12:「散華」~罪業~

 オーリィの「昔話」は、テツジにとって意外な切り口で始まった。

「市場からの帰り途で、あなたのお話を聞いた時、おっしゃっていましたわね?

 情報を得るために、私を犯そうと思ったことがある……と。

 でも、『そんな卑怯なまねは出来なかった』ともおっしゃいました。そう、それが本来のあなたなのだと思います。真面目で誠実なあなた。でも、だったらなぜ、そんなあなたに似つかわしくない野蛮なことを、かりそめにも思いついてしまったのでしょうね……?

 テツジさん、それはきっと、私のせい。直そうとしても隠そうとしてもいつの間にかにじみ出てしまう、昔の『わたし』の姿のせい。

 私は娼婦だったんです。それも——それもね?日々の暮らしのために、生きていくために仕方なく体を売っていた、そういうことじゃなくて。それどころか!

 わたしには若くして、一生贅沢に遊んで暮らしてもまだ使いきれないほどの財産があったわ。それなのに、わたしは娼婦だった。遊びで男に体を売っていたの……!」

 オーリィの口調は、またも過去と現在の自分の間で揺れ動く。

 今の「私」と、過去の「わたし」。抑制と激情、二つの顔。

「——私の生まれた家は、いわゆる『由緒正しい旧家の家柄』でした。一族は代々資産家で、私の両親家族はとてもとても裕福だったんです。ですが——だけど。

 わたしはどういうわけか、小さい頃から実の家族と馴染めなかったの。わがままでこらえ性のないわたしは、旧家の家風や伝統を押し付ける躾についていけなかった。何事につけても、大人しくしていることがどうしてもできなかった。ことあるごとに家族に反発して、問題やら騒動やらを次々起こして、親の面目を散々につぶして。十代の終わり頃にはすっかり、一家の厄介者になってしまった……

 ある時ね、家族旅行があったの。予定では、何か国もの観光名所を遊覧する豪勢な旅だったみたい。ただしわたしは連れて行ってもらえなかった。普段の行いの罰だと言って。お前を連れて行ったら、旅先できっとまた悪さをしでかすだろうって。そうして、父が雇ったガードマンに外出を禁じられて、屋敷に取り残されたの。

 でもわたしはわたしでせいせいしていたわ。これでしばらく羽が伸ばせるって、あの人達と顔を会わせずに済むって、たとえ外には出られなくても、うるさい家族がいなければ、大勢の使用人たちをあごで使ってわがまま放題できるって!

 そして。

 わたし以外の家族全員を乗せた旅客機が、墜落事故を起こした……!」

 オーリィは大きく息を吸い、胸に手を当ててしばし黙した。昂ぶり始めた気持ちを静めるためだったのだろう。

「——私には叔父が一人いました。父の弟です。私は父のことは嫌っていましたが、叔父のことは軽蔑していました——

 ——心の底からよ!卑屈で器が小さくて、欲張りで下品で、そのくせ見栄っ張りで。わたしのことを会うたびに『一族の恥』と言ってののしったわ。叱るためなんかじゃないの、そう言って一族の長であるわたしの父に媚びるために!『お前にだけは言われたくない』と常々思っていたものだけど——

 ——家族を失った私は、その叔父の後見を受けることになりました——

 ——まっぴら御免だった!あんな男の世話になんかなりたくなかった!!それに、一方ではチャンスだと思っていたの。この家を出て自由になれるチャンス。

 わたしは、わたしに相続された財産の半分を叔父に渡すことにしたわ。どうせ後見なんて名目上の事、長い事一緒に暮らせば、わたしの取り分があの欲張り男に全部食いつぶされるのはわかってた。だったらいっそ先に渡してしまって、その代り。

 わたしは残りの半分の財産を持って、この家を出る、だからいなくなったことにして欲しいと申し出たの。そう言いだす前にあらかじめ、父が事業で付き合いのあった上流のお坊ちゃんたちと、桃色のスキャンダルをたっぷりこしらえて、ね。

 欲深だったけど虚栄心もそれ以上に大きかった叔父の弱みをついたの。お金に未練はあったみたいだけど、わたしの行状に手を焼いた叔父は、結局厄介払いの方を選んだわ。叔父はいかがわしい筋からわたしの新しい身分と名前を買って、わたしが事故で行方不明になったようにとりはからった——

 ——『オーリィ』というのは、その新しい方の名前なんです。元の名前はその時、叔父に売ってしまいましたから……もう二度と使うことはないでしょうね」

(確かに……似ている、俺と似ている!こんなことがあるのか……?!)

