本を読める場所。への応援コメント
何話か読ませていただきました!
最初の方を読んでいると、今の自分と同じ心境で嬉しかったです。
通知がないと落ち込むよね——って、今の作者様は☆が三ケタもあって次元が違うんでした……。
小説を執筆しても中々筆が進まなくてこちらを読み始めたのですが、エッセイなのにこんなに面白く書いている人、初めて見ました。
今まで他サイト含めて百ほどエッセイが好きで読んでいますが、一番読みやすくてためになります。本当に!
また時間がある時に読ませていただきます。
応援してます!(偉そうになってしまいすいません……)
追記:小説など紙媒体で読書するのって良いですよね! 最近は忙しくて頻度は下がっていますが、私は紙の小説を読み終えたあとの読了感が好きです!
作者からの返信
コメントありがとうございます。
途中から主張が強くなって驚かせてしまったかもしれませんが、ひとまず楽しんでいただけたなら良かったです。カクヨムあるあるから離れて個人的な価値観を出してよいのか、当初は迷ったのですが、結局、筆者がカクヨムについて率直に語るとなれば、筆者自身がどんな人間でどんなことを考えて生きているかという部分は避けられないと考えました。この辺りの匙加減というか、カクヨムに取り組む温度感は、人それぞれなだけになかなか難しいですね。お気に召したようで嬉しいです。
このエッセイも含めて、筆者の作品で☆が3桁に達したものはまだないですが、作品ごとではなく全ての投稿作品の☆を合わせれば、たしかに3桁に達していますし、そういう数え方をしてはいけないというルールも聞いたことがありません。筆者はすでに人気カクヨム作家になっていたのか……(笑) 慢心はいけませんが、ポジティブ思考で、今後も活動を続けていきたいと思います。
Web小説や電子書籍も良いですし、屁理屈を言えば、紙媒体の方が集中しやすいだけでなく、集中力が高まっている精神状態のときに紙媒体の本を開きがちという可能性もありますが、何にせよ、紙の本はどのくらい読み進めているのか目に見えやすいですし、読破したときは中身以前に「1冊の本を最後まで読み切ったぞ」という満足感が得られますね。
筆者が思うに、町の書店の醍醐味は、何気なく立ち寄ったときに思わぬ出合いがあることですが、そういうのはやはり本が紙であってこそですよね。デジタル化の時代に合ってもなお、紙の本にはしぶとく生き残ってほしいと思います。
本を読める場所。への応援コメント
こんにちは。
集中して作業していた時間には意識を向けていなかった情報が、夜、眠る前に呼び起こされる感覚は非常によく分かります。
わたしは専ら電車内で何かをしていることが多いので、車内アナウンスですね。きっとそろそろ口ずさめます。
得た情報を脳が整理してるのかなとか思えば、人間ってよく出来てるなと思いますが
刷り込まれるほど重複すると目が冴えてしまいます。
しかし電車内(騒がしすぎない路線に限ります)はわたしにとって意外に過ごしやすいです。
一度、読書に集中しすぎて最寄り駅を乗り過ごしてからはなんとなく快適さを感じてしまい、
起点と終着駅を行ったり来たりずーっと乗って過ごして本を読み終えることがあります。
胸を張っては言いづらいので、おすすめできる快適スポットをわたしも探しています。
作者からの返信
こんにちは。
コメントありがとうございます。
電車は集中しやすいですよね。筆者の地元だけかもしれませんが、バスのアナウンスが大きく強すぎるのに対し、電車のアナウンスは心なしか優しく聞こえます。フードコートとの共通点は無音ではないことですが、人間、音や揺れなどの物理的な刺激が適度にあるくらいの方が、心が落ち着くものなのかもしれません。そう言えば、読書とは少し違いますが、電車の席で眠ってしまう人が多いのは、あの音と揺れが胎児のとき母親の胎内で体験したものに似ているからだという解説を、NHKの『チコちゃんに叱られる』で見たことがあります。
読書のためだけに何時間も電車に乗るのは楽しそうですね。本の余韻にひたるとき、車窓の外の景色がきれいだったら最高です。筆者も憧れはあるのですが、この近所で景色が良い路線は無人駅がいくつも続くような田舎なので、車掌さんに咎められそうで、良くも悪くも実行できていません(笑)
☆はいくつでも嬉しいの?への応援コメント
上から読んできて分かりました。ここでお礼を申し上げます。noteでがんばっているんですがやっぱり長い文がよくて。ちょっとこちらでもやってみます。
投稿方法がはじめよくわからなくて書きだめていたのを一斉放出してしまったのですが、一度もどして再連載したほうがいいのでしょうか。まだ星というのはないと思います。
作者からの返信
ありがとうございます。
返信が遅くなってすみません。
長編の場合、1回でまとめて全て投稿してしまうのではなく、1~2日に1話ずつ小刻みに投稿していった方が読者を増やしやすい傾向にあると思います。ただ、すでに投稿したものを非公開にして投稿し直しても、ホーム画面の新着小説の欄に表示されるか分かりません。たぶん表示されないと筆者は予想していますが、もしそうだとしたら、再投稿にはあまり意味がないでしょうね。
こういうことはあまり書かない方が良いのかもしれませんが、星(レビュー)の数が気になるなら、他のユーザーの作品を読んでみるのも手だと思います。もちろん、読まずに星を送るような不誠実なことをされても喜ばない人が多いので、お礼目的で評価するのはお勧めしません。とはいえ、タイトルやタグを工夫したとしても、ただ作品を置いているだけでは、誰にも見つけてもらえず、埋もれてしまうことは否定できません。タグや自主企画などで、気が合いそうな人、趣味が似通っていそうな人を探して、良い作品には感想を送るようにすれば、ご自身の作品を読んでもらう機会も増えてくるのではないかと思います。
筆者の経験したところでは、実はこれが結構大変というか、根気も時間も必要なのですが、短期間にまとめてするよりも、細々とでも長く続けるつもりでやっていれば、読者はそのうち増えてくると思います。
短編賞創作フェス、振り返り。への応援コメント
企業の機密情報書いたりしたらまずいですよね。
特定されないように少し変えて書かないといけないなと思います。
作者からの返信
お読みくださってありがとうございます。
エッセイであればどんな文章でも、友人・知人が読めばピンとくる(ピンときてしまう)ものでしょうから、職種や日時、時系列といった具体的な部分をなるべくはぐらかして、(ピンときても)確証を得させないのが肝要だと思います。企業(というか第三者)の機密情報は、エッセイの本題となる人間模様やシチュエーションの説明に不可欠でないなら、なるべく書かず、なるべく誤魔化すのが無難でしょうね。
自分を形作る言葉。への応援コメント
あじさい様
わたしも伝えたい、書きたい本質から遠回りした言い方になっていると読み返した際に気付くことが多々あります。
「わたしはこうだ。」とまっすぐ形にすれば、「この人は、こうなのか。」と思われるでしょうが、ぼかした書き方は意識している対象が広すぎて、よっぽど意図した方向とは違う伝わり方をしてしまうだろうと、あじさい様の本投稿を拝見して思いました。
作者からの返信
ありがとうございます。
日本語それ自体が大事なことをぼかしがちな文化ですし、会話は情報交換だけでなく感情のすり合わせでもあるので、話題や相手によってはぼかした方が「良い」ことがあるのですが、ぼかさない方が良いこともあります。昨今はネット社会なので、考えなしに発言する人が多く、筆者もそれで自己嫌悪に苛まれる日々ですが、自分が発する言葉には気をつけたいところです。
ハッピーエンドは書きづらい。への応援コメント
現役高校生ですが、SNSになにか上げるにしても、たぶんみんな何も考えてないです。というよりも、そうするのが当たり前であって、そこに特別疑問を持たないといいますか。
もちろん熱心な子は考えているのでしょうけど、私はそう真剣になったことがないですね……
作者からの返信
何も考えてないってwww
筆者からすると、進んで面倒事を引き受けるからには、そうするだけの動機があると言われた方がしっくりくるのですが、あるのが当たり前、使うのが当たり前だと、楽しいとか難しいとか考えなくても、習慣の1つとして出来てしまうわけですね。……なるほど。
大変参考になりました。ありがとうございます。
編集済
ハッピーエンドは書きづらい。への応援コメント
ウチは、あじさい様が例示された「イマドキ女子高生」の会話にこそ「人間捨てたもんじゃない‼️」ってめっちゃ感じますよ。
「おそい」より「はやい」が「上」という価値観(これこそがあらゆる差別の根源!)を何の気負いもなくスコーンと突き抜けて、不毛な競争の場から軽々と抜け、降りていく人にこそ、人らしく生きるゆたかないのちを感じます。人間ってええな❗
小説いうんは、自分と違う立場や境遇の人を描いてナンボの世界じゃけん、他人の代弁をしまくらなどもならん、そういうものです。ほなけんど、代弁いう行為はどうかすると上から目線になりがちですし、私も会話の中でマイノリティの人たちを代弁する言い方をした時に、周囲の人から「あんたが代弁するのはおかしい」と言われたことがあります。心していきたい部分です。
しょうもないこと長々と、すみません🙇
作者からの返信
ありがとうございます、感銘を受けました。
そういう考え方があるということに驚きと興奮を覚えています。筆者自身の闇が深いということかもしれませんが、相手が倫理や正義を(ハリボテであっても)手中に収めているときに、倫理や正義についての論理(つまり倫理学や政治哲学)という武器で立ち向かう以外の発想が、今までありませんでした。たとえば学校の授業に文句があるとき、黙ってボイコットしたところで単位を落とされて留年させられるだけですから、「教師が生徒に暴力を振るう」とか「教師が公然とセクハラ発言をする」とかの理由を明確にして本人や第三者に訴えるのでなければ「勝てない」と思っていました。
ただ、当然ながらこれでは理不尽を強いる側と同じ土俵に立つわけですし、大人vs子供、年長者vs若輩者という図式を考えても、相手に有利な勝負を挑むことになります。また、理不尽なことって何か1つだけでなく、世の中にゴロゴロ溢れているので、1つひとつ相手にしていたのでは、決着をつける前に消耗して力尽きてしまいます。そう考えると、「不毛な競争の場から軽々と抜け、降りていく」のが、本人が本来の目的・自己実現を達成するという点でも、理不尽を強いる相手を明確に拒否するという点でも、最良の選択肢になってくるのかもしれません。それじゃ社会は良くならないじゃないか、と言うのはナンセンスですよね、だってそもそも、好きなように生きて、なりたい自分になるときに、社会を変える必要なんてないんですから。「社会」や「常識」、「空気」といったものは正面から向き合おうとすると強固に見えますが、案外みんな疑問を抱いているので、少し姿勢をずらすだけで呼吸しやすくなることもあるでしょうね。
安直かもしれませんが、もしかすると、そういう、既存の理屈には合わないもの、既存の常識からすると「逸脱」になってしまうものを拾い上げられるのが、文芸の特権かもしれませんね。社会学や人類学もそういうことを意識してはいるようですが、学者が当事者の声を分析したり代弁したりするときに先入観が入ったり、先入観を排除するために当事者を研究対象として突き放したりするのは否定できないように思います。学者ではない一般庶民が、フィクションという虚構の世界で、デフォルメされた仮想的な人間を設定し、それでいて読者の心の根っこを揺さぶれるのというは、科学的な厳密さを意図的に外すことが許されている文芸の強みかもしれず、この意味で、文芸には虚構だからこそのリアリティや迫力があるのかもしれません。
野栗さんのおっしゃることが「しょうもない」なんてことは決してありません。どこまで出来るか分かりませんが、こういったことは今後の創作活動に活かしていきたいです。本当にありがとうございました。
ただ、最後に不穏なことを言いますが、筆者自身は(今のところ)社会に対して、できるなら勝負を挑みたいと思っています。その気がない人に「立ち上がれ」とは言わないまでも、声を上げている人や立ち上がっている人のことは応援したいし、筆者が矢面に立てなくても支持はしたいです。また、「持久走マジだりぃ」とぼやいている人がいて、その背景に理不尽なことがあるなら、(可能な範囲でという留保はつくものの)傍観者ではなく、その是非を社会に問う側に回りたいです。自分で書いていても自己陶酔的な屁理屈かもしれないとは思いますが、もしそれで「上から目線で代弁するな」とか「あんたが代弁するのはおかしい」とか言われるとしても、何もせず黙っているよりマシじゃないかと思います。社会の理不尽を疑問に思って発した声が誰かに届き、それへの反応として今までなかった新たな声が発せられ、それによって誤解に気付いて新たな知見を得たなら、「社会」が今より少しだけでも良くなったということですから、それはそれでいいんじゃないと思います。極端な話、人は自分自身以外の人間として人生を生きることが出来ないわけですが、だからといって他者のことを全く想像せず、代弁することもしなくなったら、それこそ人間は「万人の万人に対する闘争」を繰り広げて絶対君主にひれ伏すしかなくなります。それを拒否したからこそ、人類は今こうして自由民主主義国家を築いているはずです。分かり合おう、お互いを慈しもうと努力し続けることが大切であり、そのためには、どんな形であれ声を発し続けることが欠かせません。そこに誤解や勘違いがあったなら正せばいいだけです。面倒であってもそれをくり返した先にしか、今より過ごしやすい未来は実現されないと思います。……長くなりましたが、だから筆者は高校生のことが分からなくても高校生が登場する小説を今後も書くでしょうし、その中で彼女ら彼らに色々なことを語ってもらうつもりです。
自分で言うことでもないですが、きっと傍から見たとき、筆者(あじさい)に意見をぶつけるのって怖いですよね。今回もこのように長文で返しているわけですし。
率直なコメントを下さって本当にありがとうございます。
頂いたコメントに反論する意図は全くなかったのですが、そういう圧が感じられたのであれば、すみません。
年の瀬、アマチュア書き手の務め。への応援コメント
昔から、流行に乗るのが猛烈に嫌です。その流行を起こしている者たちを尊敬できないし、それらと同化するようで気持ち悪くなります。まあ、実験的に乗ってみてもいいかもしれませんが。
よいお年を。
作者からの返信
こちらにもコメントありがとうございます。
あまり大きな声では言えませんが、筆者も正直、エッセイにせよ小説にせよ、自分で文章を書いてネットに公開しようという人間が、世間やその流行と同じことをしてどうするんだ、くらいのことは思っています。
ラブコメ小説談義。への応援コメント
コメント失礼いたします、島尾と申します。私の自主企画にご参加いただきありがとうございます。
個人的には、美少女タイプ、ハーレムタイプ、セフレタイプのいずれにおいても「中身がない、空っぽ」な作品群だと思っています。それを求める人々の中には、頭を空っぽにしたいほど日々が忙しい人もいるんじゃないかと思います。しかしそれでは、その人の人生全体が虚無なものになり、読み終わった途端に救いのない状況に陥ると思います。中身のない作品がダラダラ続くのは、それが一つの要因ではないでしょうか。
一方で私は、中身があるだけでなく新天地に連れていってくれるような作品にこそ魅了され、その作品について深く考究します。また、序盤は空っぽでも中盤からいきなり中身が濃くなる作品も好きです(ただし空っぽ部分が長すぎるのは問題)。
作者からの返信
コメントを下さり、ありがとうございます。
おっしゃる通りだと思います。
人間や社会に対する豊かな眼差しを持った物語は、(本の外も含めて)他者への想像力を豊かにし、物事に対する多角的な思考力を培ってくれるので、精神だけでなく人間関係の点でも、読者の人生を豊かにしうるものです。
一方、単に主人公および一部読者の欲望を刺激するだけの作品は、全くもって無益とは言いませんが、そういった豊かさや広がりがありません。主人公がいくらもてはやされても、読者自身が何者かになるための道筋や可能性が示されるわけではないので、読み終わると落差で虚しくなるだけだと思います。むしろ、身勝手な願望や偏見に基づく貧相な人間観を振りかざすことになれば、自らの状況を危うくすることにもなりかねません。実際、そうやって苦労している人も多いように思います。
百歩譲って小説投稿サイトにそういう作品が多いのは仕方ないにしても、それが文芸賞で賞を取ったり書籍化されたりするのは、ある種の頽廃であり、文芸の危機と言わねばならないでしょう。自分でもWeb小説を書く筆者としては、せめてそこに一石投じる作品を書いていければと思っています。
編集済
作品についての手痛い批判。への応援コメント
暴力性のようなものって時には必要なのかなと思ってます。
創作などでもその要素を入れると力強い表現ができることがある。
なので、暴力性を完全に否定してしまうと生命力そのものが萎えて
しまうこともありますね。
生きることってある種の暴力でなりたってます。
その攻撃性をどこまで許容するかが、
表現者にとってのキモになりますね。
抽象的ですいません。
作者からの返信
う~ん、そのお話は筆者には難しいですね。
筆者は基本的に人間が暴力という手段に訴えることには否定的で、それは警察や軍隊の暴力であってもそうです。やむを得ない場合が多いにしても、「ある種の暴力は仕方ないよね」と片付けるのではなく、「(お互いに)暴力に訴えなくていい解決方法があったのではないか」という自己省察を続けることが必要で、その意味で、暴力が語られるときは常にネガティブな言葉としてでなければならないと思います。
ただ、公的なものにせよ私的なものにせよ、「先に暴力を振るった側が絶対悪になる」という捉え方にも(そんなナイーブな捉え方があるとしたらですが)、但し書きは付けておきたいのです。ポンポコさんのお話にどれくらい接近しているか分かりませんが、言葉や言語というものは著しく不完全なもので、そこから排除される人や事柄が多く存在します。
知識や語彙力がないとか、社会と家庭で言語が違うからどこに行ってもマジョリティから見て「片言」でしか話せないとか、平和的に言葉を届けようにもマスメディアやインターネットなどの発信手段がない、手段はあってもマジョリティが関心を示さないとか、そういう論点もありますが、それ以外の問題もあります。言葉や言語が社会的・歴史的に形成されるという性質上、ある種の問題に関しては、既存の言葉や一般的な言葉にしたところで、本来の意図(と呼ぶべきもの)が、社会的・歴史的に定着した先入観や不公正に絡めとられてしまうという問題です。
代表的には民族差別や性差別などですが、そうでなくても、たとえば日本には「フリーター」という言葉があって、これは自由な働き方をする人というポジティブなイメージです。ですが、経済格差が問題視されるようになった2000年代後半から2010年代にかけて、「非正規雇用」というネガティブな側面を強調する言葉の方が、ニュースや議論の場ではむしろ一般的になりました。最近は、経済団体を中心に「有期雇用」という呼び方を定着させたがっている人々が現われているようで、おそらく「非正規雇用」のネガティブなイメージを払拭したいのだと思います。言葉や言語というのは実はそれ自体が論争的なもので、時には明確な意図に基づいて特定の人や事柄を排除します。
話を暴力に戻しますと、言葉や言語のメインストリームから排除されたとき、人間に残された最後の手段が暴力ということは充分あり得ます。そして、これは「倫理(学)によって倫理的に否定する」ことができないように思います。なぜなら、倫理(学)自体が言葉や言語によって形成されているからです。その意味で、倫理(学)は根源的に、先述した社会的・歴史的な偏りや歪みから自由ではありません(もちろん、だから無意味だという話ではなく、だからこそ注意深く、根気強く、半永久的に議論が続けられねばならないのですが、この辺は東浩紀氏の『訂正する力』に出てきた話と部分的に通じるかもしれませんね)。難しい言い方になりましたが、要するに、「学者や偉人の言葉を引用したくらいで、俺/僕/私を言い負かしたと思うな!」と叫びたい状況が人間や社会にはあるもので、それが切実なものであればあるほど、ある種の「暴力」性を帯びざるを得ない、場合によっては暴力そのものにならざるを得ないのではないか、ということです。
最初に言った通り、筆者は暴力という手段をとることに否定的ですが、以上お話しした意味で、暴力や暴力性というものに対する完全な拒否を、倫理(学)的に発動することはできないとも思います。理屈や道理を抜きにして筆者個人の好き嫌いを言えば、暴力や暴力性はなるべくない社会の方が望ましい気がしますが、神経質なまでに暴力や暴力性を排除してばかりいると、ポンポコさんがおっしゃるように「生命力そのものが萎えてしまう」ことになるのかもしれませんね。
感謝の気持ちを思い出さねば。への応援コメント
基本、間違いを指摘されると、マウント取られた気持ちになるのは、
私だけではないと思います。
人間て、そういう生き物なのね、と開き直ることもできますが、
それだと、ちとつまらない。
真摯な批判には、正面から耳を傾けようと思います。
そうすることで、自分の文章もより良くなりますから。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
分かりやすい文章についての本だったと思いますが、文章には書き手の知性が反映されると読み手は考える、という趣旨の話がありました。実際の知性や知的水準はさておき、文章を読んだ人間はその文章から書き手の知性を想像する。つまり、文章が下手だと(知性があっても)知性に欠けた人間だと思われ、損をする。だからこの本を買って最後まで読め。ざっくりと言うとそんな話だったと思います。
文章について指摘されて怒る人は、このことを理解していて、自分が知性、ひいては人間性の点から見下されていると考えて反発しているのかもしれません。そう考えると、指摘の仕方には細心の注意が必要ですね。
とはいえ、筆者が見てきた限りでは、文章とご本人の知性は必ずしも緊密な関係にはありません。特にWeb小説においては、誤字脱字や文法ミスは珍しいものではありません。カクヨム掲載の手塚エマさんの創作論『Web小説が書籍化されても同じ小説とは限らない』(https://kakuyomu.jp/works/16817139557424575449)によれば、脳科学界隈には、画面と紙では人間の脳の働き方が異なるという説があるそうです。実を言えば、筆者はこの手の、何でも脳のせいにする話はあまり信用していませんが、長年の習慣のせいでそうなっているという話であれば、説得力はあると思います。今回も話が長くなりましたが、何が言いたいかと言うと、Web小説やそれに類する文章は誰もがミスしやすいのですから、ミスが多くてもそれを長々と指摘されても気に病む必要はないということです。ポンポコさんには最初から分かっていた話かもしれませんが、参考までに書かせていただきました。
編集済
通知がない日対策。/100の質問。への応援コメント
カクヨムの通知、確かに心踊りますね。
もう4年やっているので、さすがに最初のころの感動はないですが、
タブレットがピロンと鳴って、カクヨムの通知を知らせると、
いまだにわくわくします。
四年に渡ってエッセイをほぼ毎日更新してると、お馴染みさんが付いてくれるので、
毎日、タブレットのピロンが鳴ります。
ああ、今日もかまってくれたとウキウキしますね。
ありがたいことです。
作者からの返信
自分のエッセイを読み返すと思うことですが、カクヨムを始めた当初の依存っぷりはちょっと異常ですね(笑) 小説やエッセイを書く文芸の活動というものが、それだけ我々の内面やアイデンティティの深い部分に連関しているせいなのでしょうが、ネット上の活動となると特に、些細なことでも揺さぶりを受けやすいので、今となっては、ほどよい距離感が大切だと思います。
いつも読んでくれる読者の方々の存在は、本当にありがたいですよね。筆者は、そういう方々がいつ離れてしまうのではないかと、気が気でなりません。ご存じの通り、このエッセイはある種の思想や主張が強くなっていきますが、それでもひとまず読んでいただけて、一応の承認を得られているという安心感は、何物にも代えがたいです。筆者のエッセイの場合は倫理観を強調することが多くなってきているので、ネガティブな言い方にはなりますが、少なくともその点で、読者の皆さんに失望されないラインを守っていきたいと思います。
作業用BGM。/他人様のPV。への応援コメント
私、最近は読むときも、書くときも音楽を聞きません。
音楽聞くと、集中できなくて、困ります。
歳のせいか、器用に立ち回ることができなくなったのですね。
ちょっとさみしい(笑)
カクヨムでは、けっこう★の数を読むときの参考にします。
★の数が一桁の作品って、正直言って、おもしろくないのけっこうあります。
かといって、★の数が100以上だと、読者さんが多いので、
コメント書きづらい。
私はカクヨムを交流目的で使っているので、
★10個以上、100未満の作品を狙って読みます。
そうすると、たいていコメント書いても、素直に返信くれます。
あまり、★の数が少なすぎる人って、けっこう返信くれません。
けっこう痛い目にあいました(笑)
作者からの返信
