このエピソードを読む
2022年10月1日 21:52
コメント失礼いたします。聖書にまで話を広げると、各地の神話はどうなんだということになってしまうのではないでしょうか。古い神話や伝承は、非現実的な内容だったとしても、「娯楽のためのフィクション」ではありません。もちろん全ての人がノンフィクションだと信じていた訳ではないでしょうが、多くの人々にとっては「本当にあった昔話」だったはずです。コーラン、仏典、古事記などにも同じことが言えます。おとぎ話、怪談、軍記、偉人の逸話の中にも、非現実的な要素が含まれるものがあり、あれもこれもファンタジーとなりかねません。なので、「近代の小説形式」という前提は、むしろ無くてはならないものなのだと思います。そもそもファンタジー小説というジャンルが近代の西洋生まれということもあります。隣国に目を向ければ、水滸伝、三国志演義、西遊記、封神演義などありますが、あちらはあちらで奇書というジャンルがあり、その中で四大奇書と呼ばれるものがあります。四大奇書も「明代の奇書」という時代的な制約があります。日本においては伝奇小説が中国の奇書に該当するでしょう。その中で〇大伝奇小説を選ぶとすれば、やはり大衆娯楽として大いに発展した江戸時代のものになると思います。
作者からの返信
コメントを下さり、ありがとうございます。 こういう話が、しかもodanさんとできて、嬉しいです。 白状しますと、世界三大ファンタジーのラインナップが気に喰わないという感情で書いてしまったところはありますね。ファンタジーというジャンル自体が、近代小説であることを前提としている、というのはまさにその通りですし、そう言われてしまうとぐぬぬ……という感じです。 ただ、我々が――「我々」って誰なのかという問題はありますが――「ファンタジー」という言葉から連想するイメージを考えたとき、それを「西洋で近代以降に書かれた物語」に限定するのは、あまりしっくりこない気がします。 近代小説の他のジャンルにおいては、啓蒙主義、近代的自我、科学的な物の見方など、近代的な価値観が外せないように思いますが、ファンタジーはそれらに影響を受けつつ、それらを意図的に外そうとするところがあります。 近代的な要素が邪魔になるからこそ、三大ファンタジーでさえも(『ナルニア国物語』の一部を除いて)、単に異国を舞台にするのではなく、近代以前の世界を舞台にしたはずです。 ファンタジーは近代以前に成立した諸々を起源としている、しかもその起源たちは口伝ではなく文章としても(テキストの揺れはあるにせよ)残っている、となれば、ファンタジーは近代に始まったものと考えたり、近代の小説形式にこだわってその枠内でだけファンタジーを語ったりすることは不自然かつ不合理で、むしろ、近代以前からファンタジーと呼びうる無数の物語があり、それが近代以降に小説という形式をとるのが一般的になったと考える方が、自然かつ合理的なのではないでしょうか。 ……などと屁理屈を並べてみましたが、やっぱり強引ですかね。 我ながら屁理屈にしてはよく出来たのではないかとも思っていますが、日本三大漫画家の話題で伊藤若冲や葛飾北斎の名前を出すような話にしかならなかったかもしれません。 聖書は「娯楽のためのフィクション」ではないので、ファンタジーに含みうると述べるのは少々無理があるかな、というのは筆者も思いました。これを言い始めたら世界各地の神話を候補としてノミネートすることになるな、とも。 ただ、「世界三大ファンタジー」という言葉の性質を、「ファンタジーを語るなら絶対に押さえておくべき3作」と解釈すると、『ナルニア国物語』よりは聖書を読んだ方がよっぽど有意義だと思うんですよね。というか、聖書やキリスト教を全く知らないのに『ナルニア国物語』を読んだところで、いまいち腑に落ちないはずです。 仮に聖書をファンタジーに含まないなら、「『ナルニア国物語』を三大ファンタジーに入れるのはキリスト教贔屓じゃない?」という話になります。 そして、もし「特定の宗教を起源としていても『(娯楽のための)フィクション』として書かれていれば、それはファンタジー」ということになるなら、『ナルニア国物語』は単なる作り話、単なる娯楽でしかない、そこに描かれる宗教観はまじめに受け取るほどのものではない、という話になりかねず、この作品を三大ファンタジーに入れることは、むしろこの作品に対するリスペクトが欠けている、ということにもなると思います。 ……やっぱり、「世界三大ファンタジー」なんて言い方をして、無理やり3作品を選ぼうという態度が、そもそも間違っている、ということになってくるのでしょうか。だとしたら、こんなに長々と持論を述べたのに、これ以上ないくらい凡庸な結論になってしまいますね。 長文失礼しました。 結論が出たのか出ていないのか分からないような話になってしまいましたが、これに懲りず、今後もお付き合いいただけると幸いです。