 ある部分では真逆でありながら、ある部分では鏡合わせのような、自分とオーリィの生きざま。テツジはそのめぐりあわせに驚いた。

「私に残された父の財産。半分になってもそれは莫大なものでした。私は隣の国の有名な、贅沢な別荘地に移り住んで、小さいけれどその分とても豪華な屋敷を買って、それから。

 娼婦を始めたんです。バカンスにやって来る上流階級の男性を相手に——

 ——もちろんお金が目的なんかじゃなかったわ。言ったとおり、それならもう十分すぎるほど持っていたから。

 面白かったの。

 上流の男達が上流気取りで、たった一晩二晩わたしの体を自由にするために、呆れるような額のお金を払って。そして裸になってしまえば、何が地位?何が家柄?何が名誉?どんなに偉そうな人間だってみんな同じ、あさましい動物。

 その有様を、心の中で嗤ってやるのが!面白くて面白くて仕方がなかったの!!

 それとね。わたしは、自分の体を汚したかったの——

 ——前にもお話した通り、私は自分の容姿にたいへん自信がありました。自分の美しい姿が好きで好きでたまりませんでした。娼婦を始めたのは、それを自慢したかったため。自分の美しさが、どれほどに人を惹きつけ惑わすことが出来るのか、それを確認して悦に入るため。それは間違いありません。ですけれど——だけど!!

 わたしのその美しさは、親譲りのもの!一族の血統譲りのもの!

 それもわかってた。そう、父も母もとても美しい人だったわ。あの叔父ですら、見た目はとても美男子だった。わたしはわたしの美しさを愛していたけれど、でも!

 それがわたしを束縛し否定し侮辱し続けた、あの憎い一族の血の賜物だということには我慢ならなかった!だから。

『お前達が与えて恩に着せるつもりのこの素晴らしいもの、もうこれはわたしのものなんだ』って。

『わたしがこれをどんなにひどい事に使っても、お前達に文句は言わせない』って。

 そう言ってあてつけてやりたかったの!!淫らな行いで自分を汚すことで!!——

 ——一言で言えば、どちらも『復讐』だったのですわ」

(あてつけ、か。復讐、か……同じだ、俺も……)

 テツジが思う、自分の最後の出兵。嘘だらけの「あいつら」に、自分の信じる「正義」を貫いて見せつけてやりたかった。そのために傍から見れば無謀な、自滅的な戦いに身を投じた。

(そして結局、俺はみじめに死んだ……この人は?)

「そんな暮らしを、3年?いいえ5年?どのくらい続けたのでしょうね……自分でもよく思い出せないんです。今にしてみれば、随分長く続いたものだとは思っておりますけれど。女一人で雇い主もなく勝手にやっている商売、危険でもあったし、無論私のいた世界でも法に背く行為です。ただ申し上げたとおり、私のそれはお金目当てのものではありませんでしたから、その日その日で気が向かなければ、客を取る必要もありません。多くてもせいぜい週に一、二度くらいのものでした。それと、客筋が名分を気にする名士名家の男性ばかりでしたから、そんな綱渡りのような行為が、生活が、長くおおっぴらにならずに済んでいたのでしょう。それと——それとね?

