1-(6)

 引きずられるように湖西に手を引かれて走る。

 早く、少しでも早く――そういう彼の思いがわたしを走らせる。

 廊下をがむしゃらに走って、ついに渡り廊下に出た。体育館の外側をぐるっと半周するとそこには目的と思しきものがあって、息を切らしてわたしはその大きな銀色の物体を見上げた。


「……これってさぁ」

「『防災倉庫』だよ。とりあえず水はここに常備されてるはずだ。青山さんの心配も少しは減るんじゃないかな。どうかな?」

 この四角い箱の中いっぱいになにが入っているのか期待しないわけにはいかない。

 だってこういうの時のために、これは存在するはずだから。


「……開くの?」

「たぶん」

 黄色いタグの付いた鍵は、嘘みたいにすんなり鍵穴に吸い込まれた。それだけで胸がふわっとする。

 ――少なくとも早々に死ぬことはなくなるんだ。

 厳重にロックされていたはずの倉庫は、湖西の手で易々と開かれていった。

「…………」

「ほら、青山さん、ペットボトルの入ったダンボールがこんなにたくさん。だから言ったでしょう?」

 彼はテストで花丸をもらった少年のような顔で、得意げに笑った。

 コンテナの中は確かに物であふれていた。

 わたしは学校の中にこんなところがあると知らなかった。ただ無機質な四角い箱があるという認識しかなかった。


「青山さん?」

 とめどなく涙が頬をつたう。

 ああ、涙って事件の渦中にある時には流れないんだ。

 そこを過ぎて、気が緩んで安心した時に流れてくるものなんだ。

 せっかく顔を洗ったのに、次から次へと涙はあふれ続けた。

「ご飯もあるね。カセットコンロもあるみたい。温かいご飯が今日は……」

 湖西の手は躊躇いがちにわたしの頭の上にのせられた。そのちょうどいい重さに、自分のなにかを許された気になる。


 恥ずかしい、そう思うと彼の手は髪の毛を滑り落ちるようにわたしから離れて行った。

「先に話しておけば良かったんだけど、ぬか喜びはさせなくなくて。もしかしたらこの学校には設置されてないってこともあるし、なにより鍵が見つかるかが問題だったんだ。ごめん、配慮が足りなかった」

 わたしは彼が下ろした手を片方ずつ握った。感謝の意を込めて。

「ありがとう。人生でこんなにうれしかったことはないかもしれない。……ありがとう。湖西くんはわたしの命の恩人だよ」

「そんなことないよ。青山さんが、僕の恩人なんだ」

 そういった彼の瞳は曇っていて、さっきまでの彼と同じひとには見えなかった。どうしたんだろう、繋いだ手は自然にほどけた。


「そんな顔しないで。だってそうでしょう? もしもあの公園に青山さんがいなかったら、僕はここにひとりだった。絶望してなにもする気にならなかったかもしれない。『世界中にひとり』って、怖いでしょう?」

「そういう意味でもわたしは湖西くんに感謝してる。ひとりじゃなにもできなかった。あの浅い水の中に座り込んで、泣くこともできなかったかもしれない。あの時、あなたが公園でわたしに声をかけてくれなかったら……わたしはきっとここにいなかったよ」

 恥ずかしさのあまり顔が上げられない。

 命の恩人に感謝の言葉を告げただけなのに、こんなに恥ずかしい。

 なぜか湖西まで黙り込んだまま、時間ばかりが過ぎていく。


 梅雨入り前の五月の空は今日もわたしたちを強く照らした。肌がじりじりするほどに。

「あーっ!」

 不意に後ろから大きな声がした。それもわたしと湖西以外の誰か。

 ちょっと待って。

 確かに昨日、体育館までは探索しに来なかった。人気を感じなかったけど、避難しているひとがやっぱりいたんだ。

「名璃子! 無事だったの? もう絶対に会えないかと」

 そこまで言って、綾乃はわたしの方向にパタパタ走り寄った。むぎゅーっとハグされる。いつもと変わらない、綿菓子みたいな香り。

「名璃子?」

 体育館の扉から次に顔を出したのは佳祐で、非日常的空間に日常が現れたことに安心する。

ふたりとも無事だったなんて……。心配が安心に変わる。心の中のチェックリストにひとつチェックがつく。


「名璃子が教室を出てから、すぐにわたしたち、ふたりで勉強しても無駄だってことに気がついたの。それで帰りにサイゼにでも寄って、ティラミスでも奢ってもらいながら数学、佳祐に教えてもらおうかと」

