このエピソードを読む
2024年10月20日 23:58
あじさいさん、こんばんは。カクヨムの通知機能が毎度数日遅れなのは仕様なのでしょうか。それとも私のものがおかしいのでしょうか。さておき、ご無沙汰しております。姫川翡翠です。「現代日本を描く」というテーマだったと思いますが——もしかすると政治の方がメインだったのかもしれませんが今回は置いておきます——、私も悩ましいと思うところがあります。私は特に現代の学生生活を描くのが難しいなと思っております。というのも今では教科書やノートがほとんどタブレット端末に置き換わっているらしいじゃないですか。もしかすると、他クラスの友達との教科書の貸し借りもなかったりするのでは……。置き勉はまだ通じますよね? もしかすると授業ノートを集める委員長の姿も現代では描けないのかもしれません。SNSに投稿している学生の雰囲気やそれに対する他の学生の受け止めもどんな感じなんでしょうか。フォロワーが多いとやっぱり偉いんですかね。その辺りがなかなか想像できなくて困っています。他方で、創作においてはとりわけ漫画やアニメでは、「現代日本」というある種の「異世界」が広がっているのでしょうから、あじさいさんの意識されていることをどこまで真剣に考えるべきかという気もします。「学校イチの美少女・イケメンが平凡な僕・私を好きになる」ってファンタジーを受け入れる以上、「現代日本」という設定はあくまでも「リアリティ」の問題ですよね。いかにそれっぽく見せるか。したがって「現代日本」という設定だからといって「リアル」である必要はない。あじさいさんの意識は、何となく「リアリティのある創作を描く」ということではなく、「リアルを創作に描き出す」ということにあるような気がします——私の感覚的なものなので間違っているのかもしれませんが。いうなれば、コロナは「リアリティ」を描くための十分条件であり、「リアル」を描くための必要条件であるといったところでしょうか。上手くまとまらないですけど、とにかく、「私も『現代日本』って難しいって思いました」という話でした。話は変わりますが、「リアルな『現代日本』を描くこと」から「異世界」に逃げるのは表現力とか想像力の低下みたいなものなんですかね? どうなんでしょう。あと、あじさいさんの考える「リアル」と「リアリティ」の違いも聞いてみたいです。それではまた。姫川翡翠
作者からの返信
お久しぶりです。 コメントありがとうございます。ある意味では危険な話題で、さすがに今度こそ誰かとドンパチすることになるかもと危惧していたので、敵対的でないコメントを頂けてひとまず安心しました。振っていただいた話題にはちゃんとお答えしたいと思いつつ、筆者自身もまとまらない部分があり、あまり文字数が多すぎるのもなぁと悩んでいたら、結局書けないまま時間ばかり過ぎてしまいました。例によって、書きたいことをバーッと書いてしまうことにしました。それにしても、考えを言語化するのって難しいものですね、定期的に書くようにしておかないと感覚を忘れそうです。実は、男性向け作品についてもそうですが、特に女性向け作品について語り足りないのですが、応援コメントとその返信は1万字が上限だと思うので、その話題は別の機会にします。 カクヨムの通知が遅れがちなのは筆者も感じていましたが、数日単位が恒常化するのはさすがに例外的な気がしますね。筆者自身は、仕事中にカクヨムの通知を見るのが嫌になって、スマホからカクヨムのアプリをアンインストールしてしまいました。結局、ブラウザで頻繁にアクセスして通知を気にしているので、カクヨム依存体質はあまり変わっていませんが、ブラウザで見る通知は、特に遅れている印象はありません。 最近の学生生活については筆者もよく分かっていませんが、紙媒体からタブレット端末に移行しているというのは、コロナ禍を考えれば納得です。逆に言えば、コロナ禍による学校閉鎖やリモート授業がなければ、もう少し紙媒体が尊重されていたと思います。カクヨムで見かけた噂ですが、脳科学的に、液晶画面を見ていて主に働くのは画像・映像を処理する部分で、文字を処理する分野は紙媒体でないと働きにくい、という話があるそうです。実際、PCで書いたときは誤字や文章の稚拙さに気付かなくても、それを紙に印刷すると気付くということはあります。筆者個人は脳の構造ではなく生活習慣や慣れの問題だと思っていますが、もしそういう知見が広く知れ渡っていたら、「紙の教科書も重要だ、廃止してはいけない」という議論が盛り上がっていたかもしれません。 今でもさすがに紙の教科書がすべて――それにまつわる本の貸し借りや置き勉と一緒に――廃れたわけではないと信じたいですが、もう若者とは呼ばれない世代である筆者が感じるのは、ネットそのものに対する警戒心がかなり薄められてしまったんじゃないかということです。筆者が学生の頃は、『ケータイを持ったサル』という題名の評論文が受験や模試の課題文になっていたり、アニメ版『ブラック・ジャック』に『メールの友情』(難病で体が不自由な少年が、ニュージーランドのメル友に嘘をついて自分は野球が上手いんだという自慢話を繰り返していたら、ある時そのメル友が日本に来ることになって……)という短編があったり、伊坂幸太郎の近未来小説『モダンタイムス』にネットに依存し振り回される人々が描かれたり……、筆者は読んでいませんが、『スマホを落としただけなのに』なんて小説(おそらく、スマホは個人情報の塊だから扱いに気を付けなさいよという内容。スマホが普及し始めた当初は個人情報が漏れることのヤバさが世間に認識されていなかったので、うちの親も含め、ケータイやスマホにロックをかけない人が多かったんですよね)も話題になりました。ともかく、インターネットや携帯電話が当たり前ではなかった頃は、新しく出てきたそれらを過剰なまでに警戒する人が多かったのです。デジタルネイティブ世代はコロナ以前もいましたが、学生時代にコロナ禍で、タブレット端末を使えないと学校の授業さえ受けられないという経験をしてしまったら、「ネットは悪意に満ちた危険な場所だ。あまり個人情報を書き込むな」「ネットの人間はあらゆる手段で君たちを騙そうとしてくるぞ。○○の詐欺に気を付けろ」「ネットリテラシーを身に着けて、嘘の情報に騙されないようにしろ。Wikipediaには嘘も多いから、ちゃんと信用できる紙媒体の資料で確認しろ」 などと言われたところで、響くはずがありません。