1-(7)

 綾乃は食欲旺盛だった。

 昨日は持っていたお菓子とドリンク以外、なにも口にしていないと言っていたから当たり前かもしれない。けどそれにしてもとにかくよく食べた。

 わたしと湖西は念の為、今日から一日二食にしようと約束していたんだけど、今夜の分のおにぎりは綾乃がすべてぺろりと食べた。

 その間佳祐はなんにも手をつけずに綾乃を見ていた。


「綾乃、口のところ。プリンついてる」

「うそっ、やだ」

「本当だよ、ほら」

 佳祐は綾乃の口元をティッシュで拭った。

「そんなに強くこすることないじゃない」

「そんなにしないと落ちないくらい汚れてたってことだろ?」

 失礼しちゃう、と綾乃はぷんぷん怒りつつ、わたしにウインクして「プリン、ごちそうそま」と言った。

 綾乃はやることすべてかわいい。小さい時からそうだった。

 小柄で、元気で明るくて、ブラウスからのぞく腕が細くてツインテールが嫌味じゃない、それが綾乃だ。


 綾乃がおねだりしたコーヒーをアルコールランプで沸かしている間、男子ふたりは熱心になにかを話し合っていた。初対面に近いふたりなのに、真剣な顔を突合せている様子は長い付き合いの友だち同士のようにも見えた。


「女子、いい?」

 わたしたちはかけられた声に反射的に振り向く。

「学校の裏門のところにあるコンビニ、それから坂の途中にある林スーパー、入れるか見てくる」

「入るって……無断で入っちゃうの?」

 質問したわたしの目に湖西が映った。

「いまは非常時でしょう? 水とご飯はクリアしたけど、それだけじゃ生きていけないよ。青山さんも今夜、プリンを食べたいと思うかもしれない。いまならまだお店の棚に腐らないプリンがあると思うよ。レトルト食品もあるだろうし」

 例えばカレーやスパゲッティ、カップラーメン。無いよりあったほうがいい。それにコンビニなら日用雑貨も揃ってるはずだ。

 誰もいないからって他人のお店に無断で入る……それがいいことか、よくわからない。でもいまは、とにかく生きていかなくちゃいけないってことだよな、と自分を納得させる。


 爽やかな風の中、さっさと乾いた靴下とブラウスを回収する。

 綾乃は湖西に、昨日から今日までのわたしたちの話を詳細に聞きたがった。湖西はちょっと困った顔をしてちらちらわたしを見た。

 ベランダから見た水面は凪いだ風にさざ波を立てて震えて見えた。

「名璃子」

 洗濯物を抱えたまま、わたしは振り向いた。

「どこに行っちゃったのかと思ったよ」

「何言ってんの、教室の中からここ、見えるでしょう?」

「違うよ、昨日の話」

「…………」

 昨日、わたしはふたりを置いて教室を出て、その足でマンションの入口まで歩いた。そうして家に帰る気になれず、コンビニに寄って公園に行ったんだ。干潟の水上をたくさんのカモメが飛んでた――。


「なにを考えてる?」

「……干潟はどこに行っちゃったのかなぁって。昨日までは臭くて嫌いだったのに」

 佳祐はベランダの柵に背中を預けるようにして、わたしの隣に立った。その距離は近くて、肩が触れそうだ。

 たぶん、いままでもいつだってそうだったんだろうけど、存在感に重みがある。それは付き合いの長さ、友情ってやつだ。

「だからさ、オレに数学教えてれば良かったんだよ。そうしたらあの時、一緒だったのに。オレは湖西みたいに防災倉庫、開けたりできないけどさ、それでも名璃子がどんな気持ちなのかはなんとなくわかるし。ほら、付き合い長いからな」

「かもね。でもやっぱり佳祐は綾乃と一緒で良かったんだよ。綾乃もふたりきりで安心できたと思うよ」

 わたしがいる時よりも、と余計なことを付け加えそうになって曖昧に微笑む。やだ、そんな皮肉な考え方をする自分を嫌悪する。


 中から声がかかって、ここから近いコンビニにとりあえず行ってみよう、ということになった。


 校門までの間、機嫌の良くなった綾乃は佳祐と仲良く話していたけれど、湖西は昨日までと打って変わってなにも話さなかった。口を閉じて、目線は斜め下、わたしの方を向こうとしない。

