応援コメント

Web小説とフェミニズムと私。」への応援コメント

  • 確かにカクヨムとかには、確実に男がマッチョな気持ちで書いている作品て
    けっこうありますね。
    私は男ですが、そういうのに興味ないので、読みませんが、
    読んでもあ~だこ~だ間違いを指摘するのも嫌です。
    おっしゃるように、いくら言っても、そういうの書く人は、考えが
    変わるとは思えないので、無茶苦茶な反論が来て終わりになりそうです。

    あ~差別、なくなりませんね。
    トランプ大統領が誕生したとき、ああ、アメリカも所詮本音はこうなのね、
    とがっかりしたものです。
    ある程度の差別は仕方ないとして、露骨に差別する世の中にはしたくないです。
    差別を嫌悪する程度の良識は忘れないでいたいです

    作者からの返信

     ありがとうございます。
     この回に高評価を付けてもらえると、嬉しさと同時に安堵を覚えます。

     2021年のエッセイではこう書きましたが、実はこの後、懇意にしている何人かの書き手さんの小説作品に対して、フェミニズム的な立場からの批判をしました。いずれも親交は続いていますが、その時だけとはいえ空気が悪くなった人もいれば、そんな指摘はなかったかのように済ませて同じようなことをくり返す人もいます。他の話題と比べても、フェミニズム的な議論は特に個々人の人間観(もっと言うと経験則や処世術)によって立場が変わってくるので、言ったところでそう簡単には動いてもらえませんね。
     本音の部分に差別意識が残ったり、それが言動や態度に現れたりするにしても、「あからさまに差別的な言動はしてはいけない」という前提だけは社会的に共有されていてほしいというのは、まさにポンポコさんがおっしゃる通りです。人間は長く悲惨な歴史の結果として倫理や社会正義の考え方を得てきたわけですから、考え方に違いはあるにしても、せめて倫理的に生きようとすること、(最低限の)社会正義に反しないように注意することだけは捨てないでほしいと思います。昨今、市場原理や弱肉強食が強調される中でそれが忘れられがちな気がして不安です。


  • 編集済

    同感です。書いてしまってから、ステレオタイプのキャラ設定に陥っていたり、人権侵害が現在進行形で起きているのに、それを無視した形で物語を構成していたりすることに気づいて、さりとてリライトする実力もなくて、頭を抱えることがあります。
    フェミニズムの提起する諸問題は、女性を巡る事柄にとどまらず、広い普遍性を有していると思います。
    最近、複数のマンガで十代の女性が胸の大きさで値踏みされるシーンが見所のひとつとして入っているのを見て、強い違和感を覚えました。同時に、マンガなんだし、この程度でなぜ? どこにでもあることでは? と感じたこともあわせ、問題の根深さを改めて突き付けられる思いでした。
    見なければいい、と言われたらそれまでかもしれませんが……。