「自動車は人を殺す危険があるし、環境に悪いガスを排出するから、あまり乗らないように」 という戯言と同じ程度にしか受け取られないでしょう。 どこで聞いた話だったか忘れてしまいましたが、最近はニュースやエンタメの視聴はネットで済むからと、家にTVを置かない家庭が増えているそうです。TVを置いている家庭でも、新聞を取っているかは怪しいです。 石丸氏が選挙のインタビューでまともな受け答えができなかったにもかかわらず支持者が彼を擁護するコメントを書く背景には、既存の政党だけでなくTV局・新聞社への不信感があるのではないかと聞きます。ネットでは大問題になっているのに大手マスコミは全く報道しない、大手マスコミはろくでもないんだ、まともに相手をしなくていい、という考えが働いているのではないか、と(ちなみに、石丸氏自身はキレ芸を始める前は答えようとする姿勢を見せていますし、冷静なときも含めて基本的にずっとトンチンカンなので、最初から相手にしない方針だったのではなく、全ての質問にきちんと答えることは最初から諦めた上で、答えられなくなったらキレてみせることだけ決めていたと考えるべきだと思います)。大手マスコミは都知事選の投開票まで石丸氏をノーマークだったようなので、若者の中でも政治に問題関心を持っている人々が、SNSでPRする候補者たちの中から石丸氏を発掘した、と考えていいでしょう。言ってしまえば、都政に関心を持つ若者たちの決して少なくない人数が、自分が都知事選に立候補した動機も答えられない「政治屋」ごときに騙されて支持し続けてしまうのが、政党不信・マスコミ不信をこじらせた「現代日本」の実情ということです。 小説を書くとき問題になるのは、「現代の若者」はTVや新聞の常識や流行をあまり知らず、専らネットやSNSから情報を得ているのだろうということであり、だとすれば、彼ら彼女らはおそらく本をあまり読まないのではないか、ということです。ネットとSNS、おまけにゲームがあれば、時間などいくらあっても足りないくらいです。もし政治に関心を持つ若者たちが本を読んでいたのであれば、ネットの文章が情報として薄いことや信憑性が低いことに気付くはず(ネットだけ見ていれば紙の本や新聞を読む必要はないという思考回路にはならないはず)ですし、石丸氏の言葉を聞いたときに「印象だけなら悪くないけど、冷静に考えると中身がないな」とか、「人気取りのために、実行する気のないことを言ってるな(実行する気があるならもっと理念の話を押し出すはずだ)」といったことにも気付くのではないかな、と思います。 加えて、石田光規『友達がしんどいがなくなる本』(講談社、2024年)によると、SNSとコロナ禍は若者の人間関係の性質を変化させているそうです。曰く、SNS以前の人間関係は、何かの場所(教室、部室、職場、イベント会場など)に実際に行って、そこで顔を合わせた人たちと話すのが基本なので、いつ誰と何を話したか曖昧な部分が多く、時間をかけて距離感を縮めたり、後から振り返って「あの人とは良い友達だったな」と懐かしんだりするものでした。一方、SNS以後の人間関係は、顔を合わせはするものの、SNSでのコミュニケーションの比重もそれなりに大きくなります(コロナ以後はその傾向が強まります)。SNSでやり取りする場合、いつ誰と何を話したか厳密に記録されるので、誰とどれだけ親しいかが視覚的に分かるようになります。LINEを交換したり、同じLINEグループに入ったりした場合も、・そもそも相手にLINEを送るか/送らないか・LINEを始める際の話題に意味があるか/ないか・相手から返信が来るまでの時間は長いか/短いか・1回辺りの会話のラリーが丁度良いか/過不足があるか・会話のラリーが多いか/少ないか といったことが明確になってきます。Twitterやインスタなら、同じような日常系の投稿に対して、誰がlikeを押したか分かるので、・投稿にlikeが多いのは誰か・あの人に誰がlikeを付けているのか → あの人にlikeを付けて私にlikeを付けないのは誰か・私にいち早くlikeを付けてくれるのは誰か・相互フォローしているのに私にlikeを付けないのは誰か といった、それ以前は曖昧だった人間関係の距離感や濃淡が意識されるようになります。姫川さんがおっしゃるように、SNSのフォロワーや普段の投稿へのlikeが多いか/少ないかといったことで発言力の優劣が決まる(当人たちがそう感じて強気になったり遠慮したりする)ことも充分考えられるようです。 また、旧来であれば、具体的な場所に行った後で、(示し合わせていないという意味では偶然)居合わせた人と、その場で話題を考えながら会話をしていました。それに対し、SNS以降の時代は、顔を合わせていないときにLINEやインスタでやり取りしているかが親密さの指標になってきます。「会っているときに話が弾んでも、SNSでのやり取りが皆無なとき、その人を親友と呼んでもいいのか」みたいな問いが出てくるわけです。その一方、いつでもどこからでも連絡を取れることの逆説として、自分から連絡を入れることは自発的・主体的に選択された行為ということになるので、何かしらの用件や話題をあらかじめ考える必要が出てきます。教室での会話と違い、わざわざLINEしておいて天気の話や直近のテストの話しかしないのでは、「結局何が言いたいんだ?」、「このLINEのやめどきっていつなんだ?」などと思われてしまうのです。 この時点で相当しんどいのですが、先述したようにSNSでの会話は記録が残るので、たとえば高校生が何人かのクラスメイトとLINEをしたとして、「あの人とは楽しく話ができたけど、この人とはあまり話が盛り上がらなかった」ということを後から冷静な目で振り返ることができます。となると、あの人とは気が合う、あの人とは気が合わない、ということが人間関係を始めた割と初期の段階で、当人たちの肌感覚としては“決まってくる”ことになり、その後の人間関係もそれによって影響を受けます。「最初はとっつきにくかったけど、隣の席になって会話を重ねてみたら案外面白い人だった」みたいな発見をする以前に、もっと気の合うクラスメイトがいると分かってしまうし、その人たちのSNSにlikeを押していれば、隣の席のコミュ症にわざわざ声を掛けなくても暇を潰せるわけです。