2-(1)

「あ、これ聴いたことある!」

 優美なトリル。二本の指を細かく交互に動かすことで、繊細な音を引き出す。しなやかな指先にドキッとする。

 音楽室にふたりを呼びに行くと、流れていたのは『乙女の祈り』だった。


「そんなに難しい曲ってわけじゃないんだけど、好きなんだ」

 湖西は下を向いて頭に手をやった。照れ隠し。

 隠さなくていいほど十分に上手いのに。

 わたしを引っ張りあげてここまで連れてきてくれたあの指は、あんなにしなやかに動くものだったのかと思うと、してもらったいろんなことを後悔する。

 ピアニストにとって指は命なのに、罪悪感を感じる。


「わたしはこの曲の出だしが好き」

「ああ、和音の。ロマンティックだよね」

 わたしの言葉に彼はピアノを鳴らして聞かせた。堂々とした重い音。

「名璃子もピアノ、通ってたでしょう?」

「中学に入ってすぐやめちゃったから、習ってたうちに入らないよ」

「そんなものなの? 綾乃、すごくうらやましかったんだよ。まだ弾ける?」

「指が動かないよ」

「ふーん、習ったからっていつでも弾けるようにはならないんだ。不思議」

 綾乃はくたびれたYAMAHAのグランドピアノにもたれかかってそう言った。


 確かにあんなに熱心に練習したのにこれっぽっちも弾けなくなるのは不思議な話だ。

 マンションの一室を防音にしてもらって、毎日練習を欠かさなかった。ピアニストになる素養はどこにもなかったけど。


「弾けるんだ、青山さん」

 湖西の顔がいままで見たことがないくらいぱぁっと明るくなって、期待に気圧される。

「だからもう弾けないと思うんだよ。やめるって決めてから一度もまともに弾いてないもん」

「触りだけ」

「触りだけって言っても指が」

 手をグッパして指を動かす。関節が固い。以前より指が太くなった気がする。


 右足をペダルに乗せて踏み具合を確かめる。

 緩いペダル。

 背筋を真っ直ぐにして、鍵盤に指を乗せる。

 一音目はミ。

 小指に力が上手く入らない。

 オクターブ上のミの音がトーンと響く。やがて、その一音は細くなって消えていく。

「やっぱり無理」

 手を握りしめる。あんなに自信にあふれた音を聞いた後で指の力が衰えた情けない音を聞かれたくない。

「ね、左手は弾くからワンフレーズだけ」

「できないよ」

「大丈夫、指が覚えてるよ」

 さっと湖西が左側にやって来て、立ったまま左手を鍵盤に乗せる。慌ててわたしも右手を乗せると「ゆっくり」と、彼が小さな声で囁いた。


 すっと短く息を吸っておへそに力を一瞬入れる。

 ミは五番薬指。それに添えるように四番中指でレの#。それを交互に弾くところから始まる。繊細に、折れるように。

 それを追いかけるように湖西の左手の低音が入る。ゆっくり、ゆったり。

 自由に歩くわたしを後ろから手を伸ばして捕まえようとする。笑いながら、ふざけあって。


「素敵! 『エリーゼのために』だよね。名璃子、弾けるじゃーん。なんかふたり、いいムードで居場所なくなるかと思った」

 パチパチパチと綾乃が立ち上がって手を叩く。頬を上気させて喜んでくれたけど、全然大したことはしていない。小学生レベルだ。

「青山さんは音に正確なタイプだね」

「色がないって言いたいんでしょ?」

「いや、ポリーニみたいに正確なピアノも好きだよ」

「ポリーニ!? 有り得ない!」

 ポリーニはイタリアのピアニストでクリアな音質と高い技術が有名なんだ、と彼は綾乃に説明した。

「なんかよくわかんないけど名璃子らしい。すごいね、そんな有名なピアニストに似てるなんて」

「単に指が動かなくてかくついただけだよ」

 まったく、湖西ったら。物は言いようとはよく言ったものだ。

 わたしはおだてられて動くタイプじゃないし、そんなことを真に受けたりしない。自分の能力アビリティは自分で把握できるタイプだと思ってる。

 どちらにしても、もうピアノは触らない、と思って振り向くと、そんなふうに怒ってるわたしをピアノが笑ってるような気がした。


 いい、と扉が開いて佳祐が顔を出した。

 なんだか真面目な顔をしている。教室ではちょっと見ることのできない顔だ。

 教室の中の佳祐はふざけたことばかり言ってる。わたしと違って仲のいい子も多いし、女の子とも気軽に口をきく。

 そんなんなので綾乃はいつもやきもきしている。ほかの女の子と誰でも変わりなく接している佳祐を見るとイラッとくるんだと言う。