 何よりわたし、普段はずっと屋敷に閉じこもっていたから。誰もわたしのことなんか気に留めなかったのね、きっと。

 たまさかご近所から人が訪れても必ず居留守で通したし、身の回りには使用人が2、3人、彼らとも家事周りでの必要な話以外は一切しなかったわ。

 そうして、客を取った時以外は、ずっと一人で。窓の外の変わらない風景や庭の草花をぼんやり眺めて、ただ時の過ぎるのを待っているような……からっぽの一日を繰り返してた。

 おかしいでしょう?せっかく自由になれたのに?懐にはお金ならいくらでもあるのよ?面白おかしく遊んで暮らせばいいのに!——

 ——最初はそうしようと思っていたんです。

 別荘地から少し足を延ばすと、そこに今度は大きなリゾート地があって。社交場もレジャー施設もたくさんありました。それは、別荘地のお金持ち達が落とすお金のためにあつらえられた賑わい。もちろんそういう土地柄を選んで移り住んだんです。うんと羽目を外して遊び暮らせるように。そして、屋敷に使用人を雇い入れて家財道具を調えて、新しい生活の準備が大体整ったある日。

 私は一番のお気に入りだった贅沢なドレスに着飾って、初めて遊びに出かけました。その日のお目当ては劇場。高名な楽団と歌手が、歌劇の公演をしていたんです。

 私のお気に入りの演目……高級娼婦と青年貴族の悲恋の物語……テツジさん、あなたの世界にも、同じお芝居はあったのかしら?——」

 ここまで話した時。オーリィは急に黙った。目を閉じ、唇を噛み肩を細かく震わせて、何かを必死にこらえるかのような表情を見せた。そして目を閉じたまま、それまでと違うか細い声でつぶやいた。

「——わたしね、小さい頃、歌のレッスンを受けたことがあったの。わたしのために父が先生を家に呼んでくれてね。とっても楽しかったこと、今でも覚えてる。

 でも先生はすぐに来なくなってしまったわ。父が断ってしまったの。

 わたし、楽しくなるとすぐに勝手な節回しにしたり、詞も変えてしまったり。先生はそれを笑って聴いていてくださったのだけど……父は。

『真面目にやらないなら時間の無駄だ』、そう言って、ね……

 バレエ……ピアノ……それからあれも……あの時も……

 何をやってもわたしはそうだった、いつもなんでも自分で駄目にしてしまう——」

 ずっと古い子供時代の彼女の思い出、唐突に脈絡もなく語られたそれ。テツジにはしかし、これまでのオーリィの自分語りの中でそれが、彼女の真の姿を、心の奥底の傷を、最もよく現しているように思われてならなかった。そしてテツジはそれを、彼が市場からの帰り道で打ち明けたのと同じあの「憤り」を持って聞いていた。

(気まぐれに喜びを与えられては、些細な不始末を理由にすべて取り上げられる……そんなことが何度も……しかし、だったら!

 『駄目にした』のはすべて『あなたのせい』か?そう認めてしまうのか?)

 だが。

 彼が「違う」という前に、オーリィが今の「私」に戻って話の舵を切りなおしたので、テツジは黙して聞き続けざるを得なかった。

「——御免なさい、話が少しそれましたわね……

 私はその日の観劇をとても楽しみにしていました。だから一番いい席の券を予約して、劇場にも開演よりずっと早い時間に行ったんです。慌てたくなかった……劇場の周りは高級な繁華街、余った時間はお店をひやかして周ればちょうどよくつぶせる、気に入ったものがもしあったらそれこそ買い物を楽しむのもいい、そう考えて——

 ——迎えに雇った車の中で、もうわたしは少し変だったわ。街が近づけば近づくほど、気持ちがはやるどころか、逆に!わけもなく不安で落ち着かなかったの。そして、どうしてそんな気持ちになるのかわからなくてイライラしてた。そしてね。

 予定通り早めに劇場近くに着いて、車を降りたわたしは、その場で足がすくんで動けなくなってしまったの。目の前の賑やかで華やかな風景に、自分がまるでふさわしくない気がして……見るものすべてよそよそしくて……まるで場違いな場所に来てしまったような……まるで……

 出ていけ、と言われているような!——

 ——慌てた私は、最初に自分の身なりを確認しました。観劇にはこのドレスは派手過ぎるのでは、もっとフォーマルな装いの方がよかったのでは、と。でもすぐに、そんなナーバスな自分の方がおかしいと気付きました。

 元々私は、どんな場所に出かけてもものおじするような性格ではなかったはずなのです。傲慢で傍若無人で……父を嫌っておきながら、その威光を笠に着て。富豪の令嬢としてどんな場所でも人の前でも平気でわがままにふるまったものでした。

