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2023年11月2日 19:21 編集済
暴力性のようなものって時には必要なのかなと思ってます。創作などでもその要素を入れると力強い表現ができることがある。なので、暴力性を完全に否定してしまうと生命力そのものが萎えてしまうこともありますね。生きることってある種の暴力でなりたってます。その攻撃性をどこまで許容するかが、表現者にとってのキモになりますね。抽象的ですいません。
作者からの返信
う~ん、そのお話は筆者には難しいですね。 筆者は基本的に人間が暴力という手段に訴えることには否定的で、それは警察や軍隊の暴力であってもそうです。やむを得ない場合が多いにしても、「ある種の暴力は仕方ないよね」と片付けるのではなく、「(お互いに)暴力に訴えなくていい解決方法があったのではないか」という自己省察を続けることが必要で、その意味で、暴力が語られるときは常にネガティブな言葉としてでなければならないと思います。 ただ、公的なものにせよ私的なものにせよ、「先に暴力を振るった側が絶対悪になる」という捉え方にも(そんなナイーブな捉え方があるとしたらですが)、但し書きは付けておきたいのです。ポンポコさんのお話にどれくらい接近しているか分かりませんが、言葉や言語というものは著しく不完全なもので、そこから排除される人や事柄が多く存在します。 知識や語彙力がないとか、社会と家庭で言語が違うからどこに行ってもマジョリティから見て「片言」でしか話せないとか、平和的に言葉を届けようにもマスメディアやインターネットなどの発信手段がない、手段はあってもマジョリティが関心を示さないとか、そういう論点もありますが、それ以外の問題もあります。言葉や言語が社会的・歴史的に形成されるという性質上、ある種の問題に関しては、既存の言葉や一般的な言葉にしたところで、本来の意図(と呼ぶべきもの)が、社会的・歴史的に定着した先入観や不公正に絡めとられてしまうという問題です。 代表的には民族差別や性差別などですが、そうでなくても、たとえば日本には「フリーター」という言葉があって、これは自由な働き方をする人というポジティブなイメージです。ですが、経済格差が問題視されるようになった2000年代後半から2010年代にかけて、「非正規雇用」というネガティブな側面を強調する言葉の方が、ニュースや議論の場ではむしろ一般的になりました。最近は、経済団体を中心に「有期雇用」という呼び方を定着させたがっている人々が現われているようで、おそらく「非正規雇用」のネガティブなイメージを払拭したいのだと思います。言葉や言語というのは実はそれ自体が論争的なもので、時には明確な意図に基づいて特定の人や事柄を排除します。 話を暴力に戻しますと、言葉や言語のメインストリームから排除されたとき、人間に残された最後の手段が暴力ということは充分あり得ます。そして、これは「倫理(学)によって倫理的に否定する」ことができないように思います。なぜなら、倫理(学)自体が言葉や言語によって形成されているからです。その意味で、倫理(学)は根源的に、先述した社会的・歴史的な偏りや歪みから自由ではありません(もちろん、だから無意味だという話ではなく、だからこそ注意深く、根気強く、半永久的に議論が続けられねばならないのですが、この辺は東浩紀氏の『訂正する力』に出てきた話と部分的に通じるかもしれませんね)。難しい言い方になりましたが、要するに、「学者や偉人の言葉を引用したくらいで、俺/僕/私を言い負かしたと思うな!」と叫びたい状況が人間や社会にはあるもので、それが切実なものであればあるほど、ある種の「暴力」性を帯びざるを得ない、場合によっては暴力そのものにならざるを得ないのではないか、ということです。 最初に言った通り、筆者は暴力という手段をとることに否定的ですが、以上お話しした意味で、暴力や暴力性というものに対する完全な拒否を、倫理(学)的に発動することはできないとも思います。理屈や道理を抜きにして筆者個人の好き嫌いを言えば、暴力や暴力性はなるべくない社会の方が望ましい気がしますが、神経質なまでに暴力や暴力性を排除してばかりいると、ポンポコさんがおっしゃるように「生命力そのものが萎えてしまう」ことになるのかもしれませんね。
