3-(3)

 朝早く目覚めた。

 湖西はまだたぶんどこかのソファーで寝ているんだろう。

 保健室を出て教室に行く。

 これからしようと思っていることにドキドキする。でもきっと、できるはずだ。


 教室の後ろの扉から入って、ひとつひとつの机に触れながらそこに座っていたはずのクラスメイトのことを考える。騒々しかったあの日までを考える。

 佳祐の席まで歩いて行って座る。「数学で当たる」と言っていた彼はそんなに綾乃にせっつかれたのか机の中に教科書を忘れていったようだ。

 まったくなにやってるんだろう、わたしは? 自分にとって綾乃はもちろん、彼がどんなに大きな存在だったのか思い知る。

「昨日、パパと会ったんだ」という話に「うん」と相槌を打ってくれるのはいつでも佳祐だった。それは佳祐にしか話さなかったからだ。

 綾乃にパパとママの話を初めてした時、綾乃は「かわいそう」と言った。「名璃子、かわいそう」と。

 それから綾乃にはパパの話はしていない。

 いなくなってからそのひとの価値がわかるとは、まさにこのことだ。佳祐がいないとパパの話をするひとがいない。


 次に自分の席に座る。

 黒板が迫ってくるようだ。カツカツと殴り書きをする教師はいない。静かなものだ。そういうものとはすべてお別れ。

 わたしは、ただのわたしになって誰にも寄りかかったりしない。


 ふと懐かしくなって机に手を入れると、そこには一枚の千切られたノートが入っていた。

 ノートは急いでいたのかしわくちゃになってとてもキレイとは言えない。

『わたしは佳祐と行こうと思います。元気でね。 綾乃』

 ――なんだ、そういうことか。やっぱりふたりで旅立ってしまったのか。

 それにしても見るかどうかわからないこんなところに大事な手紙を入れておくなんて、綾乃らしい。

 綾乃、慣れないところで元気にしてるかな?


 鏡の信号が返ってこなくなったのもこれで納得だ。ふたりはおそらく新天地を見つけたんだろう。

 そこにわたしの入る余地はない。

『三』は『二』と『一』に分かれたんだ。キレイに分かれたんだ。


 ロッカーに入れっぱなしだった裁縫箱から裁ちはさみを持ってくる。

 わたしはにいる。

 未練は断ち切って覚悟を決めよう。


 ドラマでやっているようにズバッと切ることはできなかった。思ったより髪の束というのは強いらしい。

 仕方がないので少量ずつ指先で取って鋏で刻んでいく。

 チョキンなんて景気のいい音はしない。ザリザリと耳触りのする音が誰もいない教室に響く。

 別に後悔はなかった。

 こんなことになって髪の手入れには苦労していた。早くこうしてしまえば良かったんだけど、一度相談した時、綾乃に猛反発を受けた。あたかもこの髪がわたしのアイデンティティであるかのように。

