2-(9)
音楽室の窓からは、いつも通りさざめく水面の向こう側に駅のホームが見えた。
いまもまだひとがいるんだろうか? わたしたちに合図をくれたひとが。
手鏡を出して太陽に当てる。
ツー・トントン・ツー
『助けて』という意味の救難信号だ。
鏡を窓の縁に立てるようにして持って、パタパタと倒す。
ツー・トントン・ツー
向こうにひとがいたとしてもこっちを向いてくれるかわからない。現にわたしたちも信号が届いた日にはすぐに気が付かなかった。
誰か。
そこにいる誰か、わたしに気付いて――。
良くない考えが頭をよぎる。
ここでいま返事がなければ佳祐は向こうに行く必要がなくなる。
その考えはしばらくの間わたしを強く捕らえた。
そうだ、そうしたら綾乃だって泣かなくて済む。
わたしたちが彼らを助けに行かなくたって、わたしたちを助けてくれる誰かを待つこともできるんだ。
妙な正義感にかられて、一高校生がしゃしゃり出るのはどうだろう? わたしたちはまだ子供だ。つい先日まで中学生だった。そのわたしたちにできることは限られている。
ここは助けてくれる大人を待つべきじゃないのか?
「名璃子ちゃん!」
パタン、と鏡を伏せる。扉に手をかけて湖西がそこにいた。
「大丈夫?」
「なんのこと? 変わったことは何もないよ。ほら、見ててね」
子供っぽい考えは捨てて、また鏡で信号を送る。
パターンはずっと一緒。
「疲れたんじゃない? 変わるよ」
「ありがとう」
ズルズルっと壁に背中をつけたまま座り込んだ。体の芯が抜ける。気を張りつめすぎたのかもしれない。
あ――!
わたしと湖西の声が重なった。
その光は窓から入って、音楽室の天井を照らした。
「名璃子ちゃん……」
信号は一緒。
ツー・トントン・ツー。
繰り返し送られてくる信号を、目が痛くなるほど見ていた。
「窪田くんに知らせてくる」
「待って!」
走り出そうとした湖西を呼び止めた。
待ってほしい。まだ時間がほしい。なんの? ……納得するための。
「嫌な時は『嫌だ』って声に出してもいいと思うんだ、誰に遠慮するわけじゃなく。でないと後悔が増えるばかりだよ」
湖西は戻ってきてわたしの前に膝をついた。ピアノを弾く長い指が、わたしの髪に恐る恐る触れる。わたしは湖西の瞳の向こう、心の中にあるものを見ようとした。
「言えない。止められるとは思わないし、まして止めてもいい権利はない。わたしにあるのは応援することだけだよ」
「自分で自分を縛るから辛くなるんじゃないの?」
「別にそういうつもりはないよ。ただ、正しいことを選びたいだけ」
言葉とは裏腹に涙がぽたぽたと音楽室のカーペットを濡らしていく。その模様は不揃いで、雨の降り始めを思わせた。
「わたしはなにも言えないの。応援することしかできないの。……そういうのって、わかる?」
「たぶん」
頭の中に突然ドビュッシーが流れ始めて、わたしは立ち上がって止まることなく階段を駆け下りた。今度は湖西が呼び止める声は聞こえなかった。
「ホームが光ったの、ここからもわかったよ」
佳祐は興奮気味だった。
涙を拭ってきたわたしは彼に同調して見せた。
「すごいよね、感激しちゃった! こんなふうに世界は変わっちゃったのにわたしたち以外の生き残りのひとがいるなんて!」
「……それで目の周りが赤いのか」
「だって、感動するでしょう?」
これは綾乃に対する裏切りだ。綾乃は佳祐に行ってほしくないのに、どうしてわたしは嘘をつけないんだろう? どうして嘘をつかないんだろう?
綾乃は暗い顔をして目を伏せた。
「持っていくものの準備をしなくちゃ。食料と水。とりあえず乾パンの方が持っていくのに楽かもね。あとはなにかな?」
「名璃子、本当にありがとう。正直わがままだってわかってるんだ。子供みたいなわがままを聞いてくれてありがとう」
背伸びして、佳祐にデコピンを決める。
「お互い様だよ。何年一緒にいると思ってるの? 保育園から一緒なんだよ」
並んでご飯を食べて、絵本を読んで、かけっこをして……。わたしたちは三人でひとまとまりだった。その関係が崩れたいま、わたしには支えることしかできない。手を伸ばして求めることはできない。自業自得だ。
「……名璃子のバカっ! 水位が上がってるなんて言わなきゃよかった。こんなとこで、こんな状況で、離れちゃうなんてやだよぉ」
――わたしは綾乃のようには泣けない。
そのうち湖西も下りてきて、夕飯を食べながら計画を立てる。
着々と夏至に向かっている五月の夜空には月が煌々と光っていた。
「まず向こうには余計な食料があるという前提はなしにして考えよう」
「お水と乾パンとα米を余計に持ったら? あと、梅干しとか?」
α米は水を入れるだけでも食べられる便利な非難食だ。
「梅干し? さすが名璃子、センスが違う」
くっくっくと声に出して佳祐が笑う。その一方、綾乃はまるで口を開かない。
教室の中のバランスが崩れて空間が歪む。今日は走りすぎたのかもしれない。やけに体が重い。
体調が悪い上に空気が悪い。
「じゃあ、ふりかけ? ……冗談。少し缶詰も持ったらどうかな?」
「そんなに持って行ったらこっちが困らないか?」
「同じことだよ。向こうから何人のひとが来るのかわからないでしょう?」
佳祐の顔が急に真面目になる。
「本当にみんな、ごめん。向こうのひとが悪いひとたちとは限らないけど貴重な食料が減るのは確かだ。オレ自身、正直に言うとこれでいいのか自信が無い。でも目の前に助けを求めてるひとがいたら知らない顔はできないんだ」
「……窪田くんは正しいと思うよ。胸を張っていいと思う。僕みたいになにかあっても逃げたり隠れたりするのとは違うんだから。僕にどれくらいのことができるかわからないけど、安心して。ふたりのことは守るよ」
しんみりとした食事だった。
せっかく開けたコンビーフの味はまったくわからなかった。
こんなことなら……。
ううん、もう前に進むしかない。
その夜、すっかり寝入っていた時、ごそごそと音がして、綾乃がトイレに行ったんだろうと思った。
わたしになにも相談してくれないけど、当たり前か。わたしのやってることは佳祐の応援なんだから。
もやもやした気持ちを抱えながら、泥の中に沈み込むように眠りに落ちる。ああ、たぶん今日は夢も見ない。
翌朝目覚めると綾乃のベッドはもう空だった。佳祐のことを考えると眠れなかったのかもしれない。ぐっすり寝てしまったわたしとは大違いだ。
わたしは薄情な人間なのかもしれない。
「おはよう」
顔を洗っていると湖西が現れた。
やけに静かだった。
「ご飯の支度、早くするね」
行き過ぎようとして呼び止められる。
「名璃子ちゃん」
嫌な予感、というものはわりとよく当たるものだ。わたしはゆっくり湖西の顔を見た。
「黙っててごめん。ふたりはもう出かけたよ」
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