「オレが名璃子に教えてもらいたいって頼んでたのに、なんで綾乃にオレが数学教えなくちゃいけないんだよ。今日の数学あったら、マジでアウトだったよ。しかも『マックでポテト』が『サイゼでティラミス』になんで格上げされてんの?」

 いつもとテンションの変わらないふたりに圧倒される。まるで学校がいつもと同じになったようだ。


「綾乃たち……だけ? ほかの人は避難してないの?」

 ふたりは顔を見合せた。

 しばらくそうしていたけれど、どちらから話すのか決まったようで綾乃が口を開く。

「名璃子が帰ってからそんなわけで学校の校門、出ようとしたところで……。あのさ、ずしーんって感じのヤバいやつ、来なかった? なにあれ、地震? 佳祐が咄嗟に庇ってくれたし、なにも落ちてきたり倒れたりしなかったけど……なんでこんなに静かになっちゃったの? いつもうるさいパリピのヤツらも先生もいない。それに近所の子供たちもおじさんも、おばさんも、おじいちゃんも、おばあちゃんも、それから……」

 ギューッと目で見てわかるくらい強く、佳祐は綾乃の肩を抱いた。

 綾乃は小刻みに震えて泣いていた。さっきまでのわたしと同じように。

 ふたりに近寄っていいものか躊躇われた。ふたりはいつも以上に、ふたりでひとつというように見えた。

 やっぱり友だちより恋人って濃い。全然違う。ふたりが付き合い始めてもなにも変わらないなんて、そんな夢みたいなことを考えてたのはわたしだけなんだ。

「名璃子はどうして湖西と一緒にいるの? そいつ、湖西で合ってる?」

 やけに乱暴な言い方で佳祐はそう尋ねた。それに対して湖西はなんとも思わなかったのか、それとも顔に出ないタイプなのか、ああそうだよ、と難なく肯定した。


「たまたま、しおさい公園の前のコンビニを出たところで例のやつに遭ったんだ。僕は空が割れたのかと思った。目の前がすごく眩しくて目が痛くなりそうだった。瞑っていた目を開くと、そこに青山さんが見えたんだ。今にも倒れそうだったから走って」

「名璃子を助けてくれたんだな、ありがとう。名璃子のこと、すごく心配だったから礼を言うよ」

「いや、偶然だから。それより君たちは昨日はどこに?」

「オレたちは体育館の倉庫で寝たよ。もっとマシなところがありそうなのに、綾乃がこだわるから」

「こういう時は倉庫のマットで寝るもんじゃない?」

「かび臭いだけだろ。湖西たちは?」

「僕たちは保健室のベッドで寝たんだ。学校でベッドのあるところって保健室くらいかなって思って」

 …………。

 妙な沈黙がわたしたちを包んだ。わたしにその沈黙の意味はわからなかった。ふたりは湖西の顔色をうかがっているようだった。


 綾乃がそっと顔を傾けるようにして話し出す。ツインテールが揺れる。

「あのね、もし良かったら食べ物とか飲み物、持ってない? なんでもいいの。飲みかけでも、キャンディーひとつでも」

「それなら――」

 綾乃の、そして佳祐の顔に光がともった。

「湖西くん? すごいね! 防災倉庫の中を見る日が来るなんて思ったことなかった。わたしは渡辺綾乃。C組なの。これからよろしくね」

 持ち前の明るさを前面に出して、綾乃はにっこり笑った。庭の隅にそっと咲く、朝咲きのバラのように。

 反対に湖西はやけに萎縮していた。どうも、と言ったまま、差し出された手を取るべきかどうかずっと迷っているようだった。それから意を決したような真面目な顔をして、よろしく、とひと言だけ口にした。


 わたしの知ってる昨日からの湖西とはまるで違って見えて、そのギャップに置いていかれそうになる。

 ――ん、じゃあご飯はなににしようか? まだ湖西くんはなにを取ってあるの?

 ――え? プリンがあるの? すごーい、夢みたい。こんな時にプリンを食べられるなんて。

 ――え? ……一個しかないの? それじゃあ。

「綾乃が食べなよ。ほら、わたしがあんまり甘いものは得意じゃないって知ってるでしょう? 教室に行こう」

「それなら必要なものはオレと湖西で運ぶわ」

 行こ、と綾乃は素早くわたしの手を取った。子供の時から幾度となく繋いだ手。そう言えば三人で手を繋ぐ時も綾乃はいつも、わたしと佳祐の間に入りたがった。

 小さい綾乃の結んだ髪が目の前で揺れる。あの頃と同じように。

 でもいまは同じじゃないんだ。



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