 例えばショッピングなら……手持ちにお金もカードも持たずにお店に入って、父の名前で強引につけ払いにして持ち帰ったり、あれも気に入らないこれも駄目、とさんざんひやかして店中の在庫を引っ掻き回させた挙句、何も買わずに帰ったり。そんなことが当たり前に出来てしまう私だったはず——

 ——でもその日は!わたしはどのお店にも、入るどころか、ショーウィンドウに近づくことすらできなかったわ。トゲだらけの見えない壁が目の前にあって、一歩でも近づこうものなら、体中穴だらけにされてしまうような……不安で、怖くて!!——

 ——けれど。もしそれで逃げ帰ってしまうような自分だったら、あるいは……これからお話するような間違いは犯さなかったのかもしれません。

 不安がつのるに連れて、私の中でもう一つ湧き上がってきたのは『怒り』でした。

 なぜ自分がこんなにビクビクしなければいけないのか。みっともないことも、うしろめたいこともなにも無いのになぜ?そう思って。もとより傲慢な私はあっという間に、いら立ちと怒りにすっかりとらわれてしまいました。自分が怒っている相手が、対象がわからないだけに余計に……まるで正体不明の敵に面罵され侮辱されている気分だったのです——

 ——負けるものか、そう思ったわ!!あんなに楽しみにしていた今日の日を、観劇を、台無しにしてたまるものかって。そして、この上は一刻も早く劇場に行こうと思ったの。まだ大分時間はあったけど、こんな所でこんな気分で無駄な時間を過ごすより!劇場に入りさえすれば!開演の期待が嫌な気分を忘れさせてくれるんじゃないか、ってね……

 通りから劇場のエントランスに上がる石造りの階段。まるで磔台に登ってるみたいだったわ。足が、膝がガクガク震えて、嫌な汗が止まらなくて、息ができなくて。一段登るごとに立ち止まってしまうの。わたしは手にチケットを握りしめて、止まるたびにそれを見て。一番いい席の一番高いチケット、これがあるんだから!わたしはここに入っていいんだ!その資格があるんだ、あるんだ、あるんだって!何度も自分に言い聞かせなければならなかった。

 受付にたどりつく頃には、チケットはくしゃくしゃになっていたし、渡そうと思っても今度は指が開かないの。余計に焦ってまごまごして。受付係に言われたわ。

「お客様、どこかお体の具合がよろしくないのではございませんか?」ってね。

 それはそう尋ねるでしょうとも!その時のわたしがどんな顔色だったか、鏡を見なくても想像がつくわ。そしてロビーのボーイさんが一人付いて席に案内してくれた……いくら高い席の客だからって、わたしはVIPというわけじゃない。普通はそこまではしないでしょうけど、余程わたしの様子がおかしかったから、用心したのでしょうね。実際、わたしも付いてきてくれて心強かったというのはあったの。でも一方で。そんな気持ちになってしまう自分に腹を立てていた。自分の席に行くことぐらい、なぜ一人じゃ覚束ないのかって——

 ——やっとのことで席について。開演までの長い時間を、私は今度はうつむいて目をつむってただじっとこらえました。目を開けていると、今にも天井が落ちてきて押しつぶされるような、舞台が迫ってきてのみ込まれてしまうような、そんな圧迫感に襲われたからです。開演の期待感などまるでありませんでした。反対に不安と居心地の悪さがどんどんひどくなって。正直もうお芝居なんて観たくはなくなっていたのですけれど……かといって、もう席を立って帰ることも出来ませんでした。体が重くて、座席に根を張ってしまったような気分がして。そこまでのうんと短いはずの道のりで、私はすっかりくたくたになっていたんです。

 せめてお芝居が始まってくれれば。私の大好きだったあの曲が、歌が聴けたら。

 たとえ楽しむことは出来なくても、今のこの最悪な気分を少しは紛らわせてくれるかもしれない。休むことだけは出来るかもしれない……

 ここから逃げ帰るための気力が取り戻せるかもしれない!

