終章:「共生」(3)

「あんたの生まれ、歴史と伝統を誇る名家、大富豪の一族……成功者だ。今のままを続ければ、間違いなく安楽に裕福に暮らしていける、そういう家、そういう一族だ。

 俺も家柄の古さじゃ多分及びもつかないが、仮にも一国の軍総司令様のご子息、『名家』なんてものの雰囲気は肌で知ってる。ああいう連中は変化を嫌う。そりゃそうだろう、『このまま何もかも変わらずにいれば、それが最高に快適』なんだから。今までのやり方を続けることが、幸福の絶対条件で、変えるのは悪、そういう意識が染みついている。ところがあんたは、運悪く芸術家の魂なんてものを抱えて生まれちまった。だから新しくて、奇妙奇天烈で、今まで誰も試したことのない物、そんなものをつい追い求めてしまう。

 なるほど、『鳥の巣に生まれた蛇の仔』だな……理解されなかった。『おとなしく私たちの言う通りにしろ』、そうやってあんたは、あんたには無理なことばかり言われて来たんだろう?子供のあんたに逆らえるはずもない。だから妙な芝居で天邪鬼に振る舞い始めた。

 死神。俺は『誰かを守る、助ける死神』など見たことが無い。クロエさん、あんたは言ったじゃないか。子供の頃から、言われた通りに出来ない自分は何もかも取り上げられた、有頂天の気分の時に限って、と。それが怖かったのだと。だから最初から人の言うことにわざと逆らうようになったのだと、自分からそうすることにしたのだと。そうして……自分を守ったのだと!あんたが『自分に憑りついた死神』だというその心は、自分の心のより弱くて、清い部分を守るための盾だった。あの夜、あんたはそう言ったじゃないか?

 あんたが、クロエが!オーリィさん、あなたを!ずっと守ってきたんだ。あんたが自分を悪者にして、大切なあなた自身をかばっていたんだ。そんな死神がどこにいる?だからあんたのことを、自分が見えていない愚か者だと言ったんだ。

 ところがだ……

 しばらくして、あんたは自分の悪役芝居が気に入ってしまった。あんたの持ってる作家としての表現欲求、役者としてのセンス。自分を悪役にして自分の考えた筋書通り演じれば、間違いなく思っていたとおりの『いい手ごたえ』が返ってくる。自分を守るためのはずの芝居が、いつの間にか生き甲斐に代わってしまった……違うか?」

「そうかも……いいえ、確かにそうだったわ……みんながわたしの思った通りに怒ってくれる、それが……とっても楽しかった……」

 噛んで含めるように、柔らかい調子で説くテツジの言葉にいつのまにかうつむいていたクロエが、小声で答えた。その悄然たる姿に、しかし彼は逆に焦りを覚えた。

(妙だ、反応が良すぎる。もっと反発すると思っていたのに)

 しかしもう、彼はここで止まるわけにはいかなかった。

「みんなが相手をしてくれるから、だろう?確かにいい事じゃないが、俺は責めはしない。仕方のないことだったんだ。

 ただあんたは結局、それを最後の最後まで続けてしまった。『あたり役』を捨てられなかった。それがまずかった。

 あんたの芝居は上手すぎたんだよ。いつの間にか、自分まで酔わせて騙してしまった。自分が根っからの悪女だと思ってしまったんだ。いけない女、穢れた女、だから滅びは必然という筋書きを自ら書いて、汚れ役を完璧に演じ切ってしまったんだ。

 ……それは『対抗心』だったのかも知れないな。あんたが決定的に道を踏み外してしまったきっかけ、あのオペラの夜。プリマに『身の程知らずと言われている気がした』、あんたはそう言った。本当に身の程知らずだったのか?もし、もっとずっと早くに、あんたの才能に誰かが気付いて育ててくれたなら。その夜、舞台の上に立っていたのは、あんたの方だったかも知れない……あんた自身が心のどこかで思っていたんじゃないか?『憧れた』『悔しかった』、そうじゃないのか?『自分だって出来る、もっと上手く演じてみせる』、そう思ってしまったんじゃないか?だから。

 普通の人間では演じ切ることの出来ないような、過酷な運命の台本を描いて、そのヒロインを演じることに没頭してしまったんだ。あんたの前にたまたま都合よく現れた悪党を、わざわざ巻き込んで相方に抜擢してまで、な。

