11:「正体」

 とうとう、オーリィの体が全て、窓をすり抜けた。床にどさりと両足先を落とすと、四つん這いの体制のまま一つ二つ息を整えたのち、彼女は曲げた竹が元に戻るような猛烈な勢いで体を跳ね上げ、立ち上がった。

 普段は丁寧にくしけずられたあの美しい長い髪が、今はめちゃめちゃに乱れて肩に腕に腰にまとわりついていた。右の指先からは、とめどなく滴る鮮血。

 優雅な下がり気味の眉は、今は大きく吊り上がり、その下で痙攣する瞼。

「テツジさん……何があったの?」

 幽鬼のような形相で、彼女はつかつかと詰め寄ってきた。

「あ……あれが……あれを……」

 テツジは答えようとはしていた。だが声が出ない。奇妙なあの石のことについて、説明に困ったというのもあったが、それよりも。

 オーリィの凝視に恐怖していた。体がすくみ、舌が上あごに張り付くような感覚。頭がしびれて言葉が紡げなかった。

 だがそんな彼に対して、オーリィは容赦がなかった。彼の両肩をつかみ、力の限り揺さぶってなお問いただしてくる。

「【あれ】って何?何のこと?しっかり答えて……答えなさい!!」

 テツジは指をさし、やっとのことでこれだけ言った。

「あの……あの石が……」

「……石……?これのこと?これがどうかしたの……?」

 テツジの指した方向から、オーリィはその石を見つけて拾い上げた。彼女にとってはなんの変哲もないただの石ころだ。首を傾げつつ、テツジのところへその石を持っていこうとしたが。

「やめろ!やめてくれ、それを俺に見せるな!!オーリィさん、それをどこかに捨ててくれ!!」

「……これを……?なぜあなたはこれをそんなに……?テツジさん、これはいったいどこにあったの?どうしてこの家に?

 ……まさか!!もしかしてこれが?!

 ……テツジさん!!あなたはこの石をどこで手に入れたの?!」

 石を片手にテツジに詰め寄るオーリィ。途端、テツジはあの謎の発作に襲われる。

「うああああああああ!苦しい、それを俺に近づけるな、やめてくれ!!」

 鋭い目つきで手にした石を一瞥すると、逆効果であると気付いて、オーリィはそれを自分の背後に隠した。

「これでいいかしら?さぁ言って。どうしてあなたはこんな石ころを?言うのよ……

 言いなさい!!」

 最後の一言は、部屋中の空気を切り裂くような絶叫であった。

「あの壁の中から……見えていたんだ、壁にひび割れがあって、その石が少し……」

「壁の中?……ここね……確かにぴったり同じ形の穴だわ。つまりあなたはこれを、ここから掘り出したのね。……自分の爪で掘ったの?そう……でもどうして?」

「わからない……石が見えていたのに気がついたら、いてもたってもいられなくなって、掘り出してしまったんだ……でもそれを見ると俺は!!」

 何を悟ったのか。オーリィの詰問がやや静かに落ち着いた響きに変わってきた。

「これを見ると?あなたはどうなるの?わかったわ、苦しいのね。でもどう苦しいの?答えて頂戴。これはとても大切なことなの……答えて!」

 テツジは答えられなかった。あまりに不可解なその感覚を他人に話すことは、事ここに及んでもいまだに抵抗があったのだ。

 オーリィは答えをあきらめたのか、ゆらりと立ち上がって天井を仰いだ。大きく息を吸って呼吸と心を整えると、床にうずくまるテツジを見下ろしてこう言った。

「いいわ……仕方ないことだけど、あなたは『この村で生きる』ということに、もう一歩覚悟が足りないのよ。わかっていないから、仕方がない……でもいいわ。手掛かりは見つかった!多分間違いない。それならあとは覚悟を決めてもらうだけ……」

 そこまで言うと、オーリィはテツジに背を向けて戸口に歩いていった。扉の前に立つと、手にしていたテツジの掘り出した石を振り上げ、渾身の勢いで閂にそれを叩きつけた。一撃、二撃。数回の打撃で閂はすっかり砕けて使い物にならなくなった。

「あなたの気が変わって、また閉じこもられたら困るから。窓から入ってもいいのだけれど、それは面倒だし、ここに運びたい物もあるの。逃げても無駄よ、あなたの今の体ではどうせ遠くまでは行けない……ご近所にも声を掛けておくし。

 お願いだから、少しの間、おとなしく待っていて頂戴!!」

 最後の一言は、彼女が戸外へ走り出すのとほぼ同時だった。

 オーリィが出て行った後の扉は明け放たれたままであったが、言われずともテツジはもはや一歩も動けなかった。竜巻の襲来のようなオーリィの振る舞い。その暴風にさらされたテツジは、謎の病以上に残りの精力をそぎとられたかのようだった。

(そういえば、俺にはこんなことが……あったな。親父に閉じ込められた時だ)

 彼女は自分をどうするつもりなのか?助けてくれるのか?

