15:「散華」~深淵~
「オーリィさん……オーリィさん!」
「憤死」。その時テツジの脳裏に浮かんだこの言葉。
拷問室で、捕虜収容所で、座敷牢で、そして戦場で。かつて彼はこの言葉を何度となく思い出しては、その度にせせら笑うのが常であった。
「怒るだけで人間が死ぬのなら、俺は何度死んだらいいんだ?」と。「だったら、できるものなら俺を殺してみろ」と。古人の白髪三千丈式の大げさな物言いだと。それは自分自身の怒りの感情に対する、ひどく屈折した自嘲だったのだが。
オーリィの「恋」物語の余りにも残酷な幕切れに、目の前で動かなくなった彼女の魂の抜け殻のような姿に、彼は初めて憤死というその言葉に恐怖した。あれ程にまで全てを踏みにじられたオーリィの怒りなら、あるいは、彼女自身の命を奪えるのではないか?いや!
……かつてそれは起こり!今またそれは起こってしまったのではないか?!
(まさか?いや、しかし……おのれ!!)
彼女のもとに行きたかった。安否を確かめたかった。だが彼の体にはその力が無い。彼女はほんの目の前にいるというのに、起き上がることはおろか、這い進むことすら出来ない。両の手のひらでジタバタと床を叩きながら、必死に呼びかけた。
「オーリィさん!返事をしてくれ……オーリィさん……オーリィ!!」
「……どこまで……」
「?!」
首を垂れたままのオーリィの口から、わずかに声が漏れた。その距離でなければ、そしてテツジの特別に敏い耳でなければ、それは届かなかったに違いなかった。
「どこまで、お話したのでしたか……少し気が遠くなってしまって……確か……」
「……もうよせ!!」
テツジはついに耐えかねた。
「なぜあなたは、そんなに自分に辛いことを?もうやめてくれ、でないと。
あなたが……壊れてしまう」
ゆっくりとオーリィは顔を上げて、床に倒れたまま自分を見上げているテツジに向き直った。穏やかな微笑みの中にも、固い決意が同居するその表情。
「テツジさん、あなたは本当に優しい方ね。けれど、だからこそ。私は聞いていただきたいのです。あなたのあの問いに答えをお返しするために。
テツジさん。これは……私とあなたの『戦い』なのです。私はあなたに『反論』しなければなりません。市場の帰り道で聞いた、あなたの血を吐くようなお尋ねに応えるには、私も……全霊をもって立ち向かわなければならないのです。私の全てを懸けて。テツジさん、あなたはおっしゃいました。かつてあなたが最後の戦場に向かったのは、同じ心の『敵』と真正面から噛み付きあうためだと。
……お願いします、どうかもう一度それを、この私と」
(俺は……卑怯だ)
オーリィの思いがけない「挑戦」、否。
(これが『戦い』というのなら、先に剣を抜いたのは、引き金を引いたのはこの俺だ。逃げるわけにはいかない。この人がそれ程の覚悟と言うのなら)
「続きを、聞かせて下さい」
オーリィはうなづいて、再び静かに語り始めた。
「そう、確か……叔父の最後の言葉をお話したところでしたわね……それから。
あの二人は、来た時と同じように抱き合ったまま、仲睦まじく、屋敷のドアに向かって行ったのでした。その背中を見て、私は——
——わたしの口から、思ってもみなかった言葉が出たわ。
『行かないで』と。
憎んでいるはずなのに、怒っていたはずなのに。許せるわけがない、屈服なんて冗談じゃない!だけど……そう言ってしまったの。そしてその自分の言葉を聞いた時、わかったの。やっとわかったの——
——私が、何故『自由』を得ることが出来なかったのか、そのわけが。
歌のレッスンの話、覚えていらっしゃるでしょう?そして同じようなことが何度もあった、と申し上げました。私は何を与えられても、何を教わっても、言われたとおりに、型通り、そのままお行儀よく受け取ることが出来ませんでした。例えば服を買ってもらえば『ここをヒラヒラにすればもっと可愛くなるかしら』とハサミを入れてしまったり。そしてみんなそう言ってくれると思って喜んで見せると……子供のすることですから、出来栄えなど知れています。いたずらでせっかく買ってあげた物を台無しにしたとしか思われない。当然叱られるのです。そんなことが何度も、何度も。その度に有頂天になっていた私は、悪者にされる悲しみを味わわなくてはなりませんでした。
