「知らない内に誰かに対する差別に加担している」とか「誰かを苦しめる社会的な構造を助長してしまう」→これ、昨秋から妄想小説を書き始めて、自分の中からぞろぞろと魑魅魍魎が這い出してくるのを目の当たりにした時に、われながら本当に驚きました。
愛されキャラの主人公は容貌も愛らしく、ライバルキャラは容貌も冷たく人好きしない――という昔話あるあるにはもう絶対にしたくない。正直なところ、昨秋初めて小説サイトの存在を知り書き手の皆様の作品を拝見したのですが、狸球児与太話の参考に高校野球モノの作品をいくつか読みました。女子高生が選手として活躍するという話がもう雨後の筍のようにあって、私が見た限り、どれもこれもヒロインは整った容貌&卓越した身体能力、という設定で、いまだ蟇蛙が潰れたようなご面相のヒロインには残念ながら出会っていません(遠い将来、狸どもに手伝ってもらいながら野栗自身で書くしかないかな……)。
つまらぬ妄想話になってしまい、すみません。本当に、弱い立場の人々をさらに追い込むことに加担しているか、弱小ユーザーであっても公開する以上、真剣に向かい合わなければならないことだと肝に銘じていきたいです。
作者からの返信
小説において登場人物の外見をどう扱うかは、難しい問題ですね。
仮に、小説内で「蟇蛙が潰れたような」顔という扱いだった女性が、魔法や努力で美しくなって「美人」の仲間入りをしたり、人柄の愛らしさが見出されて周りの人々から「美人だね」「可愛いね」などと言われるようになったりしても、結局それはルッキズム(外見主義)の内部で下位から上位に回ったというだけであり、作品として上下関係を打破したことにはなりません。
とはいえ、不美人が人柄によって周りの人々(および読者)の愛を得るという状態を成立させるには、これに先立って、人を外見で判断しない他の登場人物が必要です。しばしば言われることですが、男性中心的な集団において、男性受けしない女性はほとんど発言権を得られないか、発言自体はできても真面目に取り合ってもらえないという状況があります。「ブス」がその内面的魅力を認めさせるためには、その前にルッキズムという壁を越えねばならないのです。
古すぎて伝わらなかったら申し訳ないですが、ここで僕が思い出すのは『タッチ』です。主に高野野球と恋愛模様を題材にした物語で、他のあだち充作品と同じく、令和の今となってはツッコミどころだらけですが、ともかく、主人公のライバルの1人に、勢南高校 野球部エースの西村くんという人物がいます。その野球部の女子マネージャー・鈴子さんは西村くんの幼馴染で、健気なまでに彼のコンディションやメンタルを気遣っているにもかかわらず、西村くんはむしろ迷惑がって彼女を「ブス」と罵って憚らない、という描写があります。読者や視聴者の多くにとってこれは心痛むものであり、作者自身もそれを意図して描いていると思いますが、それと同時に、西村くんが本作のメインヒロインであり超人的な才色兼備である浅倉南にぞっこんだという設定に、多くの人が説得力を感じていると思います(浅倉南が主人公・上杉兄弟以外の男子たちからも羨望の的だというのはこの作品の肝にもなっています)。最終的には西村くんも鈴子さんをパートナーに選ぶのですが、それには長い時間がかかりました。その人の言動がどれだけ気高いものだとしても、顔の美醜しか目に入っていない人にはさっぱり届かないわけです。
容姿が(その時代のその社会で)端麗な場合でも、「気に喰わない女」と認定されると、安易な悪口として「ブス」と罵られ、「(男社会で)無価値な女」との烙印を押される、なんてこともあります。多数派かは分かりませんが、一部の人々は、「ブス」と言えば「気に喰わない女」を黙らせられると考えているわけです。
ここでさらに難しいのは、マンガやアニメなら視覚情報なので判断を読者に委ねられるのに、文字で表現する小説では、地の文や発言者の言葉が絶対的な位置を占めてしまうことです。女性の美醜は実際には評価者の主観にすぎず、個人的な好き嫌いや称賛・罵倒の意図そのものであるにもかかわらず、言葉がダイレクトに読者のイメージに反映されます。地の文で「不美人」だと断じられた人物は、読者にとってもあまり好ましくない外見という評価になり、彼女がその後どんな言動をとっても、そのイメージが足を引っ張る可能性があります。