 でも涙が出ることもなかったし、どちらかと言えば湖西が起きてくるまでに事を成し遂げてしまいたかった。


 バイバイ、あの日までの自分――。


「おはよう」

 洗面を済ませてきた湖西が家庭科室に現れた。

「おはよう」

 何食わぬ顔をする。こういうのは知らない顔をするのがいちばんなんだ。をするのは慣れている。俯いた時、ひとつにやっと結んだ髪は脇が少しほつれた。

「名璃子ちゃん!」

 配膳のために背中を湖西に向けた時、運悪く彼の目にわたしの髪が映ってしまったらしい。

「名璃子ちゃん、なんでそんなこと?」

「髪洗うのずっと大変だったから。ドライヤーも無いし、乾かなくて。すごくさっぱりした」

「女の子の髪の毛にはこだわりがあるんじゃないの?」

「なんにも。手入れがしやすかっただけ。ドライヤーでブローすればいいだけだったから」

「……ごめん。髪の毛さえ守ってあげられなくて」

 わたしはくすりと笑った。

「髪の毛を守るなんて変だよ」

「笑いごとじゃないよ。僕は名璃子ちゃんの全部を守りたいんだ」

 大袈裟だな。わたしの髪なんて大した価値はないのに。

 そんなに沈む必要はないのに。

 わたしたちは黙って朝食を取った。


 洗濯を手早く終えて、音楽室に行く。

 決めたこと。もう窓からホームを覗かないこと。光を待たないこと。

 もっと気持ちを自立させていかないと、すぐに心は折れてしまう。支えは自分自身の強さだ。

 そうしてピアノは程々にして、階段状の音楽室のカーペットの上に寝転ぶ。体の上から重力がかかるみたいに疲れていることに気がつく。

「あー、もうやだ」

 大きな声で言ってみる。音楽室は防音だ。なにを叫んでも誰にも届かない。

「もうやだ!」

 悔しいことに反響もしない。

「疲れた! もう疲れた! ……疲れちゃったよ……」

 その時ちょうどドアが開いて湖西が入ってきた。わたしは顔を隠していたので表情は見えなかったに違いない。

「名璃子ちゃん、エリーゼ進んだ?」

「うん、そこそこ。指の練習は終わったから湖西くんが弾いていいよ」

「そっか」

 彼はなにを弾こうかとピアノの上に散らばっていた楽譜を物色し始めた。そこから一枚を見つけると譜面台に立てて、まず指慣らしを始めた。

 面白いように鍵盤の左から右へと指は踊り出す。

 そして、彼は背筋を伸ばすとひとつ息を吸って『エリーゼのために』を弾き始めた。これも指慣らしだ。

 わたしが難しくていつも頭で思うように引けない部分も肩を揺らしながらメロディアスに弾いていく。音はひとつの流れになって、響いてから消えていく。


「わたし、運動してくる」

「気を付けてね」

 わたしの行動を常に気にする彼でも、ピアノの時間は気持ちがピアノだけに向いてしまうらしい。

 そそくさと外に出る。

 音楽室から対角線上にある体育館を目指す。

 なにも娯楽はピアノだけではなくて、例えば佳祐がやっていたようにバスケットでもいいんだ。

 だけどバスケやバレーなんかは突き指をする。そうなるとピアノに支障が出るので体育館に行く口実はほとんどなくなる。


 体育館の倉庫。

 綾乃たちが一晩過ごしたと言っていたところだ。

 そこからバスケットボールのかごを出してきてゴール斜め下に置く。右斜め下からのシュートを放つ。

 簡単には入らない。

 見当違いの場所に飛んで行ったり、リングに当たったり、入ることが稀だった。

 でもそんなことは気にせず何度も挑戦する。何度も何度も。たぶん佳祐もやったはずだ。

 試合を見に行った時のことを思い出す。

 仲間からの的確なパスをもらった佳祐は迷いもなく瞬時にボールを放った。ボールはボードにもリングにも当たることなく、吸い込まれるようにネットを通り過ぎた。

 頭の中でイメージする。


 ガンッ。


 何度目になるか、リングに当たって跳ね返ってきた。

 そろそろ腕が辛くなってきた。二の腕が辛い。普段、運動を怠けているせいだ。


 自分の投げたボールをひとつひとつ拾ってはかごにしまう。拾うだけでも一苦労だ。でも佳祐もやったはず。こんなふうに、疲れたなと思いながらひとつずつ。


 手の中のふたつのボールが落ちてバウンドする。

 もう嫌だ。

 どうして声もかけずにあんなメモ一枚でわたしを置いていったんだろう?

 置いていかれてからもう何日が過ぎたの?

 この先、ふたりに会うことは叶わないんだ。


「名璃子ちゃーん」

 入り口からわたしを呼ぶ声がする。「はーい」とわざとらしいくらい明るい声を出す。

 ひとりじゃない。

 わたしひとりの問題じゃない。

 まだ湖西がいてくれる……。

「ボール片付けるの手伝うよ」

 ありがとう、と言ってお言葉に甘える。

「夕飯、なににしようか?」

「なにがいいかな、あ、焼き鳥丼はどう?」

「缶詰、まだ残ってると思う。長ネギもまだ大丈夫」

「じゃあそれにしよう」

 顔と顔を合わせて笑顔を重ねる。

 あっという間にバスケットボールは倉庫に戻されて、体育館の重い扉を閉める。


 ――バイバイ、佳祐。


 もう思い出さないように心に鍵をかけた。

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