音楽の話は実は筆者もそこまで安定しません。書き始めは音楽を聞いていても、筆が乗ってきたとき邪魔に感じて消していることも多いです。
ちなみに、数年前、読破したかも覚えていない本で、「マインドフルネス」だか「レジリエンス」だかの話を読んだのですが、筆者が解釈し今も記憶しているところでは、「音楽を聞きながら勉強する」、「テレビを見ながらご飯を食べる」のような“ながら作業”は、集中力が散漫な状態を習慣化、つまり、あらゆる場面での集中力の低下を招くので、あまり良くないそうです。音楽があると集中できないのは、不器用なのではなくて、高いレベルでの集中ができているということなのかもしれません。
★が1桁の作品の多くが面白くないのは、残念ながら、たしかにそうだと思います。ただ、“なんちゃって校閲者”の筆者としては、そういう作品の方が読みたくなることが多いです。コミュニケーション・ツールとしての文章は、頭や身体から自然と湧くものに甘んじるのでなく、文法のルールや根拠を参照しながら論理的に組み上げられるべきものというのが筆者の基本的な考え方ですが、作者さんに情熱があるのに伸び悩んでいる作品は文章の組み方(つまり伝え方)で損をしているのかもしれないので、何か力になれないかと読んでみると言いますか……。
いや、もちろんこれは言い訳です。文章構築力とでも言いうるものに関して筆者には多少の自信があり、アドバイスという体(てい)でマウントを取れる(上から目線で物を言える)という快感があるのは事実です。
とはいえ、他の記事で書いた、ある種の文章に感じる「力」のことを引き合いに出すなら、(大変失礼ながら)下手に万人受けを狙ってそれに成功している書き手さんの文章よりも、伸び悩んで低評価に苦しんでいる書き手さんの文章の方に「力」を感じる部分もあります。それは切実さかもしれませんし、不器用さ、必死さ、誠実さ(誠意)かもしれませんが、そこにはより本来的な意味での“生身の人間の声”があるような気さえしてくるのです。
そういう場合、さすがの筆者も文章についてあれこれ指摘するようなことはできません。それで、せめて★が1桁の状態から脱することができるように★を送ってみたり、その人が書くことをやめてしまわないように♡だけでも送ってみたりします。こうして言語化すると悪趣味な気もしてきますし、実際そうかもしれませんが、でも、小説投稿サイトって(これも失礼ながら)“そういう人”や作品に出合う場というか、そういう人たちが(なけなしの)承認を得る場という気もするんです。筆者がエッセイの他の記事に書きましたが、完成度の高い文章を読みたい読者は、本屋に行くべきなのです。小説投稿サイトは必ずしもそういう場ではありません。魅力的ながら伸び悩んでいる書き手さんを見つけ出すという観点で、無責任なまでに色々手を出してみるのも、それはそれでアリなのではないかと思います。
長くなってきたのでそろそろ締めます。以上言った事情で筆者は高評価の作品以上に評価が伸び悩んでいる作品の方に興味を引かれるため、★100以上の作品はめったに読みません。とはいえ、気後れする心境は分かるつもりです。筆者が何を言ったところで結局この人にとって大きなインパクトにはなりえず、ネットに生息する面倒くさい人(の1人)として片付けられるのだろう、という思いが先に立ち、(書き手さんには非がないのに)コメントを送りづらいです。そのため、仮に読んだとしても、コメントは送りません(笑)
コメントを書いても返信が貰えないのは、つらいですよね。筆者も何度か経験したので、気持ちは分かるつもりです。★が少ない人の方が返信をくれないのも、そうだと思います。小説やエッセイの更新は普通にしているので、コメントやその返信に関して、独自の価値観や哲学をお持ちなんでしょうね。上に書いたことと矛盾するかもしれませんが、魅力を感じない書き手さんに対して無理に気を回す必要はないと思います。「この人、話しかけても返事をくれなそうだな」と思ったら、たとえ作品が興味深くても無理に話しかける義理はありません。ポンポコさんに対しては釈迦に説法のような気もしますが、ネットには色々な人がいるので、あまり個々別々の事柄に囚われ過ぎないのが、楽しいカクヨムライフを送るコツの1つのように思います。
編集済
多少は分かりにくい小説でも。への応援コメント
自分の作品を気に入ってるって大切なことだと思います。
たまに自分の作品はつまらないとか書いてる人見ると、
じゃあ、ネットで公開しなければいいのにと、冷たいこと思います。
自信過剰は嫌ですが、自己嫌悪はもっと嫌です。
楽しく書いていきましょう。
作者からの返信
こちらも読んでくださってありがとうございます。
以前、YouTubeで見かけたなろう系マンガのレビュー動画で、
「ネット小説のままならまだしも商品化するからには、作者だけは『この作品は世界一面白い』と自信を持てるように仕上げろよ」
という趣旨のことが言われていて、それはたしかにそうだ、と共感したことがあります。もちろん、実際にはそこまでの自信を持つことは難しいですし、自分の作品が書籍化・コミカライズなどされるかもしれないという話になれば、とにかく出版に踏み切ってしまう気持ちも分かります。とはいえ、売り出すなら自信を持って宣伝できる品質にするのが書き手の務めであり、読者・購入者に対する礼儀だと思います。
Web小説は商品ではありませんが、書いて公開して誰かに読んでもらうからには、自分が書ける最高のものを書いたという自信くらいは持てるようになっていてほしいですね。
毎度のことながら、文章の悩み。への応援コメント
力を感じる文芸って素人さんであっても、たまにあります。
たぶん語りたいという意欲が強くあって、
作品の根底にそのパワーがみなぎってるのでしょうね。
逆にディテールにすごくこだわってるのに、
全く面白くない作品というものもあります。
その差は作家さんの情熱にあるのかなと思ってます
作者からの返信
コメントありがとうございます。
返信が遅くなってすみません。
やはりそこが一番大きい気はしますね。何を書くにしても作者さん自身が興味なさそうだったり退屈だと分かってそうだったりすると、物語や文章が良いかはともかく、グッと引き込まれる感じがしません。「上手いなぁ」って文章にしても、作者さんなりのウィットやユーモア(あるいは人間味?)が感じられないと、「力がある」と言うほどにはならない気がしますし。
とはいえ一方で、物語を読んでいるとき、唐突に場違いな下ネタや不自然な主人公ヨイショが始まって、「作者さんがやりたかっただけなんだろうな」と思うしかないのは、「情熱」がいくら感じられても嫌なんですよね。それを考えると、問題は人間や世界に対する眼差しや姿勢で、書くことに情熱を持っていることもそういう魅力の1つなのかとも思いますが、「ここでこんな展開を作るとは性格悪いなぁ」、「この悪役の台詞、間違ってるけど迫力があるなぁ」と思いながらその物語に熱中していることもあるので、その点では“善い人が書くものだから「力」を感じる”という単純な話でもない気がします。
結局、筆者にはまだよく分かりません。長文コメントなのにまとまりませんが、文芸はそれだけ奥が深いということで、ご容赦いただければと思います。
応援コメントの難しさ。(後編)への応援コメント
あじさいさんのコメントが比較的長いのは、
批評するその作品に真摯であろうとする姿勢の現れだとおもいました。
確かに、長文読んで、おうっとなることありますが、
あじさいさんの文章、じっくり読むと、すごく理路整然としており、
すごく分かりやすいことに気づきます。
ただし、痛いこと突かれると、拒絶反応する人はいそうですね。
以前、フォロワーさんで、「毎回、長文で批判してくる人をブロックしました」
という方がおられました。
確かに、毎回批判されたら、嫌かも(笑)
でも、あじさいさんの詳細なコメント、私は好きです
作者からの返信
ありがとうございます。
そう言っていただけて嬉しいです。
ポンポコさんにも読んでいただいた最近のエッセイで、部分より作品全体、技術よりテーマに注目した方が良いのかも、ということを書きましたが、カクヨムを始めたばかりの当時は、批判するなら全体ではなく部分、テーマではなく技術の話に徹するべきという考え方が強かったようです。もちろん、褒めるときは全体やテーマから褒めた方が良いはずですが、作品全体やテーマの批判が長くなると拒否感を持たれることも間違いないでしょう。
振り返ってみると筆者もいくつかのWeb小説に対してそういう批判をしたことがあります。その時は穏便に片付けてもらえましたが、今後はもっと慎重にならねば、と思います。言い方や情報共有、譲歩などを考えると(僕の技量では)文字数を削れないことも多いですが、全体やテーマについての批判的なコメントは、書く必要があるにしても、なるべく手短に済ませようと思います。
Web小説とフェミニズムと私。への応援コメント
確かにカクヨムとかには、確実に男がマッチョな気持ちで書いている作品て
けっこうありますね。
私は男ですが、そういうのに興味ないので、読みませんが、
読んでもあ~だこ~だ間違いを指摘するのも嫌です。
おっしゃるように、いくら言っても、そういうの書く人は、考えが
変わるとは思えないので、無茶苦茶な反論が来て終わりになりそうです。
あ~差別、なくなりませんね。
トランプ大統領が誕生したとき、ああ、アメリカも所詮本音はこうなのね、
とがっかりしたものです。
ある程度の差別は仕方ないとして、露骨に差別する世の中にはしたくないです。
差別を嫌悪する程度の良識は忘れないでいたいです
作者からの返信
ありがとうございます。
この回に高評価を付けてもらえると、嬉しさと同時に安堵を覚えます。
2021年のエッセイではこう書きましたが、実はこの後、懇意にしている何人かの書き手さんの小説作品に対して、フェミニズム的な立場からの批判をしました。いずれも親交は続いていますが、その時だけとはいえ空気が悪くなった人もいれば、そんな指摘はなかったかのように済ませて同じようなことをくり返す人もいます。他の話題と比べても、フェミニズム的な議論は特に個々人の人間観(もっと言うと経験則や処世術)によって立場が変わってくるので、言ったところでそう簡単には動いてもらえませんね。
本音の部分に差別意識が残ったり、それが言動や態度に現れたりするにしても、「あからさまに差別的な言動はしてはいけない」という前提だけは社会的に共有されていてほしいというのは、まさにポンポコさんがおっしゃる通りです。人間は長く悲惨な歴史の結果として倫理や社会正義の考え方を得てきたわけですから、考え方に違いはあるにしても、せめて倫理的に生きようとすること、(最低限の)社会正義に反しないように注意することだけは捨てないでほしいと思います。昨今、市場原理や弱肉強食が強調される中でそれが忘れられがちな気がして不安です。
好きになりすぎてはいけない。への応援コメント
確かになにかを好きになりすぎると、視野が狭くなり、見方が偏りますね。
でも、好きになることがうらやましくなる時あります。
どうも、最近、物事にのめりこむ情熱がなくなってきまして、
そうであるから、好きにもならない。
そうすると、ちょっとつまんないんですよね。
なにかに熱狂的になっている人が、滑稽に見えるけれど、うらやましい。
そんな心境です。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
返信が遅くなってすみません。
たとえばプールで体を動かすのは子供時代だけでなく大人になってからも楽しいものですが、プールで遊んでいる人というのは、必ずしもルールのあるゲームやアクティビティをしているわけではなくて、気温と体温が高いのに対して水が冷たいから気持ちいいとか、浮力と水圧(?)の中で体を動かしていると気分がすっきりするとか、そういう純粋に身体的な意味の楽しさを享受しているのだと思います。早い話、“バカみたいに”体を動かすだけで、案外楽しい。これは生物として備わっている必然性のような気がします。もちろん現代社会でも肉体労働や足腰に来る労働というのはありますが、自由に力いっぱい体を動かす機会というのは意識しないと作れないわけですから、たまにはそういうことに興じてみると、新鮮な感覚を取り戻せるかもしれません。
……などという一般論も一応の説得力があるかもしれませんが、筆者としてはむしろ、現代社会のあり方の方が気になります。つまり、ポンポコさんにせよ筆者にせよ、我々が何かにのめりこむ情熱を失っているとしたら、それは個人的な体力の衰えや精神性などの問題に限定されるのではなく、社会のあり方がそうさせるのではないかということです。
現代において、我々は常に(企業によって)商品とサービスに対する欲望を刺激され続けています。また、SNS、ゲーム、アプリで読める無料マンガなど、我々の余暇の時間には小さな刺激と即席の快楽が溢れています。少し暇ができればスマホを触ってしまうし、楽しくもないのにSNSを覗いてしまう。そうしている間に、我々は身体的にも感性的にも疲弊して、フラストレーションの安易な解消方法に飛びつくことを習慣化し、(広義の)消費者という鋳型に押し込められていく。思想家で言うとボードリヤールやハーバーマスが言い始めた話だと思いますが(筆者はどちらも本人の著書は読んだことないですが)、資本主義の市場原理が、経済だけでなく文化や教育など他の分野を侵食して、我々を消費行動に最適化された存在にしていく。これによって我々現代人は、消費者意識が強まると共に、(既存の商品を消費するばかりで)自ら価値ある何かを作り出そうという創造性(クリエイティビティ)を失っていく。そうすると、人間としての固有性(かけがえのなさ)が危ぶまれ、それを自分自身で(薄々)認識することになるわけですが、にもかかわらず、我々はその虚無感をさらなる消費行動によって解消しようとする(そうするように“社会”によって仕向けられる)。そうしている内に、他の消費者と同じものを消費すること、企業が刺激した欲望を満たすこと以外の選択肢を見失い、自分という個人が本当は何をしたいのか、自分という個人は何が好きなのかということが分からなくなっていく……。
この手の議論について、筆者が読んで印象に残っている本は、上田紀行氏の『生きる意味』(岩波新書、2005年)と、内田樹氏の『サル化する世界』(文藝春秋、2020年)です。ツッコミどころもあって100%納得できるかは怪しいですが、「そういう考え方もあるのか」と発想の幅を広げる上では、刺激を得られる本だと思います。もし未読なら、古本屋に行ったときにでも探してみてください。小説だと古典的なSF小説であるブラッドベリの『華氏451度』がこの題材を扱っていて、物語としても面白いと思います。宣伝になりますし、解決策は示していませんが、実は筆者(あじさい)が数年前に書いた短編『パックの寿司、あるいは』もその手の話です。カクヨムの脳幹まことさんという方の短編エッセイ『現に今を生きているのになぜか「体験版」をしている感覚』(https://kakuyomu.jp/works/16817330658617241101)もまさにこの話なので、よろしかったら一度ご覧になってください。何か掴んでいただけるかもしれません。
何はともあれ、エッセイに書いた通り何かを好きになりすぎるのは禁物ですが、何も好きになれない状態よりは何かを好きになっている状態の方が楽しいと思いますので、ポンポコさんの状況が改善することをひとまず願っております。
怠惰な時間の過ごし方。への応援コメント
エッセイの前半部分にすごく共感しました。
最近、高尚だと言われる作品を全く読まずに怠惰な日々。
これではいかんと読書感想文を書いてモチベーションを上げておりますが、
読書をしなかった期間が長すぎるため、読書力が下がっており、
なかなか本を理解するのが難しく悪戦苦闘。
やっぱり日々の積み重ねって大切ですね
作者からの返信
コメントありがとうございます。
自分の恥ずかしい部分を暴露した回でしたが、共感していただけて嬉しいです。理想を言えば年中無休で難しい本にアタックすべきでしょうし、一部の人は実際にそういう生活を習慣として身に着けているのかもしれませんが、大多数の人は仕事や家庭だけで充分忙しくて、そうもいきませんよね。
とはいえ、現代は色々と一筋縄ではいかない時代ですし、理想は遠いからこそ追いかけねばならないわけで、視野を広げる読書は欠かせません。エッセイに書いた内容とは矛盾するかもしれませんが、怠惰な読書生活に甘んじてばかりいるのではなく、難しい本にもアタックするように意識することは、とても大事なことだと思います。
お互い、自分に合ったリズムで“高尚な読書”をする習慣を作っていけると良いですね。
編集済
部分よりも全体、技術よりテーマ。への応援コメント
お久しぶりです。
私の作品に応援❤ありがとうございました。
長文の応援コメントって嫌がる人多いですよね。
たま〜に私も長文のコメント書きますが、
本当にたま〜にです。
ディテールにこだわった感想書くと揚げ足取りかと
思われることありますね。
なので、いつも軽〜い感想にしてます。
カクヨムは一往復なので議論に向きませんし。
作者からの返信
こんばんは、お久しぶりです。
コメントを下さり、ありがとうございます。
やはり、書き手の皆さんが大人の対応をしてくださったから成り立っていただけで、嫌がる人が多いんですか。たしかにそういう自主企画の参加作品であっても、嫌がられたことはありますから、受け取る側からすると相当ストレスなんでしょうね。これは反省せねばなりません。
好きになった作品、ちゃんと読みたいと思った作品だからこそ、細かい文章や設定まで読んでしまうのであって、別に揚げ足取りをしたいわけではないのですが、インターネットという場では人間の意図がネガティブに解釈されがちなので、書くときにはその点にも気を付けた書き方をしたいと思います。
編集済
Web小説とフェミニズムと私。への応援コメント
同感です。書いてしまってから、ステレオタイプのキャラ設定に陥っていたり、人権侵害が現在進行形で起きているのに、それを無視した形で物語を構成していたりすることに気づいて、さりとてリライトする実力もなくて、頭を抱えることがあります。
フェミニズムの提起する諸問題は、女性を巡る事柄にとどまらず、広い普遍性を有していると思います。
最近、複数のマンガで十代の女性が胸の大きさで値踏みされるシーンが見所のひとつとして入っているのを見て、強い違和感を覚えました。同時に、マンガなんだし、この程度でなぜ? どこにでもあることでは? と感じたこともあわせ、問題の根深さを改めて突き付けられる思いでした。
見なければいい、と言われたらそれまでかもしれませんが……。
作者からの返信
ありがとうございます。
おっしゃる通り、フェミニズムが提起する、性差別に関わる諸問題は、全ての人間にとって他人事ではないと思います。誰もが当事者であり、誰もが(被害者であるだけでなく)潜在的な加害者です。この意味で、実は我々が真に警戒すべきなのは「誰がどう見ても差別と明らかなこと」ではなく、「誰もが当たり前だと思って問題にしていないこと」の方だと、筆者は考えています。
もちろん、世の中には、それがセクハラや性暴力だと分かった上で、面白半分でそういう言動に及ぶ男性も決して少なくありません。ですが、まともな人間であれば、当人が嫌がることや、差別的だと分かっていることはしないものです。つまり、本来、「差別が許されるか許されないか」は問題ではないはずなのです。万引きや暴行が、仮に警察沙汰にならなくても「人としてやったらダメ」なのと同様に、差別は法や制度以前に、倫理的に許されません。これもまた万引きや暴行と同じですが、程度や回数は問題ではありません。マンガの1コマ、Web小説の1文であっても、作品として差別を肯定する結果になるなら、それは差別行為そのものであり、「人としてやったらダメ」です。
ですから、真に問題なのは、「何が差別なのか」ということの方です。しばしば見かける意見で、「フェミニストは何にでも文句を付ける」とか「フェミニストは問題に抗議するのではなく、自分たちで問題を作り出している」などと言って、フェミニストを攻撃した気になっているものがありますが、的外れもいいところです。それまで当たり前だと思って誰も疑問に思わなかった事柄について、「それって差別じゃないのか」「それって実はおかしいんじゃないのか」と指摘することこそが、フェミニズムの本来的な出発点なのです。
したがって、「様々なマンガに見られる表現だから許されるべきだ」、「男女についての固定観念を否定したらラブコメが成立しなくなる」、「××がダメなら有名作品のアレも許されないことになってしまう」などと言うのは、すべて的外れです。かつて許されていた、昔は当たり前だった(マジョリティにはそう思えていた)というのは、免罪符になりません。『ドラえもん』でも『エヴァンゲリオン』でも、志村けんでもダウンタウンでも、もし差別的な風潮を容認し助長していたようなら、きちんと批判を受けるべきですし、控えめに言っても批判的な眼差しを向けられるべきです。高く評価するときは、同時に注釈を入れることが望ましいでしょう。他の誰の作品に対しても、(僭越ながら)野栗さんご自身の作品に対しても、「性差別への“過度の”批判はやめよう」、「控えめにしよう」などと考える必要はありませんし、そう考えるべきでもないと思います。
というわけで、筆者に言わせれば、「十代の女性が胸の大きさで値踏みされるシーンが見所のひとつとして入っている」マンガなど論外です。明らかに女性差別です。もちろん、差別的な表現が法的に許されるかどうか、取り締まるとしたらどう取り締まるべきか、罰するとしたらどんな処罰が適切かは、具体的な内容や程度によって変わってきます。ですが、差別が倫理に反することは揺るぎませんし、差別に限らず、問題のある創作物が批判を受けるのは当然です(エッセイにも書いた通り、実際に応援コメントや手紙などで批判することは難しいですし、運営や出版社の力を借りるにしても、いちいち抗議していたらキリがないですが)。もし誰からも批判を受けたくないなら、そもそも危ない橋を渡るべきではありません。もし差別的だと分かっていて差別的な表現をしているとしたら、白昼堂々万引きをしているようなものです。倫理的に終わっているので、社会制度が整えられた後に、適切に処理されるのを待つしかありません。
また、「見なければいい」という考え方にこだわる必要はないと思います。あらゆる文章の常として、但し書きや悪評で内容を推測することはできるにしても、実際の内容は読んでみないと分かりません。自分の目で確かめることは決して悪いことではありませんし、創作物とは本来的に読者のそういうスタンスを頼りにしているものです。「文句を言うくらいなら最初から見なければいい」というのは、批判に反論できない人が、批判すること自体を否定するために言っている暴論に過ぎません。たとえるなら、下町の屋台で買ったB級グルメに髪の毛が入っていると指摘した客に対し、「手作りなんだから髪の毛くらい入るよ。嫌なら大手のチェーン店に行け」と言うようなものです。作品が差別的なのは作者の問題であり、読者に責任転嫁するのはお門違いです。
仮にゾーニングされていても、差別的な言動・態度を当たり前のもの、あるいは好ましいものとして描く創作物は、無意識レベルで人間に影響を与えるものです。物の本によると、アダルトビデオを真に受けて生身の女性に乱暴な行為をしたがる男性もいるようです。となれば、公権力が法律や条例などで規制するべきかはともかく、囲いや棚を作ってさえいれば何をしてもいいという話にはなりません。批判的な目を向けることも実際に批判することも、何も間違っていないと思います。
長文失礼しました。
読書文字数とWeb小説の「文法」。への応援コメント
ひと月の読書文字数についてです。
私はエッセイをちょこちょこ書いていますが、ほとんど読み専です。基本的に一度開いたページは最後まで読むようにしていまして、今月の読書文字数を確認したところ、今現在で402,239文字でした。
今月はまだ通学途中でしか読んでいないため参考にしにくいですが、毎月月末近くになると200万文字に近いことがほとんどです。
あまり読めていない私でこれですから、もしかしたらありえるかも……? と感じました。長文失礼しました。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
そんなに読んでいらっしゃるんですか、すごいですね。筆者はGWに割と頑張ったつもりでしたが、それでもまだ15万3488字です。
他の人の読書量ってめったに聞きませんし、文字数はなおさらですが、筆者が遅すぎるから信じられないだけで、他の皆さんはそれくらい普通に読むもの、多めにカウントされる方が稀なのかもしれませんね。いや、でも今月のカクヨムだけ、しかも通学時間がメインで既に40万字読んでいるのは、一般的に見てかなり速読な気がしますけど……、うーん……。疑り深くてすみません(笑)
本文には書きませんでしたが、カクヨムを楽しめているならそれに越したことはありませんし、読書量が多いのは基本的に良いことだと思います。余暇の時間がWeb小説ばかりになるのは……と思っているのは本心ですが、様々な本、様々な作品、様々な経験から吸収してそれぞれを自分の糧にできるのであれば、それがいちばん理想的な読書生活だと思います。
好きになりすぎてはいけない。への応援コメント
「知らない内に誰かに対する差別に加担している」とか「誰かを苦しめる社会的な構造を助長してしまう」→これ、昨秋から妄想小説を書き始めて、自分の中からぞろぞろと魑魅魍魎が這い出してくるのを目の当たりにした時に、われながら本当に驚きました。