誰と友達になるか(なれるか)ということが、人間関係が始まった初期に(当人たちの頭の中で)決まってしまって、「時間をかけて距離を詰める」ような人間関係が希薄になりつつあるのではないか、と著者の石田氏は言っています。 若者論・世代論に関しては、上田紀行『生きる意味』(岩波新書、2005年)、土井隆義『キャラ化する/される子どもたち: 排除型社会における新たな人間像』(岩波ブックレット、2009年)なども興味深いのですが、筆者(あじさい)がそれらを読んだのが何年も前で、読書記録を参照してその内容を思い出していたら時間が掛かり過ぎるので、今回は割愛します。 ここで言いたいことは要するに、SNS以前/以後では若者が置かれた環境がすっかり変わってしまっていて、それはおそらく、過渡期を経験している筆者(あじさい)と姫川さんの肌感覚も一概には信用できないくらい、急激な変化だということです。しかも、コロナ期に中学生・高校生だった若者のほとんどは自分たちの状況の特殊性に無自覚で、全てを当たり前だと思っており、逆にそれ以外の状況は考えられないだろうと思います。 あまり書きすぎると、執筆中の長編小説への期待感がどんどん高まってしまって、実際に出来上がったとき「なんだ、こんなものか」と思われそうですが、率直なところ、筆者はこういう「現代日本」の若者の精神構造と恋愛模様に、「君ら、それでいいのか」という問題意識があります。 よく知らない人間がどうして不満だけ持っているかというと、ここまで書いてきたスマホ・SNS以後の人間関係のこともそうですが、保守主義の相対化とグローバル資本主義の浸透が並列的に進むことで、個々の人間はともかく社会全体の傾向としては、倫理的ストイックさを失って即物的な欲望の充足に終始するようになっているのではないかという、さかのぼればハーバーマス辺りが出てきそうな危機意識があるからです。ポリコレやジェンダーフリーという左派的な動きが社会の空気を変えて右派が危機感を抱いている一方、政治の場では右派ポピュリズムが得票して左派の危機感を刺激しているというのが現在の世界ですが、ここには、少なからぬ人々が議論の正当性をあまりきちんと吟味せず、印象や場の雰囲気で何となく価値判断をしながら、意見表明の主な舞台であるネット・SNSの場では他者との対話を拒否し、なおかつ、そのことに対して自己反省をしないという閉塞状態が見受けられます。意見が違うと分かっている人と話をしたり、時間をかけて相手の真意を聞き出したり、自分と異なる立場の人々が抱える問題について想像したりすることには、前提として倫理的な辛抱強さが求められるのですが、現代社会の新しい変化の多くは、そういったものと相性が悪いんですよね。 さて、姫川さんがおっしゃるリアルとリアリティの話は、今の筆者なりに応えるなら、書き手として何を書きたいか次第だと思います。筆者が執筆中の長編の場合、「リアルを創作に描き出す」ことが出発点ではありますが、それに対して多少なりとも非現実(ファンタジー)な要素をぶつけて“リアル”を搔き乱し、それによって起きる化学反応、あるいは化学反応が起きないという結末に説得力を持たせるためにリアリティを追求していきたい、といった感じでしょうか。筆者が執筆中の長編とは異なりますが、「学校イチの美少女・イケメンが平凡な僕・私を好きになる」という構図の場合、たしかにそれだけだと(リアルではない)ファンタジーですが、主人公側が有頂天になって空回りする、あるいは逆に疑心暗鬼になる、美少女・イケメン側に何か裏がありそうだと匂わせるなどの描写によって、リアリティを担保していけると思います。一概には言えませんが、この、リアルとファンタジーを両立させる過程や、そこで生まれる緊張や葛藤を解消しようとするのに合わせて、物語が展開していくこともあると思います。 どちらも小説ではなくマンガですが、昔なら『タッチ』、最近なら『僕の心のヤバいヤツ』(僕ヤバ)がこの構図の人気作ですね。『タッチ』は双子(上杉達也・和也)と幼馴染(浅倉南)の三角関係ですが、達也と和也が南を取り合っているわけではなく、南が達也に恋しているところに和也が横恋慕していて、達也は南が好きだけれど自分より和也の方がふさわしいと思って南と和也をくっつけようとしているという状況です。要するに自分に自信がないせいでハイスペック幼馴染の誘いを断り続ける達也が、自分が南を幸せにするんだという覚悟を決めるというのがこの物語の基軸です。はっきり言って柏葉監督周りの話以外は全然リアルではない(そして今の視点で見ると明らかに女性差別的な)のですが、和也・達也のファンタジー設定を成立させるための努力の描写に余念がなかったり、南が超絶ハイスペックだということが作品全体のテーマに関わっていたり、一見ご都合主義な幼馴染という要素が3人の重荷になっていたりするので、人間ドラマとしてリアリティが感じられる範囲に収まっていると思います。『僕ヤバ』の方は、中学生にしてモデルをしている美少女・山田と、彼女の同級生の陰キャ男子・市川による恋愛モノですが、第1巻のほとんどを使って市川が山田の眼中に入っていない様子を描き、山田が市川を好きになる前にそれなりに分かりやすいイベントを作ることで、リアリティを担保しようとしています(それにしたって山田の距離の詰め方は不自然な気はしますが)。 両作品に共通するのは、作品の主眼が、「学校イチの美少女・イケメンが平凡な僕・私を好きになる」というファンタジー要素ではなく、主人公の少年がヒロインに見合う男になろうと精神的に成長する過程の方にあるということです。怠惰だった子供が覚悟を決めて努力する、ぼっちが友達を作る、絶望していた人が希望を見出す、というのは人間ドラマの王道です。 結局、読者・視聴者がファンタジーを見たがっているのは事実ですが、その関心は物語が進む中で、リアルとファンタジーの両立を可能にするリアリティ(丁寧な描写)と、作品全体を貫くテーマの方に(読者自身も自覚しないまま)移っていくのだと思います。 もちろん、何にリアリティを感じるか、どのレベルのリアル描写を見たがって、どこから先は見たくなくなるのかは、読者ごとに違います。書き手としては、自分が書きたいものを書くというのを除けば、どんな読者に届けるか、ターゲット層をある程度絞ることが肝要かと思います。バスケに関心がない読者にバスケ漫画を届ける場合、主人公視点でバスケのルールや技術を勉強していく過程が必要で、そこを省略するべきではありません。