    作者からの返信

     ありがとうございます。

     おっしゃる通り、フェミニズムが提起する、性差別に関わる諸問題は、全ての人間にとって他人事ではないと思います。誰もが当事者であり、誰もが(被害者であるだけでなく)潜在的な加害者です。この意味で、実は我々が真に警戒すべきなのは「誰がどう見ても差別と明らかなこと」ではなく、「誰もが当たり前だと思って問題にしていないこと」の方だと、筆者は考えています。
     もちろん、世の中には、それがセクハラや性暴力だと分かった上で、面白半分でそういう言動に及ぶ男性も決して少なくありません。ですが、まともな人間であれば、当人が嫌がることや、差別的だと分かっていることはしないものです。つまり、本来、「差別が許されるか許されないか」は問題ではないはずなのです。万引きや暴行が、仮に警察沙汰にならなくても「人としてやったらダメ」なのと同様に、差別は法や制度以前に、倫理的に許されません。これもまた万引きや暴行と同じですが、程度や回数は問題ではありません。マンガの1コマ、Web小説の1文であっても、作品として差別を肯定する結果になるなら、それは差別行為そのものであり、「人としてやったらダメ」です。
     ですから、真に問題なのは、「何が差別なのか」ということの方です。しばしば見かける意見で、「フェミニストは何にでも文句を付ける」とか「フェミニストは問題に抗議するのではなく、自分たちで問題を作り出している」などと言って、フェミニストを攻撃した気になっているものがありますが、的外れもいいところです。それまで当たり前だと思って誰も疑問に思わなかった事柄について、「それって差別じゃないのか」「それって実はおかしいんじゃないのか」と指摘することこそが、フェミニズムの本来的な出発点なのです。
     したがって、「様々なマンガに見られる表現だから許されるべきだ」、「男女についての固定観念を否定したらラブコメが成立しなくなる」、「××がダメなら有名作品のアレも許されないことになってしまう」などと言うのは、すべて的外れです。かつて許されていた、昔は当たり前だった(マジョリティにはそう思えていた)というのは、免罪符になりません。『ドラえもん』でも『エヴァンゲリオン』でも、志村けんでもダウンタウンでも、もし差別的な風潮を容認し助長していたようなら、きちんと批判を受けるべきですし、控えめに言っても批判的な眼差しを向けられるべきです。高く評価するときは、同時に注釈を入れることが望ましいでしょう。他の誰の作品に対しても、(僭越ながら)野栗さんご自身の作品に対しても、「性差別への“過度の”批判はやめよう」、「控えめにしよう」などと考える必要はありませんし、そう考えるべきでもないと思います。

     というわけで、筆者に言わせれば、「十代の女性が胸の大きさで値踏みされるシーンが見所のひとつとして入っている」マンガなど論外です。明らかに女性差別です。もちろん、差別的な表現が法的に許されるかどうか、取り締まるとしたらどう取り締まるべきか、罰するとしたらどんな処罰が適切かは、具体的な内容や程度によって変わってきます。ですが、差別が倫理に反することは揺るぎませんし、差別に限らず、問題のある創作物が批判を受けるのは当然です(エッセイにも書いた通り、実際に応援コメントや手紙などで批判することは難しいですし、運営や出版社の力を借りるにしても、いちいち抗議していたらキリがないですが)。もし誰からも批判を受けたくないなら、そもそも危ない橋を渡るべきではありません。もし差別的だと分かっていて差別的な表現をしているとしたら、白昼堂々万引きをしているようなものです。倫理的に終わっているので、社会制度が整えられた後に、適切に処理されるのを待つしかありません。

     また、「見なければいい」という考え方にこだわる必要はないと思います。あらゆる文章の常として、但し書きや悪評で内容を推測することはできるにしても、実際の内容は読んでみないと分かりません。自分の目で確かめることは決して悪いことではありませんし、創作物とは本来的に読者のそういうスタンスを頼りにしているものです。「文句を言うくらいなら最初から見なければいい」というのは、批判に反論できない人が、批判すること自体を否定するために言っている暴論に過ぎません。たとえるなら、下町の屋台で買ったB級グルメに髪の毛が入っていると指摘した客に対し、「手作りなんだから髪の毛くらい入るよ。嫌なら大手のチェーン店に行け」と言うようなものです。作品が差別的なのは作者の問題であり、読者に責任転嫁するのはお門違いです。
     仮にゾーニングされていても、差別的な言動・態度を当たり前のもの、あるいは好ましいものとして描く創作物は、無意識レベルで人間に影響を与えるものです。物の本によると、アダルトビデオを真に受けて生身の女性に乱暴な行為をしたがる男性もいるようです。となれば、公権力が法律や条例などで規制するべきかはともかく、囲いや棚を作ってさえいれば何をしてもいいという話にはなりません。批判的な目を向けることも実際に批判することも、何も間違っていないと思います。

     長文失礼しました。