応援コメント

現代文学理論って何だろう。」への応援コメント

  • こんにちは。

    確かに「ふざけんな!」ですね。他の国がどうかは知らないですが、日本の国語教育ってとても邪道なものだと思います。小さい頃は「自由な発想が大事」「全部正解」とか言うくせに、学年が上がれば、一つの答えを強制される。私はこの姿勢がどうにも気に入らず、中学の時に夏休みの課題で、本当の正解は分かっていたけれど、あえて自分の思う答えを書くというどうでもいい抵抗をしたことがありますが、まあ、どうにもなりませんね(笑) ともかく、この制度は今後も根強く残ると思います。センター試験も結局方式は変わらなかったですし。「貧しい」とか無責任なことは言わないでほしいものですね。

    ちょっと重くなった上に、何を言っているのか状態になってしまいましたが、これからも応援しております。

    作者からの返信

     こんにちは。
     コメントありがとうございます。
     返信が遅くなってすみません。

     今回のエッセイ、お察しの通り、筆者の立場もちょっとひねくれているんですが、その辺りのニュアンスを汲み取っていただけて幸いです。そうなんです、大学教員の方々に小中高の国語教育で習う読み方を「貧しい読み方」と言われるのは嫌なんですが、一方で、小中高の国語教育がそのままでは良いとも思っていません。

     iscreamさんのおっしゃるように、国語教育は学年が上がるごとにいつの間にか変質していっていると思うんですね。物語の読み方にはいくつか種類があって、読者は時と場合に応じて、あくまで文字に書かれた情報だけを汲み取ったり、一般常識の範囲で行間を読んだり、作品が書かれた背景の諸々から細かい言葉遣いや表現の意味を考えたり、登場人物たちの心理や事情を自分の個人的な価値観や経験と照らし合わせて考えたりすると思います。おそらく、初期段階の国語教育は様々な読み方を容認することで生徒たちの物語に対する興味を掻き立てようと(あるいはご機嫌を取ろうと)する一方で、どこかの時点で生徒たちの読み方をテストや受験に適合させようとした結果、画一的な方向に変質するのだと思います。もちろん、小学生なんてほぼ野獣なので、まず物語を読んで楽しいと思わせるところから始めたいという気持ちは分からなくもないですが、授業の仕方から考えて、小中高の先生方がそういった授業の質的な変化を生徒たちに自覚させようとしているのかは、ちょっと怪しいですよね。仮に「作者中心」の読み方をするにしても、既に述べたような様々な読み方に明確な境界線を引いた上で授業を行えば、生徒が試験問題を解くときフィーリングに頼ることも減ると思います。
     また、深夜アニメを見るときにお約束(暗黙の了解)があるように、文学を読むときにもお約束がありますが、その辺りのことも授業ではあまり扱われないように思います。深夜アニメのお約束の一例としては、学園ものの作品に登場する純日本人のキャラクターの髪がオレンジやシルバーなど極端に明るい色の場合がある、ということが挙げられます。普通、日本の中学・高校でこのようなエッジのきいた髪色の人間が1クラスに何人もいることはないと思いますが、深夜アニメのファンたちはいちいちそこにツッコミを入れません。深夜アニメにおけるそれがごく一般的なキャラ付けの手法でしかなく、珍しがることではないというお約束を、(何となく)理解しているからです。これと同様に、文学作品にもお約束があります。それはたとえば、文法や言い回しの分かりにくさは原則として気にせず、作品のテーマやメッセージに注目するというものです。この「お約束」を踏まえて読まないと『羅生門』でさえ素人っぽい駄文になってしまう訳ですが、先生方は時としてお約束の説明をすっ飛ばして「これは文句なく優れた詩なんだ」、「真面目な生徒ならこの物語を面白いと思うはずだ」というスタンスで授業を進めるので、それに共感できない一部の生徒の目には、先生が自身の主観的・感覚的な読み方を押し付けてくるように映ることでしょう。

     このように色々問題がある国語教育を施される中で、私たちは「主人公中心」「作者中心」の読み方に傾倒していくのですが、それは何のためかと言えば諸々のテストで及第点を取って無事に卒業したり進学したりするためです。小中高で「主人公中心」「作者中心」の読み方を規範化してテストすることが一般的になっている理由は、普通に考えれば、大学受験がそうなっているからです。大学教員の身でありながら、大学受験に付随する問題(そして自分たちがそれを容認してきた立場であるという事実)を脇に置いて小中高の国語教育を批判することは、エッセイの本文にも書いた通り、少々無責任な態度と言わざるを得ないでしょう。付け加えるなら、なぜ現状がそうなっているのかを考えずに現状を批判した気になっているという意味で、大学教員、しかも文学研究者にしては想像力が足りていない、と言うこともできるかもしれません。

     筆者からすれば、少々大胆な物言いになりますが、そもそも国語教育(特に物語や詩の読み方に関する先生方の指導あるいは「誘導」)を踏まえた生徒たちの読み方の善し悪しを、時間と文字数が厳格に制限されたテストによって点数化すること――さらに、生徒が先生方の指導通りの読み方をしなかった場合に、先生方が自らの指導を顧みるのではなく権力者として一方的に生徒を罰すること――が適切なのかというところに疑問があります。
     大学受験で日本語の文章を読み解く能力を問いたいなら、「評論」の問題さえあれば「小説」は要らないでしょう。もっと言えば、(論点が大きくなりますが、)大学入学で重視すべきなのは「テストの点数」よりも「学生たちがどんな分野の学問に興味・関心を持っているか」だと筆者は思います。というか、筆者の見るところ、興味・関心を軽視して学力・偏差値ばかり重視した結果として、現状、日本の大学入学者は「その分野に興味を持たない学生」、「やる気のない学生」ばかりになっており、大学での(特に文系分野の)「教育」はごく形式的なものになっています。しかも、その分野に強い興味・関心のある学生は、入学時の学力や大学の偏差値に関係なく、大学で自主的に学びを深めているようです。つまり、大学入学後の学習態度を左右するのは、入学時の学力よりも学生たちの興味・関心の方なのです。このように考えることが妥当なら、いっそのこと学力測定を基本とした大学入試は廃止するくらいでよいと思います。
     小中高の国語教育にしても、どうしても先生の立場で生徒を物語や詩に触れさせ、その学習成果を「可視化」したいときは、テストを受けさせるのではなく作文やレポートを提出させるように方針転換すべきです。そして、生徒たちが表明した読み方が明らかに不正確であったり悪意的であったりする場合は、先生が個別に面談して、彼あるいは彼女の読み方を紐解き、よりよい着地点を探っていくという教育が望ましいと思います。もちろん、現状の国語教育にこういったことを上乗せするだけでは先生方の負担が増えてしまいますが、国語の試験を文法的に読み取れる内容だけに限定し、授業で扱う作品の数を減らせば問題ないでしょう。様々な種類の読み方を混同し、先生それぞれの主観的・感覚的な読み方を押し付け、「主人公中心」「作者中心」の読み方を規範化する国語教育の現状を改善することを本気で考えるなら、それくらいの次元でものを考える必要があると思います。

     長文失礼しました。
     本当はもっとコンパクトにしたかったのですが、これ以上返信が遅くなることは筆者としても本意ではないので、このような形で失礼します。
     最後になりましたが、応援してくださりありがとうございます。励みになります。小説もエッセイも、それらに対して頂いたコメントへの返信も、思うようには書けませんが、筆者なりに頑張っていきたいと思います。

    編集済