「コンビニの扉、壊すの? どうやって? ハンマーみたいなもの、あった方がよかったんじゃないの?」

 くすくす、と隣からくすぐったい笑い声がした。なぜか、ほっとする。笑顔が見られたからかもしれない。

 笑いながら湖西はこう言った。

「青山さんの中ではそういうイメージなの? なんかこう、暴徒的な」

「だって今度は鍵がないし」

「大丈夫、そんな怖いことはしないよ。安心していいよ」

「え、どんな? 教えてよ」

「行けばわかるって」


 裏門前のコンビニにはいつも学生がなにかしらおやつを買うために放課後、押し寄せていた。

 よく、レジ待ちの列ができていたくらいに。

 だけどいまは誰もいなかった。

 青いストライプの制服を着た店員の姿ももちろんない。

 レジに並べられて売られているチキンの揚げ物が冷めたまま、買われるのを待ってる。


「見てて」

 入口のスライドドアは、まるで普通の引き戸のように指を引っ掛けるとすーっと開いた。『固定観念』という言葉に、どうやらわたしは縛られすぎていたらしい。

「え、みんな知ってた?」

「綾乃は知らなかった! 鍵がなくても開いて良かったね。不法侵入で警備会社のサイレンが鳴ったらどうしようかと思ってたもん」

 その言葉に男子ふたりは苦笑した。

「確かにね、鍵がかかってたら開かないんだ。でも残念だけどSECOMもALSOKも来そうにないね。ここはいまアナログな世界だからね」


 アイスクリームの棚もドリンクの棚もまだ、電気なしでも冷たさが保たれていた。

「あ、ハーゲンダッツ食べたい! チョコレート」

「いま? お前、本当に現状わかってるの?」

「わかってる。いまなら食べられるけど、その後は二度と食べられないかもしれないこと」

 綾乃は切なさを微塵も含ませず、得意げな顔をした。

 そう、確かにそうだ。それが現状だ。

 にこにこしている綾乃以外は、難しい顔で向き合った。

「冷凍食品は確かに厳しいね、渡辺さんの言う通りに。今日中に食べられそうなものはもらっちゃおうか」

「だな。電子レンジで調理の必要なものは無理だけど、冷凍の野菜とかもあるし」

「麺類もあるよ。今夜のうちに明日の朝ごはんも作っておくというのもありじゃないかな?」


 また少し全員が沈黙して、綾乃がアイスから目を離さずに言った。

「防災倉庫に自家発電機みたいなの入ってるって書いてなかった? あれはダメなの?」

 佳祐は湖西の目を見た。湖西はふと、目を伏せた。

「渡辺さん、残念だけど発電機には燃料が必要なんだよ。倉庫に燃料はあるんだけど無限じゃないんだ。できるだけ取っておかないと」

 つまり冷蔵庫は文明的な道具で、その枠外に出されてしまったわたしたちには扱えないということだ。

「冷蔵庫って、便利だよね……」

 思ったことが口から出る。

 床に座り込んだわたしの隣に湖西が座って、「今日は保冷バッグもいただいて、簡易冷蔵庫にしよう。明日になれば使えないけど、今日が豊かだってことを喜ぶのはどう?」

「『小さな幸せ』みたいな?」

「そう、『小さな幸せ』みたいな。そういうの嫌い?」

 確かに刹那的で感傷的な考え方のように思えた。

 でもいま受け取れるものを選べるほど、自分たちは豊かではないことはわかっていた。

「さっきお肉もあったよね?」

 わたしの言葉に湖西はやさしく微笑んだ。


 それから四人で食べたいものを食べたいだけ食べた。と言っても冷たいものばかり。明日には溶けて食べられなくなりそうなものばかり。

 甘いものばかりそんなに食べられないなぁと思いながら、口直しに飲み物のコーナーでしゃがみこんでスムージーを飲んでいた。この複雑な味わいも今日でサヨナラなのかもしれない。

「綾乃はよく食うよな、さっき食ってから出てきたのに」

「佳祐、お腹空いてるんじゃない? さっきほとんど食べなかったでしょう?」

「んー、まぁ。綾乃がうらやましいよ。こんな時でも普通に食欲あってさ……。って、名璃子はなにも心配するなよ? オレだって少しはナイーブだったりもするって話」

「……今日さ、夜、なに食べたい? たぶんわたしが決めても湖西くんは怒らないと思うから」

「綾乃はどうせ食べ専だろうしな」

 佳祐の手にあったのはわたしと同じスムージーだった。でもたぶん、それを飲む意味が違う。

「野菜も新鮮な方がいいね、スーパーに寄れるか聞いてみよう?」

 わたしがそう言うと佳祐はわたしたちの手に同じものが握られていることに初めて気づいたようだった。

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