愛されキャラの主人公は容貌も愛らしく、ライバルキャラは容貌も冷たく人好きしない――という昔話あるあるにはもう絶対にしたくない。正直なところ、昨秋初めて小説サイトの存在を知り書き手の皆様の作品を拝見したのですが、狸球児与太話の参考に高校野球モノの作品をいくつか読みました。女子高生が選手として活躍するという話がもう雨後の筍のようにあって、私が見た限り、どれもこれもヒロインは整った容貌&卓越した身体能力、という設定で、いまだ蟇蛙が潰れたようなご面相のヒロインには残念ながら出会っていません(遠い将来、狸どもに手伝ってもらいながら野栗自身で書くしかないかな……)。
つまらぬ妄想話になってしまい、すみません。本当に、弱い立場の人々をさらに追い込むことに加担しているか、弱小ユーザーであっても公開する以上、真剣に向かい合わなければならないことだと肝に銘じていきたいです。
作者からの返信
小説において登場人物の外見をどう扱うかは、難しい問題ですね。
仮に、小説内で「蟇蛙が潰れたような」顔という扱いだった女性が、魔法や努力で美しくなって「美人」の仲間入りをしたり、人柄の愛らしさが見出されて周りの人々から「美人だね」「可愛いね」などと言われるようになったりしても、結局それはルッキズム(外見主義)の内部で下位から上位に回ったというだけであり、作品として上下関係を打破したことにはなりません。
とはいえ、不美人が人柄によって周りの人々(および読者)の愛を得るという状態を成立させるには、これに先立って、人を外見で判断しない他の登場人物が必要です。しばしば言われることですが、男性中心的な集団において、男性受けしない女性はほとんど発言権を得られないか、発言自体はできても真面目に取り合ってもらえないという状況があります。「ブス」がその内面的魅力を認めさせるためには、その前にルッキズムという壁を越えねばならないのです。
古すぎて伝わらなかったら申し訳ないですが、ここで僕が思い出すのは『タッチ』です。主に高野野球と恋愛模様を題材にした物語で、他のあだち充作品と同じく、令和の今となってはツッコミどころだらけですが、ともかく、主人公のライバルの1人に、勢南高校 野球部エースの西村くんという人物がいます。その野球部の女子マネージャー・鈴子さんは西村くんの幼馴染で、健気なまでに彼のコンディションやメンタルを気遣っているにもかかわらず、西村くんはむしろ迷惑がって彼女を「ブス」と罵って憚らない、という描写があります。読者や視聴者の多くにとってこれは心痛むものであり、作者自身もそれを意図して描いていると思いますが、それと同時に、西村くんが本作のメインヒロインであり超人的な才色兼備である浅倉南にぞっこんだという設定に、多くの人が説得力を感じていると思います(浅倉南が主人公・上杉兄弟以外の男子たちからも羨望の的だというのはこの作品の肝にもなっています)。最終的には西村くんも鈴子さんをパートナーに選ぶのですが、それには長い時間がかかりました。その人の言動がどれだけ気高いものだとしても、顔の美醜しか目に入っていない人にはさっぱり届かないわけです。
容姿が(その時代のその社会で)端麗な場合でも、「気に喰わない女」と認定されると、安易な悪口として「ブス」と罵られ、「(男社会で)無価値な女」との烙印を押される、なんてこともあります。多数派かは分かりませんが、一部の人々は、「ブス」と言えば「気に喰わない女」を黙らせられると考えているわけです。
ここでさらに難しいのは、マンガやアニメなら視覚情報なので判断を読者に委ねられるのに、文字で表現する小説では、地の文や発言者の言葉が絶対的な位置を占めてしまうことです。女性の美醜は実際には評価者の主観にすぎず、個人的な好き嫌いや称賛・罵倒の意図そのものであるにもかかわらず、言葉がダイレクトに読者のイメージに反映されます。地の文で「不美人」だと断じられた人物は、読者にとってもあまり好ましくない外見という評価になり、彼女がその後どんな言動をとっても、そのイメージが足を引っ張る可能性があります。
美醜による上下関係を取っ払い、登場人物の美醜についての明示的な評価を避けて、外見的特徴についての部分的な描写に留める、という手もありますが(僕も自作の小説ではこの方針を取っていますが)、その場合、その人物を不美人に設定すること自体に意味がなくなります。彼女の魅力が他の登場人物に認められた場合、読者はおそらく無意識に、「彼女は美人に違いない」とイメージしてしまうでしょう。
結局、生半可な書き方ではルッキズムや美醜のヒエラルキーに「乗っかる」ことにしかならないわけです。本気で批判するなら、不美人はどれだけ頑張っても正当な評価を得られないとか、仕事・スポーツ・学問・芸術などで評価を得てもなお「ブス」と罵る声は止まないとかの、アンハッピーエンドな物語を書くことになると思います。ただ、基本的に読者は美男美女に自己投影することはあっても「ブサイク」には自己投影したがらないでしょうから、結局その物語は「他者としてのブス」が吠えているだけとしか受け取られないような気がします。それに、現代社会にまだまだルッキズムが色濃いことはみんな分かっていますから、それを作品にしたところで、どれほどの読者が「よくある題材」の域を超えて、自分自身の問題として真剣に捉えてくれるのか、というところも気になります。
難しい問題ではありますが、野栗さんご自身の言葉を借りるなら、安易に諦めるのではなく、変に悟ったようなことを言うのでもなく、真剣に向かい合い続けることが肝心なように思います。ルッキズムを乗り越えるような小説を書けるよう、頑張っていきましょう。
☆はいくつでも嬉しいの?への応援コメント
企画参加ありがとうございます。
⭐️だけじゃなく、共感することが多々ありました。
作者からの返信
こちらこそ、ありがとうございます。
筆者が思うに、共感を得られることはエッセイにとって最も大事な要素の1つなので、そうおっしゃっていただけて嬉しいです。
好きになりすぎてはいけない。への応援コメント
肯定も否定も極に振れると偏執の域で盲目化する感はありますねえ。
中心を見るには端っこにいなきゃいけないと言いますか、気に入ったものに対してであれ気に入らなかったものに対してであれ、ある程度フェアネスを担保した眼差しでいたいものです。そのように見られるよう自分を位置する気持ちが大切といいますか。
作者からの返信
そうなんですよね。
何事もそうなんですが、なろう系作品ってとくに、嫌いな人はとことん嫌い、好きな人はめちゃくちゃ好き、だからお互いに拒絶したり見下したりするばかりに思います。
筆者個人としては、異世界転生にせよ、追放モノにせよ、異世界恋愛にせよ、物語の仕掛けにはあまり文句はないんです。女性差別的な要素が多かったり、主人公が他者を助けることより自分のスローライフなるものを優先するエセ善人だったり、登場人物たちの思考回路が明らかにおかしかったりするのが気になるだけで。
で、実際にそういうことは色々な場所で批判されているはずですが、残念ながらなろう系の異世界モノは総じて劣化もしくはマンネリ化の傾向にあるんですよね。『このすば』も『転スラ』も、問題は多いにしてもオリジナリティを目指していたはずですが、『賢者の孫』がアニメ化された辺りからでしょうか、作品側が読者の予想を上回ることを放棄し始めた感じがします(まあ、筆者はよく知らないので、マンガアプリで見かけたりレビュー動画などで伝え聞いたりした程度の話ではあるのですが)。この劣化はやはり、なろう系異世界モノの界隈が、自分たちに批判的な意見を拒絶し、反論する以前に目を向けなくなったことの表れなのではないかと思います。
そんでもって、今期アニメ化されている『ビースト・テイマーが云々』の公式動画がニコ動に上がっていたので覗いてみましたが、批判や罵倒されることを前提にアップしている感じでした。考えすぎだとすればそれはそれでいいんですが、なろう系って作品として楽しまれているというより、前提知識や教養がなくても安心して叩けるサンドバッグみたいになっているんじゃないか、と思えてきます。だとすれば作者さんや制作スタッフたちのメンタルが心配になるのですが、憶測に憶測を重ねれば、誰も本気では作ってないのかな……。
何にせよ、いくらインターネット上であっても他人に罵詈雑言を浴びせるカルチャーが健全なはずはありません。「健全」の定義が難しいにしても、健全な人間は、人の幸せを願い、人の不幸を悲しいと思える『ドラえもん』的精神であるということは確かだと思います。大きな流れに呑み込まれないためにも、自分自身を見失わないためにも、何かを嫌いになりすぎないこと、何かを好きになりすぎないことから、始めていく必要があるのかな、と思います。
長文失礼しました。
世界三大ファンタジー。への応援コメント
コメント失礼いたします。
聖書にまで話を広げると、各地の神話はどうなんだということになってしまうのではないでしょうか。
古い神話や伝承は、非現実的な内容だったとしても、「娯楽のためのフィクション」ではありません。
もちろん全ての人がノンフィクションだと信じていた訳ではないでしょうが、多くの人々にとっては「本当にあった昔話」だったはずです。
コーラン、仏典、古事記などにも同じことが言えます。
おとぎ話、怪談、軍記、偉人の逸話の中にも、非現実的な要素が含まれるものがあり、あれもこれもファンタジーとなりかねません。
なので、「近代の小説形式」という前提は、むしろ無くてはならないものなのだと思います。
そもそもファンタジー小説というジャンルが近代の西洋生まれということもあります。
隣国に目を向ければ、水滸伝、三国志演義、西遊記、封神演義などありますが、あちらはあちらで奇書というジャンルがあり、その中で四大奇書と呼ばれるものがあります。
四大奇書も「明代の奇書」という時代的な制約があります。
日本においては伝奇小説が中国の奇書に該当するでしょう。
その中で〇大伝奇小説を選ぶとすれば、やはり大衆娯楽として大いに発展した江戸時代のものになると思います。
作者からの返信
コメントを下さり、ありがとうございます。
こういう話が、しかもodanさんとできて、嬉しいです。
白状しますと、世界三大ファンタジーのラインナップが気に喰わないという感情で書いてしまったところはありますね。ファンタジーというジャンル自体が、近代小説であることを前提としている、というのはまさにその通りですし、そう言われてしまうとぐぬぬ……という感じです。
ただ、我々が――「我々」って誰なのかという問題はありますが――「ファンタジー」という言葉から連想するイメージを考えたとき、それを「西洋で近代以降に書かれた物語」に限定するのは、あまりしっくりこない気がします。
近代小説の他のジャンルにおいては、啓蒙主義、近代的自我、科学的な物の見方など、近代的な価値観が外せないように思いますが、ファンタジーはそれらに影響を受けつつ、それらを意図的に外そうとするところがあります。
近代的な要素が邪魔になるからこそ、三大ファンタジーでさえも(『ナルニア国物語』の一部を除いて)、単に異国を舞台にするのではなく、近代以前の世界を舞台にしたはずです。
ファンタジーは近代以前に成立した諸々を起源としている、しかもその起源たちは口伝ではなく文章としても(テキストの揺れはあるにせよ)残っている、となれば、ファンタジーは近代に始まったものと考えたり、近代の小説形式にこだわってその枠内でだけファンタジーを語ったりすることは不自然かつ不合理で、むしろ、近代以前からファンタジーと呼びうる無数の物語があり、それが近代以降に小説という形式をとるのが一般的になったと考える方が、自然かつ合理的なのではないでしょうか。
……などと屁理屈を並べてみましたが、やっぱり強引ですかね。
我ながら屁理屈にしてはよく出来たのではないかとも思っていますが、日本三大漫画家の話題で伊藤若冲や葛飾北斎の名前を出すような話にしかならなかったかもしれません。
聖書は「娯楽のためのフィクション」ではないので、ファンタジーに含みうると述べるのは少々無理があるかな、というのは筆者も思いました。これを言い始めたら世界各地の神話を候補としてノミネートすることになるな、とも。
ただ、「世界三大ファンタジー」という言葉の性質を、「ファンタジーを語るなら絶対に押さえておくべき3作」と解釈すると、『ナルニア国物語』よりは聖書を読んだ方がよっぽど有意義だと思うんですよね。というか、聖書やキリスト教を全く知らないのに『ナルニア国物語』を読んだところで、いまいち腑に落ちないはずです。
仮に聖書をファンタジーに含まないなら、「『ナルニア国物語』を三大ファンタジーに入れるのはキリスト教贔屓じゃない?」という話になります。
そして、もし「特定の宗教を起源としていても『(娯楽のための)フィクション』として書かれていれば、それはファンタジー」ということになるなら、『ナルニア国物語』は単なる作り話、単なる娯楽でしかない、そこに描かれる宗教観はまじめに受け取るほどのものではない、という話になりかねず、この作品を三大ファンタジーに入れることは、むしろこの作品に対するリスペクトが欠けている、ということにもなると思います。
……やっぱり、「世界三大ファンタジー」なんて言い方をして、無理やり3作品を選ぼうという態度が、そもそも間違っている、ということになってくるのでしょうか。だとしたら、こんなに長々と持論を述べたのに、これ以上ないくらい凡庸な結論になってしまいますね。
長文失礼しました。
結論が出たのか出ていないのか分からないような話になってしまいましたが、これに懲りず、今後もお付き合いいただけると幸いです。
近況ノートの使い方。への応援コメント
こんばんは。
ズブの初心者だった2年前の自分を懐かしく思い出しながら、あ〜私も悩んだなぁ(^^;; など共感しながら楽しく拝読させて頂いています。
近況ノートは皆さん使い方に特徴があって面白いですよね。
作品の告知に使う方、日記のように使う方、交流に使う方、お礼に使う方など実に様々。
私も作品の裏話や、季節のことなど色んな近況をあげてしまっています💦
エッセイは一応ひとつの作品でもあるので少し気を使いますが、近況ノートは自由気ままに書ける所が好きです。PVも関係ないですし♪
作者からの返信
こんばんは。
コメントを下さり、ありがとうございます。
そうですね。色々な機能が用意されているのは助かるのですが、どの界隈にも不文律や暗黙のルールみたいなものがありますし、ネット上だとそれらが分かりにくいので、右も左も分からない内は神経を使いますね。
近況ノートだとPVを意識しなくて済むのは本当に良いですよね。「いいね!」が実装されたときはどうなることかと思いましたが、押す側としては手軽に相手に反応を送れるので、良い機能だと思います。
筆者は自主企画の相談窓口に使うことが多いですが、最近では小説の紹介文には書くには長すぎる注意事項を書くのに使いました。
夕日がきれいとか、散歩中に見かけた花が可愛かったという話題には癒されます。筆者もエッセイだと起承転結を意識してしまうのですが、そういうことを意識しなくていいのは近況ノートの利点だと思います。
エッセイを始めました。への応援コメント
ギクーーーッ(;゜∀゜)
ま、まるで行動を見ているかのようなエッセイですね。ドキドキ……
はじめまして海空です。
フォローありがとうございます!
(///∇///)わっ♡どんな方かなぁとやって来て、エッセイ見付けて飛び付きました。笑
はい、海空も同じくその人がどんな人を知るにはエッセイなのです!
エッセイにお邪魔しまーす♪
よろしくお願いします。
ヽ( ・∀・)ノ
作者からの返信
はじめまして。
コメントを下さり、ありがとうございます。
やはり最初に読むのはエッセイですよね。つくづく、エッセイの第1回にこの話題を持ってきたのは、我ながらナイス判断だったと思います(笑)
エッセイでは普段よりテンション高めな上、作品や自分自身について喋りすぎている気もします。そういう意味では少々気恥ずかしいのですが、気が向いたときにでもお付き合いいただけると幸いです。
こちらこそ、よろしくお願いいたします。
エッセイを始めました。への応援コメント
とても、参考になります!
今年の春から、私も、エッセイを書いていますが、
改めて、長編の気晴らしとして書いている事を認識させてもらえました。
他の方を訪問させて頂く時
複数のジャンルが有り
その中にエッセイを見付けると
私も、まずエッセイから読ませて頂く事が多いです。
あじさいさんの作品も少し拝読させて頂きましたが
文章が読みやすく、理解しやすく、勉強になります!
作者からの返信
ありがとうございます。
文章も内容も、気に入っていただけたら幸いです。
このエッセイには不正確な情報も入っていますし、後になって自分で読み返していても「何だかおかしなテンションになってるなぁ」と思う部分もあるのですが、何かしら楽しんでいただければと思います。
ぼちぼちエッセイを再開しようと思います。への応援コメント
こんばんは、あじさいさん。
こうしてわたしからメッセージをお送りするのは、ずいぶんひさしぶりですね。
どんな言葉にしたものか、とあれこれ浮かんできましたが、「状態がよいほうへ向かっているようでよかった」がもっともふさわしく思いました。
どうか無理をなさらないように。
(*´︶`*)
作者からの返信
ご無沙汰しております。
このはりとさんから久しぶりにお便りを頂けてとても嬉しいです。
ありがとうございます。
エッセイのこの記事は昨年の1月下旬に書いたものですが、考えてみますとこの2年と4ヶ月ほど、調子を崩すことはあっても、生死の境に立つような精神状態には陥っていないように思います。皆さんのお気遣いがあってこそです。
ここ1ヶ月ほどを振り返っても、市立図書館に出かけたり、紙の本にも手を出したりと、基本的には調子が良いように感じます。調子が良くなると色々と要らんことをして消耗してしまうのがパターンではありますが、なるべく深手を負わないように調整していきたいと思います。
このはりとさんも、どうかご自愛専一でお過ごしください。
残酷な描写となろう系アニメ。への応援コメント
SPY×FAMILY、私も見ています!
この前の5話は特にアクションが良かったなと(まだ見られていなかったらごめんなさい)。原作では数ページしかないシーンでしたが、アニメで見れて大満足でした。
作者からの返信
コメントを頂いて第5話を見ました。
作画のことで他作品を貶す意図はないですが、ちゃんと期待されている作品のアニメーションでしたね。この話のアクションシーンは全てギャグのはずですが、すごい力の入れようです。
ヨルさんとのバトルもそうですが、その前のシーンについても、やられ役のモブたちの仕草まで作り込まれていて(僕にはそう感じられて)、素晴らしかったです。
この時期のアーニャちゃんはまだ父と母の愛情(どのくらい甘えても大丈夫か)を確かめようとしている段階だと思います。モジャモジャが酔った勢いで突き進んでくれていなければ、アーニャちゃんがここまで無茶な甘え方をしていたか怪しい気がします。ちゃんとそういう含みを持たせた話運びになっているのが巧みだと思いました。
進捗報告(前向きな話であるはず)。への応援コメント
あじさいさん
おはよう御座います。
姫川翡翠です。
「自分が何度でも読み返したくなる物語」ですか。
つい先日、私も似たようなことをどこかで申し上げた気がします。気がするだけかもしれませんが。
しかしながら同じ志の方がいらっしゃると言うのは思っているよりも心強いものですね。
少々昔のエッセイですが、今もその志が変わっていないこと――この志が「正しい」ものかはともかく――を信じております。
作者からの返信
コメントを下さり、ありがとうございます。
近日中ということで言えば、姫川さんが3月12日付でお書きになったエッセイのお話が、拙作とも似ていると思います。姫川さんは「今の私が何を一番に書いているかですが、自分が書いた作品が『面白い』かどうかはわからないけれど、ちゃんとその作品を『好きだ』と思えることです」とおっしゃっています。
筆者のエッセイにつけ加えて言えば、ここで言う「自分が何度でも読み返したくなる物語」にはいくつかの含意があります。それはたとえば、読み返したときつい読み進めてしまうくらい心地よい文章、後から読み返しても心地よく受け入れられる世界観(基本的な部分に目に余る矛盾や不自然さがない、メインで描かれる登場人物がクズすぎない、展開が不必要に残酷すぎないなど)、何度読み返しても楽しめるテーマ性といった要素です。
実際には、読み返すたびに、文章上のミスやリズムの悪さ、読者にも自分にも思考停止を要求しているような不備が目についてしまうことも多いのですが、少なくとも目標としては、万人受けはしなくても自分で何度でも読み返したくなるような作品に仕上げることを目指しています。もちろん、それは今でも変わりません。
蛇足を承知でお話させてもらいますと、先日掲載して姫川さんにも高評価していただいた短編『パックの寿司、あるいは』は、我ながら何度も読み返したくなるかと言われると微妙ですし、あまり心地よい文章でもないかもしれません。とはいえ、あれは主人公による一人称の語りで書かねばならない物語でしたし、地の文に主人公の人間性を反映させた語り口としては、ベストを尽くせたのではないかと自負しています。
問題はここ数ヶ月書き進めている新作で、軽い気持ちで書き始めたにもかかわらず意外と難航しているのですが、とにかく話が一区切りするところまで持っていって、最終的に「これ、面白いですよ」と自分で自信を持てるくらいには仕上げたいと思っています。
編集済
カクヨムと投げ銭。への応援コメント
あじさいさん
お疲れ様です。2年前にトリップされていますよ(笑)
去年ならまだしも一昨年とは不思議な間違い方ですね。
誤植への冷やかしはさておき(人にいえる立場にないので)、しばらくカクヨムから離れているうちに投げ銭なんてできたんですね。私は書いて読んでもらえればそれだけでいいので、関係なさそうです。そもそも需要もないでしょうし。
さすがにあじさいさんの懸念は、カクヨムにおいていえば行き過ぎな気もしますが、ただ投げ銭のシステムにそういう懸念が付きまとうのはよくわかります。私もVtuberを見ていた時期がありまして、流れてくるコメントが全部——なんかあるじゃないですかYouTubeのコミュニティ機能——マークが入っていて、マークのついていない人はコメントしずらいだろうなぁとみておりました。
結局運営的には、「カクヨム」は書き手が儲けられる場所、あるいはコミュニティ形成の場所に徐々に舵を切るのでしょうか(というか本格的に切ったって感じですかね?)。 自由に作品を公開して自由に批評し合える場所としての役割も大切にしてもらえるのでしょうか。あじさいさんのおっしゃった懸念が起こることなく、後者が守られることを願いたいですね。まあ、私は何も知らないのでぼんやりとしておきます。また何かあれば教えてください。
ではでは。
追伸)妹さんにお疲れさまでしたとお伝えください。
姫川翡翠
作者からの返信
コメントを下さってありがとうございます。
誤植を指摘してもらったのは初めてですが、なるほど、こんな感覚なんですね、お恥ずかしい(笑)
PCのキーボードで入力するとき「2020」は指に馴染み過ぎる気がして、実を言えば結構頻繁に間違えます。いつもは自分で気付くのですが、今回は何も考えずに打ってそのまま放置していたようです。
ご指摘くださってありがとうございます。
投げ銭によって書き手さんの考え方や作品の方向性が歪められるというのはたしかに考えすぎかもしれませんが、ユーザーの多数派がそうなることはないにしても、そういうことを気にする人たちが現れてくるとギスギスしそうだな、という感じです。
姫川さんがおっしゃるように、サポーターで固められたコミュニティができてしまうと、フォローは続けているのに金銭を払っていない立場の肩身が狭くなるという事態も、まさに起こりそうだと思います。ある程度は読者本人が気にしなければ済む話ではありますが、書き手さんが「あの人はお金をたくさんくれるからいい人」「この人は褒めてはくれるけどお金はくれない人」といった捉え方をしているんじゃないかと疑う余地ができてしまうこと自体が一種の苦痛ですね。
出版社はどこもつらい時代のようで、カクヨムの仕様変更も、今までよりもっと直接的にお金を集めたいという意図があってのことだと思いますが、これによって運営が「カクヨム」という場をどうしたいのかは本当によく分からないです。
金儲けのことだけでなくきちんと理念やビジョンもあって、必要に合わせて調整を入れてくれると信じたいですが、最近の書籍化・コミカライズを見ているときちんと物を考えているのか怪しい側面もあるので、大コケする可能性も否定できず、その辺りも心配です。
妹の卒論については、昨日単位が認定されたそうで、これで卒業できると喜んでいました。
姫川さんにもお祝いしていただけて、兄として嬉しいです。ありがとうございます。
編集済
キャッチコピーと自主企画。への応援コメント
面白いです。
私も最近カクヨムに自作を投稿し始めたばかりの者なので、「そうだよね~」と共感されられる所が多々有ります。
「……したら○○だったけど××だから△△」のタイトルにしようかなと思ったけれど、やっぱりハズイから止めたとか、キャッチコピーに悩んで何度も変更して、やっぱりハズイけど「キャッチ」のために現在のものに取り敢えずしてるとか(小心者なので)……
これからも楽しみに読ませてもらいます。
ところで「なろう」にも自主企画があるんですか?