美醜による上下関係を取っ払い、登場人物の美醜についての明示的な評価を避けて、外見的特徴についての部分的な描写に留める、という手もありますが(僕も自作の小説ではこの方針を取っていますが)、その場合、その人物を不美人に設定すること自体に意味がなくなります。彼女の魅力が他の登場人物に認められた場合、読者はおそらく無意識に、「彼女は美人に違いない」とイメージしてしまうでしょう。
結局、生半可な書き方ではルッキズムや美醜のヒエラルキーに「乗っかる」ことにしかならないわけです。本気で批判するなら、不美人はどれだけ頑張っても正当な評価を得られないとか、仕事・スポーツ・学問・芸術などで評価を得てもなお「ブス」と罵る声は止まないとかの、アンハッピーエンドな物語を書くことになると思います。ただ、基本的に読者は美男美女に自己投影することはあっても「ブサイク」には自己投影したがらないでしょうから、結局その物語は「他者としてのブス」が吠えているだけとしか受け取られないような気がします。それに、現代社会にまだまだルッキズムが色濃いことはみんな分かっていますから、それを作品にしたところで、どれほどの読者が「よくある題材」の域を超えて、自分自身の問題として真剣に捉えてくれるのか、というところも気になります。
難しい問題ではありますが、野栗さんご自身の言葉を借りるなら、安易に諦めるのではなく、変に悟ったようなことを言うのでもなく、真剣に向かい合い続けることが肝心なように思います。ルッキズムを乗り越えるような小説を書けるよう、頑張っていきましょう。
肯定も否定も極に振れると偏執の域で盲目化する感はありますねえ。
中心を見るには端っこにいなきゃいけないと言いますか、気に入ったものに対してであれ気に入らなかったものに対してであれ、ある程度フェアネスを担保した眼差しでいたいものです。そのように見られるよう自分を位置する気持ちが大切といいますか。
作者からの返信
そうなんですよね。
何事もそうなんですが、なろう系作品ってとくに、嫌いな人はとことん嫌い、好きな人はめちゃくちゃ好き、だからお互いに拒絶したり見下したりするばかりに思います。
筆者個人としては、異世界転生にせよ、追放モノにせよ、異世界恋愛にせよ、物語の仕掛けにはあまり文句はないんです。女性差別的な要素が多かったり、主人公が他者を助けることより自分のスローライフなるものを優先するエセ善人だったり、登場人物たちの思考回路が明らかにおかしかったりするのが気になるだけで。
で、実際にそういうことは色々な場所で批判されているはずですが、残念ながらなろう系の異世界モノは総じて劣化もしくはマンネリ化の傾向にあるんですよね。『このすば』も『転スラ』も、問題は多いにしてもオリジナリティを目指していたはずですが、『賢者の孫』がアニメ化された辺りからでしょうか、作品側が読者の予想を上回ることを放棄し始めた感じがします(まあ、筆者はよく知らないので、マンガアプリで見かけたりレビュー動画などで伝え聞いたりした程度の話ではあるのですが)。この劣化はやはり、なろう系異世界モノの界隈が、自分たちに批判的な意見を拒絶し、反論する以前に目を向けなくなったことの表れなのではないかと思います。
そんでもって、今期アニメ化されている『ビースト・テイマーが云々』の公式動画がニコ動に上がっていたので覗いてみましたが、批判や罵倒されることを前提にアップしている感じでした。考えすぎだとすればそれはそれでいいんですが、なろう系って作品として楽しまれているというより、前提知識や教養がなくても安心して叩けるサンドバッグみたいになっているんじゃないか、と思えてきます。だとすれば作者さんや制作スタッフたちのメンタルが心配になるのですが、憶測に憶測を重ねれば、誰も本気では作ってないのかな……。
何にせよ、いくらインターネット上であっても他人に罵詈雑言を浴びせるカルチャーが健全なはずはありません。「健全」の定義が難しいにしても、健全な人間は、人の幸せを願い、人の不幸を悲しいと思える『ドラえもん』的精神であるということは確かだと思います。大きな流れに呑み込まれないためにも、自分自身を見失わないためにも、何かを嫌いになりすぎないこと、何かを好きになりすぎないことから、始めていく必要があるのかな、と思います。
長文失礼しました。
確かになにかを好きになりすぎると、視野が狭くなり、見方が偏りますね。
でも、好きになることがうらやましくなる時あります。