 どこかで、そういう自分に気づいてさえいれば。あんたなら同じ筆で、もっといい人生のシナリオが書けたはずなのに。自分の眼は、自分では見ることが出来ない。眼はあんたの芸術家としての本質、それが見えないことをあの山は皮肉った……俺にはそう思えるんだ」

だからまだやり直せる。そう言葉を継ごうとして、しかし阻まれた。

「そう……そうなのかも、そうだったのかも知れないわね……でも手遅れよ……」

 クロエの眼に燃えていた炎。青白い怒りの色は影を潜めたかのように見えた。だが消えはしなかった。代わりに現れたのは、後悔と傷心と諦めの色。

「芸術家。仮にそれがわたしの『本質』とやらだとしても。結論は変わらないわね。

 それをわたしが背負っていく必要はもう無いわ、もうこの村には私がいるのだもの。わたしは要らない。全部私にまかせてしまえばそれで済む、でしょう?

 わたしはね?わたしが嫌い。もううんざりなの、わたしがわたしであることに。だからわたしが大好きなケイミーさんやコナマさんの姿を使って、劇場で光り輝くようだったあのプリマの姿も借りて、まだ無邪気で清らかで、辛うじて家族に愛されていた頃のわたしの魂をそこに塗りこめて。わたしの代わりに私を創った。そう多分……「私」がわたしの芸術の最後の、最高の傑作なのよ!

 だったら完成させたいわ!わたしから私を切り離す、それで完成、あとひとノミ入れれば……あなたがわたしを芸術家と呼ぶなら、なおさら!どうしてわたしを止めるの?止められると思うの?」

(それほどまでに、か……これだけでは駄目だ、あと一押し、あと一手……どうする?どうしたらいいのだ?)

 クロエを縛る、案山子の呪いの最後の糸一本。

 それを示すことは出来ても、たとえその存在を納得させたとしても。

(この人にはもう、それを断ち切る『理由』が無いのだ……俺は今、かえってこの人を追い込んでしまったのか……?)

 再び訪れる沈黙。

「テツジさん……いいえ、カズマさんと呼ぶべきなのかしら?あなたはやっぱり優しい方だわね。磔になったわたしに情けをかけてくれた。でももういいの、もう充分。あなたになら、残された私を預けて行ける。もうわたしの亡骸は、どこかに埋めて……」

「勝手なことを言うな!!」

 徒手空拳。もはや策では無かった。彼は何もかもかなぐり捨てた。

「クロエ、あんたがいなくなったら!俺はどこに帰ればいいんだ?!俺を待っていてくれた、あんたは俺にそう言ったじゃないか?!」

 ここまで、たとえ一瞬語気を強めるため激することはあっても毅然とした態度を崩さなかったテツジの、あるいはカズマの豹変。だだをこねる子供のようなその態度と語調に、クロエはつかの間唖然とし、当惑しながらも言い返そうとした。

「それは……でもそれは私がいれば……」

 そこで彼女はみずから口をつぐみ、息を呑んだ。目の前の彼のくしゃくしゃの顔、それは、彼女が左眼で盗み見ていた、彼が彼女に見せようとしなかったあの顔。不安におびえ悲しみと寂しさに暮れる、みじめな捨て犬の顔。それを彼は初めて真正面からさらけだしたのだった。

「クロエさん。僕はね、今でも夢を見るんです、今でも……」

【人が別人に化ける】。世界のすべてを劇として捉え、自らもすべてを演じることで表現するクロエにとって、その瞬間に立ち会うのはその場の【共演者】として抗いがたい誘惑。テツジの読み通りであり、半ばは策として功を奏しかけたその事実、だがそれは彼が策を捨てたことで逆に最大の威力を現した。それまでの彼からは想像もつかなかった弱々しい声が、彼女の開け放たれた魂に直に滲みていく。

「収容所から追手の銃撃を逃れて、ボロ雑巾のようになっていた僕の目の前に、故郷の僕の屋敷が現れるんです。僕が必死に玄関に這いこむと、そこに……

 父さんがいて……僕に向かって両手を広げて……僕は父さんの足にすがりついて……そこで……

 そこで目が覚めるんです。今でもその夢を見て僕は……

 泣かずにはいられない……」

 その言葉の通り、カズマに戻ったテツジの頬を伝って流れ落ちる涙。彼はそれをぬぐおうともしなかった。

「あそこが、僕の帰りたかった故郷。でもそれは夢の、幻の中にしかないんです。

 もう彷徨うのは嫌だ。でも僕が帰ることのできる場所はどこにもない……

 クロエさん、あなたのいるところにしか、もう僕は帰れない!!」

「でも……でもそれなら私が、オーリィが……」

「あの夜!僕を迎えてくれたのはオーリィさんじゃない!クロエさんあなただ!!

