるほど、さしづめ佳祐は尖兵でわたしの様子を見に来たってわけか。

 もし自分の心の中を覗けるレンズがあるとしたらわたしは……。


「……ママが。ママが大丈夫なのかなって。こんなこと佳祐にしか話せないんだけど、ここに来てからママの夢ばっかり見るの。……パパが出てくることも多いし」

 佳祐はなにも言わずにわたしを見つめた。高校生にもなって『ママ』とか『パパ』とか呆れてるのかもしれない。

 そう思うと俯いた頬が自然に赤くなるのを感じた。

 やっぱりこんなことを言わなければよかった。失敗。

「名璃子のママもどこかで元気にしてるよって言ってあげたいけど、申し訳ないけどこれに関しては断言できないからなぁ」

「そうだよね、わかってるよ、そのこと。わたしだけが家族と離れて心配してるわけじゃないのもわかってる。だから口に出したりしない方がいいのもわかってる。大丈夫、ちょっと魔が差しただけ。もう言わない……」


 佳祐はわたしの手を握った。

 どうしたらいいのかわからなかった。

 小さい時とは違うのに、手を繋いでしまった。

「言っていいんだよ。オレが聞くよ。それでオレが必ず名璃子のお母さんと会わせてやる。約束する」

 中途半端に開かれていた私の手が、夜になると閉じるチューリップの花のようにすっと彼の手を握り返した。

 これは信頼だ。佳祐に対する信頼の証だ。

 決して綾乃を裏切ったりはしてない。


「見くびるなよ。数学は確かに名璃子に敵わないけど、ちゃんと頭の中でこれからのこと考えてるから」

 喜びが胸の中を温かくして、その温もりがわたしにひとつ頷かせた。小さく、それでいて確かに。

「大丈夫だよ。名璃子がお母さんを思う気持ちをオレはずっと見てきたし、名璃子のお母さんが名璃子を思う気持ちも知ってると思ってるから。焦らないで話を進めていこう。……お前の泣くところ、もう見たくないから任せておけよ」


 繋がった感じがした。

 それはもちろん、手が繋がったのとは別の意味でだ。

 わたしたちの間にはとても親密な空気が生まれて、初めて本物の佳祐に会ったような気になった。たぶん、彼も同じ。なぜかそんな気がした。


「あ! お昼の準備しないとみんなお腹空いちゃわない?」

 お店の食べ物がダメになるまで、昼食もしっかり食べようという話になっていた。ただ腐らせるだけになってしまうから。

「綾乃と湖西がたくさん調理済みのパン、並べてたよ。山盛り。誰が食べるんだってくらい。あのふたり、意外と上手くやってるよな」

「そうだね、ふたりともちょっとマイペースなところがあるからそれがちょうどいいのかも」


「そろそろ和食が食べたくなってきた。塩鮭とか味噌汁とか」

「うーん、考えてみる」

 一拍置いて、佳祐が笑う。

「バーカ、悩み事増やしてどうする」

 どうするって佳祐の望みを叶えたいって……。いやいや、それは間違いの元だ。正されるべきだ。

「綾乃に作ってもらいなよ」

「お前、綾乃の料理の腕を知らないから」

「彼氏じゃないからわかりません」

 またしても沈黙。

 会話がうわ滑っている。ちぐはぐだ。なにかがいつもと違う。

「名璃子さん、和食、できたらでいいからお願いします」

「最初からそう言えばいいのに」


 幼なじみだからみんなが知らないことも知ってる。

 例えばパパのこと。

 本当は共働きというか、別居状態で実質、離婚と同じだってこと。

 だからわたしにはママしかいないってこと。

 だから特に放課後は部活もしないし時間を余すように帰宅して家のことをやっていること。そのせいで料理が得意なことも。

 そう言えばパパと会う度にぬいぐるみをもらうんだって話した時、綾乃は瞬発的に「いいねぇ。名璃子ちゃんになりたい!」って言ったんだけど、その時もこの同じ手がわたしの震えそうな手を握ってくれた気がする……。


 佳祐は綾乃にとってだけ特別だったわけじゃないのかもしれない。

 わたしにとっても、と言ってもいまさら遅いんだけども。

 親友のやさしさに感謝して、いまだけ甘えておこう。


 階下に戻ると机の上は包装された調理パンであふれていて、これは数日の間、食べなくちゃいけない量だなと諦める。

 綾乃はにこにこして「名璃子も同じのにしようよ」と言って、パンの山からお目当てのものを掘り出そうとしていた。

 湖西は迷うことも特になかったらしく、彼の目の前にはふたつのパンが並んでいた。

「すごい! こーんなにたくさんパンを買ったことないよ。パーティーみたい! ……そうだ、名璃子の誕生日になったらパーティーしよ? それまで食べ物、たくさん残ってるといいね」


 ギクリとした。

 一ヶ月後の自分たちの生活状況がまったく予想できなかった。

 やっぱり、なにかを起こす時なのかもしれない。例えそれが多少の危険を孕んでいても――。

「青山さんの誕生日プレゼント、考えておかないとね」

 プレゼントは気持ちだけでいいよ、と笑顔を作った。

 でもきっとみんな、欲しいものは一緒だ。

 ――日常。

 なにかがなくなるかもしれないと怯えなくて暮らさなくてもいい、毎日だ。

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