そのうちに、いつの間にか私は奇妙な方法で自分を守るようになったのです。自分でもそうと意識せずに。
『私は何をやっても叱られる。さっきまでうれしかったはずの気持ちが、いきなりどん底に叩き落される。それは嫌だ。どうせ叱られるのなら……初めからみんなの言うことにわざと逆らうようにしよう。悪いと、駄目だと言われることだけしよう。もちろん叱られるだろうけれど、あらかじめわかっていることだから。身構えていれば耐えられるから。不意打ちで脅かされるよりずっとましだから。きっとみんなだって、私が悪い事しかしないと思っていた方がいいはずだ、良いことをしてくれると期待するから余計に怒るのだから』と。
この方法は、確かに私に『心地よい安心』を与えてくれたのです。だからさらにそのうちに、悪行をすることが最初から自分の望みなのだと思うようになっていったのです。それが私の『自由』なのだと。
私の家族があの最後の旅行に出かけた時。わたしは『せいせいしていた』と申し上げましたね?それは……嘘ではありません。ただし。
あの時私は、家族はいずれ帰ってくるものだと思っていました。
だから、みんなが帰って来た時のために、私は家中を散らかして汚してまわり、家具やみんなの持ち物を勝手に処分し勝手に買い足しました。ガードマンが禁じることができたのは私が外出することだけでしたから、私は外からいかがわしい不良仲間を呼び込んで、毎日毎晩乱痴気騒ぎに明け暮れました。広大な庭で隔たれた近所隣にさえ、そうと知れるような大騒ぎをして。そうすれば……
帰ってきたあの人達が、きっと私をいつものように叱責してくれると……
だから寂しくなんかないのだと!!私は一人じゃないのだと!!
取り残された私が、本当に望んでいたのはそれ。
『悪意は、敵は、裏切らない。期待通りの同じ悪意を返してくれる。敵とは同じ心で繋がっている』、私にはあなたのあの言葉がよくわかるのです。それを幼い頃からずっと、自分の心を守る盾にしてきたのが私だったのですから。でも。
……あの人達は、結局、帰ってきませんでした……
私の元に残った親族は、あの大嫌いな叔父だけ。私が彼の元を逃れ離れるためにどんなことをしたのかは、お話した通りです。ですが……
私は本当に……叔父と別れたかったのでしょうか……?
隣の国に移り住んだ私は、屋敷の中でだけは、何とか平静を保っていられました。でも一歩外へ出れば、得体の知れない不安と恐怖。
ようやくわかったのです。あの不安は、「許されることへの不安」だったのだと。転倒した私の心は、否定が肯定で肯定が否定でした。あらかじめ禁じられていることしか、やってはいけないと誰かに言われたことしか、私は安心して行うことが出来なくなっていました。うっかり自由を味わえば、またいきなり失意の底に突き落とされるかもしれない。でも父の遺産をどう使おうと、今は誰も文句を……言ってくれる人がいない!!
自由を求めていたと思い込んでいた私、手に入らないと嘆いた私。でも、私が本当に恐れていたのはまさにその自由そのもの、『自由という名の孤独』だったのです。
あの屋敷は、私が叔父を罠にはめて得たもの。あそこにいれば、叔父の悔しがる顔を私は想像することが出来ました。叔父がもし目の前にいたら、私を以前のように口汚くののしるはず……私を叱責してくれるはず……
それが他の家族を永遠に失った私に残された、唯一の安心の元だった!!
つまりあの叔父に対してすら、私は繋がりを求めていた、それほどまでに、私には孤独が耐えがたかった、見捨てられるのが、置いて行かれるのが怖かった!!
だとすれば、私が娼婦という道に堕ちていったのも当然の結果だったのでしょう。
私が自分の体を売っていたのは、一族の血へのあてつけ……それも嘘ではないのです。でもやっぱりそれは上っ面の理由付けでしかなかった。私の本心は。
鏡を見ればそこに映る、父と母の面影。家を捨て名前まで捨ててしまった私に残された、最後の家族との繋がりの証。二人の似姿である自分の体を淫らな行為で汚せば。あの人たちがいつか、私を責めに、叱りに『戻って来てくれる』のでは……?