 それとも処分されるのか?

(俺の命……そうだ、そんなものは最初から無かったも同然なんだ。一度失くしたはずなんだから。命はどうなってももう構わない。だが……頼む……

 オーリィさん、俺を裏切らないでくれ……!)


 床に座り込んだまま、開いている戸口の外を、今はなすすべもなく眺め続けるテツジ。やがて夜がふけ、そこから見える空に月が昇ってきた。

(こんな世界でも、あれは変わらず美しいものだな……悪くない……)

 この世の見納めには。そう思った時。

 遠くから何かを引きずる音が近づいてくる。

 オーリィが戻って来たのだ。見ると、手に大きな麻袋のようなものを下げている。よほど重いものが詰まっているらしく、彼女の歩みは一歩一歩渾身の力を振り絞っていた。やがてとうとう戸口に仁王立ちになった彼女。その表情は、月明かりの逆光で良く見えない。見えるのは爛々と見開いた眼差しのみ。

「待たせたわね……食事の用意が出来たわよテツジさん……今度こそ、今度こそちゃんと食べてもらうから……さぁ!召し上がれ!!」

 言いながら、袋の底を両手で掴み上げ、中身を床にぶちまけた。

 袋の中身。石、石、石!大小さまざま色とりどり、およそ数十個。

 テツジの口から、もはや言葉にならない絶叫が吐き出された。動かないはずの体が、その時だけおそろしい勢いで後方に飛んだ。家の最も奥の壁に背中で張り付くと、そこで力尽きたのか膝から崩れ落ち、床に額をつけて頭を抱えた。だが無論、戸口に向かってオーリィと石の群れ、逃げ場は全くない。

「……川原で……集めてきたの……なるべく見た目の違う石を、運べるだけ!!

 さぁ、どれでもいいわ!これだけあれば選びたい放題でしょう?!

 わたしには石の『味』なんて見当もつかない、違いもわからない。だから自分で!口に合いそうなものを選ぶのよ!!」

「……何を……何を言ってるんだ……!」

「今まではあんなに手の掛からない人だったのに……ここへきて……いけない人!

 わからないはずはないでしょう?『この石を食べて』と言ってるのよ!!

 あなたが答えてくれないから、代わりにわたしが言ってあげる。石を見るとあなたは苦しむ……どう苦しいのか……

 飢えるのでしょう?

 飢えて飢えて、気が狂いそうになるほどお腹が空いてしまうのでしょう?!

 ……それでいいの!だったら食べればいいのよ、石を!!」

「そんな馬鹿な……『石を食え』だって?……人間がそんなもの……」

「わたしたちは!!もう人ではないわ!!当たり前の生き物ですら無いの!!

 だから覚悟が足りないと言ったのよ!!

 飢えていながら、飢えの対象を恐れる……あなたの中にまだ残っている『人』が、自分が人でなくなってしまうことを恐れている……認められないのよ、そのことを。だから苦しむの。でも!

 それを【乗り越えて】もらわなければ、この世界では生きていけない!!

 いいわ……それならもう一押し……」

 オーリィは懐から、テツジが壁から掘り出したあの石を取り出した。

「自分で掘り出したくらいだもの、この種類の石が一番『効く』のかも知れないわね。なら、最初はこれでいきましょう。テツジさん……」

 再び石を懐にしまうと、オーリィはテツジにするすると音もなく近づき、壁と彼の間に入り込み、突っ伏している彼に覆いかぶさると。

 左腕で、背後からテツジの首を絞め上げた。

 女の細腕とは思えない、万力のようなその絞め。

「……がっ……!!オーリィさん……いったい何を……」

「お話が出来る程度には緩くしてあげる。あなたにもちょっと見せたはず、わたしの左腕に宿ったタガメの力、抱きしめたものを離さないこの力……

『人でない者』の力!まずは食前酒代わり、たっぷり味わって!!

 たとえ元気だった時のあなたの力でも、多分これは外せない。そうね、わたしの腕ごと引きちぎるならどうにかなったかも?でも今のあなたではいずれにしても無理。

 ……この力をこうやって使うのは、あの時が最後、もう二度とやらないって決めてたのだけど……仕方がないわ、テツジさん、あなた聞き分けがないんですもの。

 いいこと?これからわたしの家に来てもらうわ。見せたいものがあるから。でもあなたを引きずっていくのは重たくてたいへん。無駄に苦しい思いをしたくなかったら、なんとか自分でも這うことね!」