何でもかんでも一瞬で習得していたらファンタジーでしかないので、最初はレイアップだけで散々苦労する描写を入れることで、リアリティを確保します。それでも話が進めば上達が早すぎておかしいという意見が出てきますが、そこは桜木くんが調子に乗って変な失敗をしたり、試合中に油断したところを敵に逆転されたりする展開を作ることで、リアルとファンタジーのバランスを取ります。私見ですが、ここで大事なのは、話の要素と展開に関して想定読者層を置き去りにしないことと、ファンタジーとバランスをとるためのリアル描写では読者の予想を外すことです。『スラムダンク』を例にとると当然すぎることですが、書き手は読者よりもバスケに詳しくなければならないし、読者が予想もしていないリアル要素を散りばめることができないと作品に説得力が生まれません。学園青春モノや恋愛小説・ラブコメなどの場合、書き手は読者(時には若者自身)以上に若者のことが分かっていることが望ましい、と筆者(あじさい)は思います。ファンタジー要素が多くなって「このままご都合主義のファンタジーで行っちゃうのか?」と読者が予想(心配)し始めたときに、リアリティの範囲内にぐっと引き戻すためには、いつでもリアル要素をぶち込めるように準備しておくことがあらかじめ必要なのではないか、ということです。 まあ、先述のようにどんな読者を想定するかに依りますし、短編であれば人物を掘り下げる機会自体が少ないので、ごく簡潔に済ませても問題ないと思います。それに、そういったことも含めて、筆者が現代の若者を全くの異邦人のように感じるのは、ただの考えすぎという気もしています。最近、バイトの大学生と少し話しましたが、ジェネレーションギャップや共通の話題を見つける難しさは感じたものの、別に倫理観を失って欲望に突っ走っているとか、社会や政治に絶望して死んだ目をしているとか、SNSの流行を追いかけることに疲れ切っているなんてことはなく、普通に快活で礼儀正しい人でした。おかしな人はどの世代にもいるので、コロナ以降の若者だけ特別視するのは多少なりとも偏見が入っているかもしれません。 最後に異世界モノについて述べますと、カクヨムを始めてからずっと色々と考えを巡らせていて、ちょくちょく見方が変わっているのですが、リアルな現代日本を書かなくていい(読者の立場で考えなくていい)という利点で流行っている側面はあると思います。宮崎駿監督のジブリ映画も、初期ほど異世界や外国を舞台にしていますが、やはり日本ではない場所を舞台にしたいという意図があったそうです(『思い出ぽろぽろ』以降は日本が舞台のものばかりですが)。ただ、個人的には、ネット小説で異世界モノが流行りがちなのは、単に書き手がゲーム脳だからという側面の方が強い気がします。実際、最近はネット小説原作の学園恋愛モノがちょくちょくアニメ化されています。おそらく、書き手や読者の層が冒険ファンタジーにハマっていた世代から、ギャルゲーにハマっていた世代にシフトしたのだと思います。 ネット小説のゲーム的異世界モノには、ドラマや起伏がないのにやたら話が長いという特徴がありますが、これはゲームシナリオと共通しています。ハードを購入して遊ぶゲームの場合、値段が高いのに短時間でクリアできてしまうとコスパが悪いという印象になるのか、やたら文字数を多くして「大ボリュームのシナリオ」などと喧伝することがあるようです。また、シリーズものやネット配信のソシャゲの場合、ストーリーが終わってしまうとゲーム自体が終わってしまうので、ストーリーをだらだら引き延ばすことになります。もっと言うと、ゲームファンはゲームの世界に触れていること自体を楽しんでいる節があるので、話があるだけで既にある程度は満足しているのかもしれません。 以前カクヨムで見かけた、ネット小説の歴史を紹介した文章によると、そもそも「小説家になろう」がゲームの二次創作を掲載する場として始まったとか何とかで、その意味でゲーム脳やパクリが幅を利かせているのは当然と言えば当然なんだそうです。 とはいえ、ネット小説の異世界モノが心底から好きだという人がどれくらいかはちょっと微妙ですね。たしかにPVや再生回数は多いですが、みんな割とバカにしながら見ていたり、レビュワーの所に集まって酷評すること自体を楽しんでいたりしそうです。ニコニコ動画を見ると、さすがに制作陣が可哀想に思えてくるレベルです。一方、小説投稿サイトとしては、ユーザーに「この程度でアニメ化するなら、俺/僕/私が本気になったら超人気作を書けるんじゃないか」と思わせて異世界モノに手を出させることで、広告収入を得ているのではないでしょうか。本来的な意味で、「先づ隗より始めよ」ということですね(筆者もまんまとそれに乗せられた口です笑)。 また、最近になって思うのは、書き手の表現力や想像力が欠如しているから同じような設定になるだけでなく、あえて過去作品に似せて、「あー、あるある、こういうの!」という感じを出そうとしているのではないかということです。設定や世界観の時点で何かのゲームや過去作が念頭に置かれており、読者も先の展開を予想していて、書き手側がそれをベタに踏襲したり適度に外したりすることで、パロディやモノマネのような楽しさを提供しているのではないか。その意味で、元ネタ(となるゲーム)を知っている人同士、身内で盛り上がるために書かれているだけのものが、外に引っ張り出されて酷評されている可能性があります。 まあ、身も蓋もないことを言ってしまうと、小説投稿サイトでは結局のところ、他人を評価しまくる人がお返しとして評価を入れられるというのを繰り返すというのが、最も堅実で手っ取り早く人気者になる方法なんだと思います。その意味では、作品自体がゲーム的だとか、ゲーム脳の人同士で盛り上がっていると言ったこと自体が副次的なものでしかない可能性もあります。石丸氏や自民党を批判する中で述べたことと重なりますが、「現代日本」のネットユーザーは「この人はどうやら評価されているらしい」、「これだけ数字が高いのだからきっと信用していいのだろう」などと思考停止して動く節があるので、数値的に人気になっているネット小説を見かけると、文体や内容を吟味する以前に面白いと感じるのかもしれません(単に、人気者に気に入られることで自分の作品を宣伝してもらおうという魂胆かもしれませんが、それはちょっと意地悪な見方でしょうかね)。 長文失礼しました。