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暴力性のようなものって時には必要なのかなと思ってます。
創作などでもその要素を入れると力強い表現ができることがある。
なので、暴力性を完全に否定してしまうと生命力そのものが萎えて
しまうこともありますね。
生きることってある種の暴力でなりたってます。
その攻撃性をどこまで許容するかが、
表現者にとってのキモになりますね。
抽象的ですいません。
作者からの返信
う~ん、そのお話は筆者には難しいですね。
筆者は基本的に人間が暴力という手段に訴えることには否定的で、それは警察や軍隊の暴力であってもそうです。やむを得ない場合が多いにしても、「ある種の暴力は仕方ないよね」と片付けるのではなく、「(お互いに)暴力に訴えなくていい解決方法があったのではないか」という自己省察を続けることが必要で、その意味で、暴力が語られるときは常にネガティブな言葉としてでなければならないと思います。
ただ、公的なものにせよ私的なものにせよ、「先に暴力を振るった側が絶対悪になる」という捉え方にも(そんなナイーブな捉え方があるとしたらですが)、但し書きは付けておきたいのです。ポンポコさんのお話にどれくらい接近しているか分かりませんが、言葉や言語というものは著しく不完全なもので、そこから排除される人や事柄が多く存在します。
知識や語彙力がないとか、社会と家庭で言語が違うからどこに行ってもマジョリティから見て「片言」でしか話せないとか、平和的に言葉を届けようにもマスメディアやインターネットなどの発信手段がない、手段はあってもマジョリティが関心を示さないとか、そういう論点もありますが、それ以外の問題もあります。言葉や言語が社会的・歴史的に形成されるという性質上、ある種の問題に関しては、既存の言葉や一般的な言葉にしたところで、本来の意図(と呼ぶべきもの)が、社会的・歴史的に定着した先入観や不公正に絡めとられてしまうという問題です。
代表的には民族差別や性差別などですが、そうでなくても、たとえば日本には「フリーター」という言葉があって、これは自由な働き方をする人というポジティブなイメージです。ですが、経済格差が問題視されるようになった2000年代後半から2010年代にかけて、「非正規雇用」というネガティブな側面を強調する言葉の方が、ニュースや議論の場ではむしろ一般的になりました。最近は、経済団体を中心に「有期雇用」という呼び方を定着させたがっている人々が現われているようで、おそらく「非正規雇用」のネガティブなイメージを払拭したいのだと思います。言葉や言語というのは実はそれ自体が論争的なもので、時には明確な意図に基づいて特定の人や事柄を排除します。
話を暴力に戻しますと、言葉や言語のメインストリームから排除されたとき、人間に残された最後の手段が暴力ということは充分あり得ます。そして、これは「倫理(学)によって倫理的に否定する」ことができないように思います。なぜなら、倫理(学)自体が言葉や言語によって形成されているからです。その意味で、倫理(学)は根源的に、先述した社会的・歴史的な偏りや歪みから自由ではありません(もちろん、だから無意味だという話ではなく、だからこそ注意深く、根気強く、半永久的に議論が続けられねばならないのですが、この辺は東浩紀氏の『訂正する力』に出てきた話と部分的に通じるかもしれませんね)。難しい言い方になりましたが、要するに、「学者や偉人の言葉を引用したくらいで、俺/僕/私を言い負かしたと思うな!」と叫びたい状況が人間や社会にはあるもので、それが切実なものであればあるほど、ある種の「暴力」性を帯びざるを得ない、場合によっては暴力そのものにならざるを得ないのではないか、ということです。
最初に言った通り、筆者は暴力という手段をとることに否定的ですが、以上お話しした意味で、暴力や暴力性というものに対する完全な拒否を、倫理(学)的に発動することはできないとも思います。理屈や道理を抜きにして筆者個人の好き嫌いを言えば、暴力や暴力性はなるべくない社会の方が望ましい気がしますが、神経質なまでに暴力や暴力性を排除してばかりいると、ポンポコさんがおっしゃるように「生命力そのものが萎えてしまう」ことになるのかもしれませんね。