 そうでしょう?オーリィさんには『出来なかった』、だから『自分が代わりに出て来た』のだと、あなたは言ったはずじゃありませんか?!

 そう!あなたには『出来ていた』、出来ていたんです!!もしそうでないなら……」

 荒い息を調えながら。ようやく彼はテツジに戻っていく。そして一言問うた。

「なぜ俺は、今生きてここに、あなたの前にいるんですか?もしクロエさん、あなたの中に愛が無いのなら」

「この世に愛がなければ、今ここに自分はいない」。それはあの夜、彼女自身がテツジに言った言葉。

「あなたにも出来る。あなたの愛で人を救える。ただしそれは蛇のやり方でだ。そしてそれでいいんだ。どうかわかって欲しい、認めて欲しいんだ。

 ……あなたがあなたで、クロエさんでいることの意味を、その価値を」

 打ち震えるクロエの唇。言葉が溢れた。

「そうだわ……わたしはあなたを待っていた……待っていたのね、その言葉を。

 わたしは生きていていいの?」

 クロエとなった彼女の頬に、初めて温もりの色が浮かぶのを見て。テツジは深い安堵のため息をつきながら力強く頷いた。

「もちろん……!!」

「わたしも、あなたと一緒に生きていきたい。でも……どうしたらいいの……

 わたしはやっぱり、みんなには姿を見せたくない……」

 テツジはもう一度、荒れ地の仲間たちの親し気な言葉に戻った。彼女をいたわり勇気づけるために。

「そうだな、『隠れるのはよせ』と俺はそう言ったが、生きていく気になってくれたのなら。消えるよりは隠れている方が断然いい。よし!

 だったら今まで通りでいいのさ。芝居を続けたらいい。ただし『悪女の不幸物語』はレパートリーから外せ。そしてあんたは今までは『悪い女のくせにきれいな心のふりをしている』と思って、間違った引け目を持ちながら演ってた。それもよせ。だから芸が曇っていたんだ。

 これからは『村一番の美女・蛇と虫の眼のオーリィの、平和で幸福な毎日』ってやつを、何も考えずにとことん演じ切るんだ。コナマと演ったコントを思い出せ。ああいうのがいい。俺はケイミーさんに膝枕の話も聞いたぞ?『左のお膝で妹が』、最高の台詞だ!そうして共演者と一緒に、自分で自分の芝居を楽しめ。

 というより、言ったろう?もう出来てるんだぞ、そういう風に!

 例えば……こういうのはどうだ?

 クロエさん、悪女のあんたは悪行の責任を取って現役引退する。そして未来の大スターのオーリィさんの裏方に回るんだ。マネージャー、ディレクター、演技指導に座付き作家、作詞作曲!やる事は山ほどあるぞ。しょんぼりしてる暇なんて無い!

 オーリィさん、あなたはクロエさんの言うことをよく聞いて、精いっぱい舞台に立てばいい。人の言うなりになる、確かにそれは危険な場合もあるが、この人に限っては!絶対にあなたを裏切らない。今までもずっと、あなたを守ってくれた人だ。

 そう思って。クロエさんオーリィさん、二人で、仲良く共に生きていくんだ。いつか芝居が、あんたとあなたの中で現実になる。自分で自分を騙すのも、それなら決して悪くない。それがきっと蛇の生き方だ、流儀なんだ。

 どうだろう、俺のこの台本は素人考えすぎるだろうか……?おっと!」

 そこまで言って、テツジは手に白のブローチ握りしめたままだったことに気が付いた。彼は莞爾とほほ笑んで、それを、そっとまたテーブルに置いた。

「衣装小道具も、わたしの仕事ね?」

「無論だ」

「あなたのご提案の品、是非【この子】のステージで採用させていただくわ」

 クロエはそう言って、するりと二つのブローチを手に取り、オーリィの胸元に並べて刺した。

「……どう?この子に、【妹】に似合うと思う?」

「ああ。それにあんたにも」

「ありがとう……」

 それはオーリィだったのか、クロエだったのか。頷いたのは、テツジかカズマか。

 見つめあう、共に生きる者たち。彼らの中の、人と獣のように。(続)

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