 そう言って、オーリィはテツジの体をぐるりと回して向きを変え、戸口から引きずり出そうとし始めた。しかし、オーリィの異常な力は左腕の絞める力のみ、テツジの巨体は重く、容易く動かすことは出来ない。彼女の力だけで引き摺ろうとすれば、当然首がきつく締まる。地面に両足を投げ出してしりもちをついた体勢のテツジ、進行方向は彼の背中側。彼は言われるがままに、残ったわずかな力で手足で地面を押して進みを助けるしかなかった。

 奥の壁際から、二人はようやく戸口にさしかかった。戸口にはしかし、オーリィがぶちまけた石が行く手を塞ぐように転がっていた。石に体が触れた途端、またあの発作に襲われたのか、テツジの体は硬直して動かなくなった。

「……重いわ……進まない!!どうして?!なぜ言うことを聞いてくれないの?!」

 支離滅裂。そこに障害物になる石をばらまいたのは、彼女自身ではないか。

(わからない……!滅茶苦茶だ何もかも……この人は、いったい俺をどうしたいんだ……?)

 その時。

「わたしは!あなたを!助けたいの!!」

 オーリィの言葉がまた、テツジの思いの一歩先に触れた。

「言ってくれたでしょう?答えを!信じて待ってくれるって!

 ……答えはこの先にあるの!だからお願い動いて!!」

 理性の制御を失った、オーリィの暴走。だが、その言葉でテツジは彼女の行動の原動力だけはうかがい知ることが出来た。

 彼女は自分を助けたいのだ、どうあれ、とにかく!

(俺は……確かにそう言った……そうだ、あの答えを聞くまでは、何があろうと)

 死ねない、と。行くしかない、と。テツジは尽きかけた力を振り絞って再び動き始めた。石が触れるたびに彼の体は痙攣したが、その度に耐えなおしてまた動く。

 そうしてようやく戸口から抜け出した二人。絞める腕と絞められる首で繋がり、蝸牛の歩みのようにじわじわとした速度で進むその姿は、冷たく輝く月明かりの下で、まるで一つの生き物のようであった。


 引くオーリィにもまた限界はあったのだろう。彼女の家の入口をくぐったところで突然、絞める左腕が脱力した。テツジの首からするりと腕がはずれ、オーリィはそのまま背中で床に倒れこむ。そして二度三度と荒い息を天井に向けて吐きだした後、意を決したかのように体を横に転がして、四つ這いの姿勢で家の奥に向かい始めた。ただし、力を使い果たしたのか、左手はダラリと垂れているだけで、進むためにも体重の支えにも役立っていない。両足と右腕だけで這う姿はバランスを失い、みじめなまでに不器用で、何をするにも優雅でリズミカルだった彼女のあの立ち居振る舞いの面影は、そこにはまったく無かった。

 テツジはしばらく戸口に倒れこんだままだった。軽く意識を失っていたのだ。が、やがて気が付くと、ゆっくりと体をひねり、仰向けからうつ伏せの体勢になった。そこからなんとか起き上がろうとするのだが、その力はない。どうにか首だけをもたげて、オーリィの行方を倒れたまま目で伺った。

 オーリィの向かった先は、台所の土間。見ると、そこに大きな甕が一つ。木のすのこのようなもので蓋がされている。彼女はその甕に手をかけ、それを使って体を支え両膝立ちに起き上がると。

 テツジに向かって全く思いがけない、奇妙な問いを放った。

「ねぇテツジさん……この村で、一番美味しい蛙は、どの蛙だと思う?」

「蛙……蛙だって……?いったい何を……」

「四ツ目の青蛙かしら?黒ガマかしら?違うわ。一番美味しいのはこれよ!」

 甕の蓋を払いのけて、血に染まった右手を中に入れる。ぽちゃぽちゃと水をかき回す音を立てて甕の中を探っていたオーリィは、そこから一匹の蛙を掴み出した。

 それは、ルビー色と黒のまだら模様の巨大なガマだった。市場で彼女がコナマに与えた黒ガマよりさらに一回り大きく、そして四ツ目。

「『紅まだら大ガマ』。わたしはこの子をそう呼んでいるの。

 ……この子が、この村の、蛙の王様よ!!最高の蛙!!

 この子は、わたしがあなたを案内してあげたあの池にはいない……山のもっとずっと高いところの森の中に、小さな浅い洞穴があるの。入口が草木で覆われているから、ちょっと普通に探してもわからない。その奥に、誰も知らない小さな泉があってね。そこにだけ……でもいつもいるとは限らない。とても珍しくて、そしてね、いれば必ず四ツ目なの。

 こんな蛙がいるなんて!多分あの長老様だってご存じないわ!!

