世界三大ファンタジー。

2022年09月15日


 どうも、あじさいです。


 2月にカクヨムサポーターズパスポートが実装されたとき、お金が絡んでカクヨムがギスギスするんじゃないかと危惧きぐしましたが、今どうなっているんでしょうか。

 幸いにしてほぼ何も変わっていない気もしますが、筆者自身がカクヨムでの読書や交流をサボりがちだったので、変化を感じる機会がなかっただけかもしれません。


 ちょっと宣伝になりますが、先日、新作『ようこそ、ナーロッパ劇団へ』の投稿を始めました。

 カクヨムでの読書や交流をサボっていたのは、この作品が原因です。


 一応解説しておきますと、ナーロッパというのは「小説家にう」と「中世ヨ」を掛け合わせた言葉です。

 ゲーム的でありきたりな世界観を小バカにしたようなニュアンスなのですが、実はとあるナーロッパ作品で、価値中立的な言葉として採用されています。

 例によって異世界転生を宣告された主人公が、転生先の世界について話を聞いて、心の中で「ナーロッパってやつか……」と呟くんですね。

 中二病という言葉も、侮蔑的ではありつつ現在ではみんな分かった上でそういう作品が作られたり視聴されたりしているわけで、ナーロッパもそういう言葉になりつつあるのだと思います。


 話を戻しますと、この作品、執筆や推敲すいこうがそれ自体として大変で、おかげさまで楽しい作品に仕上がったという自負もあるのですが、書く側としては頭がおかしくなりそうな厄介者やっかいものなんです。

 というのも、コンセプトとしてナーロッパ作品にツッコミを入れる内容なのですが、他人様にツッコミを入れる以上、こちらにツッコミどころが多い事態は避けねばならなかったからです。

 自分でそういう作品を書いていると、他人様の作品に対する目も厳しくなってきます。

 楽しむために読んでいるはずの作品でも、自然にツッコミどころを探してしまうので、ただでさえ悪い性格がさらに悪くなっていきました。


 8月に密林ア〇ゾンプライムで映画の『ロード・オブ・ザ・リング』3部作を見たときも、ツッコミどころばかりが目について、全然楽しめませんでした。

 『ロード・オブ・ザ・リング』と言えば、言わずと知れた超大作ファンタジー映画で、原作となったトールキンの『指輪物語』は世界三大ファンタジーに数えられています。

 おそらく映画版だと分かりにくかっただけで、小説版だと細かい設定にも解説があって、話の筋の方にも違和感がないのだと思います。

 そうでなければ、こんなにも多くの人に今もなお愛されているはずがありません。




 ところで、皆さんは世界三大ファンタジーのあとの2つってご存じでしょうか?

 そもそも誰がどうやって選んだのか筆者も知らないのですが、おそらく日本人が勝手に言っているだけだと思います。

 どういうわけか日本人は「三大○○」が好きで、今はなき『怒り新党』というTV番組にも「新・3大○○調査会」というコーナーがありました。

 小学生か中学生くらいの頃、世界三大美女がクレオパトラ、楊貴妃、小野小町だと聞かされて、「小野小町って(何をした人か知らないけど)世界レベルの美人なんだぁ」と素朴にも信じてしまったのですが、後になって日本人が勝手に言っているだけだと知り、ちょっとガッカリしました。


 そういうわけで、知らなくても別に恥ずかしくない話だとは思うのですが、カクヨムを始めたばかりに拝読したエッセイの中に、この話題が出てきたんですよ。

 記憶を頼りに内容の一部を取り出すと、


「Web小説ではたくさんファンタジーが書かれているけど、ファンタジーとSFの区別もついてなさそうな人が多い。SFって何の略か知っているんだろうか。ファンタジーという言葉の意味や、世界三大ファンタジーが何かも知らないくせにファンタジーを書こうなんて、文芸をめてるのか」