 でも、名璃子は特別だからいいの、と笑う。確かに三人の付き合いが長いから、そういうこともあるのかもしれない。


「女子」

 素っ気なく佳祐に呼ばれる。手にはなにか書類を持っていて、それから目を離さない。

「あのさ、昨日の話だけど。駅の話」

「ああ、うん」

 ずいぶん急だなと思う。

 湖西は生活基盤を築いてから、と言っていた。わたしたちの暮らしは、しばらくの間の食料を確保したけれど万全とは全然言えない。

 なんの保証もない。

「これは倉庫の備品の書かれた文書なんだけど、『いかだ』って書いてあるんだよ。たぶん水害の時を想定してるんだと思うんだけど」

「筏に乗って駅まで行くの?」

「いや、無理じゃないかな。水深が浅すぎる」

 浅いことがネックになることもあるのか、と知る。


「なにか物資を乗せて引っ張っていくっていうのが現実的だと思うんだけど。例えば軽いものなら。みんなはどう思う?」

「本当にひとがいるのかな……。なんか怖い。変なひともいそうだし、きっと大人が多いでしょう?」

 綾乃がすがるようにわたしを見る。

 わたしだってどうしたらいいのか、なにが正しいのかわからない。

 駅に行って、知らない大人たちに囲まれるのは怖い。でも目の前に見えるものを知らないふりするのは難しい。だっていつだってそこにホームはあるんだから。

「行く価値はあると思うよ。もしかしたら向こうこそ助けを求めてるかもしれない」

「どうするの? たくさんのひとが来たら、食べ物も飲み物も無くなっちゃうかもしれないよ?」

 綾乃の心配はもっともで、やっと確保したものを他人に差し出す勇気はわたしにもなかった。


「とりあえず僕たちが行ってみようか?」

 綾乃もわたしも口を閉じた。

 湖西のどこにそんな勇気が詰まってるんだろう? 男の子だから? 男の子は怖いものがないんだろうか?

「……気になるんだ」

「ちょっと待って。わたしと名璃子だけじゃ心細いよ。またガツーンって来たらどうしたらいいの? わたしたちも今度はどうなるかわかんないし、一緒にいようよ。離れるなんて無理だよ」

 綾乃の不安はよくわかる。実際、わたしも不安だから。せっかく集まった四人が離れてしまうなんて考えられない。それに、……わたしも怖い。

「オレは行ってもいいよ。ここにいたって毎日をやり過ごすことしかできないし」

「『やり過ごす』なんて言い方しなくてもいいじゃん。わたしは四人でいてしあわせ。楽しく生活できるし、それだけじゃダメなの?」


 考えろ。

 これから先を生きていくにはなにが正しいのか。あるいは好ましいのか。

 四人で暮らすのは悪くない。毎日を工夫しながら生きていくのは楽しいかもしれない。

 でも心のどこかで「このままでいいの?」と問い続ける自分がいる。わたしは心のどこかで探している、そのひとを。大切なひとを。


「駅に行けば知ってるひとがいるかもしれないって考えはない?」

 みんながわたしの顔を見た。

 たぶん、わたしは綾乃と同じ意見なんだと思っていたんだろう。でも違うんだ、なにか違和感が。

「確かに。オレらより先に帰ったヤツらは駅に着いてたはずだし。だとすると関係ない人間ばっかだとは言えないな」

「そんなにたくさんのひとがそもそも駅にいるかな?」

 湖西がぼそっとこぼした。

「いや、僕たちだってこんなに広い学校にたった四人しかいないでしょう? いまのところホームが視認できるだけで、もし駅ビルが一部でも生きていたとしてもたくさんのひとがいるとは考えにくくないかな?」

「でもそもそもなんでこんなことになったのか、これがなんなのかわからないじゃない? わたしは少しでも『本当のこと』を知りたい。世界がこんなになっちゃった理由を、いまの世界の姿を知りたい。――駅に行けば、さらにほかの高台も見つかるかもしれないじゃない」


 息が切れた。

 こんなに一生懸命に自分の意見を言ったのはいつ以来だろう? 

 ずっとこのままでも、もしかしたらなにも悪いことは起こらなくて楽しいかもしれない。でもわたしはここ以外の場所にも行きたい。大切なものを失うわけにいかないから。

 早く見つけないと、もう見つからなくなっちゃうかもしれない。

「わかった。もう少し考えよう」

 佳祐はイライラした様子も見せずに、文書を持って音楽室を出て行った。



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