エピローグ:「歌声」
「おはようございます、オーリィさん」
「……あら?」
それは、とある水の日の夜明け間近。いつものように商売道具を調えたオーリィが、戸口をくぐると。そこにテツジがいた。
「おはようございます、でもどうなされましたの、こんな早くに?」
その時、テツジはすでにオーリィの隣に住んではいなかった。彼が「独り立ち」してから三月程経っていたのである。彼もケイミー同様、森の池に近いという理由でオーリィを元の家に残し、自分が出て行ったのであった。
それがこんな時間に。訝るオーリィにテツジは、
「実はその……今日からしばらく水の日の朝市に顔が出せなくなるものですから。それをお伝えに来たのです」
その前に一度あなたの顔を見に来た、とはテツジは言わなかった。
「まぁ……」
でもどうして、とはオーリィは問わなかった。
二人はただ顔を見かわす。数呼吸の後、テツジが相変わらずの、あのはにかみを隠した無表情で静かに話し始めた。
「工事の方が思ったより早く進んで、もう一押しすれば、畑が次の麦播きに間に合いそうなのです。それで仲間や監督と相談して、朝夕二交代で突貫作業をすることになりました。俺が朝組の長を任せられることになって。ですので……」
オーリィはいつもの優雅な首傾げで微笑んだ。
「ご出世ですのね。なによりですわ」
そしてまた見かわす顔。どちらも、もう一言が言えない。だが今度はオーリィが口を切った。
「あの……テツジさん……カズマさんもそこにいらっしゃるのでしょう?
……【お姉さま】にもどうかご挨拶して下さいまし」
ふいを突かれて黙ったままのテツジに。クロエに変わった彼女がこう言った。
「フフ、仕方のない人!わたしやケイミーさんやコナマさんと付き合いたかったら、もう少しお芝居の練習をなさいな。役を振られたらサッと切り替えるの!」
妖艶でコケットリーな言葉と仕草。声のトーンもぐっと低い。そして、誰もいないはずの背後をチラと振り返ったまま、流し目で思わせぶりにさらにこう続けた。
「でも仕方ないのはこの子も同じね。どうして自分で言えないのかしら?
『あなたに歌を聞いていただけないのは寂しい』って。ねんねで困るわ……ねぇ?」
クロエとオーリィ。
どちらが正体でどちらが虚像なのか、今はもう、彼女自身にもわからない。
あるいは。どちらも真実、どちらも芝居。「演じる」ことこそ彼女そのもの。
だがクロエは、テツジあるいはカズマの前にしか姿を現さない。
「でもそうなの……わたしも残念。今日は実は、この子に新曲を歌わせようと思っていたのだけど、延期にするわ。やりがいなさそうな顔してるもの。でしょう?」
「俺の、おっと!……僕の都合に合わせてしまって申し訳ありません」
「フフ……その調子よカズマ」
「しかしよろしいのですかクロエさん?今から急に歌を変更だなんて?」
「わたしのオーリィを見くびらないでよ。持ち歌はどれも普段から練習は欠かしていないわ。そうね、あなたのリクエストで決めてあげましょうか?ホホホ、どうせあなたは聞けないのだけれど!……でもこの子の励みになると思うの。言って頂戴」
「では……『ご覧あそばせ』でお願いしましょう。テツジ君が初めて聞いた妹さんの歌、彼のお気に入りだそうですから」
「そうそう上手よ、素敵!……それにしても、相変わらず立派なお道具ね」
そしてクロエは何の前触れもなく気まぐれに話題を変える。戸惑う彼の様子を見るのが楽しいのか、微笑みはニヤリと挑戦的。
彼女が立派だといったそれ、テツジが手にしている巨大なシャベル。彼の身の丈と力に合わせた大業物だ。さじ部も力負けしないよう分厚く出来ている。普通の道具ではどうにもはかがいかないと、グノーに直々に頼んで打ってもらったのだった。貴重な鉄を一人の人間のためにこれほど使うのはと、渋る老人にさんざん頼み込んで。
「流石は『穴掘り鬼』のトレードマーク。お似合いだわ。実はわたしもね、この子にいいものを作ってあげたの。本当は市場で見せて驚かせようと思っていたのだけど、いいわ、ここで見せてあげる」
見ると、彼女は確かに普段は見かけなかった紐付きの袋を肩に掛けていた。中を開いて彼女が取り出したものは、白いフリルで品よく飾られた淡い萌黄色のエプロン。手早く身に着けると、胸元に見えたのは。
一輪づつ、赤と白の、花の刺繍。
「この子の新しい衣装よ。市場の売り子で食べ物を扱う役だから、清潔さを大事にしてみたわ。どうかしら?え?この刺繍?そうよ、もちろんあなたにいただいたあれを写してもらったの。この子がね、『あの方にいただいたとても大切なもの、失くしたら大変だから』って!せっかく貰ったのに毎日家で眺めるばかりで、外には着けて出歩きたがらないものだから。代わりにわたしが考えてあげたのよ。気持ちはいつでもあなたと一緒に居られるようにって……
ずっと一緒に、ね……
でもいけないわ、もう夜が明けそう!ごめんなさいね、長々引き留めてしまって」
「僕の方こそ。ではお名残惜しいですが、今日はこれで。いずれまた、必ず」
「お待ちしておりますわ……」
最後に彼女はまたオーリィに戻ると、静かに微笑んで優雅に一礼し、テツジに背を向けて山を目指して去って行った。ほんのしばしそれを見送って、テツジも踵を返す。
朝焼け間近の冷めた透き通った風。それを頬に受けながら、荒れ地に向かって歩を進める彼には、その風に乗って彼女のあの歌声が聞こえてくるような気がした。
ご覧あそばせ、ご覧あそばせ……
(完)
麗しき蛙売り おどぅ~ん @Odwuun
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