 そんな空しい望みにすがるしかありませんでした——

 ——その日のお芝居はね……本当に素晴らしかったわ。一流のオーケストラと、当代随一と謳われたプリマドンナ、舞台装置も演出も豪華で、それでいて繊細で。

 わたしは確かに、お芝居が続くその時だけは、不安と恐怖を離れることが出来た。

 だけど。

 ちっとも楽しくなかったの。

 心が物語の中に入って行けない……繁華街で感じたあのトゲだらけの見えない壁、それはその時もずっと私の前に立ちはだかって。

 プリマドンナがね、どんな場面でも、わたしにだけはこう言ってるみたいだった。

『どうです、私の歌、皆さんの演奏、素晴らしいでしょう?でもあなたには関係ない。どこから紛れ込んできたのか知らないけれど、これはあなたには過ぎるもの。

 身の程知らずは大概になさい?』って……!!

 わたし、泣いてたわ。隣の席のご婦人方も同じようにハンカチで目を押さえていたけれど、それはお芝居の悲しいクライマックスだったから。わたしは違った。

 寂しかった。そして悔しかった。ほんの目の前にあって、手に入るはずの素晴らしいものに、理由もわからないまま向こうから拒絶されてしまったことが。

 絶望というのは面白いものね。不安や恐怖に対しては癒しの力があるみたい。そう、希望が無ければ、それを失う恐れなんてないのだもの。お芝居の幕が閉まると、わたしは震えずに動けるようになったわ。すっかり打ちのめされたおかげでね——

 ——席を立ってロビーに出た時、私はそこにカフェがあることに気が付きました。一刻も早く帰ろうと思っていたのですが、その時の私は喉が渇いて仕方がありませんでした。多分街に来てからずっと渇いていたのでしょうけれど、恐怖が静まったのでようやく渇きに気づくことが出来たのだと思います。せめてお茶の一杯ぐらいは、と思って立ち寄ってしまったのですが……それが……

 それが間違いの始まりだったんです——

 ——連れもなく一人だったけど、疲れていたからカウンター席は嫌だった。幸いカフェはそんなに混んでいなかったから、わたしは小さなテーブルの二人用の席に通してもらって。そうしてげんなりしながらお茶を飲んでいるとね。

 一人の初老の男が、わたしのテーブルに相席してきたの。他に空いた席はいくらでもあったのに。開襟シャツにループタイ、一見くだけた服装だったけれど、靴やベルトや時計は文句なしの高級品、それをさりげなく身に着けて。きれいに撫でつけられた髪と手入れの行き届いた爪。いかにも年齢相応以上に経験豊富で遊び慣れた……女好きのする男だったわ。そしてわたしに思わせぶりに微笑みながらこう言ったの。

『急に失礼、お嬢さん。君の顔色がよくないものだから気になってね。

 ……君一人かい?』って。

 言葉こそ親切げだったけど、心配している目つきじゃなかったわ。雰囲気でわかる……明らかに遊びの誘いだった。そしてわたしはそれを聞いて、ようやく薄れて忘れかけていたあのいら立ちが、怒りが!めらめらとこみあげてきたの。

 人がこんな気分の時によくもよくも!いい年のくせに、恥知らずにこのわたしに色目をつかってくるなんて!!……ってね。

 でもあの時。わたしが黙って席を蹴ってしまえばそれで済んだのに。あの男だって多分、ちょっと肩をすくめてやれやれダメだったか、で済んだはずなのに。わたしにはそれが出来なかった。何か言い返してやりこめてやりたくてたまらなかった。そしてこう言ってしまったの。

「お生憎様だけど、わたしは娼婦、ただで遊べると思ったら大間違いよ。そうね、値段は一晩……」

 そして、目の玉の飛び出るような金額を吹っかけてやったわ。わざとその男を小馬鹿にする嫌味な顔でね。すごすご引き下がるか、ふざけるなと怒るか。どちらにせよ追い払えれば胸が空く、そう思って。

 男はそれを聞いてちょっと驚いた様子だった。でもね、すぐに。目の前のわたしのつくり顔とは違う、本当の陰険で嫌味な顔つきに変わったと思うと。上等な皮のウエストポーチからティッシュでも取り出すように無造作に、小切手帳を取り出してね。