 とか、そんな具合のお話だったように思います。


 SFは science fiction(科学的な架空かくうの物語)の略、ファンタジー(fantasy)は辞書的には「幻想」という意味、魔法で自然法則を曲げるのがファンタジーで、あくまで自然法則の範囲内にいる(魔法的なことにも科学的根拠や制約がある)のがSF……。

 と、大雑把に答えるだけなら難しくはないのですが、当時の筆者は世界三大ファンタジーが何かを知りませんでした。

 でも、こんな言い方をされたら、何だかくやしいじゃないですか。


 それでネットで検索すると、『指輪物語』、『ナルニア国物語』、『ゲド戦記』の3作であると出てきました。

 ほーん、と思いました。

 人気で言えばハリポタが入っていても良さそうですが、新しすぎるということでしょう。

 まあ、それは構わないのですが……、このラインナップ、よく考えると変じゃないですか?


 世界三大ファンタジーと言うからには、最も優れた作品か、歴史的に価値がある古典が入っているべきです。

 この世界で最も名の知れたファンタジー、大人から子供まで誰もが知っているファンタジーって、何だと思います?

 筆者の考えでは、それはズバリ、『シンデレラ(灰かぶり)』です。


 ディズニーの影響が大きいのは確かですし、『白雪姫』とも迷うのですが、不遇な少女が不思議な魔法で王子様に見初められるサクセス・ストーリーという側面は、後々のファンタジー作品にも多大な影響を与えました。

 「シンデレラ・ストーリー」や「シンデレラ・コンプレックス」という言葉もあるくらいなので、No.1は『シンデレラ』になると思います。


「いやいや、作者がはっきりしていない作品が、最初から除外されているだけだろ」

 と思われるかもしれませんが、そうだとしても、「世界三大」と言っておきながら時代と地域がここまでかたよるのはおかしいと思います。

 ファンタジー要素があって作者がはっきりしている作品は、よくよく考えると結構色々ありまして、学校で習うようなものだけでも、以下が思い浮かびます。


・ホメロス『オデュッセイア』(古代ギリシャ)

 → トロイア戦争から帰還するオデュッセウスを、怪鳥セイレーンや魔女キケロが襲う。

・ソポクレス『オイディプス王』(古代ギリシャ)

 → 超自然的によく当たる占い師が登場。

・カーリダーサ『シャクンタラー』(古代インド)

 → 国王が天女と恋をして始まる物語。

・紫式部『源氏物語』(古代日本)

 → 六条御息所ろくじょうのみやすどころ(と呼ばれる女性)が生き霊となってあおいうえ(と呼ばれる女性)を殺したり、光源氏の前に現れたりする。

・ダンテ『神曲』(中世イタリア)

 → 作者と同名の青年ダンテが古代ギリシャの詩人ウェルギリウスの案内で地獄、煉獄れんごく、天国を旅する。

・シェイクスピアの諸作品(近世イギリス)

 → 『ハムレット』には主人公の父の亡霊が、『マクベス』には3人の魔女が、『真夏の夜の夢』には妖精が、『テンペスト』には魔法使いが登場。

・スウィフト『ガリバー旅行記』(近世アイルランド)

 → 小人の国が登場。厳密には広義のSFか?

・ゲーテ『ファウスト』(近世ドイツ)

 → 老博士ファウストが悪魔メフィストフェレスと契約して人生をやり直す。

・曲亭馬琴『南総里見八犬伝』(近世日本)

 → 巨大な犬のスピリットを受け継いだヒーローが活躍。

・アンデルセン『人魚姫』、『マッチ売りの少女』(近代デンマーク)

 → 言わずもがな。

・ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』(近代イギリス)

 → 夢オチではあるが、ファンタジー的な発想力を詰め込んだ名作。

・コッローディ『ピノッキオの冒険』(近代イタリア)

 → NHK『100分de名著』によると、ディズニー映画と原作小説ではかなり違うらしい。

・ワーグナー『ニーベルングの指輪』(近代ドイツ)