どうやって見つけて参加するんですか?
作者からの返信
コメントを下さり、ありがとうございます。
長文タイトルは悩ましいですね。そうした方がフォロワーでない方々にも読んでもらえる気はするのですが、それを敬遠する読者も少なくないですし、軽い作品と思われて流し読みされてしまう気もします。
筆者が「なろう」で見かけた自主企画は本当に個々人がやっているだけのもので、活動報告にそういう話が出ているだけでした。
テーマやタイトルを指定して短編小説を書き、共通のタグ(キーワード)を付けて読み合う企画だとか、設定されたアンケートに答えた後、次にアンケートに答えてほしい人を指名するリレーのような企画でした。
筆者が見かけたものはどれも飛び入り参加ありとのことでしたが、個人の活動記録と小説のタグを頼りにやるものっぽいので、探す方法はほぼないと思います。ただ、そういうのが好きな方は頻繁にやっているイメージですから、ひとつ見つければ他の企画も見つけやすくなるかもしれません。
☆はいくつでも嬉しいの?への応援コメント
おはようございます(^^)/ 確かに気になりますね、★の数。
僕は厚顔無恥な人間なので、(もしよろしければ、という前提で)レビュワーさんの近況ノートなりなんなりにお邪魔し、交流を図ることができればなあと思っております。
そうすれば、おのずと自分のどこが悪かったのか、捉えられそうな気がするので。
ただ、この戦法(?)も、やはりレビュワーさんにご負担を強いるのでは、という考えがあり、近況ノートにお礼だけ申し上げて撤退、という道も模索しております。
……難しいなあ。
作者からの返信
コメントを下さり、ありがとうございます。
☆やレビューコメントを付けてもらった後のお礼参りは悩みますね。
お礼を言ってしまうと、その後、自分がその人の作品を読んだり☆を送ったりするときに「お礼参りの一環」だと思われないか(馴れ合いの関係を求めていると思われないか)が心配なので、筆者はやらないようにしています。
ただ、せっかく嬉しいことをしてもらったのに何もしないというのも、それはそれで味気ないように思えて、いつもちょっと迷うんですよね(笑)
フォローもひとつのメッセージ。への応援コメント
こんにちは(^^)/ 岩井です。
フォローというのも、よくよく考えてみると興味深い現象ですよね。僕もよく、「あ、フォローを下さったこの方はどんなものを書いていらっしゃるのかしら?」と気になってお邪魔することはあります。
なんというか、読者さん・書き手さんの関係性が有機的というか、流動的というか。
親密にも疎遠にも自由になれる、というのは特徴のような気がしています。
近況ノートの更新も、もっと頻繁にしてみるかな……。
作者からの返信
すみません、返信が遅くなりました。
コメントをくださり、ありがとうございます。
エッセイのこの記事を書いたのは2020年の2月1日、つまり1年半以上前になるのですが、この頃の記事を読み返してみると「我ながら元気だなぁ」と思います。カクヨムライフで出合う色々な人やものが新鮮でしたし、最初はエッセイをほぼ毎日更新していたので、日々PVが伸びて、初めましての方々から声をかけてもらっていた気がします。
それが今では、エッセイをめったに更新できませんし(エッセイより小説を書いているという面もあるので別にいいのですが)、フォローも慎重になってしまいました。カクヨムで気になる作品を見かけても、相手に通知が行ってしまうと思うとためらわれて、ブラウザって言うんですか、そっちでWebページをブックマークする方法を取ってばかりいます。相手に通知を送っておいて読まないよりはマシかもしれませんが、この方法でも作品を消化しきれず溜め込むばかりで、「どうしたもんかなぁ」といったところです。
近況ノートの使い方。への応援コメント
やっぱり気になりますよね、近況ノート。
他の著者様のノートに書きこませていただいた後でも、お返事は『大抵の場合』著者様がご自身の近況ノートに書かれることが多いので、『あれ? あの件でお返事したっけ?』と戸惑うこともよくあります。
はて、どうしたものか……。
作者からの返信
コメントをくださり、ありがとうございます。
そう、そこですよね。
近況ノートは有るか無いかで言えば有った方が良い機能で、筆者もなんだかんだ言いながら使っているのですが、岩井さんのおっしゃるように、返信をどうしたものか迷います。
一応、自分の近況ノートにコメントを貰ったときもその下に返信を書くのですが、相手に通知が行かないから見に来てもらわないといけないというのは不便な感じがします。
ただ、これが慣習のようですし、他の人(Bさん)が近況ノートを見てくださったとき、(筆者がAさんから)頂いたコメントの下に(筆者からAさんへの)返信がないとまるで筆者が返事を書かない人のように(Bさんには)見えてしまうのではないかと怖くて、結局この方法で返信を書くことにしています。
応援コメントの難しさ。(後編)への応援コメント
ご無沙汰しております(^^)/
応援コメントは、レビューよりも直感的、感覚的に気やすく書けるものだと、わたくしめは認識しております。
その中での批評、となるとやや大仰な感じになってしまうのかもしれません。
ごくごく個人的なことを申し上げるとすれば、「どうぞ遠慮なく辛口批評をくださいな」と思うわけですが……。
書き手さん全員が全員そんなわけではないでしょうし、難しいところですね。
そんな僕の応援コメントの書き方ですが、確かに批判的なことは書いていませんね。お互いのモチベーションアップのために、文章云々ではなく、ストーリーやキャラクターのことについて書かせていただくことが多いです。
「続きが気になる!」とか「主人公がかっこいい!」とかですね。
なんとも中身のないコメントになってしまって恐縮ですが、やはり「こまめに反応を得られる場所」としての応援コメントの存在は大きいな、と考えています。
作者からの返信
おひさしぶりです。
1年半ほどカクヨムを利用している感覚では、応援コメントに何を書くか、あるいは書くべきか、書かないべきかといったことは、本当に人によって違っているようですね。
レビューコメントは作者さん以外の人に見せることも意識して書くものですが、基本的には作者さんに感想をお伝えするものである応援コメントは、たしかに直感的・感覚的な書き方を大切にしてよいものかもしれませんね。
そう言えば、カクヨムのエッセイで、ある人がこんなことを力説しているのをお見かけしたことがあります。「小説を書く人間は読者の感情を殺しにかかってる(=それくらい読者の心を揺さぶる小説を書こうとしている)んだから、理路整然とした批評なんか求めてない。小説を読んで感動した読者は、その感動が醒めない内に、衝動のままに応援コメントを書くべきだ」。
おそらくこの人にそういう意図はないと思いますが、あんまり理屈っぽい応援コメントばかり書いていてはダメだな、と思いました。いや、理屈っぽくてもいいんですが、「小説を読んで楽しかった、書いてくれてありがとう」という気持ちをダイレクトに伝えるということを躊躇してはいけないな、と思いました。
カクヨムの応援コメントという、気軽に感想を送り合える仕組みは、実際、とても良いものだと思います。自分の作品を肯定してくれる誰かの声をダイレクトに聞くことができて、書き手としてはとてもやる気を掻き立てられます。
まあ、こまめに書けてしまうからこそ、批判だけでなく、作品の良さについてもきちんと作者さんに伝えていきたいと思います。
ところで、すみません、もし対応を急かすことになっていたら申し訳ないのですが、岩井さんの小説『She Loves You...Absolutely』の第5話の応援コメントに書きました「今後の方針」について、もしお決まりでしたら、このエッセイの他のエピソードの応援コメント、あるいは近況ノートのどこかに書いていただけますと幸いです。
PV が見えてしまう怖さ。への応援コメント
ご無沙汰しております。
論点がずれるかもしれませんが……。とある方の自主企画で、『出版社の選考をある程度突破した作品募集』というものがありました。
僕も皆様の作品を拝読させていただき大変勉強になったのですが、意外なことに、そこにある作品は★がたくさん、とは言えないものが多かったのです。
中身は素晴らしいし、実際に選考を通ってもいる。でもPVや★はそうでもない。
そういったことは時折、いえ、よく目にすることであるようです。
僕は慌てず騒がず、自由に拝読させていただきながら読みまわっております。
大したお話にならず、申し訳ありません<(_ _)>
作者からの返信
おひさしぶりです。
間が空いても空かなくても、読んでくださるのであれば大歓迎です。
コメントをくださり、ありがとうございます。
小説投稿サイトという狭い世界で、どういう作品のPVが伸びるのかは、筆者もいまだによく分かっていません。
毎日更新している作品、タイトルが長文で内容が分かる作品、テンプレに沿っている作品、読みやすい平易な文体の作品、フォローとレビューが多い人の作品など、考えられる可能性は色々ありますが、ひとつ確かなのは、「PVが多い作品だからと言って良作だとは限らない」ということです。
岩井さんがおっしゃる、「出版社の選考を勝ち抜く作品にはPVや★が少ない小説も多い」というお話も、そのことの裏返しではないかと思います。
最近は何かしらのコンテストで勝ち抜かなくてもPVや★が多い作品であれば書籍化されるという事例が増えていると聞きます。これは言い換えれば、魅力がある作品より、ただ客寄せに特化しただけの作品に、出版社の限りある資源が投入されるということです。筆者としてはそれが賢明な判断とは思えないので、出版社に言いたいことがない訳でもありません。ただ、ひとりの読者として可能な抵抗は、自分が良いと思う作品に★を送り、お礼や義理で★を送るようなことはなるべくしないようにすることくらいなのかな、と思います。
コンテストで入選を狙っていらっしゃる岩井さんに対して申し上げることでもないかもしれませんが、Web小説は良くも悪くもアマチュアが趣味で書くようなジャンルでしかないので、流行が去れば今ほど闇雲に出版されることはなくなるのではないかと、少しばかり期待しています。もちろん、出版の機会が減ることが良いことだとは言いませんが、良作がきちんと良作だと認められて出版されるようになれば良いな、と思います。
事前に許可を取るのがマナーらしい。への応援コメント
はじめまして。……自分でもどのようなリンクを辿って来たのか分からないのですがこちらのお話に辿り着き、興味深く読ませていただきました。
私自身は書く方がメインで、他の作者の方の作品を多く読む方ではないのですが、その分、応援コメントが長めになる傾向があり、あじさい様のこのお話を読んで感じるものがあった次第です。
難しいものですよね、他の方の作品へのコメント。どうしても作者としての自分のこだわりもあるので踏み込んだコメントになってしまう時があり、返信を頂いてから、あ~……などと思うことが何回か(むしろ何度も)あったりします。
そのような指摘を求めている方も求めていない方もいて、なかなか見極めることは難しいです。あじさい様の、事前に許可をもらう、というのは良い手段なのかと思いました。
そして、指摘を求めている方と、こちら側との認識の違いというのもあるのだなとも思ったのです。
・文章チェック
・校閲
・下読み
・感想
・批評
日本語としてそれぞれの単語が独立しているのなら、それぞれの持つ意味は違うと思うのですが、どうしてもこの辺りの認識が掛け違ってしまうと"無用な事故"が生じるのかな、と。カクヨムの運営様にこの辺、明確に提示していただくと助かる!などと思ったりもします。
などと、初めての方に長文のコメントを事前に許可なく書いてしまっており、失礼いたしました。お話、とてもおもしろかったです。
作者からの返信
はじめまして。
コメントをくださり、ありがとうございます。
楽しんで読んでいただけたとのことで、嬉しいです。
そうですね、僕もおそらく似ているであろう状況によく直面します。
読んで気に入った作品であればあるほど、ちょっとした違和感であっても無視しがたくなってくるものですが、中にはその正体を明確な言葉にできないものもあります。そこで、「自分ならどう書くか」という視点で修正案を考えて、「明らかな間違いとは言い切れませんが、こういう書き方にした方が無難じゃないでしょうか」といったことを言いたくなるのですが、時としてそれはキャラクターの描写や場面の雰囲気に関わってくるので、ためらいが出てきますよね。
自主企画でアンケートをしてみると、自作について不備や改善点の指摘をされたくないという方もちらほらいらっしゃるようですし、実際に僕も、そういう指摘をして返信を頂けないままというケースを経験しています。また、お恥ずかしい話ですが、それがきっかけで作品を非公開にするところまで書き手さんを精神的に追い込んでしまったこともあります。エッセイ本文にも書いたように、「修正案も提示したんだし、作品を愛しているなら適切な修正を加えて再公開してくれればいいじゃないか」という思いがないと言えば噓になりますが、元々単に趣味でやっていたことだと考えると、見ず知らずの相手から批判されてやる気を削がれてしまう方が自然なのかもしれません。事前に許可をもらうのは相手への気遣いを示す上で有効な手かもしれません。
文章チェック、校閲、下読み、感想、批評といったコメントの種類を明確にして認識を共有した方が事故を減らせるというのは、おっしゃる通りだと思います。ただ、小説の場合はその線引きが難しく、新たな問題を引き起こしそうな気もします。
たとえば、Web小説だけでなく少年マンガにもあることですが、年若いキャラクターが目上の人間や年上の人間に対して敬語を使っていない場合、その不自然さを指摘するのはどの種類のコメントということになるのか、悩みどころです。あるいは、本文中の情報が重複していたり、順序が混乱していたりする場合も、文章チェックとして修正案を提示すべきか、感想というあくまで個人的な違和感の話としてそれを言うべきか、あるいは作品の味だと割り切って言わずにおくべきか、僕なら迷ってしまいます。
結局、批判されたくない方々は批判されること自体が嫌いなのでしょう。だとすれば、受け付けているコメントの種類を限定したところで、相手が不快感を抱いたその時点で「事故」に発展するに違いありません。本当、難しいですよね。いっそのこと、皆さんがプロフィール欄に「作品の感想の他、改善点の指摘も受け付けます」とか「(気持ちよく書きたいだけなので)改善点の指摘や修正案の提示はご遠慮ください」とか書いてくれればいいのに、などと考えてしまいますが、もちろん、これはあまりにも乱暴な話ですね(笑)
キャッチコピーと自主企画。への応援コメント
ご無沙汰しております!