あじさいさん、こんばんは。
カクヨムの通知機能が毎度数日遅れなのは仕様なのでしょうか。それとも私のものがおかしいのでしょうか。
さておき、ご無沙汰しております。姫川翡翠です。
「現代日本を描く」というテーマだったと思いますが——もしかすると政治の方がメインだったのかもしれませんが今回は置いておきます——、私も悩ましいと思うところがあります。
私は特に現代の学生生活を描くのが難しいなと思っております。というのも今では教科書やノートがほとんどタブレット端末に置き換わっているらしいじゃないですか。もしかすると、他クラスの友達との教科書の貸し借りもなかったりするのでは……。置き勉はまだ通じますよね? もしかすると授業ノートを集める委員長の姿も現代では描けないのかもしれません。SNSに投稿している学生の雰囲気やそれに対する他の学生の受け止めもどんな感じなんでしょうか。フォロワーが多いとやっぱり偉いんですかね。その辺りがなかなか想像できなくて困っています。
他方で、創作においてはとりわけ漫画やアニメでは、「現代日本」というある種の「異世界」が広がっているのでしょうから、あじさいさんの意識されていることをどこまで真剣に考えるべきかという気もします。「学校イチの美少女・イケメンが平凡な僕・私を好きになる」ってファンタジーを受け入れる以上、「現代日本」という設定はあくまでも「リアリティ」の問題ですよね。いかにそれっぽく見せるか。したがって「現代日本」という設定だからといって「リアル」である必要はない。
あじさいさんの意識は、何となく「リアリティのある創作を描く」ということではなく、「リアルを創作に描き出す」ということにあるような気がします——私の感覚的なものなので間違っているのかもしれませんが。
いうなれば、コロナは「リアリティ」を描くための十分条件であり、「リアル」を描くための必要条件であるといったところでしょうか。
上手くまとまらないですけど、とにかく、「私も『現代日本』って難しいって思いました」という話でした。話は変わりますが、「リアルな『現代日本』を描くこと」から「異世界」に逃げるのは表現力とか想像力の低下みたいなものなんですかね? どうなんでしょう。あと、あじさいさんの考える「リアル」と「リアリティ」の違いも聞いてみたいです。それではまた。
姫川翡翠
作者からの返信
お久しぶりです。
コメントありがとうございます。ある意味では危険な話題で、さすがに今度こそ誰かとドンパチすることになるかもと危惧していたので、敵対的でないコメントを頂けてひとまず安心しました。振っていただいた話題にはちゃんとお答えしたいと思いつつ、筆者自身もまとまらない部分があり、あまり文字数が多すぎるのもなぁと悩んでいたら、結局書けないまま時間ばかり過ぎてしまいました。例によって、書きたいことをバーッと書いてしまうことにしました。それにしても、考えを言語化するのって難しいものですね、定期的に書くようにしておかないと感覚を忘れそうです。実は、男性向け作品についてもそうですが、特に女性向け作品について語り足りないのですが、応援コメントとその返信は1万字が上限だと思うので、その話題は別の機会にします。
カクヨムの通知が遅れがちなのは筆者も感じていましたが、数日単位が恒常化するのはさすがに例外的な気がしますね。筆者自身は、仕事中にカクヨムの通知を見るのが嫌になって、スマホからカクヨムのアプリをアンインストールしてしまいました。結局、ブラウザで頻繁にアクセスして通知を気にしているので、カクヨム依存体質はあまり変わっていませんが、ブラウザで見る通知は、特に遅れている印象はありません。
最近の学生生活については筆者もよく分かっていませんが、紙媒体からタブレット端末に移行しているというのは、コロナ禍を考えれば納得です。逆に言えば、コロナ禍による学校閉鎖やリモート授業がなければ、もう少し紙媒体が尊重されていたと思います。カクヨムで見かけた噂ですが、脳科学的に、液晶画面を見ていて主に働くのは画像・映像を処理する部分で、文字を処理する分野は紙媒体でないと働きにくい、という話があるそうです。実際、PCで書いたときは誤字や文章の稚拙さに気付かなくても、それを紙に印刷すると気付くということはあります。筆者個人は脳の構造ではなく生活習慣や慣れの問題だと思っていますが、もしそういう知見が広く知れ渡っていたら、「紙の教科書も重要だ、廃止してはいけない」という議論が盛り上がっていたかもしれません。
今でもさすがに紙の教科書がすべて――それにまつわる本の貸し借りや置き勉と一緒に――廃れたわけではないと信じたいですが、もう若者とは呼ばれない世代である筆者が感じるのは、ネットそのものに対する警戒心がかなり薄められてしまったんじゃないかということです。筆者が学生の頃は、『ケータイを持ったサル』という題名の評論文が受験や模試の課題文になっていたり、アニメ版『ブラック・ジャック』に『メールの友情』(難病で体が不自由な少年が、ニュージーランドのメル友に嘘をついて自分は野球が上手いんだという自慢話を繰り返していたら、ある時そのメル友が日本に来ることになって……)という短編があったり、伊坂幸太郎の近未来小説『モダンタイムス』にネットに依存し振り回される人々が描かれたり……、筆者は読んでいませんが、『スマホを落としただけなのに』なんて小説(おそらく、スマホは個人情報の塊だから扱いに気を付けなさいよという内容。スマホが普及し始めた当初は個人情報が漏れることのヤバさが世間に認識されていなかったので、うちの親も含め、ケータイやスマホにロックをかけない人が多かったんですよね)も話題になりました。ともかく、インターネットや携帯電話が当たり前ではなかった頃は、新しく出てきたそれらを過剰なまでに警戒する人が多かったのです。デジタルネイティブ世代はコロナ以前もいましたが、学生時代にコロナ禍で、タブレット端末を使えないと学校の授業さえ受けられないという経験をしてしまったら、
「ネットは悪意に満ちた危険な場所だ。あまり個人情報を書き込むな」
「ネットの人間はあらゆる手段で君たちを騙そうとしてくるぞ。○○の詐欺に気を付けろ」
「ネットリテラシーを身に着けて、嘘の情報に騙されないようにしろ。Wikipediaには嘘も多いから、ちゃんと信用できる紙媒体の資料で確認しろ」
などと言われたところで、響くはずがありません。