 → 北欧神話を題材にした長大なオペラ。


 元は神話や民話だったり、同時代の作品をリメイクしたりした作品もありますが、それにしても「世界三大ファンタジー」と言っておきながらダンテもゲーテも入っておらず、3作とも英語圏から取っているとは、どうしたことでしょう。

 まあ、あと……キリスト教徒でない人々にとって『聖書』って壮大な「ファンタジー」だと思うんですが、これを入れないのはやはり、『聖書』に書かれている物事は事実、現実だと考える、世界各地のキリスト教徒たちに忖度そんたくしたからなんでしょうか。

 筆者は別にキリスト教徒にうらみはありませんし、最初から「英語圏、キリスト教徒向けで、近代小説の形式をとるファンタジーから選んだ」と言ってくれていれば文句はなかったのですが、さも公平な選定かのように言っておきながら選び方が安易だったり、英米中心的な偏りがあったりするのは、納得しがたいですね。




 そう言えば、『ナルニア国物語』はキリスト教色が強いのに対し、『ゲド戦記』って実は主要人物がブラック系(黒人)という、反白人中心主義の作品なんですよね。

 ただ、ベストセラーにもかかわらず、この点はあまり注目されていないように思います。

 宮崎吾郎氏が監督したジブリ映画でも、ゲド(ハイタカ)の肌が褐色だったくらいで、顔立ちは白人のそれでしたね。


 世界各地で美男美女と言えば白人(的)というイメージになってしまうのは明らかに白人中心主義の残滓ざんしなので、将来的には克服されるべきことでしょうし、ハリポタやマーベルの映画にもそういった配慮が見られますが、この辺りは現代小説だとかえって難しいようにも思います。

 小説版の『ゲド戦記』、第1巻『影との戦い』は中学生の頃に読んだきりですが、それでも自然に対する眼差しが(キリスト教近代社会のそれに比べて)優しく豊かだった記憶があるので、その辺りにブラック系らしさが出ていたと解釈できるかもしれません。


 ただ、21世紀になってまで「白人は自然をないがしろにするけど、有色人種は自然との共存を大切にするんだ」なんて話をされると、違和感があると思うんですね。

 フェミニズムも、「男性並みに扱ってほしい」という第1波、「女性独自の良さや困難に目を向けてほしい」という第2波を経て、「男女や性別に関係なく人間がそれぞれ自分らしく生きられる社会を目指そう」という第3波に突入しましたが、これは人種をめぐる問題にも言えます。

 「白人の文明はたしかにすごいけど、有色人種の文化にもこんな良さがある」という時代は終わって、「肌の色なんか関係なく、その人はその人だ」というのが現代の価値観です。

 この変化は喜ばしいことですが、そうなってくると、ファンタジー小説の主人公をわざわざブラック系にして「ブラック系らしさ」を打ち出すのは(よほど上手くやらないと)時代錯誤さくごだ、という話になるかもしれません。


 筆者が書いている『ダームガルス戦記』も『ようこそ、ナーロッパ劇団へ』も、こちらの知識と資料の集めやすさ、そして何より作品として目指す空気感の都合で、中世ヨーロッパ的な世界が舞台になっています。

 人物だけアジア系やブラック系にするのも不自然だと思い、主要人物はみんな白人系です。

 ですが、そうなると人物の外見を描写するとき、白人が思う美男美女っぽさを強調することが必然的に増えるので、我ながら「ちょっとどうなんだろう」と思っています。

 人によってはツッコミどころに見えるかもしれませんし、歴史的な差別構造を安易に再生産しているように見えるかもしれません。

 見えるというか、筆者が読者の立場なら、実際にそうだと考えるに違いないんですよね……。


 それでもやっぱり小説を書いて、書いたからには公開もしたいわけですが、誰も傷つけず、誰もおとしめないように、そして、差別的な社会構造となるべく距離を取れるように、研鑽けんさんを積んでいきたいところです。

 もちろん、それと同時に、他人様のWeb小説へのツッコミが過剰になるのもどうにかしないといけませんね。


 ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。

 またどこかでお会いしましょう。

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