キャッチコピー、降って来る時もあれば悩むときもありまして。それよりもタイトルの方が悩みますが(笑)
僕は、取り敢えず作品にフィットすればそれでいいや、という安易な考えでつけています。
我ながらお気楽なものです(苦笑)
作者からの返信
お久しぶりです。
読んでくださってありがとうございます。
タイトルにせよキャッチコピーにせよ、もしPVを伸ばすことを考えるなら、どんな読者の目を引きたいかを意識して考えるのが良いのだろうとは思います。
Web小説のランキング上位にありがちな長文のタイトルはそのために生まれてきた流行でしょうし、カクヨムの仕様として作品に自前のキャッチコピーを付けられるのは長文タイトルでなくても読者の興味を刺激できるようにするための工夫だと思います。
自分の作品の見どころやオリジナリティをそのままタイトルにして主張することができる作品は、それだけ魅力がはっきりしているということですし、読む前にどんな話か分かれば期待外れというリスクも少ない、といったところでしょうか(個人的には、PVを増やすとき大事になるのは案外タイトルやキャッチコピーよりも、作品の書き手から他の書き手に対してのフォローやレビューなのではないかという気もしますが、まあ良いでしょう)。
ただ、長文タイトルで人目を引こうと思うとどうしてもノリが軽くなりますし、突飛な設定やエロ要素を強調することにもなるのでしょうから、テーマやメッセージがしっかりある作品に長文タイトルを付けるようとすると違和感が出てくることもあるでしょう。
その意味で、岩井さんのおっしゃるように、「作品にフィットすればそれでいいや」と割り切ることも大事だと思います。
それに、書き手がそれぞれの作品に愛を注ぎ、執筆と推敲に最善を尽くして、自分で納得できる作品に仕上げるのでないと、読者が心から楽しめる作品は生まれないようにも思います。
季節の話。への応援コメント
こんばんは。
一年前のエピソードを拝読しておりますが、今もちょうど6月ですね。
花言葉のお話、面白かったです。花言葉は、自分が植物に対して抱くイメージとは違ったりしますよね。
私が最近調べた中でお気に入りなのは、マルバルコウの「私は忙しい」です。あと本に載っていて面白いと思ったのは、サラセニアの「変人」です。
アジサイが雨に打たれても咲き続け、色褪せても散らないというのは確かに……。花が咲いた後刈られなければ、翌年までずっと花(がく?)が残っていたりしますね。
私も夏は好きです。海と、サザンオールスターズの歌と、メマツヨイグサのイメージです。こちらは海なし県なので海には憧れます。蛍も良いですね。
コメント失礼しました。
作者からの返信
コメントを下さり、ありがとうございます。
花言葉は時代によっても変わるそうなのですが、誰がどうやって決めているのか筆者にはよく分からないので、疑念が募るばかりです。
花はそれぞれ懸命に生きているのだから、わざわざ変な花言葉を付けてイメージを下げなくてもいいんじゃないか、という気がします(笑)
「あじさい」というペンネームはアジサイの花の生き様にあやかったのですが、筆者自身はアジサイのように辛抱強く生きることができず、昨年の夏は精神的に具合が悪くなって、読者の皆様にご迷惑をかけてしまいました。
今年はせめて応援コメントに返事をかけなくなる事態は避けたいところです。
海もそうですが、サザンオールスターズは筆者も好きです。小学6年生の頃に『バラッド3』を聞きまくったせいかもしれませんが、初めて聞くはずの曲でも耳にすっと馴染むような気がします。まあ、好きと言ってもファンを名乗れるほど熱心にアンテナを張っている訳では全然なくて、今でもたまに聞くというくらいのものですが。
サザンの曲が似合う夏を再び体験できるようになってほしいものです。
カクヨムを始めました。への応援コメント
こんばんは(^^)/
なるほど、そういった経緯がおありだったのですね。僕がカクヨムを選んだのは……何故だ? さっぱりわかりません(汗)
ただ、こうしていろんな方と交流を図ることができていることを鑑みるに、どうやらカクヨムという場所をベースにしたのは間違いなかったらしい、と自負しております。
さて、新作も頑張るかな。
宣伝ではありませんが、何となく呟きました(コラ
作者からの返信
読んでくださり、ありがとうございます。
肩肘張らずに、理屈ではなく気分が向いてコメントを頂けたのだとしたら、とても嬉しいです。
今になって読み返してみると、筆者がカクヨムを始めるまでのごく個人的な経緯しか書いていませんが、これはたしか、筆者が小説投稿サイト全般の初心者であることを読者に示す目的で書いたものです。
エッセイの後の回にも書いたことですが、結局このとき参加したカクヨムコン5は朝読小説賞も含めて予選落ちしました。
それでも、今に至るまで(時に中断することもあったものの)カクヨムを続けられているのは、カクヨムを通して多くの素晴らしい出会いがあったからにほかなりません。このエッセイが、読んでくださる皆さんに、カクヨムライフの楽しさをお届けできるものになっていれば幸いです。
エッセイを始めました。への応援コメント
おはようございます(^^)/ 岩井です。
なるほど、エッセイにはそのような意味、意義があったのですね。僕の駄エッセイは『エッセイを作ってみよう』というタイトル通り、グダグダ書きたいがために書いているものです。
きっかけは、しばらく作品創作から離脱するにあたり(過去の話)、文章を書くという行為自体からは離れないように、ということだったのですが。
……ってこれでは「黒歴史上等なものになっています!」と公言しているようなものですね(^^;
作者からの返信
こんばんは。
エッセイを読んでくださり、コメントもくださって、ありがとうございます。
筆者は今も昔も、エッセイというものは基本的にそれぞれの書き手が単に気ままに日々の出来事や思いをつづった文章であり、だからこその読みやすさや興味深さがあると思っています。実際、筆者はカクヨムでも紙の本でもそういうエッセイを楽しく読ませていただいています。ただ、このエッセイを書き始めた当時の、カクヨムを始めたばかりの筆者には、自分の文章を読んでくれる人が誰一人として現れないんじゃないかという強い不安感がありました。そのため、エッセイ自体に何かしらのオリジナリティというかインパクトを求めて、エッセイの第1回をこういう方向性にしたのだと記憶しています。
このエッセイを書き始めてから1年以上経った今になって読み返すと、挑発的というか、虚勢を張っているというか、自分で自分のエッセイを型に押し込んでいる感じがして、我ながら少々恥ずかしくなります。ただ、幸いにして、読者の皆さんにはカクヨムを始めた頃を思い出して共感していただけているようで、意外と評判が良いです。嬉しい限りです。
話が変わりますが、昨晩、岩井さんのラブコメ小説『She Loves You...Absolutely』のプロローグと第1章を読ませていただきました。完結済み作品なので全編を拝読してから感想や評価を書くのが筋だとは思うのですが、それをしようとするとかなりお時間をいただくことになりそうなので、まずは一旦、プロローグと第1章を読んだだけの感想を書かせていただこうと思っています。
筆者は気を抜くと冗長な文章を書いてしまうので、なるべくコンパクトにしてからお送りするつもりですが、カクヨムの性質上メッセージを何往復もさせようとすると不便なことが多いので、説明不足を避けようとした結果としてやっぱり冗長になる可能性が大いにあります。申し訳ありませんが、とりあえず第1章までの感想を読んでいただいてから、「長すぎる」「細かすぎる」「解説とやらが余計なお世話すぎる」といったご意見をお聞かせいただければと思います。
新しい辞書。への応援コメント
私が論文を書くとき、例えば「第〇版」の書籍を引用する場合には、
筆者名『タイトル(第〇版)』(出版社、発行年)〇頁。
とします。二重括弧内にその書籍のタイトルに関する情報をすべて書きこむはずですから、その外に版数を書き込むのはおそらく間違っています。丸括弧が並ぶのも変ですし、版数がない書籍を引用する際と形式が変わってしまうことも根拠になるかと思います。
「初版」については、タイトルにあるならば書かなければならないかもしれませんが、なければ書かなくてもいいと思います。後ろに必ず「発行年」を書きますから、なくても伝わります。むしろ、タイトルにないものを書き加えることで、かえってややこしいことになる気がします。
私は引用に関する「正式なルール」を大学教授から指導してもらいました。ある種の文章(論文や基本書等)のプロに教わったともいえるので、引用の方法については、これが正しいと思います。ただ、この手の論文の作法——「正式なルール」は分野ごとに異なる可能性があるので、一概に断言もできません。有名な大学教授の論文等をいくつか読んで、そこから学ぶしかないのでしょう。
社会科学の論文は参考文献が非常に重要ですから、この点お互いに気を付けながら書きたいですね。またご存知かとは思いますが、雑誌などの論文を引用する際はまた若干形式が異なるので、ご注意ください。
気になられていたようので書かせていただきましたが、本文にあまり関係のないことでしたね。長々とすみません。
作者からの返信
いえいえ、教えてくださってありがとうございます。
筆者も大学時代にレポートの書き方について本を読みましたが、(おそらく)版数の記載の仕方は書かれていなかったと思います。先生にも聞きそびれていて、大学時代からずっと疑問のままでした。今回、姫川さんから納得のいく説明を聞くことができて助かりました。
分野によって書き方が違うという話は筆者も聞いたことがありましたが、姫川さんが教えてくださったタイトルや発行年を載せる順番が、筆者の知っていたものと違ったので、確認のために大学時代に買った本をいくつか見てみたら、似たような分野なのに本ごとに違っていました(ちなみに国際政治学と政治哲学の本です)。版について確認できたところでも、『 』の中に「増補」と書いていたり、『 』の外に「(新版)」「(増補版)」と書いていたりとバラバラでした。著者の年代や出身大学によっても違うのでしょうか。
こんな疑問を口にしておいて、しかも丁寧に答えていただいた後に言うことでもありませんが、ひょっとすると、必要な情報がそろっていて1冊の中で形式が統一されていれば細かいことはいいじゃないか、くらいの認識なのかもしれません。
フォローもひとつのメッセージ。への応援コメント
あじさいさま
アメリッシュ です。
先ほどはご丁寧なご返答、ありがとうございます。
私は適当なところがあって、お返事をいただかなくても大丈夫ですから、どうぞお気になさらずに。
いつのまにか3ヶ月、カクヨムで書いております。
おひまなおりにはお立ちよりくださいませ、
作者からの返信
ありがとうございます。
犯した罪は消えませんが、そうおっしゃっていただけて救われた思いがします。
体調は回復しつつあるもののまだ波がありますし、他の方々の作品(それぞれ魅力的な作品)で、無遠慮にも校閲するような感想を送っておきながら途中で放置してしまっている作品があり、今後しばらくはそちらに優先的に取り組みたいと考えていますので、すぐにとはいかないかもしれませんが、アメリッシュさんの作品もぜひ楽しませていただきたいと思います。
応援コメントの難しさ。(前編)への応援コメント
私はまだ三週間のカクヨム初心者で小説サイトもはじめての超初心者です。
ですから、こうしたエッセイで勉強させていただいています。
わたしにとって、あじさいさまが@hiro1969さんになっております。よろしくお願いいたします。
作者からの返信
返信が大変遅れて申し訳ありません。
7月末に『カクヨムを始めました。』というエッセイに応援コメントをくださり、ありがとうございました。
せっかく応援コメントを頂いておきながら2ヶ月も放置するなんて人として最低の行為だという自覚はありますし、よりにもよって応援コメントの難しさについての記事への感想でそれをやってしまって、自分が情けない限りですが、7月半ばから持病の鬱が(自分でも理由を掴み切れていないのですが)悪化し、カクヨムを含む小説投稿サイトでの活動全般が手につかなくなっていました。
もちろん、返信が難しい内容のコメントを頂いた訳ではないので、気付いたその場で「こちらこそよろしくお願いします」と書けばそれで済んだ話かもしれないのですが、その頃には、どういう訳か、(アメリッシュさんだけでなく他の方々に対しても)返信を書こうとすると妙に手足がすくむような感覚に陥るようになっており、ずるずると今日まで来てしまいました。
長々と意味不明なことを書いておりますが、もちろん、筆者としてはこんな言い訳をしたところでアメリッシュさんに許していただけるとは思っていません。今更筆者から駄文を送ったことで、アメリッシュさんをかえって不快にさせてしまっているかもしれません。ただ、筆者自身、自分が送った応援コメントに返信がないときに覚える不安や虚しさには心当たりがあるので、それ以上のストレスをアメリッシュさんに味わわせていたと思うと、せめて謝罪だけでもお伝えさせていただきたいと思い、今更ながら連絡させていただいた次第です。
この度は大変申し訳ありませんでした。
現代文学理論って何だろう。への応援コメント
こんにちは。
確かに「ふざけんな!」ですね。他の国がどうかは知らないですが、日本の国語教育ってとても邪道なものだと思います。小さい頃は「自由な発想が大事」「全部正解」とか言うくせに、学年が上がれば、一つの答えを強制される。私はこの姿勢がどうにも気に入らず、中学の時に夏休みの課題で、本当の正解は分かっていたけれど、あえて自分の思う答えを書くというどうでもいい抵抗をしたことがありますが、まあ、どうにもなりませんね(笑) ともかく、この制度は今後も根強く残ると思います。センター試験も結局方式は変わらなかったですし。「貧しい」とか無責任なことは言わないでほしいものですね。
ちょっと重くなった上に、何を言っているのか状態になってしまいましたが、これからも応援しております。
作者からの返信
こんにちは。
コメントありがとうございます。
返信が遅くなってすみません。
今回のエッセイ、お察しの通り、筆者の立場もちょっとひねくれているんですが、その辺りのニュアンスを汲み取っていただけて幸いです。そうなんです、大学教員の方々に小中高の国語教育で習う読み方を「貧しい読み方」と言われるのは嫌なんですが、一方で、小中高の国語教育がそのままでは良いとも思っていません。
iscreamさんのおっしゃるように、国語教育は学年が上がるごとにいつの間にか変質していっていると思うんですね。物語の読み方にはいくつか種類があって、読者は時と場合に応じて、あくまで文字に書かれた情報だけを汲み取ったり、一般常識の範囲で行間を読んだり、作品が書かれた背景の諸々から細かい言葉遣いや表現の意味を考えたり、登場人物たちの心理や事情を自分の個人的な価値観や経験と照らし合わせて考えたりすると思います。おそらく、初期段階の国語教育は様々な読み方を容認することで生徒たちの物語に対する興味を掻き立てようと(あるいはご機嫌を取ろうと)する一方で、どこかの時点で生徒たちの読み方をテストや受験に適合させようとした結果、画一的な方向に変質するのだと思います。もちろん、小学生なんてほぼ野獣なので、まず物語を読んで楽しいと思わせるところから始めたいという気持ちは分からなくもないですが、授業の仕方から考えて、小中高の先生方がそういった授業の質的な変化を生徒たちに自覚させようとしているのかは、ちょっと怪しいですよね。仮に「作者中心」の読み方をするにしても、既に述べたような様々な読み方に明確な境界線を引いた上で授業を行えば、生徒が試験問題を解くときフィーリングに頼ることも減ると思います。
また、深夜アニメを見るときにお約束(暗黙の了解)があるように、文学を読むときにもお約束がありますが、その辺りのことも授業ではあまり扱われないように思います。深夜アニメのお約束の一例としては、学園ものの作品に登場する純日本人のキャラクターの髪がオレンジやシルバーなど極端に明るい色の場合がある、ということが挙げられます。普通、日本の中学・高校でこのようなエッジのきいた髪色の人間が1クラスに何人もいることはないと思いますが、深夜アニメのファンたちはいちいちそこにツッコミを入れません。深夜アニメにおけるそれがごく一般的なキャラ付けの手法でしかなく、珍しがることではないというお約束を、(何となく)理解しているからです。これと同様に、文学作品にもお約束があります。それはたとえば、文法や言い回しの分かりにくさは原則として気にせず、作品のテーマやメッセージに注目するというものです。この「お約束」を踏まえて読まないと『羅生門』でさえ素人っぽい駄文になってしまう訳ですが、先生方は時としてお約束の説明をすっ飛ばして「これは文句なく優れた詩なんだ」、「真面目な生徒ならこの物語を面白いと思うはずだ」というスタンスで授業を進めるので、それに共感できない一部の生徒の目には、先生が自身の主観的・感覚的な読み方を押し付けてくるように映ることでしょう。
このように色々問題がある国語教育を施される中で、私たちは「主人公中心」「作者中心」の読み方に傾倒していくのですが、それは何のためかと言えば諸々のテストで及第点を取って無事に卒業したり進学したりするためです。小中高で「主人公中心」「作者中心」の読み方を規範化してテストすることが一般的になっている理由は、普通に考えれば、大学受験がそうなっているからです。大学教員の身でありながら、大学受験に付随する問題(そして自分たちがそれを容認してきた立場であるという事実)を脇に置いて小中高の国語教育を批判することは、エッセイの本文にも書いた通り、少々無責任な態度と言わざるを得ないでしょう。付け加えるなら、なぜ現状がそうなっているのかを考えずに現状を批判した気になっているという意味で、大学教員、しかも文学研究者にしては想像力が足りていない、と言うこともできるかもしれません。
筆者からすれば、少々大胆な物言いになりますが、そもそも国語教育(特に物語や詩の読み方に関する先生方の指導あるいは「誘導」)を踏まえた生徒たちの読み方の善し悪しを、時間と文字数が厳格に制限されたテストによって点数化すること――さらに、生徒が先生方の指導通りの読み方をしなかった場合に、先生方が自らの指導を顧みるのではなく権力者として一方的に生徒を罰すること――が適切なのかというところに疑問があります。
大学受験で日本語の文章を読み解く能力を問いたいなら、「評論」の問題さえあれば「小説」は要らないでしょう。もっと言えば、(論点が大きくなりますが、)大学入学で重視すべきなのは「テストの点数」よりも「学生たちがどんな分野の学問に興味・関心を持っているか」だと筆者は思います。というか、筆者の見るところ、興味・関心を軽視して学力・偏差値ばかり重視した結果として、現状、日本の大学入学者は「その分野に興味を持たない学生」、「やる気のない学生」ばかりになっており、大学での(特に文系分野の)「教育」はごく形式的なものになっています。しかも、その分野に強い興味・関心のある学生は、入学時の学力や大学の偏差値に関係なく、大学で自主的に学びを深めているようです。つまり、大学入学後の学習態度を左右するのは、入学時の学力よりも学生たちの興味・関心の方なのです。このように考えることが妥当なら、いっそのこと学力測定を基本とした大学入試は廃止するくらいでよいと思います。
小中高の国語教育にしても、どうしても先生の立場で生徒を物語や詩に触れさせ、その学習成果を「可視化」したいときは、テストを受けさせるのではなく作文やレポートを提出させるように方針転換すべきです。そして、生徒たちが表明した読み方が明らかに不正確であったり悪意的であったりする場合は、先生が個別に面談して、彼あるいは彼女の読み方を紐解き、よりよい着地点を探っていくという教育が望ましいと思います。もちろん、現状の国語教育にこういったことを上乗せするだけでは先生方の負担が増えてしまいますが、国語の試験を文法的に読み取れる内容だけに限定し、授業で扱う作品の数を減らせば問題ないでしょう。様々な種類の読み方を混同し、先生それぞれの主観的・感覚的な読み方を押し付け、「主人公中心」「作者中心」の読み方を規範化する国語教育の現状を改善することを本気で考えるなら、それくらいの次元でものを考える必要があると思います。
長文失礼しました。
本当はもっとコンパクトにしたかったのですが、これ以上返信が遅くなることは筆者としても本意ではないので、このような形で失礼します。
最後になりましたが、応援してくださりありがとうございます。励みになります。小説もエッセイも、それらに対して頂いたコメントへの返信も、思うようには書けませんが、筆者なりに頑張っていきたいと思います。
文学理論の入門書。への応援コメント
私も、小説は難しいこと考えず、純粋に楽しみたいです。(笑)
ただ、文学はやはり学問の側面も強いですから、専門性を持つのも仕方ないのかなと思ってしまいますね。社会科学につきましては、経済学にしても、法学にしても、社会学にしても、素人は専門的な話を聞いたところで当然さっぱりですよね。それ故に「理解できないのは教養がないからだ」という指摘も、専門知識がないという意味で間違っていないと思います。
しかし、それは「学問としての面白さ」であり、我々素人の求める「お話としての面白さ」とは違うものであるはずです。「純文学が一番優れている」という方は、そこを混同しているように感じますね。あじさいさんは、その『不合理な混同』を不快に感じているのかもしれません、と私は分析します。(笑)
後は、単に他人を尊重できない人がただ嫌いなのかも? 指摘が論点からズレていたり、的外れだったら、申し訳ありません。
あと、本のそばにレモンを置くのは汚れるのでやめて欲しいですね。(笑)
長文失礼しました。次回も楽しみにしております!
姫川翡翠
作者からの返信
こんばんは。
コメントありがとうございます。
返信が遅くなってすみません。
基本的に姫川さんのおっしゃる通りです。
文学・文芸は何かしらの一筋縄ではいかないものを探求・表現しているはずなので、作品のテーマが複雑・繊細・深遠であれば、門外漢が一読しただけではよく分からないということも当然あると思います。したがって、専門的な概念や理論、注意深い読解の手法(約束事)といったものは、有意義というか、知っておくと便利でしょうし、それらを知っているからこそ特定の作品に面白さが見出されることもきっとあると思います。しかし、だからと言って、純粋に娯楽目的で書かれた作品や、平易に書かれた作品、そしてそれらを純文学よりも好む(不勉強な)読者を、バカにして良いことにはならないとも思います。なぜなら、個々人の価値観と生き方、喜びを見出すポイントは、(基本的には)人それぞれに違って良いはずだからです。となれば、どんな本にどんな魅力を見出し、そのことを(限りある読書生活において)どれだけ重視するかは、それぞれの読者に委ねられるべきでしょう。もちろん、専門家(以下略)が特定の作品について、一般に知られていない魅力を力説して作品の発掘や再評価を促すことは推奨されるべき活動だと思いますが、そのために別ジャンルの作品を感情的に貶めたり、素人読者(とその価値観や人生観)を軽んじたりすることがあってはなりません。
その意味で、文芸に見出される面白さには「学問としての面白さ」「お話としての面白さ」をはじめとして「言葉選びの面白さ」「リズムの面白さ」など色々なものがあると思いますが、筆者が問題視しているのは、専門家(以下略)がそれらの面白さを混同していることよりもむしろ、自分たちを他の読者よりも特権的な存在だと思い込み、諸々の面白さの間の優劣についての自分たちの価値観に他者を同調させようと(もっと言えば、同調できないのは恥ずかしいことだと思い込ませようと)心理的な圧力をかけていることです。まあ、早い話、筆者は「他人を尊重できない人が嫌い」ということですね(笑)
(蛇足ですが、もちろん、(カクヨムのガイドラインでも禁止されているように、)差別または反社会的言動を冗長したり、実在の個人や集団に関する悪質なデマを拡散したりすることを目的とした創作物は、忌避されてしかるべきです。とはいえ、そういった疑いのある作品に関しても、批判者はきちんと作品を読んだ上で何がどう問題なのか明らかにするべき(少なくともそうすることを目指すべき)だと思います。一部の文言やテーマの表層、あるいはごく形式的な側面しか取り上げずに「極めて劣悪」「文芸と呼ぶに値しない」と断言したとしても、それは単なる「非難」あるいは「嫌悪感の表明」にしかならないでしょう。)
その上で今一度強調しておきたいのは、専門家(以下略)の読み方だって、理論よりも感覚に頼っていることが多いのではないか、ということです。仮に理論的な話をメインに持ち出してくるなら、素人の読み方に対して「ここをこう受け取ってしまうのは、作品が書かれた時代背景を踏まえていないからだ」、「ここの言い回しが意味不明なものに思えるのは、ここの話とあそこのエピソードの連関を見落としているからだ」といった批判が筋道立ったものとして成立するはずです。しかし、もちろん全ての専門家(以下略)がそうだとは言いませんが、肝心なところで主観に頼っている(にもかかわらずその感覚を当然視している)「論評」が目立つ気がするんですよね。作品への称賛が主観的なものであればそれだけ、それを聞く人に対する価値観の押し付けという側面が強くなると思います。
最後になりましたが、応援ありがとうございます。
次回がどんな内容になるかはまだ見通しが立ちませんが、素人読者なりに自分の感覚を大切にした、分かりやすい文章を書ければと思っています。
文学理論の入門書。への応援コメント
こんばんは。
あじさいさんの「書かずにいられない」の感情が、はっきりと見て取れますね。文学理論にふれて、心が動いたようで。
わたしは、そういった理論を目にしたことのない、不勉強な素人です。あじさいさんのエッセイをとおして、勉強させていただきます。
(//∇//)
次の更新を楽しみにしています。
作者からの返信
こんばんは。
梶井基次郎と彼のファンを敵に回したので何が起こるか分からず、投稿が済んでから不安に駆られていましたが、今回もコメントをくださり、ありがとうございます。
このはりとさんも文学理論をご存じないとは、ちょっと意外でした。勝手なイメージですが、「花筏」を巧みに使った小説を書かれていらしたので、文学部出身の方だとばかり思っていました。
改めて考えてみると、自然科学や社会科学の理論には(物理学の相対性理論、生物学のダーウィン進化論、社会学のフェミニズムなど)割と広く知られたものがあるのに、文学や芸術に関する理論が私たちみんなにとってここまで縁遠い存在になっているのは不思議ですね。学校の国語の先生にだって文学部出身の方は少なくないはずですが、小学校から高校に至るまで、文学理論に基づいた解説はまったく扱われていません。先生方の問題というよりも、文学研究自体に、学問としてまだしっかりと確立されていない部分が多いのかもしれません。
筆者もまだ軽い本を軽く読んだだけですが、誤解のない範囲で分かりやすく解説できるよう、頑張りたいと思います。
季節の話。への応援コメント
こんにちは。
突然ですが、私の本名には植物の名前が入っておりまして、今回のエッセイを読み「そう言えば、花言葉何なんだろう」と思い、調べてみました。すると、「誹謗」だの「不審」だのと出てきました。思った以上にろくでもなかったです。他に何か良いの無かったのかってなりますね(笑)
これからも応援しています。
作者からの返信
こんばんは。
コメントありがとうございます。
それはたしかにろくでもないですね(笑) 花言葉をつけた人たちはその植物に親でも殺されたのでしょうか。
花言葉に関して絶対的な決定権を持つ人や役職は存在しないようですし、花言葉は時代に合わせて変化することもあります。自然界に存在しなかった頃、青いバラの花言葉は「不可能」でしたが、品種改良によって実現した後は「奇跡」「神の祝福」「ひと目惚れ」などに変更されました。また、今回のエッセイには書きませんでしたが、どうやら最近、アジサイの花言葉に「家族」「団欒」「和気あいあい」などポジティブな言葉が加わったようです。花が集まって咲くところがそう見えるから、というのが理由だそうです。たぶん花屋の陰謀でしょう。
もしかすると将来、iscreamさんと縁のあるその植物の花言葉も、「思いやり」とか「人類の叡智」とかにしれっと変更されるかもしれませんね。
応援の言葉をありがとうございます。
励みになります。
今後は創作論っぽい話に入ってちょっとセンシティブな内容になるかもしれませんが(ならないかもしれませんが)、お暇なときにでもお付き合いいただけると幸いです。
季節の話。への応援コメント
こんばんは~
今ちょうど学校で枕草子を読んでいるのですが、あまり理解できてない箇所が多く。なるほど~、現代風に言うとこういうことなのか。と一人納得してしまいました(笑)
アジサイの花言葉は知らなかったので、少し驚きました……。そんな意味があったとは。季節の花の花言葉を調べてみるのも楽しそうです(*´ω`*)
作者からの返信
こんばんは。
コメントありがとうございます。
このエッセイにも書きましたが最近は体調がすぐれず、葉月さんのエッセイにもしばらくお邪魔できていませんね。すみません。
思わぬところでタイムリーな話題だったようで、良かったです。
『枕草子』によく出てくる「をかし」について、学校では「趣がある」と習いますが、「趣がある」なんて言われても、中学生・高校生の筆者は普段使わない言葉だったので、あまりピンときませんでした。『枕草子』の「をかし」、『源氏物語』の「もののあはれ」については考察と議論が繰り広げられているので、厳密さを求める人々からすれば筆者の訳は大胆すぎるかもしれません。ですが、筆者の独断と偏見では、「をかし」も「あはれ」も、当時から曖昧さを含む言葉だったのではないかと思います。現代の「かわいい」「エモい」「尊い」もそうですが、感動を表す言葉は多くがそういうものだと思います。
アジサイの花言葉については、実はカクヨムを始めた頃には一度調べていたのですが、いつその話をしようかチャンスを窺っていました(笑)
花言葉という文化は面白いですよね。何事にも好きな方、没頭する方はいらっしゃるものなのでしょう、花の有無にかかわらず、大抵の植物に花言葉がつけられているようです。また、1年366日それぞれにちなんだ誕生花というものもあるそうなので、自分の誕生日の花やその花言葉を調べてみるのも面白そうですね。
PV が見えてしまう怖さ。への応援コメント
初めてコメントさせていただきます。何か失礼があったら、すみません。
私自身、このエッセイを初めて読んだ時は、まだ一度も小説をあげたことはありませんでした。だから、「夢に見るとかそんな大袈裟な(すみません)」なんて思ってました。でも、見ますね、夢。二日立て続けに見ました。自分の小説が面白くないなんて知っているのに、です。
コメントの着地点がどこか分からなくなって、何が言いたいのかという話ですが、私もカクヨム初心者でして、いつも参考にさせていただいています。これからも応援しています、ということだけ伝えさせていただきます。
作者からの返信
はじめまして。
コメントありがとうございます。
あれ、何なんでしょうね。他の仕事や趣味に比べて、カクヨムは夢に出てくる頻度が高い気がします。小説を書くという活動がそれだけ労力を使うせいかもしれませんし、好きなことであるがゆえに頭から離れないせいかもしれません。
最近(といっても1ヶ月以上前)の記事に書いたことですが、筆者はいつの頃からかカクヨムの夢を見なくなってきました。とはいえ、それでもたまに、カクヨムをいじったり睨めっこしたりする夢を見ることがあります。カクヨムの呪縛からはなかなか逃れられないようです。
他の記事も読んでくださっているようで、ありがとうございます。
とても嬉しいです。
最近はネタ切れだったり体力・集中力が湧かなかったりして、このエッセイを更新できていませんが、筆者のカクヨムにまつわる右往左往は今後も続きますので、お暇なときにでもお付き合いいただけると幸いです。
PV が見えてしまう怖さ。への応援コメント
私も「なろう」からカクヨムへ来たということもあり、共感するところがたくさんありました。作者の方は皆さん、同じような気持ちを持っているんですね。
「インターネットの海に放り投げて一瞬で拡散されるような作品なんてある訳ない」というお言葉、本当にそうだと思います。たまに、星が少ない埋もれた作品を発見して読ませていただくことがあるのですが、「こんな面白い作品が読まれていないなんて!?」とビックリします。こう言うと失礼ですが、星がたくさん付いている作品より面白いんじゃないかと思うものも多く埋もれています。
多くの方に読んでいただくって難しいものですね……。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
面白いのに星が少ない作品、ありますね。
カクヨムで読まれるためにはきっと、内容以上にタイトルやキャッチコピーを工夫する必要があるのでしょう。一度読み始めてしまえば2話、3話と読み進める人は多いでしょうし、とりあえずPVを稼げれば人を呼ぶことができます……などと言うのはひねくれすぎでしょうか(笑)
カクヨムに限らず、小説投稿サイトを見ていると「どうしてこんな作品が読まれるんだろう」と思うことが多く、エッセイや創作論をチラチラ見る限りでは、どうやら流行に疑念を抱いている方は少なくないようです。ちょっと意地悪な言い方になりますが、案外、よく読まれているとされる作品を心から好きになって星を送っている方は少数派で、大半の読者は暇つぶしにしか思っていなかったり、最初から批判するつもり(あるいは研究目的)でしか読んでいなかったりするのかもしれませんね。
まあ、おそらく書き手さんたちはそうなることを分かって書いているのでしょうし、どんな背景があるにしても読まれるに越したことはありませんが。
エッセイを始めました。への応援コメント
的確でハキハキとした文章ですね。
私も、カクヨムではエッセイの方が見ていただきやすいという話を聞いて、下心満載でエッセイを投稿しました。実際本命作品よりもアクセスが増えそうな勢いで、「カクヨムあるあるは本当だったんだなぁ……」と実感しています。
作者からの返信
はじめまして。
コメントありがとうございます。
経験則ですか、エッセイがよく読まれる理由は、読者にとって読みやすく、書き手にとって更新しやすいからのようです。
カクヨムで他の方のエッセイを読んでいると、エッセイばかり読まれて小説を読んでもらえないと嘆く方もいらっしゃいますが、筆者としては、エッセイを始めて良かったと思うことが多いです。エッセイをきっかけとした新たな出会いはそれだけで嬉しいものですし、エッセイを読んだ上で小説執筆を応援してくださる方もいらっしゃることがとても喜ばしく感じられます。
長く続いているエッセイ。への応援コメント
こんばんは。
エッセイを続ける理由がすてきです。たとえ何も浮かばなくても、つながりやすい「場所」があるのは大きいですよね。
コメントしてよいものか、と考える場面はわたしもありました。そのときはお祝いの言葉をお送りしたくて、「遅いかもしれませんが」と添えて送っちゃいました。
^^;
またの更新を楽しみにしています。
(*'▽'*)
作者からの返信
コメントありがとうございます。
エッセイを続ける理由についての台詞は……その……、もちろん本当に思っていることではあるんですが、実は、某アニメのパロディでして、筆者がゼロから言葉を考えた訳ではないんです……。
数年前のエッセイに対してコメントを送ってよいものかは悩みどころですが、きっと書き手さんからすれば、基本的には嬉しいことではあるだろうと思います。
本文にも書いた通りこのエッセイは既にネタ切れ状態なので、数年に渡って続けるのは夢のまた夢という感じですが、もうしばらくは更新していけるように頑張ります(笑)
長く続いているエッセイ。への応援コメント
私のことじゃないですか!!やだぁ!!(笑)
世の中ひどい造語が横行していますからね。私もろくに語源も調べずに使用していたので、指摘されて改めてググってみると、「これは……」と感じました。一種の侮蔑の言葉として使用されることもあるようでしたから。
やはり言葉選びは難しいですね。
しかしまあ、私はあじさい節が大好きなので、今後もよろしくお願い致します!