「自動車は人を殺す危険があるし、環境に悪いガスを排出するから、あまり乗らないように」
という戯言と同じ程度にしか受け取られないでしょう。
どこで聞いた話だったか忘れてしまいましたが、最近はニュースやエンタメの視聴はネットで済むからと、家にTVを置かない家庭が増えているそうです。TVを置いている家庭でも、新聞を取っているかは怪しいです。
石丸氏が選挙のインタビューでまともな受け答えができなかったにもかかわらず支持者が彼を擁護するコメントを書く背景には、既存の政党だけでなくTV局・新聞社への不信感があるのではないかと聞きます。ネットでは大問題になっているのに大手マスコミは全く報道しない、大手マスコミはろくでもないんだ、まともに相手をしなくていい、という考えが働いているのではないか、と(ちなみに、石丸氏自身はキレ芸を始める前は答えようとする姿勢を見せていますし、冷静なときも含めて基本的にずっとトンチンカンなので、最初から相手にしない方針だったのではなく、全ての質問にきちんと答えることは最初から諦めた上で、答えられなくなったらキレてみせることだけ決めていたと考えるべきだと思います)。大手マスコミは都知事選の投開票まで石丸氏をノーマークだったようなので、若者の中でも政治に問題関心を持っている人々が、SNSでPRする候補者たちの中から石丸氏を発掘した、と考えていいでしょう。言ってしまえば、都政に関心を持つ若者たちの決して少なくない人数が、自分が都知事選に立候補した動機も答えられない「政治屋」ごときに騙されて支持し続けてしまうのが、政党不信・マスコミ不信をこじらせた「現代日本」の実情ということです。
小説を書くとき問題になるのは、「現代の若者」はTVや新聞の常識や流行をあまり知らず、専らネットやSNSから情報を得ているのだろうということであり、だとすれば、彼ら彼女らはおそらく本をあまり読まないのではないか、ということです。ネットとSNS、おまけにゲームがあれば、時間などいくらあっても足りないくらいです。もし政治に関心を持つ若者たちが本を読んでいたのであれば、ネットの文章が情報として薄いことや信憑性が低いことに気付くはず(ネットだけ見ていれば紙の本や新聞を読む必要はないという思考回路にはならないはず)ですし、石丸氏の言葉を聞いたときに「印象だけなら悪くないけど、冷静に考えると中身がないな」とか、「人気取りのために、実行する気のないことを言ってるな(実行する気があるならもっと理念の話を押し出すはずだ)」といったことにも気付くのではないかな、と思います。
加えて、石田光規『友達がしんどいがなくなる本』(講談社、2024年)によると、SNSとコロナ禍は若者の人間関係の性質を変化させているそうです。曰く、SNS以前の人間関係は、何かの場所(教室、部室、職場、イベント会場など)に実際に行って、そこで顔を合わせた人たちと話すのが基本なので、いつ誰と何を話したか曖昧な部分が多く、時間をかけて距離感を縮めたり、後から振り返って「あの人とは良い友達だったな」と懐かしんだりするものでした。一方、SNS以後の人間関係は、顔を合わせはするものの、SNSでのコミュニケーションの比重もそれなりに大きくなります(コロナ以後はその傾向が強まります)。SNSでやり取りする場合、いつ誰と何を話したか厳密に記録されるので、誰とどれだけ親しいかが視覚的に分かるようになります。LINEを交換したり、同じLINEグループに入ったりした場合も、
・そもそも相手にLINEを送るか/送らないか
・LINEを始める際の話題に意味があるか/ないか
・相手から返信が来るまでの時間は長いか/短いか
・1回辺りの会話のラリーが丁度良いか/過不足があるか
・会話のラリーが多いか/少ないか
といったことが明確になってきます。Twitterやインスタなら、同じような日常系の投稿に対して、誰がlikeを押したか分かるので、
・投稿にlikeが多いのは誰か
・あの人に誰がlikeを付けているのか
→ あの人にlikeを付けて私にlikeを付けないのは誰か
・私にいち早くlikeを付けてくれるのは誰か
・相互フォローしているのに私にlikeを付けないのは誰か
といった、それ以前は曖昧だった人間関係の距離感や濃淡が意識されるようになります。姫川さんがおっしゃるように、SNSのフォロワーや普段の投稿へのlikeが多いか/少ないかといったことで発言力の優劣が決まる(当人たちがそう感じて強気になったり遠慮したりする)ことも充分考えられるようです。
また、旧来であれば、具体的な場所に行った後で、(示し合わせていないという意味では偶然)居合わせた人と、その場で話題を考えながら会話をしていました。それに対し、SNS以降の時代は、顔を合わせていないときにLINEやインスタでやり取りしているかが親密さの指標になってきます。「会っているときに話が弾んでも、SNSでのやり取りが皆無なとき、その人を親友と呼んでもいいのか」みたいな問いが出てくるわけです。その一方、いつでもどこからでも連絡を取れることの逆説として、自分から連絡を入れることは自発的・主体的に選択された行為ということになるので、何かしらの用件や話題をあらかじめ考える必要が出てきます。教室での会話と違い、わざわざLINEしておいて天気の話や直近のテストの話しかしないのでは、「結局何が言いたいんだ?」、「このLINEのやめどきっていつなんだ?」などと思われてしまうのです。
この時点で相当しんどいのですが、先述したようにSNSでの会話は記録が残るので、たとえば高校生が何人かのクラスメイトとLINEをしたとして、「あの人とは楽しく話ができたけど、この人とはあまり話が盛り上がらなかった」ということを後から冷静な目で振り返ることができます。となると、あの人とは気が合う、あの人とは気が合わない、ということが人間関係を始めた割と初期の段階で、当人たちの肌感覚としては“決まってくる”ことになり、その後の人間関係もそれによって影響を受けます。「最初はとっつきにくかったけど、隣の席になって会話を重ねてみたら案外面白い人だった」みたいな発見をする以前に、もっと気の合うクラスメイトがいると分かってしまうし、その人たちのSNSにlikeを押していれば、隣の席のコミュ症にわざわざ声を掛けなくても暇を潰せるわけです。誰と友達になるか(なれるか)ということが、人間関係が始まった初期に(当人たちの頭の中で)決まってしまって、「時間をかけて距離を詰める」ような人間関係が希薄になりつつあるのではないか、と著者の石田氏は言っています。