コメント失礼いたします。
聖書にまで話を広げると、各地の神話はどうなんだということになってしまうのではないでしょうか。
古い神話や伝承は、非現実的な内容だったとしても、「娯楽のためのフィクション」ではありません。
もちろん全ての人がノンフィクションだと信じていた訳ではないでしょうが、多くの人々にとっては「本当にあった昔話」だったはずです。
コーラン、仏典、古事記などにも同じことが言えます。
おとぎ話、怪談、軍記、偉人の逸話の中にも、非現実的な要素が含まれるものがあり、あれもこれもファンタジーとなりかねません。
なので、「近代の小説形式」という前提は、むしろ無くてはならないものなのだと思います。
そもそもファンタジー小説というジャンルが近代の西洋生まれということもあります。
隣国に目を向ければ、水滸伝、三国志演義、西遊記、封神演義などありますが、あちらはあちらで奇書というジャンルがあり、その中で四大奇書と呼ばれるものがあります。
四大奇書も「明代の奇書」という時代的な制約があります。
日本においては伝奇小説が中国の奇書に該当するでしょう。
その中で〇大伝奇小説を選ぶとすれば、やはり大衆娯楽として大いに発展した江戸時代のものになると思います。
作者からの返信
コメントを下さり、ありがとうございます。
こういう話が、しかもodanさんとできて、嬉しいです。
白状しますと、世界三大ファンタジーのラインナップが気に喰わないという感情で書いてしまったところはありますね。ファンタジーというジャンル自体が、近代小説であることを前提としている、というのはまさにその通りですし、そう言われてしまうとぐぬぬ……という感じです。
ただ、我々が――「我々」って誰なのかという問題はありますが――「ファンタジー」という言葉から連想するイメージを考えたとき、それを「西洋で近代以降に書かれた物語」に限定するのは、あまりしっくりこない気がします。
近代小説の他のジャンルにおいては、啓蒙主義、近代的自我、科学的な物の見方など、近代的な価値観が外せないように思いますが、ファンタジーはそれらに影響を受けつつ、それらを意図的に外そうとするところがあります。
近代的な要素が邪魔になるからこそ、三大ファンタジーでさえも(『ナルニア国物語』の一部を除いて)、単に異国を舞台にするのではなく、近代以前の世界を舞台にしたはずです。
ファンタジーは近代以前に成立した諸々を起源としている、しかもその起源たちは口伝ではなく文章としても(テキストの揺れはあるにせよ)残っている、となれば、ファンタジーは近代に始まったものと考えたり、近代の小説形式にこだわってその枠内でだけファンタジーを語ったりすることは不自然かつ不合理で、むしろ、近代以前からファンタジーと呼びうる無数の物語があり、それが近代以降に小説という形式をとるのが一般的になったと考える方が、自然かつ合理的なのではないでしょうか。
……などと屁理屈を並べてみましたが、やっぱり強引ですかね。
我ながら屁理屈にしてはよく出来たのではないかとも思っていますが、日本三大漫画家の話題で伊藤若冲や葛飾北斎の名前を出すような話にしかならなかったかもしれません。
聖書は「娯楽のためのフィクション」ではないので、ファンタジーに含みうると述べるのは少々無理があるかな、というのは筆者も思いました。これを言い始めたら世界各地の神話を候補としてノミネートすることになるな、とも。
ただ、「世界三大ファンタジー」という言葉の性質を、「ファンタジーを語るなら絶対に押さえておくべき3作」と解釈すると、『ナルニア国物語』よりは聖書を読んだ方がよっぽど有意義だと思うんですよね。というか、聖書やキリスト教を全く知らないのに『ナルニア国物語』を読んだところで、いまいち腑に落ちないはずです。
仮に聖書をファンタジーに含まないなら、「『ナルニア国物語』を三大ファンタジーに入れるのはキリスト教贔屓じゃない?」という話になります。
そして、もし「特定の宗教を起源としていても『(娯楽のための)フィクション』として書かれていれば、それはファンタジー」ということになるなら、『ナルニア国物語』は単なる作り話、単なる娯楽でしかない、そこに描かれる宗教観はまじめに受け取るほどのものではない、という話になりかねず、この作品を三大ファンタジーに入れることは、むしろこの作品に対するリスペクトが欠けている、ということにもなると思います。
……やっぱり、「世界三大ファンタジー」なんて言い方をして、無理やり3作品を選ぼうという態度が、そもそも間違っている、ということになってくるのでしょうか。だとしたら、こんなに長々と持論を述べたのに、これ以上ないくらい凡庸な結論になってしまいますね。
長文失礼しました。
結論が出たのか出ていないのか分からないような話になってしまいましたが、これに懲りず、今後もお付き合いいただけると幸いです。