作者からの返信
コメントありがとうございます。
トレーニーの件は本当に失礼しました。個人的に衝撃的な出来事だったので、自戒という意味で、このエッセイで紹介させていただきました。
本来なら姫川さんのエッセイにお邪魔したときにお詫びするべきだったのかもしれませんが、ある作品でのことを別作品の応援コメントで謝るのが適切なのか確信を持てず、タイミングも掴み損ねてしまいました。すみません。
このエッセイでも応援コメントでも、筆者は話が長くなりがちですが、「あじさい節が大好き」と言っていただけて嬉しいです。
こちらこそ、今後ともよろしくお願いいたします。
長く続いているエッセイ。への応援コメント
ちょっと自虐が入ってておもしろいです。近況ノートもおもしろかったです。すごく真面目な方ですよね。心配させるようなことは書かないようにしようと思いました。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
自虐的なことを言うのは昔からの癖で、数年前までTwitterの呟きもこんな調子でしたが、大学の後輩には通じなかったらしく、「卑屈すぎる」とマジなトーンで苦言を呈されてしまいました。笑っていただけて幸いです。
近況ノートも読んでくださって、ありがとうございます。
自虐を抜きにして、筆者はさほど真面目な人間ではありませんが、真面目であることは筆者が最も強く憧れる美徳のひとつなので、そう言っていただけて嬉しいです。
永倉さんが書きたいと思ったなら何でも書いてください、と申し上げたいところですが、あまり辛口なことを言われると確かにメンタルを削られかねませんので、そうですね、お手柔らかにお願いします(笑)
○○PV感謝! と言ってみたい。への応援コメント
おはようございます。
「○○PV感謝!」は、確かによく見かけますね。だいたいはものすごいケタですが、一度「100PV感謝」を目にしたことがありました。感謝の気持ちにあふれていて、こちらまで明るい気持ちになります。
数字の持つ力はもちろん認めるところなのですが、ひねくれたもので、わたしは「○○PV感謝!」とあっても、素通りする場面が多いです。数字では「読みたい」の気持ちがわかず、それよりも題名とあらすじを読みにいってしまいます。
^^;
作者からの返信
おはようございます。
コメントありがとうございます。
言われてみれば筆者も、「○○PV感謝!」と書かれていても(ほっこりはしますが)読まないことの方が多いです(笑)
筆者の場合は、そもそもの好き嫌いが結構多いんですよね。カクヨムでは異世界ファンタジー、ラブコメ(コメディ目的)、エッセイ以外のジャンルをほとんど読みませんし、ジャンルの問題をクリアしても流行りの傾向通りだと苦手な要素を含んでいることが多くてあまり読みません。
目を引くことは確かですし、人気作を探している方々には効果的なのでしょうが、宣伝効果は割と限定的なのかもしれませんね。
敬語じゃなくていいんです。への応援コメント
こんにちは。
ネット上のやりとりで敬語を使わないのって、簡単なようでいて難しいよね。受けとった相手が「なにコイツ。馴れ馴れしい」と気分を悪くしたらと思うと怖いし…。
と、ここまで入力してみて、ぞわぞわしました。わたしも敬語表現のほうがしっくりくると言いましょうか。わたしは、相手が望むならそうしてあげたい、と思うほうで、相手に望まれて名前の呼び捨てはしたことがあります。ですが、話すときはどうしても敬語に。
^^;
作者からの返信
こんばんは。
敬語を使わないコメントに挑戦してくださり、ありがとうございます。
返信が遅くなってすみません。
どうやら同年代っぽいということなら敬語抜きにしたいという気持ちはあるのですが、このエッセイを書いた後で気づきました、関西弁混じりの筆者のタメ口は少なからずうさんくさい印象を与えるようです。
また、文字でやり取りするなら敬語の方が、簡単に漢字変換できますし、細かいニュアンスについて難しいことを考えなくて済むような気もして、便利ではあるんですよね。
ということで、今後も敬語でよろしくお願いします(笑)
愛読するとPVが。(ほぼ好きなもの談義)への応援コメント
こんにちは。
ほぼ好きなもの談義、ということで、あじさいさんの「好き」があふれていましたね。本だけでなく、映像作品にもたくさんふれているのが窺えました。
わたしは「同じものを繰り返し読む」ほうで、そうして手に入れた文体を、「あ、この書きかた、あの作家さんっぽい」と自覚する場面があります。
(*'▽'*)
作者からの返信
こんばんは。
コメントありがとうございます。
深夜アニメを「映像作品」と呼ぶと素敵に聞こえますね。
このエッセイでは(見栄を張って)ややマイナーな作品の名前を挙げましたが、実はそれほど詳しくありません。熱心なアニメファンたちと違って、放送中のものを可能な限り追う訳でもありませんし、名を知っているのに視聴していない作品もたくさんあります(『ワンピース』も『進撃の巨人』も『鬼滅の刃』もほとんど知りませんし、ぶっちゃけ興味もありません)。小説・ライトノベル・映画、そしてカクヨムにしてもそうですが、傑作と知りながら触れないままでいるのはあまり良くないと知りつつ、なかなか消化できずにいます。
読み込んでいると文体が似てくること、ありますね。筆者も『シャーロック・ホームズ』を読み返すと文章が英文翻訳調になります。
加えて、書いている内に文体が身についていることもあります。具体的には、長編ファンタジーを脇に置いてエッセイと短編小説を書いた後、長編ファンタジーに戻ってみると、文体が迷子になっていたことがありました。今はもう軌道修正できたと思いますが、くずしたラフな語り口に慣れてしまうとそういう文章しか書けなくなってくる、というのは少し怖い経験でもありました。
推敲にゴールはあるのか。への応援コメント
おはようございます。
あじさいさんのお考えには、どれをとっても共感がわきますね…。わたしが「応援」をテーマにしたエッセイを書いたとき、もしあじさいさんのエッセイをすべて読んでいたら、ただそれをなぞっただけになっていました。
考えかた・価値観がまったく違っていたらそれはそれ、ですが、「同じ・似ている」ことのうれしさを、いま実感しています。
(*´︶`*)
作者からの返信
こんばんは。
コメントありがとうございます。
返信が遅くなってすみません。
推敲は始めるとキリがありませんが、それでも何を目指して推敲するのかという意識は大事だろうということで、この回では少しばかり思い切ったことを言ったつもりでしたが、共感していただけたようで嬉しいです。
短編チャレンジ。への応援コメント
こんばんは。
自分の強い分野と弱い分野をきちんと理解したうえで書くのが大切、は、とても頷けますね。そうでないと、あじさいさんのおっしゃるとおり、どこかに無理が生じますし…。
流行りやウケについて、ズバッとした物言いが、とても気持ちがいいですね。
(^_^o)
作者からの返信
こんばんは。
コメントありがとうございます。
実際に短編を書いてみて分かりましたが、執筆は書き手の得手・不得手に意外なほど左右されるようです。ただ、今回のエッセイに付け加えるなら、自分の特性を理解するためには書くのがいちばんなので、発表するかどうかは別にして、実際に書いてみることはやはり大事ですね。
幸いなことに、このエッセイの読者さんは安易かつ無批判に流行を追いかけたりウケ狙いでチープな作品を書いたりするような人たちではないので、筆者も好き勝手なことが言えています。このはりとさんにも共感していただけたようで、嬉しいです。
進捗報告(前向きな話であるはず)。への応援コメント
おはようございます。
「自分が楽しめる物語が作りたい」となれば、わたしは敵でなくあじさいさんパーティの仲間になれそうですね。加えていただけるかは別として。
^^;
応援しています!
作者からの返信
こんにちは。
コメントと応援ありがとうございます。
このはりとさんが敵だなんてめっそうもありません。何なら同じパーティというのも勿体ないです。筆者からすればこのはりとさんは憧れです。むしろこちらの方がパーティに加えていただきたいです。
正直、コメントを拝見したときは「敵? パーティ? 何のこと?」と思いましたが、そりゃそうですよね。これだけアンチテーゼだの現実逃避的だの悲惨だの言っていれば、敵と味方できっちり線を引いていることは明らかですよね。
ちょっと補足しますと、別に他の書き手さんの技量不足をなじりたかった訳ではなく、「読者や特定の人々に対するリスペクトが欠けている態度は好きになれない」ということを言いたかったのです(自分で読み返しても今回のエッセイからそれを読み取るのは困難ですが)。とりあえずタイトルで読者を釣れればいいやとか、ご都合主義な逃避先を用意してやれば読者は喰いつくだろうとか、モラルなんてくだらないとか、思い通りにならない女に用はないとか、そういう考えがちらちらするのが嫌いなんですよね。逆に言えば、主人公が異世界転生していようがその世界で最強だろうが、作品として訴えたいテーマが明確だったり、ヒロインが主人公を好きになることにきちんと理由があったり、極端な出オチでなかったりすれば、割と大丈夫なことが多いです。そこには人に対する最低限のリスペクトがあるはずなので。
このはりとさんの作品について言えば、筆者はまだエッセイの他は『春風散歩』と『いろのひめごと』しか読めていませんが、このはりとさんが他者や人に敬意を払っていらっしゃることが溢れんばかりに伝わってくるので、端的に言って大好きです。
こちらこそ、応援させてください。
今回も長くなりました。
失礼しました。
応援コメントの難しさ。(後編)への応援コメント
私もあじさいさんから「批判的コメント」をいただきました一人であります。
そのコメントに対しての私の感情は、率直に申し上げて、「嬉しい」の一言です。
以下はわたくし個人の感想ですから、できれば第三者に適用されない方がよろしいかと思います。
例えば「面白かった」や「素敵なお話ですね」は作品を読まなくても書けます。びよーんとスクロールして、ハートを送りフリック入力で「お」や「す」を打ち込めば、予測変換にでてくるでしょう。
また、「ヒロインがかわいい!」や「主人公のこういうところが好き」みたいな感想もさらっと読めばかける感想です(作者もよく書きますが、それに関しては適当に読んだからというわけではありません)。
しかし、批判に関してはそういうわけにはいきません。文章表現や誤字等についてはともかく、お話に関するキャラへの批判や、ストーリーについての気になる点につきましては、お話を読み込み、作者の意図をたどった上でさらに自分なりの解釈を内心に作り上げなければなりません。
また、的外れな意見を述べると、相手やそのコメントを読んだ第三者から冷たい評価を受けることになってしまいます。
いわば、批判コメントはコストがかなり高いくせにハイリスクノーリターンなのです。
これらを考慮した上でなお、批判コメントをいただける。それはつまり、コメント主は自分の作品を愛してくれているんだ、と私は感じるわけです。
少なくとも私があじさいさんからいただいた批判コメントには、作品に対する愛を感じました。
しかしながら、本心は本人のみぞ知る、ですがね。
とにかく批判であれなんであれコメントをいただけるだけで私は嬉しいですから、いつでもコメントをお待ちしております!
最後がこれじゃ、しまらないかもですが。(笑)
(ちなみに誤字脱字指摘はマジでありがたいです。)
長文失礼いたしました。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
批判コメントがハイリスク・ノーリターンと考えたことはありませんでしたが、言われてみればそうですね。筆者はなぜ必死になって批判コメントをしてきたのか。
そして、作品に対する愛……。「愛」というほど大層なものか分かりませんが、たしかに、作品にはより良いものになってほしい、書き手さんがより良い作品を書く手掛かりにしてほしい、とは思うので、「愛」なのかもしれませんね。
筆者としては、(批判的な)意見を言うことも書き手さんと作品に対する敬意の表現かな、というふうに思っています。それに、自分の身に置き換えてみたとき、なんだかんだ言ってコメントをもらえると嬉しいものだと思うんですよ(実際、姫川さんからコメントを頂けてとても嬉しいです)。書き手さんにはぜひ良い気分になっていただいて、その勢いで新たな作品を書いてもらえば、こちらとしても楽しい作品に出合える機会が増えるんじゃないかなどと身勝手なことを考えてもいる、というのが正直なところかもしれません(笑)
応援コメントの難しさ ver.2への応援コメント
おはようございます。
読者が手間と時間をかけて送ってくれた応援を、受け取らないということはあってはならない。
ここがすごく響きました。
読者さんへ返信するかは、作家さんが創作に割ける時間もありますし別としても、「受け取る」は大切ですよね。あじさいさんのエッセイは、ノンフィクションなだけあって、伝わってくることが大きいです。
続きを楽しませていただきますね。応援しています。
(*'▽'*)
作者からの返信
コメントありがとうございます。
今回も返信が遅くなり、すみません。
岡目八目というやつで、きっと読者さんには筆者に見えないものが見えているはずなので、指摘としていただいた言葉は大切にしたいと考えています。
ただ、これは筆者が書き手として未熟で、読者さんから悪意を向けられた経験はおろか、悪意とは言わないまでも作品の根幹に関わるような批判をされた経験もないから言える、甘っちょろい考えなのかもしれません。
応援コメントの書き方については、「指摘するならコッソリと」の回でもう一度取り上げており、その回での考察によって今の書き方に落ち着いています。
読みづらい文章が続いているとは思いますが、お付き合いいただけると幸いです。
書く・読むのバランス。への応援コメント
おはようございます。
書く・読むのバランスの取りかたや、本すじからはなれたもの(ここではエッセイ)を書きたくなる気持ちは、とてもよくわかります。わたしも、あじさいさんの応援を受けて、またエッセイを書きたくなりました。言葉が次々とわいてくるのですが、気持ちをおさえています。
^^;
エッセイ中にあった「邪な下心」、わたしはそのとても素直な感情を肯定します。誰にも迷惑をかけないのであれば、自分を支える方法はどうあってもよいと思いますので。
これからも応援しています。
(๑˃̵ᴗ˂̵)
作者からの返信
コメントありがとうございます。
返信が遅くなってすみません。
このはりとさんの日常系エッセイならぜひ読ませていただきたいところですが、たしかに、始めてしまうと楽しくなってきて、小説の執筆に使うはずだった時間を削る結果になるかもしれませんね。実際、筆者もそうなっているような気はします。ただ、エッセイは書き手としては更新しやすく、読者の皆さんにとっては手軽に読めるようで、新たな出会いも多いですし、エッセイをきっかけに小説を読んでくださる方もいらっしゃるので、悪いことばかりではありませんよ(←このはりとさんにエッセイを書いていただきたい人間の言い分です。ご注意ください)。
筆者の邪な下心がまたひとつ、このはりとさんに知られてしまいましたね。お恥ずかしい限りですが、受け止めていただけて嬉しいです。
右往左往の様子を描くノンフィクションはどこまで本音で書けるかが勝負だろうということで、このエッセイはその場の勢いで書いています。今になって読み返してみると、我ながら恥も外聞もない話が多いです。また、特にこの回はそうですが、文脈の捉えどころがない、読んで疲れる文章になっています。せっかく読んでくださったのに、申し訳ないです(まあ、これもカクヨムでの右往左往の一部なので、書き直すつもりもないのですが)。
最後になりましたが、応援のお言葉をくださり、ありがとうございます。
☆はいくつでも嬉しいの?への応援コメント
おはようございます。
あじさいさんが、★のつけかたを考え抜かれたのが、とても伝わってくるエピソードですね。それに比べて、わたしがいかに考えなしか恥ずかしくなりました。
(//∇//)
あじさいさんのエッセイ、自身のエッセイが完結するまで読み進めるのを控えていたのですが、正解でした。本エピソードを読んでいたら、★について述べるとき、間違いなく影響されていたと思います。そのくらい強い思いが込められた回でした。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
返信が遅くなってすみません。
☆は1つでも「Good」、2つで「Very good」を意味するということになっていたはずですし、カクヨムの運営としては、評価ではなく称賛のシステムと考えてほしいのでしょうね。☆3か☆ゼロかしか考えない筆者のスタンスよりも、このはりとさんのスタンスの方が、カクヨム公式の意図に沿っていて、かつ、みんながハッピーになれると思います。
ただ、初対面の皆さんの☆についての考え方を確かめる機会はなかなか無いので、そこが難しいですね。
読者の皆さんの背中を押す内容のこのはりとさんのエッセイと違い、筆者のエッセイは単に筆者が右往左往しているだけですが、それでも一応、初心者の皆さんがカクヨム・ライフを始める際の参考になればと思って書いているので、このエッセイからそういった「思い」を感じ取っていただけて嬉しいです。
近況ノートの使い方。への応援コメント
こんばんは。
返信するつもりが削除しそう、はひやひやしますね。
なろうとカクヨムは、そんなにつくりが違うとは…。わたしはカクヨムだけなので、そういった苦労はしりませんで…。
^^;
エッセイを書いている間、すっかり「ヨム」から遠ざかっていましたが、やっぱり楽しいですね。応援しています。
(๑˃̵ᴗ˂̵)
作者からの返信
こんばんは。
読んでいただいただけでなく、コメントも下さり、ありがとうございます。
心のきたなさがにじみ出た、まとまりのない文章でお恥ずかしいですが、読んでいただけて嬉しいです。
それにしても、わざわざ返信の隣に削除ボタンを付けることないのに、と思います。
今も、ちょっとひやひやしながら返信ボタンにカーソルを合わせています(笑)
応援コメントの難しさ。(後編)への応援コメント
こんばんは。
わたしも「応援」について自身のエッセイでふれていますが、あじさいさんのお話を聞くと、浅い階層にいるのだなあ、と思い知らされました。深いところまでいくと、本エピソードのような体験が待っているのですね…。どんな批判的な内容であっても、ものの言いかたや気遣いがあれば、時間はかかっても、いつかはその作家さんもわかってくれる日がくるように思いました。
語り口がお上手で、ぐいぐい引き込まれました。
続きを楽しませていただきますね。
(^_^o)
作者からの返信
コメントありがとうございます。
作品に対する「好き!」を伝えるのが浅くて改善点を指摘するのが深い、というものではない気はしますし、改善点と言っても多くは誤字脱字や日本語に関することなのですが、気になり始めると悩ましい問題ではありますね。応援コメントの書き方や心構えについてはこの後、少しずつ変化をさせていくことになります。このエッセイにはその辺の経緯も書いていますので、楽しみに読んでいただければと思います。
語りを褒めていただけて嬉しいです。このエピソードの後も調子に乗ったり削るのが億劫になったりして駄文を連ねていますが、適当に読み流しつつ、寛大な心でお付き合いいただけると幸いです。
エッセイを始めました。への応援コメント
はじめまして。
あじさいさんのお人柄が窺えるエッセイ、読ませていただきました。
冒頭の「下心」に否定的な感情はわかず、むしろ良い印象を抱きました。頷かされることがたくさん述べられていて、先のお話が気になります。
続きはゆっくりと楽しませていただきますね。
(^_^o)
作者からの返信
はじめまして。
筆者の下心を肯定的に受け止めてくださってありがとうございます。
つたない文章ですが、暇なときにでも読んでやってください。
最初の頃はカクヨムの各種機能のことを理解できていなくて記述がごちゃごちゃしていますが、適当に流し読みしていただけると幸いです。
レビューコメントをいただきました。への応援コメント
レビューは難しいですよね。もっと多くの人に読んでほしいから書きたいけど、もし作者さんが読んで不愉快に思ってしまったらどうしようと悩みます。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
この回を書いた後、筆者は(余計な)勇気を出してレビューコメントを書いてしまうのですが、後になって見るとやっぱりちょっと違ったかなという思いがこみ上げてきて、自分のプロフィール欄にアクセスするたびに表示されているのを見てちょっとつらくなります。しかし、本編にも書きましたが、削除して無かったことにするのもそれはそれで違う気がしますし……。