『ふん、よろしい。ならば……これでいいね?商談成立。今晩君は私のものだ。自分から言い出したことだ、今更嫌とは言うまい?まぁ構わんよ、君が無礼を詫びるならここでお開きにしてあげてもいいがね』

 驚いたのは今度はわたしの方だった。まさか、と思ったわ。あんな金額を本当に払おうとするなんて。そんなつもりじゃなかった。だけどもうこうなったら売り言葉に買い言葉、傲慢なわたしはその傲慢のせいで引き下がることが出来なくなって——

 ——私は、その男の宿について行ってしまったんです。思えば、途中でいくらでも逃げ出す機会はあったのです。その男は私に乱暴なことはしませんでした。ベッドに入るまでは私の体に一切手を触れませんでした。でもその代りに、道中私がちょっとでもひるんだり怖気づいたり躊躇ったりするそぶりを見せると。

『おや怖いかね?大きな口をきいた割には他愛もない。逃げるなら構わんよ?』

 そう言って私を挑発するのです。その度に私はムキになって……結果的には男の言うなりでした。要するに狡さの「格」が違ったんです。その男と、私のような小娘では。わずかの間に私は私の性格を、弱点をすっかり読まれてしまっていて。男からしてみたら、私を自由自在に操縦する気分だったことでしょうね。

 申し上げた通り、私は良家に生まれたというだけで、中身はいわゆる「不良」でした。女の「初めて」も十代の初め頃にはとっくに失っていましたし、いわんや、叔父の元を去る手段として自分の体を使ったぐらいです。なので、たとえ一晩この男に体を自由にされても……それはもちろん不愉快で不本意でしたが、意地になった私には「馬鹿にされるよりはマシ」という意識がありました。「その位ならたかが知れている」と……

 いざその男と肌を重ねる段になって。私は自分の甘さをつくづく思い知らされることになりました。あの男は——

 ——ああ、あの男は!筋金入りの嗜虐者だったわ!!わたしは、テツジさん、あなたの前では到底口に出来ないような、いやらしくて、恥ずかしくて、汚らしい行為を、次から次へと強要されたの……!

 やり口は宿までの道中と同じだった。わたしが嫌悪の情を顔に出すたびに、

『やれやれ、こんなことも出来ないのかね?偉そうな口を聞いて、高い金をとっておきながら……まぁその程度だとは思っていた。君程度ではね』

 そう言って。そしてそう言われるとわたしは何故か……時には吐き気を催しながら、それでも、無理にでも男の要求に応えないわけにはいかなかった……

 それと……それと……」

 オーリィの肩が、頬が細かく震えはじめた。

「あの男ね……わたしが言われたことを何とかこなしてみせる度にね……わたしの頭を、子供にするみたいに撫でて、こう言うの……

『よしよし、よく出来た偉い偉い、いい子だ君は』って……

 よくも人を小馬鹿にして、って。わたしはその度に思ったけど……でも心のどこかで……あれが……うれしかったのかも……ああ!!ご褒美に尻尾を振る牝犬!!

 浅ましい……なんてわたしは浅ましい女なの……!」

 オーリィは下唇を噛み、うつむいて押し黙った。確かにそれは、一人の女性として普通なら、他人に語るに堪えない事だとテツジは思った。

 だが彼は、オーリィを「浅ましい」とは思えなかった。ひたすらに痛々しかった。

(その「ご褒美」と同じものを、もしこの人が子供時代に、歌やバレエやピアノで受けていたなら、あるいはこの人はそんなことには……遅すぎる、それに「そんなこと」の見返りで?……何もかも間違ってる!!)

 再びそう憤りながら、彼の中に一つの疑問。彼女はなぜ、ここまで赤裸々に自分の語りたくはないはずの過去を打ち明けるのか、と。彼女は何のために、自らの心の傷をえぐるようなことをするのか、と。

 いっそ「止めろ」「もう言うな」と言ってやるべきではないのか?そう思う瞬間が何度もあった。だがテツジはその言葉を口にすることは出来なかった。

 オーリィのそれまでの口調の中に、ただならぬ「決意」を感じて。それを聞き届けることが自分の義務のように感じられて。

 心中に燃える怒りに耐えながら、テツジは無言でオーリィの次の言葉を待った。(続)

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