そのありえない、自分でも気づかない空しい願いが私を突き動かしていたものだったのです。だからあの初老の男の言うことに逆らえなかったし、そしてその末にあの、猫のような彼が現れた。彼はまさしく、女を虜にし堕落させる麻薬、劇薬のような人でした。私を思う存分汚しよごし、すべてを吸い尽くす彼は、だからこそ!良心の責めを自ら求めていた私には噛み合い過ぎたのです。逢瀬の度に彼の色に染まっていく私の皮膚の感覚、どんどん無くなっていく父の遺産。目茶目茶になっていく私。それを自覚しながらも、私には。そんな自分を私の家族がどこかで叱ってくれているはずだと……地獄の針山の上での間違った安らぎが、そこにあったのでした。
あの酷い裏切りの仕打ちで、自分の心の殻を粉々に打ち壊されたその直後に、叔父はこう言いました。『お前はここに住んでいていい』と。『体を売ってもかまわない』と……『あとは好きにしろ』と!父の遺産を奪い返した今となっては、叔父にとって私などどうでもいい存在、あとは人にまかせて飼い殺しにすればいいだけ。敵意すら向ける必要のない敗者。『好きにしろ』、それは罰を求め続けた私にとっては唯一の恐ろしい刑罰。そしてあの最後の旅行に向かう私の家族達のように、楽しく笑いながら、叔父と猫の彼は私を置いてどこかへ行ってしまう——
——『行かないで』。私を許さないで、ここに居て、わたしを責め続けて!!
——それは叶わない願い。私はそうして、絶望の底に落ちてしまったのです。
叔父の背中を追って、玄関まで這うように進んだ私は、そこにあった鏡に視線を奪われました。屋敷の玄関には、外出の直前に身支度を確認するための大きな姿見があったのです。そこに映った私の顔と姿。二度と会えない家族の面影。私は拳で鏡を打ち砕きました。寂しさに耐えかねたからです。そして血に染まった手で割れたガラスの大きな鋭いかけらを拾って。
……テツジさん、これを」
オーリィは自分の左の手首を指し示した。明らかにそうとわかる大きな傷跡。
(聞きたくはなかったが、やはりそうか……)
自殺。究極の自傷行為。オーリィの物語をここまで聞いたテツジには、それは驚きではなかった。むしろ当然の帰結。だが彼はその痛々しさに呻いた。
オーリィは続きを語りながら、視線を遠い空に向けた。
「あの『山』は皮肉家なのです。この村の誰もがそう言います。死人を呼び寄せ生き返らせて、挙句その体を獣と一つに混ぜ合わせる。そんな離れ業が使えるのに。
死の間際に受けた傷跡は、そのままに残しておく。消してくれれば、あるいは、私の半身を覆う鱗が左側だったら、この傷も見えなくなったかも知れないのに……
広がる血だまり。冷えていく体。破滅する自分。その破滅に対して、あの間違った『安心』を感じながら、父と母の面影を抱いて。安らかに眠ったはずでした——
——なのに!わたしは生き返ってしまった!!そしてあの山は!!
猫の彼ですら奪えなかった、わたしの思い出、わたしの希望、わたしの憎しみや悲しみ、わたしの全てを背負ったわたしの『美』を、全て奪ってしまった!!それを抱いて死ぬことが、わたしの最後の願いだったのに!!
……何の為の新しい命なの?!こんなものは要らない!!——私は」
オーリィは深く息を吸い込んだ。
「もう一度死のうと思いました。ですが……救われたのです。テツジさん。あなたが今お住いの私の隣の家、あそこに以前、誰が住んでいたと思いますか?」
(そうか、新入りは、『お隣さん』が面倒を見るしきたりだ。つまりこの人も『お隣さん』に救われたということか。いったいそれは……)
オーリィの頬に、ほろ苦いが甘い、穏やかな微笑みが浮かんだ。
「ケイミーさんです。あの方が私の『お隣さん』でしたの……」(続)
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