その後、カクヨム・ユーザーの方々が書いたレビューコメントを見るともなく見させていただきましたが、なんかもう、筆者はレビューコメントに向かない性格なんだなと思い知らされるばかりです。たとえば「ぜひ読むべきです」「一読の価値あり」なんて言ったところで、筆者の価値観なんて筆者のものでしかない訳で、読んで面白いかを判断するのはそれぞれの読者さんご自身だろう、と思ってしまうんですよね。
<追記>
そう言っている間に、レビューコメントを書いていただき、ありがとうございます。
エッセイに対して「共感した」「わかりみが深い」は最高の褒め言葉なので、それをおっしゃっていただけてとても嬉しいです。
指摘するならコッソリと。への応援コメント
そうそう、青のり。青のりに似てるんです。もう気になっちゃって気になっちゃって話に集中できないんです。
誤字脱字は言ってもらえた方がいいです。できれば誰かが気付く前に自分で気付きたいですが。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
筆者は他の人よりも誤字脱字が気になるタチですが、それでも最近、自分の作品を読み返してみると誤字や変換ミスが新たに見つかりました。書いた本人だと無意識に流し読みになるものなのかもしれません。
昨日、永倉さんの短編作品を何作か読ませていただきましたが、誤字脱字が見当たらなかったので筆者の出る幕ではありませんでした。今後、もし見つけることがあれば指摘させていただきます。
世界はまわると言うけれど。への応援コメント
カクヨムの夢見ます。コメントのやりとりしてます。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
そして、ここまで読んでくださってありがとうございます。
お疲れ様でした。
「PVが見えてしまう怖さ」の回に共感していただけた時点で、失礼かもしれませんが、たぶん永倉さんはそうなんだろうなという気がしていました(笑)
今回の話は、筆者のカクヨム依存症が少しマシになった(でも脱却はできていない)という近況報告なのですが、実は、そうなった理由について筆者にはこれといった心当たりがありません。そのため、どうすれば永倉さんがカクヨムの夢を見なくなるのか、アドバイスすることは残念ながらできません。すみません。
強いて言えば、このエッセイにニュアンスがにじんでいるかもしれませんが、カクヨムに関する事柄について投げやりになることが増えました。なんかもう色々なことに疲れてきて、こちらから応援コメントを書く場合は特に、「どうせすべては自己満足じゃん」みたいな心境で「えいやっ」と送ってしまうことが多いです。楽か苦しいかで言えば、そういうふうに思うくらいが楽なのかもしれません。
敬語じゃなくていいんです。への応援コメント
1つの応援ハートやPVの裏には、いろんな背景がありそうです。
ちょくちょくコメントを残していますが、エッセイのテーマに合っていないコメントを書いていたらすみません。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
毎度こちらが意図したテーマ通りのコメントをしていただいて、感謝です(笑)
まあ、エッセイのテーマなんて有って無いようなものなので、気にしないでください。
永倉さんがおっしゃる通り、PVや♡の裏には生身の人間がいらっしゃるんですよね。そのことに思いを馳せると、PVや♡が増えてほしいと思ったり、その増減のペースを気にしたりするのは身の程知らずなのかもしれません。
……「それでも俺は明日が欲しい!」
推敲にゴールはあるのか。への応援コメント
人のを読んでると「この文章は必要ない。自分はこんなこと書かないようにしよう」と思っていたのに、書いちゃってることがあります。
その無駄な部分が良い味出してればいいのですが、いらない裏設定なので後日消すことになります。
更新が途絶え気味の作品があるのですが、再開しようと読み返す度に直してます。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
「このことを説明するのにこんなに多くの文字数は必要ない」と読者に思わせてしまうとき、書き手は自分が楽しむことばかり考えていて、読者に楽しませることを失念してしまっているのだと思います。それはさすがに避けた方が良いでしょう。そのため、やはり小説の場合であっても、表現は冗長になるよりは簡潔な方が良いというのが、筆者の考えです。
(実は、このエッセイがそれを実践できているかはかなり怪しいのですが、筆者が本腰を入れているのは長編ファンタジーの方なので、それは大目に見てもらうこととして……。)
ただ、無駄を削りすぎると「遊び」がなくなって、それはそれで味気なくなりそうな気もします。そのさじ加減が難しいのですが、究極的な判断はそれぞれの読者に委ねられている(「遊び」は疲れるという人もいれば、それが好きという人もいる)はずなので、書き手としては、最終的には自分を信じるしかありません。つまり、冷静になってから自分が読み返して、すっと読める文章やテンポを追求する中で、コツを掴んでいくしかないのだろうと思います。
短編チャレンジ。への応援コメント
エッセイ、毎回すごく分かりやすいです。合わないジャンルと敏感肌の例えが絶妙です。
カクヨムで急に美少女と同居するラブコメが人気で何じゃそりゃと思っていましたが、少女漫画も乙女ゲーム(女性向け恋愛シュミレーションゲーム)も急な同居が多いです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
褒めていただけて嬉しいです。
最近のカクヨムは同棲が多いですよね。同じ屋根の下で暮らせば仲が深まるとでも思っているんでしょうか。
「要するにみんなヤラシイ行為が好きなんだろ」ということで、筆者も自作の短編では、第1話から高校生女子が主人公の高校生男子にヤラシイ行為を迫る筋書きにしました(したがってキャッチコピーもあらすじも思いっきり男性向けです)。ただ、言い訳のようになりますが、そこには一応理由があって、ヒロイン(?)は必ずしも主人公にぞっこんという訳ではありません。また、ラストはヤラシイ雰囲気の売り文句に釣られた人ほど耳が痛くなるような展開にしました。性に合わないことをしたので、ちょっと首元がムズムズしますが、そういう試みも楽しかったです。
応援コメントの難しさ。(後編)への応援コメント
私の場合、指摘を受けた後に瞬発力よく直せればいいんですけど、すぐに直せないこともあります。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
指摘を受けてから修正するまでの時間の掛け方は人それぞれのようですね。すぐに直してくださる方もいらっしゃれば、指摘した箇所以外も見直してじっくり修正する方もいらっしゃるようです。指摘しておいてなんですが、時々先方の対応が丁寧すぎて恐縮してしまいます。
応援コメントの難しさ。(前編)への応援コメント
私も気になってしまいます。うまく指摘するのが難しいです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
自分が同じことを言われたときにどう思うか、と考えると、気軽に指摘する訳にもいかなくなりますが、それでも誤字やちょっとしたミスは治してもらえた方が良いはずなので、毎回緊張しながらコメントを送らせてもらっています。ただ、この話は突き詰めると「受け取り方は人それぞれ」というところに帰着するのかな、とも思うので、最近はあまり考えすぎないようにもしています。
PV が見えてしまう怖さ。への応援コメント
生き別れの兄弟かと言うくらい共感します。いえきっとカクヨムやってる方はみんなそうなんでしょうね。
最近のPVはありませんとなり非公開にした話があります。最近読まれてないだけで評価はしてもらえていたのに。
また公開して宣伝してみようかと思います。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
PVの回と☆の回は、このエッセイでも特に共感してくださる方が多いような気がします。やはり、数字が目につくところにあれば気になるのは皆さん同じなんですね。
ただ、実は筆者は最近、PVのことがあまり気にならなくなってきたんですよね。この回を書いた当時はPVが気になって仕方ありませんでしたが、小説の更新を中断してからしばらく経った頃にPVゼロの日が続き、気にするのはしんどいなぁと思っている内に気にならなくなりました。
とはいえ、PVゼロが続いて非公開にするのは、筆者も覚えがあります。カクヨムではなく「なろう」の方で、アップしていた短編2作を、あまりにも誰からも何の反応も頂けないので非公開にしました。自分的にはメッセージ性を持たせた作品のつもりだったので、いつかちゃんとそれなりに読める作品に作り替えてアップし直すか、別の作品の一場面としてその話を投入したいと考えています。
キャッチコピーと自主企画。への応援コメント
小心者のくだりに共感します。こんなこと書いちゃって嫌われちゃったらどうしようとソワソワします。
キャッチコピー等、セルフプロデュースがうまい人いますよね。そういう方のプロフィール欄やタグやあらすじ見るとなるほど〜と思います。
作者からの返信
エッセイは良くも悪くも、内容に対する読者の皆さんの反応を掴みやすいです。♡を押してもらえなかったり、次の回以降のPVが増えなくなったりします(一応ですが、こんな話をしたからと言って、無理に読んでもらったり♡を押してもらったりする必要はありませんよ)。
ここだけの話ですが、これにはいつもひやひやします。
時として、何かやらかしたんだろうな(もしくは読んで疲れる文章なんだろうな)と思いますが、取り返す手段があるとすればそれはやはりエッセイを書くことしかないので、「行く道に退路はない」って感じです(笑)
一方で、♡の数が盛り返してくれるとその日1日うきうきしています。
セルフプロデュースが上手い人はきっとセンスが良いんでしょうね。言葉選びもさることながら、発想が柔軟なんだろうと思います。やはりキャッチコピーが上手い人の小説は、実際に読んでみても面白いような気がします。
エッセイを始めました。への応援コメント
こんにちは。こちらにお邪魔して長編よりも短編よりも、まずエッセイに立ち寄りました。思わく通りだったわけですね(笑)
それ以外はわかるわかるとニヤニヤしながら読みました。今日初めて使う言葉ですが、わかりみが深すぎます。
面白いです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
今思うと第1回にしては挑発的な内容ですが、笑ってもらえて嬉しいです。
やはりエッセイって読まれやすいようで、小説よりもエッセイの方が読まれるというのはカクヨムあるあるなんだそうです。小説を読んでもらえなくても、エッセイを継続して読んでくださる方が結構いらっしゃって嬉しいです。
話によってはこのエッセイに共感できないこともあると思いますが、そこも「自分はちょっと違うなぁ」「えー、こんな考え方しないでしょ」と笑っていただけると幸いです。
応援コメントの難しさ。(後編)への応援コメント
はじめまして。
私の場合、どうしても指摘したいことがあったりすると、『余計なお世話かもしれませんが、』とか『お節介かもしれませんが』と書き始め、最後に『気に触ったなら申し訳ございません。』といったかんじにまとめてコメントしています。あまり参考にならないかもしれませんが…。
なるべく意見の押し付けにならないように気をつけています。
作者からの返信
はじめまして。
コメントありがとうございます。
したてに出ていることを強調する訳ですね。たしかに、そういう言葉はあった方が良いですね。
実は、応援コメントの文字数をなるべく抑えようと考えていたため、一言・二言を添えるという発想が今の今まで欠如していました。今度から使わせていただきます。
ありがとうございました!
自主企画の反省。への応援コメント
はじめまして、葉月林檎といいます。
自主企画からきたのですが、共感が多くて一気に読んでしまいました(*´ω`*)
私も自主企画については反省点多いです……作者様と同じなのですが、読みますとは言ったものの、読めなかった作品がたくさんありました。やはり話数も関係しますし、読もうと思う気持ちはあるのにな……と反省。この反省を次に活かしていけるように頑張りたいと思いました。あれ、思ったより長くなってしまいましたね……えっと、ブックマーク失礼します!
作者からの返信
はじめまして。
このエッセイを読んでくださり、ありがとうございます。
自主企画ってお手軽に見えて意外と難しいんですよね。参加作品を読むのも、当初の思惑通りにはいきません。つくづく、集中力って気合ではどうにもならないなと思います。
ブックマーク登録、ありがとうございます。今後とも寛大な心で見ていただけると幸いです。
指摘するならコッソリと。への応援コメント
うーん、難しいですね。
あじさいさんの応援コメントは、誤字脱字だけでなく、作品に対する所感もあるわけで。
そんなコメントをいただいた時、「消してくれ」って書いてあっても、私は消せない気がします。
作者からの返信
ありがとうございます。
消すのが惜しいと言っていただけて、応援コメント職人としては喜ばしい限りです。
実を言えば、もし自分のコメントをあっさり削除されるようなことになったら、それはそれでつらいだろうなとは思っていたんですよね(笑)
とりあえずは、「長くなったので邪魔なら削除していただいて構いません」という文言を添えるくらいで(判断を先方に委ねる形にして)様子を見させていただこうかと思っています。
指摘するならコッソリと。への応援コメント
難しいところではありますよね。
受け取り方は人それぞれですし。
私なんかは誤字報告を受けると、大変嬉しく思います。
理由としては、誤字に気付くほど深く読んでくださっている。
そしてそれを直すことで、作品の完成度が上がる。
ありがたく受け取り、私も誤字報告などは必ず残しておきます。
逆に誤字報告を送る時は、必ず「面白かったよ!」を付け、最後に誤字報告をすると良いかもしれませんね(^-^)
作者からの返信
コメントありがとうございます。
カクヨムに限ったことでもありませんが、文字だけのコミュニケーションでは色々気を遣わないとすぐに誤解が生まれる上に、それを誤解だと認識するだけでひと苦労なので、難しいですね。
別にマウントを取るつもりで誤字脱字を指摘している訳ではないのですが(そんなことで優越感に浸っても仕方ありません)、不快に感じる方々の目にはそういうふうに映っているのかもしれません。
骨折さんのおっしゃる通り、「面白かったよ!」というメッセージを明確に、前面に出して伝えることは大事ですね。
筆者もそうしようと努力しているつもりでしたが、何名もの方の作品を読んでいる内に知らず知らず伝え方がぞんざいになっていたのかもしれません(だとしたら由々しき事態です)。きちんと反省しようと思います。
進捗報告(前向きな話であるはず)。への応援コメント
遂に、動き出す時が来たのですね!
どんな逆境にも負けず、頑張って下さい!
作者からの返信
ありがとうございます。
このままガンガン書き進める方向に行きたいです。
進捗報告(前向きな話であるはず)。への応援コメント
頑張ってください。早速、作品を拝見したいと思います。
作者からの返信
ありがとうございます。
掲載分より先の更新はまだまだ先になると思いますが、気が向いたときにでも読み進めていただけると嬉しいです。
自主企画を始めました。への応援コメント
自主企画に参加させていただいたものです、先ほどはご指摘ありがとうございます!
ここに書いてある話、読ませていただきました。文面から苦労が滲み出てますね……。善意からのアドバイスを無下にされたら、誰だって傷つきますよね。どうかあまり気を落とさないでください、あなたのアドバイスがためになっている人は私以外にもきっといるでしょうから……。
作者からの返信
温かいお言葉をありがとうございます。
企画もコメントも好きでやっていることですし、他者に多くを求めすぎないようにと「企画内容」にも書きましたが、この一件はさすがにショックでした(笑)
自主企画を開催されていらっしゃる方々はきっと何度もこのような苦労をされているのでしょうから、筆者ばかり泣き言を言ってもいられませんが。
人それぞれに着眼点や重視するポイントは違いますが、だからこそ率直な意見交換は有意義なものだと筆者は考えています。
こんな不寛容なエッセイを書いておいて言うのも身勝手な話かもしれませんが、今後も寛大な心で受け止めていただけると幸いです。
近況ノートの使い方。への応援コメント
後は、マイページという所をクリックして、上部にある『ユーザー』という部分をクリックすると、フォローしてるユーザーの作品や近況ノートの更新情報が見れますね。
ちょっと分かりにくいですが。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
本当ですね。
こんなページがあるなんて、今まで全く気づきませんでした。
ご教授いただき、ありがとうございます!
応援コメントの難しさ ver.2への応援コメント
とてもいいと思います。
あじさいさんが読んでくれた作品(応援ボタンが押された)に、「気になった点」のコメントがなかった時があって、逆にざわざわしました。笑
作者からの返信
コメントありがとうございます。
このエッセイでは自分が応援コメント職人であるかのような書き方をしていますが、実は♡を押すだけでノーコメントということも結構あります。ですが、考えてみればたしかに、それまで口うるさかった奴がいきなり何も言わなくなったら、それはそれで落ち着きませんよね(笑)
記憶する限りでは、ノーコメントになる作品の多くはエッセイ、ショートショート、読みかけのどれかです。エッセイは論じる性質のものではありませんし、ショートショートは論じ方が分かりません。「きれいにまとまっている」と書くのは上から目線が過ぎる気がしますし、「これこれの発想に驚かされた」と書くのも月並みな感じがするというか、♡を押した時点でそれは伝わっているかなと思ってしまうんですよね。
☆はいくつでも嬉しいの?への応援コメント
自分は過去作品を投稿していることが基本なんで、今の読者にどのくらいうけるかな、という意味で★の数はありがたいと思ってます。
昔日刊で書いてた頃毎日どれくらいの人が読んでくれていたのか、というのは覚えていますので。
なので発表の長さとか、読まれても★や♡がつくかどうかはまた別の問題なんだな、という意味で色々思う材料としてありがたいです。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
たしかに、読者からすると、作品の魅力や改善点を長々と書くよりも、☆を付ける方が圧倒的に楽ですから、☆の数という形で気軽に評価を送ってもらえるシステムはありがたいですね。
PVだけでも♡だけでも分からないことが、☆の存在によって分かるようになっているという意味で、良くできたシステムだと思います。
エッセイを始めました。への応援コメント
貴重な意見だと思います。
情熱だけだと駄目だし、知識だけでもだめだし、やる気だけでも駄目だし、発想だけでも駄目だし、難しいところです。
究極的には作品はますたーべーしょんなんだから好きにやれば良いに行き着くとも思います。
個人的にはこのエッセイを始めました。は残して欲しい。
原点て大事。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
小説にしてもエッセイにしても、良いものを書こうとすると難しいですよね。「良い作品」ってどんな作品?という疑問も出てきますし。
筆者も、軽くフルスイングするように書こうと心がけています。分かりにくい例えですが、「みんなに受けるもの」はどうせ狙ってないんだから、肩ひじ張らずに注げる力を注いで取り組もうということです。
このエッセイを残してほしいとおっしゃっていただき、とても嬉しいです。
初回ということで邪な本心が駄々漏れですが、思いの外たくさんの方に読んでいただき、何とか削除せずに済んでいます。
冗長な駄文を連ねているだけのエッセイですが、今後ともよろしくお願いいたします。
通知がない日。への応援コメント
愚痴があってもいいじゃないですか! 人間だもの(笑)
誰だって辛い時や悲しい時はあります。
ですが! 人間はいつだってそう言うものを糧にして頑張っていますので、私たちも頑張りたいじゃないですか!
応援しています! 執筆活動頑張ってください!!
