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ウチは、あじさい様が例示された「イマドキ女子高生」の会話にこそ「人間捨てたもんじゃない‼️」ってめっちゃ感じますよ。
「おそい」より「はやい」が「上」という価値観(これこそがあらゆる差別の根源!)を何の気負いもなくスコーンと突き抜けて、不毛な競争の場から軽々と抜け、降りていく人にこそ、人らしく生きるゆたかないのちを感じます。人間ってええな❗
小説いうんは、自分と違う立場や境遇の人を描いてナンボの世界じゃけん、他人の代弁をしまくらなどもならん、そういうものです。ほなけんど、代弁いう行為はどうかすると上から目線になりがちですし、私も会話の中でマイノリティの人たちを代弁する言い方をした時に、周囲の人から「あんたが代弁するのはおかしい」と言われたことがあります。心していきたい部分です。
しょうもないこと長々と、すみません🙇
作者からの返信
ありがとうございます、感銘を受けました。
そういう考え方があるということに驚きと興奮を覚えています。筆者自身の闇が深いということかもしれませんが、相手が倫理や正義を(ハリボテであっても)手中に収めているときに、倫理や正義についての論理(つまり倫理学や政治哲学)という武器で立ち向かう以外の発想が、今までありませんでした。たとえば学校の授業に文句があるとき、黙ってボイコットしたところで単位を落とされて留年させられるだけですから、「教師が生徒に暴力を振るう」とか「教師が公然とセクハラ発言をする」とかの理由を明確にして本人や第三者に訴えるのでなければ「勝てない」と思っていました。
ただ、当然ながらこれでは理不尽を強いる側と同じ土俵に立つわけですし、大人vs子供、年長者vs若輩者という図式を考えても、相手に有利な勝負を挑むことになります。また、理不尽なことって何か1つだけでなく、世の中にゴロゴロ溢れているので、1つひとつ相手にしていたのでは、決着をつける前に消耗して力尽きてしまいます。そう考えると、「不毛な競争の場から軽々と抜け、降りていく」のが、本人が本来の目的・自己実現を達成するという点でも、理不尽を強いる相手を明確に拒否するという点でも、最良の選択肢になってくるのかもしれません。それじゃ社会は良くならないじゃないか、と言うのはナンセンスですよね、だってそもそも、好きなように生きて、なりたい自分になるときに、社会を変える必要なんてないんですから。「社会」や「常識」、「空気」といったものは正面から向き合おうとすると強固に見えますが、案外みんな疑問を抱いているので、少し姿勢をずらすだけで呼吸しやすくなることもあるでしょうね。
安直かもしれませんが、もしかすると、そういう、既存の理屈には合わないもの、既存の常識からすると「逸脱」になってしまうものを拾い上げられるのが、文芸の特権かもしれませんね。社会学や人類学もそういうことを意識してはいるようですが、学者が当事者の声を分析したり代弁したりするときに先入観が入ったり、先入観を排除するために当事者を研究対象として突き放したりするのは否定できないように思います。学者ではない一般庶民が、フィクションという虚構の世界で、デフォルメされた仮想的な人間を設定し、それでいて読者の心の根っこを揺さぶれるのというは、科学的な厳密さを意図的に外すことが許されている文芸の強みかもしれず、この意味で、文芸には虚構だからこそのリアリティや迫力があるのかもしれません。
野栗さんのおっしゃることが「しょうもない」なんてことは決してありません。どこまで出来るか分かりませんが、こういったことは今後の創作活動に活かしていきたいです。本当にありがとうございました。
ただ、最後に不穏なことを言いますが、筆者自身は(今のところ)社会に対して、できるなら勝負を挑みたいと思っています。その気がない人に「立ち上がれ」とは言わないまでも、声を上げている人や立ち上がっている人のことは応援したいし、筆者が矢面に立てなくても支持はしたいです。また、「持久走マジだりぃ」とぼやいている人がいて、その背景に理不尽なことがあるなら、(可能な範囲でという留保はつくものの)傍観者ではなく、その是非を社会に問う側に回りたいです。自分で書いていても自己陶酔的な屁理屈かもしれないとは思いますが、もしそれで「上から目線で代弁するな」とか「あんたが代弁するのはおかしい」とか言われるとしても、何もせず黙っているよりマシじゃないかと思います。社会の理不尽を疑問に思って発した声が誰かに届き、それへの反応として今までなかった新たな声が発せられ、それによって誤解に気付いて新たな知見を得たなら、「社会」が今より少しだけでも良くなったということですから、それはそれでいいんじゃないと思います。極端な話、人は自分自身以外の人間として人生を生きることが出来ないわけですが、だからといって他者のことを全く想像せず、代弁することもしなくなったら、それこそ人間は「万人の万人に対する闘争」を繰り広げて絶対君主にひれ伏すしかなくなります。それを拒否したからこそ、人類は今こうして自由民主主義国家を築いているはずです。分かり合おう、お互いを慈しもうと努力し続けることが大切であり、そのためには、どんな形であれ声を発し続けることが欠かせません。そこに誤解や勘違いがあったなら正せばいいだけです。面倒であってもそれをくり返した先にしか、今より過ごしやすい未来は実現されないと思います。……長くなりましたが、だから筆者は高校生のことが分からなくても高校生が登場する小説を今後も書くでしょうし、その中で彼女ら彼らに色々なことを語ってもらうつもりです。
自分で言うことでもないですが、きっと傍から見たとき、筆者(あじさい)に意見をぶつけるのって怖いですよね。今回もこのように長文で返しているわけですし。
率直なコメントを下さって本当にありがとうございます。
頂いたコメントに反論する意図は全くなかったのですが、そういう圧が感じられたのであれば、すみません。
現役高校生ですが、SNSになにか上げるにしても、たぶんみんな何も考えてないです。というよりも、そうするのが当たり前であって、そこに特別疑問を持たないといいますか。
もちろん熱心な子は考えているのでしょうけど、私はそう真剣になったことがないですね……
作者からの返信
何も考えてないってwww
筆者からすると、進んで面倒事を引き受けるからには、そうするだけの動機があると言われた方がしっくりくるのですが、あるのが当たり前、使うのが当たり前だと、楽しいとか難しいとか考えなくても、習慣の1つとして出来てしまうわけですね。……なるほど。
大変参考になりました。ありがとうございます。