若者論・世代論に関しては、上田紀行『生きる意味』(岩波新書、2005年)、土井隆義『キャラ化する/される子どもたち: 排除型社会における新たな人間像』(岩波ブックレット、2009年)なども興味深いのですが、筆者(あじさい)がそれらを読んだのが何年も前で、読書記録を参照してその内容を思い出していたら時間が掛かり過ぎるので、今回は割愛します。
ここで言いたいことは要するに、SNS以前/以後では若者が置かれた環境がすっかり変わってしまっていて、それはおそらく、過渡期を経験している筆者(あじさい)と姫川さんの肌感覚も一概には信用できないくらい、急激な変化だということです。しかも、コロナ期に中学生・高校生だった若者のほとんどは自分たちの状況の特殊性に無自覚で、全てを当たり前だと思っており、逆にそれ以外の状況は考えられないだろうと思います。
あまり書きすぎると、執筆中の長編小説への期待感がどんどん高まってしまって、実際に出来上がったとき「なんだ、こんなものか」と思われそうですが、率直なところ、筆者はこういう「現代日本」の若者の精神構造と恋愛模様に、「君ら、それでいいのか」という問題意識があります。
よく知らない人間がどうして不満だけ持っているかというと、ここまで書いてきたスマホ・SNS以後の人間関係のこともそうですが、保守主義の相対化とグローバル資本主義の浸透が並列的に進むことで、個々の人間はともかく社会全体の傾向としては、倫理的ストイックさを失って即物的な欲望の充足に終始するようになっているのではないかという、さかのぼればハーバーマス辺りが出てきそうな危機意識があるからです。ポリコレやジェンダーフリーという左派的な動きが社会の空気を変えて右派が危機感を抱いている一方、政治の場では右派ポピュリズムが得票して左派の危機感を刺激しているというのが現在の世界ですが、ここには、少なからぬ人々が議論の正当性をあまりきちんと吟味せず、印象や場の雰囲気で何となく価値判断をしながら、意見表明の主な舞台であるネット・SNSの場では他者との対話を拒否し、なおかつ、そのことに対して自己反省をしないという閉塞状態が見受けられます。意見が違うと分かっている人と話をしたり、時間をかけて相手の真意を聞き出したり、自分と異なる立場の人々が抱える問題について想像したりすることには、前提として倫理的な辛抱強さが求められるのですが、現代社会の新しい変化の多くは、そういったものと相性が悪いんですよね。
さて、姫川さんがおっしゃるリアルとリアリティの話は、今の筆者なりに応えるなら、書き手として何を書きたいか次第だと思います。筆者が執筆中の長編の場合、「リアルを創作に描き出す」ことが出発点ではありますが、それに対して多少なりとも非現実(ファンタジー)な要素をぶつけて“リアル”を搔き乱し、それによって起きる化学反応、あるいは化学反応が起きないという結末に説得力を持たせるためにリアリティを追求していきたい、といった感じでしょうか。筆者が執筆中の長編とは異なりますが、「学校イチの美少女・イケメンが平凡な僕・私を好きになる」という構図の場合、たしかにそれだけだと(リアルではない)ファンタジーですが、主人公側が有頂天になって空回りする、あるいは逆に疑心暗鬼になる、美少女・イケメン側に何か裏がありそうだと匂わせるなどの描写によって、リアリティを担保していけると思います。一概には言えませんが、この、リアルとファンタジーを両立させる過程や、そこで生まれる緊張や葛藤を解消しようとするのに合わせて、物語が展開していくこともあると思います。
どちらも小説ではなくマンガですが、昔なら『タッチ』、最近なら『僕の心のヤバいヤツ』(僕ヤバ)がこの構図の人気作ですね。『タッチ』は双子(上杉達也・和也)と幼馴染(浅倉南)の三角関係ですが、達也と和也が南を取り合っているわけではなく、南が達也に恋しているところに和也が横恋慕していて、達也は南が好きだけれど自分より和也の方がふさわしいと思って南と和也をくっつけようとしているという状況です。要するに自分に自信がないせいでハイスペック幼馴染の誘いを断り続ける達也が、自分が南を幸せにするんだという覚悟を決めるというのがこの物語の基軸です。はっきり言って柏葉監督周りの話以外は全然リアルではない(そして今の視点で見ると明らかに女性差別的な)のですが、和也・達也のファンタジー設定を成立させるための努力の描写に余念がなかったり、南が超絶ハイスペックだということが作品全体のテーマに関わっていたり、一見ご都合主義な幼馴染という要素が3人の重荷になっていたりするので、人間ドラマとしてリアリティが感じられる範囲に収まっていると思います。『僕ヤバ』の方は、中学生にしてモデルをしている美少女・山田と、彼女の同級生の陰キャ男子・市川による恋愛モノですが、第1巻のほとんどを使って市川が山田の眼中に入っていない様子を描き、山田が市川を好きになる前にそれなりに分かりやすいイベントを作ることで、リアリティを担保しようとしています(それにしたって山田の距離の詰め方は不自然な気はしますが)。
両作品に共通するのは、作品の主眼が、「学校イチの美少女・イケメンが平凡な僕・私を好きになる」というファンタジー要素ではなく、主人公の少年がヒロインに見合う男になろうと精神的に成長する過程の方にあるということです。怠惰だった子供が覚悟を決めて努力する、ぼっちが友達を作る、絶望していた人が希望を見出す、というのは人間ドラマの王道です。
結局、読者・視聴者がファンタジーを見たがっているのは事実ですが、その関心は物語が進む中で、リアルとファンタジーの両立を可能にするリアリティ(丁寧な描写)と、作品全体を貫くテーマの方に(読者自身も自覚しないまま)移っていくのだと思います。