作者からの返信
温かいお言葉をありがとうございます。
とても励まされます。
そうですね。
愚痴をこぼすにしても、そのつらさを糧にするくらいの心意気が大事ですよね。
何事もやる前に怖気づいてしまっては、出来るはずのこともできなくなりますもんね。
今は拙作を書けない状態が続いていますが、その理由をしっかり見極めて、乗り越えていきたいと思います。
応援してくださり、本当にありがとうございます。
書く・読むのバランス。への応援コメント
お気持ちお察しします。だって人様の書いた物語が皆面白すぎます。私などは、並行して4本くらい読み進めています。どれも面白い。そしてコメントを書くのも楽しい。だから自分の文章を書くのがおろそかになっています。私の場合は軽いエッセイなので、気まぐれに書くだけですが、物語をお書きになる方は大変だと思います。書く勢いがそがれると、急に筆が止まるものです。でも、じっくりと時間を書けて紡いだ言葉はきっと光り輝くと思います。頑張ってください。
作者からの返信
温かいお言葉をありがとうございます。
感激しています。
今回いただいたコメントは今後何度も読み返させてもらうと思います。
カクヨムは良くも悪くも誘惑が多いんですよね(責任転嫁)。
そして、書き手さんたちのレベルも高いと思います。ちょっと周りを見るとすぐに面白そうな(そして実際に面白い)作品を見つけてしまいます。
それでも、執筆のためには自分を律して、ペースを崩さないことが大事ですね。
自分が好きで始めたことですので、きちんと拙作を完結させられるように頑張ります。
☆はいくつでも嬉しいの?への応援コメント
☆は難しいですね。付けてもらったら付け返さなければならないようなプレッシャーもありまして。私は☆を付けてもらっても最近はプレッシャーをはねのけて、相手の作品を純粋に評価できるときにしか付けなくなりました。そうでないと、ただのなれ合いになっておもしろくないですから。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
☆を返さなければならないプレッシャー、たしかにありますね。相手にそんな意図はなくても感じてしまうものなので、どうしようもありませんが。
しかし、もらったのが☆にせよレビューにせよ、お返しでやるのは相手の作品を読むことまでであるべきだと思います。それ以上を義理や同情でやっちゃったら、ポンポコさんのおっしゃる通り、ただの馴れ合いですし、真に読まれるべき作品を埋もれさせることにもなるのかなと思います。
舞台は「現代日本」。への応援コメント
あじさいさん、こんばんは。
カクヨムの通知機能が毎度数日遅れなのは仕様なのでしょうか。それとも私のものがおかしいのでしょうか。
さておき、ご無沙汰しております。姫川翡翠です。
「現代日本を描く」というテーマだったと思いますが——もしかすると政治の方がメインだったのかもしれませんが今回は置いておきます——、私も悩ましいと思うところがあります。
私は特に現代の学生生活を描くのが難しいなと思っております。というのも今では教科書やノートがほとんどタブレット端末に置き換わっているらしいじゃないですか。もしかすると、他クラスの友達との教科書の貸し借りもなかったりするのでは……。置き勉はまだ通じますよね? もしかすると授業ノートを集める委員長の姿も現代では描けないのかもしれません。SNSに投稿している学生の雰囲気やそれに対する他の学生の受け止めもどんな感じなんでしょうか。フォロワーが多いとやっぱり偉いんですかね。その辺りがなかなか想像できなくて困っています。
他方で、創作においてはとりわけ漫画やアニメでは、「現代日本」というある種の「異世界」が広がっているのでしょうから、あじさいさんの意識されていることをどこまで真剣に考えるべきかという気もします。「学校イチの美少女・イケメンが平凡な僕・私を好きになる」ってファンタジーを受け入れる以上、「現代日本」という設定はあくまでも「リアリティ」の問題ですよね。いかにそれっぽく見せるか。したがって「現代日本」という設定だからといって「リアル」である必要はない。
あじさいさんの意識は、何となく「リアリティのある創作を描く」ということではなく、「リアルを創作に描き出す」ということにあるような気がします——私の感覚的なものなので間違っているのかもしれませんが。
いうなれば、コロナは「リアリティ」を描くための十分条件であり、「リアル」を描くための必要条件であるといったところでしょうか。
上手くまとまらないですけど、とにかく、「私も『現代日本』って難しいって思いました」という話でした。話は変わりますが、「リアルな『現代日本』を描くこと」から「異世界」に逃げるのは表現力とか想像力の低下みたいなものなんですかね? どうなんでしょう。あと、あじさいさんの考える「リアル」と「リアリティ」の違いも聞いてみたいです。それではまた。
姫川翡翠
作者からの返信
お久しぶりです。
コメントありがとうございます。ある意味では危険な話題で、さすがに今度こそ誰かとドンパチすることになるかもと危惧していたので、敵対的でないコメントを頂けてひとまず安心しました。振っていただいた話題にはちゃんとお答えしたいと思いつつ、筆者自身もまとまらない部分があり、あまり文字数が多すぎるのもなぁと悩んでいたら、結局書けないまま時間ばかり過ぎてしまいました。例によって、書きたいことをバーッと書いてしまうことにしました。それにしても、考えを言語化するのって難しいものですね、定期的に書くようにしておかないと感覚を忘れそうです。実は、男性向け作品についてもそうですが、特に女性向け作品について語り足りないのですが、応援コメントとその返信は1万字が上限だと思うので、その話題は別の機会にします。
カクヨムの通知が遅れがちなのは筆者も感じていましたが、数日単位が恒常化するのはさすがに例外的な気がしますね。筆者自身は、仕事中にカクヨムの通知を見るのが嫌になって、スマホからカクヨムのアプリをアンインストールしてしまいました。結局、ブラウザで頻繁にアクセスして通知を気にしているので、カクヨム依存体質はあまり変わっていませんが、ブラウザで見る通知は、特に遅れている印象はありません。
最近の学生生活については筆者もよく分かっていませんが、紙媒体からタブレット端末に移行しているというのは、コロナ禍を考えれば納得です。逆に言えば、コロナ禍による学校閉鎖やリモート授業がなければ、もう少し紙媒体が尊重されていたと思います。カクヨムで見かけた噂ですが、脳科学的に、液晶画面を見ていて主に働くのは画像・映像を処理する部分で、文字を処理する分野は紙媒体でないと働きにくい、という話があるそうです。実際、PCで書いたときは誤字や文章の稚拙さに気付かなくても、それを紙に印刷すると気付くということはあります。筆者個人は脳の構造ではなく生活習慣や慣れの問題だと思っていますが、もしそういう知見が広く知れ渡っていたら、「紙の教科書も重要だ、廃止してはいけない」という議論が盛り上がっていたかもしれません。
今でもさすがに紙の教科書がすべて――それにまつわる本の貸し借りや置き勉と一緒に――廃れたわけではないと信じたいですが、もう若者とは呼ばれない世代である筆者が感じるのは、ネットそのものに対する警戒心がかなり薄められてしまったんじゃないかということです。筆者が学生の頃は、『ケータイを持ったサル』という題名の評論文が受験や模試の課題文になっていたり、アニメ版『ブラック・ジャック』に『メールの友情』(難病で体が不自由な少年が、ニュージーランドのメル友に嘘をついて自分は野球が上手いんだという自慢話を繰り返していたら、ある時そのメル友が日本に来ることになって……)という短編があったり、伊坂幸太郎の近未来小説『モダンタイムス』にネットに依存し振り回される人々が描かれたり……、筆者は読んでいませんが、『スマホを落としただけなのに』なんて小説(おそらく、スマホは個人情報の塊だから扱いに気を付けなさいよという内容。スマホが普及し始めた当初は個人情報が漏れることのヤバさが世間に認識されていなかったので、うちの親も含め、ケータイやスマホにロックをかけない人が多かったんですよね)も話題になりました。ともかく、インターネットや携帯電話が当たり前ではなかった頃は、新しく出てきたそれらを過剰なまでに警戒する人が多かったのです。デジタルネイティブ世代はコロナ以前もいましたが、学生時代にコロナ禍で、タブレット端末を使えないと学校の授業さえ受けられないという経験をしてしまったら、
「ネットは悪意に満ちた危険な場所だ。あまり個人情報を書き込むな」
「ネットの人間はあらゆる手段で君たちを騙そうとしてくるぞ。○○の詐欺に気を付けろ」
「ネットリテラシーを身に着けて、嘘の情報に騙されないようにしろ。Wikipediaには嘘も多いから、ちゃんと信用できる紙媒体の資料で確認しろ」
などと言われたところで、響くはずがありません。
「自動車は人を殺す危険があるし、環境に悪いガスを排出するから、あまり乗らないように」
という戯言と同じ程度にしか受け取られないでしょう。
どこで聞いた話だったか忘れてしまいましたが、最近はニュースやエンタメの視聴はネットで済むからと、家にTVを置かない家庭が増えているそうです。TVを置いている家庭でも、新聞を取っているかは怪しいです。
石丸氏が選挙のインタビューでまともな受け答えができなかったにもかかわらず支持者が彼を擁護するコメントを書く背景には、既存の政党だけでなくTV局・新聞社への不信感があるのではないかと聞きます。ネットでは大問題になっているのに大手マスコミは全く報道しない、大手マスコミはろくでもないんだ、まともに相手をしなくていい、という考えが働いているのではないか、と(ちなみに、石丸氏自身はキレ芸を始める前は答えようとする姿勢を見せていますし、冷静なときも含めて基本的にずっとトンチンカンなので、最初から相手にしない方針だったのではなく、全ての質問にきちんと答えることは最初から諦めた上で、答えられなくなったらキレてみせることだけ決めていたと考えるべきだと思います)。大手マスコミは都知事選の投開票まで石丸氏をノーマークだったようなので、若者の中でも政治に問題関心を持っている人々が、SNSでPRする候補者たちの中から石丸氏を発掘した、と考えていいでしょう。言ってしまえば、都政に関心を持つ若者たちの決して少なくない人数が、自分が都知事選に立候補した動機も答えられない「政治屋」ごときに騙されて支持し続けてしまうのが、政党不信・マスコミ不信をこじらせた「現代日本」の実情ということです。
小説を書くとき問題になるのは、「現代の若者」はTVや新聞の常識や流行をあまり知らず、専らネットやSNSから情報を得ているのだろうということであり、だとすれば、彼ら彼女らはおそらく本をあまり読まないのではないか、ということです。ネットとSNS、おまけにゲームがあれば、時間などいくらあっても足りないくらいです。もし政治に関心を持つ若者たちが本を読んでいたのであれば、ネットの文章が情報として薄いことや信憑性が低いことに気付くはず(ネットだけ見ていれば紙の本や新聞を読む必要はないという思考回路にはならないはず)ですし、石丸氏の言葉を聞いたときに「印象だけなら悪くないけど、冷静に考えると中身がないな」とか、「人気取りのために、実行する気のないことを言ってるな(実行する気があるならもっと理念の話を押し出すはずだ)」といったことにも気付くのではないかな、と思います。
加えて、石田光規『友達がしんどいがなくなる本』(講談社、2024年)によると、SNSとコロナ禍は若者の人間関係の性質を変化させているそうです。曰く、SNS以前の人間関係は、何かの場所(教室、部室、職場、イベント会場など)に実際に行って、そこで顔を合わせた人たちと話すのが基本なので、いつ誰と何を話したか曖昧な部分が多く、時間をかけて距離感を縮めたり、後から振り返って「あの人とは良い友達だったな」と懐かしんだりするものでした。一方、SNS以後の人間関係は、顔を合わせはするものの、SNSでのコミュニケーションの比重もそれなりに大きくなります(コロナ以後はその傾向が強まります)。SNSでやり取りする場合、いつ誰と何を話したか厳密に記録されるので、誰とどれだけ親しいかが視覚的に分かるようになります。LINEを交換したり、同じLINEグループに入ったりした場合も、
・そもそも相手にLINEを送るか/送らないか
・LINEを始める際の話題に意味があるか/ないか
・相手から返信が来るまでの時間は長いか/短いか
・1回辺りの会話のラリーが丁度良いか/過不足があるか
・会話のラリーが多いか/少ないか
といったことが明確になってきます。Twitterやインスタなら、同じような日常系の投稿に対して、誰がlikeを押したか分かるので、
・投稿にlikeが多いのは誰か
・あの人に誰がlikeを付けているのか
→ あの人にlikeを付けて私にlikeを付けないのは誰か
・私にいち早くlikeを付けてくれるのは誰か
・相互フォローしているのに私にlikeを付けないのは誰か
といった、それ以前は曖昧だった人間関係の距離感や濃淡が意識されるようになります。姫川さんがおっしゃるように、SNSのフォロワーや普段の投稿へのlikeが多いか/少ないかといったことで発言力の優劣が決まる(当人たちがそう感じて強気になったり遠慮したりする)ことも充分考えられるようです。
また、旧来であれば、具体的な場所に行った後で、(示し合わせていないという意味では偶然)居合わせた人と、その場で話題を考えながら会話をしていました。それに対し、SNS以降の時代は、顔を合わせていないときにLINEやインスタでやり取りしているかが親密さの指標になってきます。「会っているときに話が弾んでも、SNSでのやり取りが皆無なとき、その人を親友と呼んでもいいのか」みたいな問いが出てくるわけです。その一方、いつでもどこからでも連絡を取れることの逆説として、自分から連絡を入れることは自発的・主体的に選択された行為ということになるので、何かしらの用件や話題をあらかじめ考える必要が出てきます。教室での会話と違い、わざわざLINEしておいて天気の話や直近のテストの話しかしないのでは、「結局何が言いたいんだ?」、「このLINEのやめどきっていつなんだ?」などと思われてしまうのです。
この時点で相当しんどいのですが、先述したようにSNSでの会話は記録が残るので、たとえば高校生が何人かのクラスメイトとLINEをしたとして、「あの人とは楽しく話ができたけど、この人とはあまり話が盛り上がらなかった」ということを後から冷静な目で振り返ることができます。となると、あの人とは気が合う、あの人とは気が合わない、ということが人間関係を始めた割と初期の段階で、当人たちの肌感覚としては“決まってくる”ことになり、その後の人間関係もそれによって影響を受けます。「最初はとっつきにくかったけど、隣の席になって会話を重ねてみたら案外面白い人だった」みたいな発見をする以前に、もっと気の合うクラスメイトがいると分かってしまうし、その人たちのSNSにlikeを押していれば、隣の席のコミュ症にわざわざ声を掛けなくても暇を潰せるわけです。誰と友達になるか(なれるか)ということが、人間関係が始まった初期に(当人たちの頭の中で)決まってしまって、「時間をかけて距離を詰める」ような人間関係が希薄になりつつあるのではないか、と著者の石田氏は言っています。
若者論・世代論に関しては、上田紀行『生きる意味』(岩波新書、2005年)、土井隆義『キャラ化する/される子どもたち: 排除型社会における新たな人間像』(岩波ブックレット、2009年)なども興味深いのですが、筆者(あじさい)がそれらを読んだのが何年も前で、読書記録を参照してその内容を思い出していたら時間が掛かり過ぎるので、今回は割愛します。
ここで言いたいことは要するに、SNS以前/以後では若者が置かれた環境がすっかり変わってしまっていて、それはおそらく、過渡期を経験している筆者(あじさい)と姫川さんの肌感覚も一概には信用できないくらい、急激な変化だということです。しかも、コロナ期に中学生・高校生だった若者のほとんどは自分たちの状況の特殊性に無自覚で、全てを当たり前だと思っており、逆にそれ以外の状況は考えられないだろうと思います。
あまり書きすぎると、執筆中の長編小説への期待感がどんどん高まってしまって、実際に出来上がったとき「なんだ、こんなものか」と思われそうですが、率直なところ、筆者はこういう「現代日本」の若者の精神構造と恋愛模様に、「君ら、それでいいのか」という問題意識があります。
よく知らない人間がどうして不満だけ持っているかというと、ここまで書いてきたスマホ・SNS以後の人間関係のこともそうですが、保守主義の相対化とグローバル資本主義の浸透が並列的に進むことで、個々の人間はともかく社会全体の傾向としては、倫理的ストイックさを失って即物的な欲望の充足に終始するようになっているのではないかという、さかのぼればハーバーマス辺りが出てきそうな危機意識があるからです。ポリコレやジェンダーフリーという左派的な動きが社会の空気を変えて右派が危機感を抱いている一方、政治の場では右派ポピュリズムが得票して左派の危機感を刺激しているというのが現在の世界ですが、ここには、少なからぬ人々が議論の正当性をあまりきちんと吟味せず、印象や場の雰囲気で何となく価値判断をしながら、意見表明の主な舞台であるネット・SNSの場では他者との対話を拒否し、なおかつ、そのことに対して自己反省をしないという閉塞状態が見受けられます。意見が違うと分かっている人と話をしたり、時間をかけて相手の真意を聞き出したり、自分と異なる立場の人々が抱える問題について想像したりすることには、前提として倫理的な辛抱強さが求められるのですが、現代社会の新しい変化の多くは、そういったものと相性が悪いんですよね。
さて、姫川さんがおっしゃるリアルとリアリティの話は、今の筆者なりに応えるなら、書き手として何を書きたいか次第だと思います。筆者が執筆中の長編の場合、「リアルを創作に描き出す」ことが出発点ではありますが、それに対して多少なりとも非現実(ファンタジー)な要素をぶつけて“リアル”を搔き乱し、それによって起きる化学反応、あるいは化学反応が起きないという結末に説得力を持たせるためにリアリティを追求していきたい、といった感じでしょうか。筆者が執筆中の長編とは異なりますが、「学校イチの美少女・イケメンが平凡な僕・私を好きになる」という構図の場合、たしかにそれだけだと(リアルではない)ファンタジーですが、主人公側が有頂天になって空回りする、あるいは逆に疑心暗鬼になる、美少女・イケメン側に何か裏がありそうだと匂わせるなどの描写によって、リアリティを担保していけると思います。一概には言えませんが、この、リアルとファンタジーを両立させる過程や、そこで生まれる緊張や葛藤を解消しようとするのに合わせて、物語が展開していくこともあると思います。
どちらも小説ではなくマンガですが、昔なら『タッチ』、最近なら『僕の心のヤバいヤツ』(僕ヤバ)がこの構図の人気作ですね。『タッチ』は双子(上杉達也・和也)と幼馴染(浅倉南)の三角関係ですが、達也と和也が南を取り合っているわけではなく、南が達也に恋しているところに和也が横恋慕していて、達也は南が好きだけれど自分より和也の方がふさわしいと思って南と和也をくっつけようとしているという状況です。要するに自分に自信がないせいでハイスペック幼馴染の誘いを断り続ける達也が、自分が南を幸せにするんだという覚悟を決めるというのがこの物語の基軸です。はっきり言って柏葉監督周りの話以外は全然リアルではない(そして今の視点で見ると明らかに女性差別的な)のですが、和也・達也のファンタジー設定を成立させるための努力の描写に余念がなかったり、南が超絶ハイスペックだということが作品全体のテーマに関わっていたり、一見ご都合主義な幼馴染という要素が3人の重荷になっていたりするので、人間ドラマとしてリアリティが感じられる範囲に収まっていると思います。『僕ヤバ』の方は、中学生にしてモデルをしている美少女・山田と、彼女の同級生の陰キャ男子・市川による恋愛モノですが、第1巻のほとんどを使って市川が山田の眼中に入っていない様子を描き、山田が市川を好きになる前にそれなりに分かりやすいイベントを作ることで、リアリティを担保しようとしています(それにしたって山田の距離の詰め方は不自然な気はしますが)。
両作品に共通するのは、作品の主眼が、「学校イチの美少女・イケメンが平凡な僕・私を好きになる」というファンタジー要素ではなく、主人公の少年がヒロインに見合う男になろうと精神的に成長する過程の方にあるということです。怠惰だった子供が覚悟を決めて努力する、ぼっちが友達を作る、絶望していた人が希望を見出す、というのは人間ドラマの王道です。
結局、読者・視聴者がファンタジーを見たがっているのは事実ですが、その関心は物語が進む中で、リアルとファンタジーの両立を可能にするリアリティ(丁寧な描写)と、作品全体を貫くテーマの方に(読者自身も自覚しないまま)移っていくのだと思います。
もちろん、何にリアリティを感じるか、どのレベルのリアル描写を見たがって、どこから先は見たくなくなるのかは、読者ごとに違います。書き手としては、自分が書きたいものを書くというのを除けば、どんな読者に届けるか、ターゲット層をある程度絞ることが肝要かと思います。バスケに関心がない読者にバスケ漫画を届ける場合、主人公視点でバスケのルールや技術を勉強していく過程が必要で、そこを省略するべきではありません。何でもかんでも一瞬で習得していたらファンタジーでしかないので、最初はレイアップだけで散々苦労する描写を入れることで、リアリティを確保します。それでも話が進めば上達が早すぎておかしいという意見が出てきますが、そこは桜木くんが調子に乗って変な失敗をしたり、試合中に油断したところを敵に逆転されたりする展開を作ることで、リアルとファンタジーのバランスを取ります。私見ですが、ここで大事なのは、話の要素と展開に関して想定読者層を置き去りにしないことと、ファンタジーとバランスをとるためのリアル描写では読者の予想を外すことです。『スラムダンク』を例にとると当然すぎることですが、書き手は読者よりもバスケに詳しくなければならないし、読者が予想もしていないリアル要素を散りばめることができないと作品に説得力が生まれません。学園青春モノや恋愛小説・ラブコメなどの場合、書き手は読者(時には若者自身)以上に若者のことが分かっていることが望ましい、と筆者(あじさい)は思います。ファンタジー要素が多くなって「このままご都合主義のファンタジーで行っちゃうのか?」と読者が予想(心配)し始めたときに、リアリティの範囲内にぐっと引き戻すためには、いつでもリアル要素をぶち込めるように準備しておくことがあらかじめ必要なのではないか、ということです。
まあ、先述のようにどんな読者を想定するかに依りますし、短編であれば人物を掘り下げる機会自体が少ないので、ごく簡潔に済ませても問題ないと思います。それに、そういったことも含めて、筆者が現代の若者を全くの異邦人のように感じるのは、ただの考えすぎという気もしています。最近、バイトの大学生と少し話しましたが、ジェネレーションギャップや共通の話題を見つける難しさは感じたものの、別に倫理観を失って欲望に突っ走っているとか、社会や政治に絶望して死んだ目をしているとか、SNSの流行を追いかけることに疲れ切っているなんてことはなく、普通に快活で礼儀正しい人でした。おかしな人はどの世代にもいるので、コロナ以降の若者だけ特別視するのは多少なりとも偏見が入っているかもしれません。
最後に異世界モノについて述べますと、カクヨムを始めてからずっと色々と考えを巡らせていて、ちょくちょく見方が変わっているのですが、リアルな現代日本を書かなくていい(読者の立場で考えなくていい)という利点で流行っている側面はあると思います。宮崎駿監督のジブリ映画も、初期ほど異世界や外国を舞台にしていますが、やはり日本ではない場所を舞台にしたいという意図があったそうです(『思い出ぽろぽろ』以降は日本が舞台のものばかりですが)。ただ、個人的には、ネット小説で異世界モノが流行りがちなのは、単に書き手がゲーム脳だからという側面の方が強い気がします。実際、最近はネット小説原作の学園恋愛モノがちょくちょくアニメ化されています。おそらく、書き手や読者の層が冒険ファンタジーにハマっていた世代から、ギャルゲーにハマっていた世代にシフトしたのだと思います。
ネット小説のゲーム的異世界モノには、ドラマや起伏がないのにやたら話が長いという特徴がありますが、これはゲームシナリオと共通しています。ハードを購入して遊ぶゲームの場合、値段が高いのに短時間でクリアできてしまうとコスパが悪いという印象になるのか、やたら文字数を多くして「大ボリュームのシナリオ」などと喧伝することがあるようです。また、シリーズものやネット配信のソシャゲの場合、ストーリーが終わってしまうとゲーム自体が終わってしまうので、ストーリーをだらだら引き延ばすことになります。もっと言うと、ゲームファンはゲームの世界に触れていること自体を楽しんでいる節があるので、話があるだけで既にある程度は満足しているのかもしれません。
以前カクヨムで見かけた、ネット小説の歴史を紹介した文章によると、そもそも「小説家になろう」がゲームの二次創作を掲載する場として始まったとか何とかで、その意味でゲーム脳やパクリが幅を利かせているのは当然と言えば当然なんだそうです。
とはいえ、ネット小説の異世界モノが心底から好きだという人がどれくらいかはちょっと微妙ですね。たしかにPVや再生回数は多いですが、みんな割とバカにしながら見ていたり、レビュワーの所に集まって酷評すること自体を楽しんでいたりしそうです。ニコニコ動画を見ると、さすがに制作陣が可哀想に思えてくるレベルです。一方、小説投稿サイトとしては、ユーザーに「この程度でアニメ化するなら、俺/僕/私が本気になったら超人気作を書けるんじゃないか」と思わせて異世界モノに手を出させることで、広告収入を得ているのではないでしょうか。本来的な意味で、「先づ隗より始めよ」ということですね(筆者もまんまとそれに乗せられた口です笑)。
また、最近になって思うのは、書き手の表現力や想像力が欠如しているから同じような設定になるだけでなく、あえて過去作品に似せて、「あー、あるある、こういうの!」という感じを出そうとしているのではないかということです。設定や世界観の時点で何かのゲームや過去作が念頭に置かれており、読者も先の展開を予想していて、書き手側がそれをベタに踏襲したり適度に外したりすることで、パロディやモノマネのような楽しさを提供しているのではないか。その意味で、元ネタ(となるゲーム)を知っている人同士、身内で盛り上がるために書かれているだけのものが、外に引っ張り出されて酷評されている可能性があります。
まあ、身も蓋もないことを言ってしまうと、小説投稿サイトでは結局のところ、他人を評価しまくる人がお返しとして評価を入れられるというのを繰り返すというのが、最も堅実で手っ取り早く人気者になる方法なんだと思います。その意味では、作品自体がゲーム的だとか、ゲーム脳の人同士で盛り上がっていると言ったこと自体が副次的なものでしかない可能性もあります。石丸氏や自民党を批判する中で述べたことと重なりますが、「現代日本」のネットユーザーは「この人はどうやら評価されているらしい」、「これだけ数字が高いのだからきっと信用していいのだろう」などと思考停止して動く節があるので、数値的に人気になっているネット小説を見かけると、文体や内容を吟味する以前に面白いと感じるのかもしれません(単に、人気者に気に入られることで自分の作品を宣伝してもらおうという魂胆かもしれませんが、それはちょっと意地悪な見方でしょうかね)。
長文失礼しました。