どうも、最近、物事にのめりこむ情熱がなくなってきまして、
そうであるから、好きにもならない。
そうすると、ちょっとつまんないんですよね。
なにかに熱狂的になっている人が、滑稽に見えるけれど、うらやましい。
そんな心境です。
作者からの返信
コメントありがとうございます。
返信が遅くなってすみません。
たとえばプールで体を動かすのは子供時代だけでなく大人になってからも楽しいものですが、プールで遊んでいる人というのは、必ずしもルールのあるゲームやアクティビティをしているわけではなくて、気温と体温が高いのに対して水が冷たいから気持ちいいとか、浮力と水圧(?)の中で体を動かしていると気分がすっきりするとか、そういう純粋に身体的な意味の楽しさを享受しているのだと思います。早い話、“バカみたいに”体を動かすだけで、案外楽しい。これは生物として備わっている必然性のような気がします。もちろん現代社会でも肉体労働や足腰に来る労働というのはありますが、自由に力いっぱい体を動かす機会というのは意識しないと作れないわけですから、たまにはそういうことに興じてみると、新鮮な感覚を取り戻せるかもしれません。
……などという一般論も一応の説得力があるかもしれませんが、筆者としてはむしろ、現代社会のあり方の方が気になります。つまり、ポンポコさんにせよ筆者にせよ、我々が何かにのめりこむ情熱を失っているとしたら、それは個人的な体力の衰えや精神性などの問題に限定されるのではなく、社会のあり方がそうさせるのではないかということです。
現代において、我々は常に(企業によって)商品とサービスに対する欲望を刺激され続けています。また、SNS、ゲーム、アプリで読める無料マンガなど、我々の余暇の時間には小さな刺激と即席の快楽が溢れています。少し暇ができればスマホを触ってしまうし、楽しくもないのにSNSを覗いてしまう。そうしている間に、我々は身体的にも感性的にも疲弊して、フラストレーションの安易な解消方法に飛びつくことを習慣化し、(広義の)消費者という鋳型に押し込められていく。思想家で言うとボードリヤールやハーバーマスが言い始めた話だと思いますが(筆者はどちらも本人の著書は読んだことないですが)、資本主義の市場原理が、経済だけでなく文化や教育など他の分野を侵食して、我々を消費行動に最適化された存在にしていく。これによって我々現代人は、消費者意識が強まると共に、(既存の商品を消費するばかりで)自ら価値ある何かを作り出そうという創造性(クリエイティビティ)を失っていく。そうすると、人間としての固有性(かけがえのなさ)が危ぶまれ、それを自分自身で(薄々)認識することになるわけですが、にもかかわらず、我々はその虚無感をさらなる消費行動によって解消しようとする(そうするように“社会”によって仕向けられる)。そうしている内に、他の消費者と同じものを消費すること、企業が刺激した欲望を満たすこと以外の選択肢を見失い、自分という個人が本当は何をしたいのか、自分という個人は何が好きなのかということが分からなくなっていく……。
この手の議論について、筆者が読んで印象に残っている本は、上田紀行氏の『生きる意味』(岩波新書、2005年)と、内田樹氏の『サル化する世界』(文藝春秋、2020年)です。ツッコミどころもあって100%納得できるかは怪しいですが、「そういう考え方もあるのか」と発想の幅を広げる上では、刺激を得られる本だと思います。もし未読なら、古本屋に行ったときにでも探してみてください。小説だと古典的なSF小説であるブラッドベリの『華氏451度』がこの題材を扱っていて、物語としても面白いと思います。宣伝になりますし、解決策は示していませんが、実は筆者(あじさい)が数年前に書いた短編『パックの寿司、あるいは』もその手の話です。カクヨムの脳幹まことさんという方の短編エッセイ『現に今を生きているのになぜか「体験版」をしている感覚』(https://kakuyomu.jp/works/16817330658617241101)もまさにこの話なので、よろしかったら一度ご覧になってください。何か掴んでいただけるかもしれません。
何はともあれ、エッセイに書いた通り何かを好きになりすぎるのは禁物ですが、何も好きになれない状態よりは何かを好きになっている状態の方が楽しいと思いますので、ポンポコさんの状況が改善することをひとまず願っております。