もちろん、何にリアリティを感じるか、どのレベルのリアル描写を見たがって、どこから先は見たくなくなるのかは、読者ごとに違います。書き手としては、自分が書きたいものを書くというのを除けば、どんな読者に届けるか、ターゲット層をある程度絞ることが肝要かと思います。バスケに関心がない読者にバスケ漫画を届ける場合、主人公視点でバスケのルールや技術を勉強していく過程が必要で、そこを省略するべきではありません。何でもかんでも一瞬で習得していたらファンタジーでしかないので、最初はレイアップだけで散々苦労する描写を入れることで、リアリティを確保します。それでも話が進めば上達が早すぎておかしいという意見が出てきますが、そこは桜木くんが調子に乗って変な失敗をしたり、試合中に油断したところを敵に逆転されたりする展開を作ることで、リアルとファンタジーのバランスを取ります。私見ですが、ここで大事なのは、話の要素と展開に関して想定読者層を置き去りにしないことと、ファンタジーとバランスをとるためのリアル描写では読者の予想を外すことです。『スラムダンク』を例にとると当然すぎることですが、書き手は読者よりもバスケに詳しくなければならないし、読者が予想もしていないリアル要素を散りばめることができないと作品に説得力が生まれません。学園青春モノや恋愛小説・ラブコメなどの場合、書き手は読者(時には若者自身)以上に若者のことが分かっていることが望ましい、と筆者(あじさい)は思います。ファンタジー要素が多くなって「このままご都合主義のファンタジーで行っちゃうのか?」と読者が予想(心配)し始めたときに、リアリティの範囲内にぐっと引き戻すためには、いつでもリアル要素をぶち込めるように準備しておくことがあらかじめ必要なのではないか、ということです。
まあ、先述のようにどんな読者を想定するかに依りますし、短編であれば人物を掘り下げる機会自体が少ないので、ごく簡潔に済ませても問題ないと思います。それに、そういったことも含めて、筆者が現代の若者を全くの異邦人のように感じるのは、ただの考えすぎという気もしています。最近、バイトの大学生と少し話しましたが、ジェネレーションギャップや共通の話題を見つける難しさは感じたものの、別に倫理観を失って欲望に突っ走っているとか、社会や政治に絶望して死んだ目をしているとか、SNSの流行を追いかけることに疲れ切っているなんてことはなく、普通に快活で礼儀正しい人でした。おかしな人はどの世代にもいるので、コロナ以降の若者だけ特別視するのは多少なりとも偏見が入っているかもしれません。
最後に異世界モノについて述べますと、カクヨムを始めてからずっと色々と考えを巡らせていて、ちょくちょく見方が変わっているのですが、リアルな現代日本を書かなくていい(読者の立場で考えなくていい)という利点で流行っている側面はあると思います。宮崎駿監督のジブリ映画も、初期ほど異世界や外国を舞台にしていますが、やはり日本ではない場所を舞台にしたいという意図があったそうです(『思い出ぽろぽろ』以降は日本が舞台のものばかりですが)。ただ、個人的には、ネット小説で異世界モノが流行りがちなのは、単に書き手がゲーム脳だからという側面の方が強い気がします。実際、最近はネット小説原作の学園恋愛モノがちょくちょくアニメ化されています。おそらく、書き手や読者の層が冒険ファンタジーにハマっていた世代から、ギャルゲーにハマっていた世代にシフトしたのだと思います。
ネット小説のゲーム的異世界モノには、ドラマや起伏がないのにやたら話が長いという特徴がありますが、これはゲームシナリオと共通しています。ハードを購入して遊ぶゲームの場合、値段が高いのに短時間でクリアできてしまうとコスパが悪いという印象になるのか、やたら文字数を多くして「大ボリュームのシナリオ」などと喧伝することがあるようです。また、シリーズものやネット配信のソシャゲの場合、ストーリーが終わってしまうとゲーム自体が終わってしまうので、ストーリーをだらだら引き延ばすことになります。もっと言うと、ゲームファンはゲームの世界に触れていること自体を楽しんでいる節があるので、話があるだけで既にある程度は満足しているのかもしれません。
以前カクヨムで見かけた、ネット小説の歴史を紹介した文章によると、そもそも「小説家になろう」がゲームの二次創作を掲載する場として始まったとか何とかで、その意味でゲーム脳やパクリが幅を利かせているのは当然と言えば当然なんだそうです。
とはいえ、ネット小説の異世界モノが心底から好きだという人がどれくらいかはちょっと微妙ですね。たしかにPVや再生回数は多いですが、みんな割とバカにしながら見ていたり、レビュワーの所に集まって酷評すること自体を楽しんでいたりしそうです。ニコニコ動画を見ると、さすがに制作陣が可哀想に思えてくるレベルです。一方、小説投稿サイトとしては、ユーザーに「この程度でアニメ化するなら、俺/僕/私が本気になったら超人気作を書けるんじゃないか」と思わせて異世界モノに手を出させることで、広告収入を得ているのではないでしょうか。本来的な意味で、「先づ隗より始めよ」ということですね(筆者もまんまとそれに乗せられた口です笑)。
また、最近になって思うのは、書き手の表現力や想像力が欠如しているから同じような設定になるだけでなく、あえて過去作品に似せて、「あー、あるある、こういうの!」という感じを出そうとしているのではないかということです。設定や世界観の時点で何かのゲームや過去作が念頭に置かれており、読者も先の展開を予想していて、書き手側がそれをベタに踏襲したり適度に外したりすることで、パロディやモノマネのような楽しさを提供しているのではないか。その意味で、元ネタ(となるゲーム)を知っている人同士、身内で盛り上がるために書かれているだけのものが、外に引っ張り出されて酷評されている可能性があります。
まあ、身も蓋もないことを言ってしまうと、小説投稿サイトでは結局のところ、他人を評価しまくる人がお返しとして評価を入れられるというのを繰り返すというのが、最も堅実で手っ取り早く人気者になる方法なんだと思います。その意味では、作品自体がゲーム的だとか、ゲーム脳の人同士で盛り上がっていると言ったこと自体が副次的なものでしかない可能性もあります。石丸氏や自民党を批判する中で述べたことと重なりますが、「現代日本」のネットユーザーは「この人はどうやら評価されているらしい」、「これだけ数字が高いのだからきっと信用していいのだろう」などと思考停止して動く節があるので、数値的に人気になっているネット小説を見かけると、文体や内容を吟味する以前に面白いと感じるのかもしれません(単に、人気者に気に入られることで自分の作品を宣伝してもらおうという魂胆かもしれませんが、それはちょっと意地悪な見方でしょうかね)。
長文失礼しました。