 わたしだけの秘密の蛙。捕まえても市には絶対出さない。これに比べたら、どんな蛙も団栗の背比べ、わたしから見たら二束三文。だからケイミーさんにどれだけ叱られても、バカバカしくて!他の蛙に余計な高値を付ける気になれないの。

 蛙はね……」

 そこまで語ると、オーリィはしがみついていた甕から体を離し、戸口で倒れたままのテツジに向かって両膝でにじり寄ってきた。鱗の右手に、彼女が王と呼ぶ異様な蛙を捧げ持ちながら。

「他の人達には『ちょっと毛色の変わったおやつ』に過ぎないわ。市場のお得意様だってそれは同じ。でもわたしにとっては違う。わたしには……

 蛙がどうしても必要なの。なくてはならないものなの!

『紅まだら』は欲深で贅沢好きなわたしの特権、これだけは誰にも渡さない……」

 とうとうオーリィはテツジの鼻先にまでにじり寄ってきた。

「あなたは……市場で。ケイミーさんが蛙を貪る姿に驚いていたわ……でもね、本当に血に飢えた時のあの方の姿はあんなものでは済まない。獰猛で、残酷で!

 そしてそれはわたしも同じこと。

 覚悟が足りないあなたに、お手本を見せてあげる。『人でない者』の本当の姿。

 あなたのお食事の、今度はこれが前菜……とくと見ることね!!」

 オーリィはテツジに触れんばかりに手にした蛙を突きつけ、それに向かって体を屈め自分の顔も彼に近づける。吐く息の流れが感じられる程の最接近。そして。

 大きく口を開けた。突然鞭打つように飛び出した、一筋の奇妙な「器官」。

 テツジには最初、それをオーリィの「舌」だと思った。細く長く、先が二股に分かれているところは蛇のそれに酷似していたからだ。だが、よく見るとその謎の器官の下には普通の人間と同じ舌がちゃんとあった。その器官はそれとは別に、のどの奥から伸びているのだ。

(何だ『これ』は……)

 謎の器官は最初、彼女が手にした蛙を先端の二股部分で嘗め回すように動いていたが、やがてその長さをいよいよ増すと、蛙にぐるぐると巻き付いた。タコ糸で肉の塊を縛る時のように、それは蛙をぎりぎりと締め上げ、ついには蛙の皮膚を破り筋肉に食い込む。そして……

 蛙は見る間にしぼんで小さくなっていく!!

(まさか『あれ』で……蛙の血を、体液を吸っている?!そうか……

 形は蛇の舌だが、使い途はタガメの、刺して血を吸うあの口と同じなんだ……)

 その有様に呆然としていたテツジが、ふと気が付いて彼女の表情を見直した。

 最初に蛙に口をつけた時の彼女。両の眼を見開き、蛙を睨みつけるその視線は、獲物を狩る捕食者の残酷な喜びをたたえているように思えたが、やがて血を吸うごとに、それは夢見るような恍惚とした、一種官能的なものに変わっていく。

(味わっている。味わって悦んでいるんだ、蛙の血を……!!)

 オーリィの手の中の蛙はすっかりしぼみ、そして形も変わっていた。らせん状に締め上げられたそれは大きな太い腸詰のようにすっかり細長くなっている。ただし元が巨大な蛙だったため、すっかり血を吸われつくしたと思われたその時も、太さは大人の手首ほどもあったろうか。だが。

 次にオーリィは限界まで口を大きく開き、その蛙の腸詰を咥え込んだ。

(まさかそれを……呑むのか、それを!!そのままでか?!)

 巻き付いたあの器官は、今度は別の機能を果たしはじめた。巻き付いたまま、蛙を彼女の喉の奥に引き込んでいくのだ。見る間に、彼女の白い喉元が大きく膨らみ始める。半分ほどまで口の中に蛙だった肉の塊が収まると、流石にそのままでは喉を通らないのだろう、オーリィは頤を大きく跳ね上げて上を向いた。蛙の肉はじわじわと彼女の喉を滑り落ち、それにつれて喉元のふくらみが大きくなっていく。

 いつの間にか。だらりと力を失っていたはずのオーリィの左手が動くようになっていたらしい。彼女はそれを自分のうなじに回すと、長い髪の生え際を軽く掻き揚げ、顔を反らせたままテツジに向かってそのうなじを見せつけた。

 髪に隠され普段は見えないオーリィのうなじ、テツジがそこに見たもの。

 手の指二節程の、縦の割れ目。そして次の瞬間、そこから天井を突くように、尖った管のようなものが飛び出したのだ。

 空気の漏れる音がする。

 (タガメの『呼吸管』というやつか……あれで息を……だからあんな大きな物が呑める……どおりで……)

 やがて。蛙は完全に彼女の胃の腑に収まったのだろう。再びテツジに向き直った彼女に、喉の膨らみは無くなっていた。それと同時に、それまで何かが憑りついていたような彼女の狂騒的な表情が、すっかり穏やかに変わっていた。

「市場でわたしは話したわね。『生まれ変わって食べ物の好みが変わることもある』と。でもそれだけではなくて。もっと大切で命に係わることが、この村に生まれ変わった者全員に起きる……

 わたしたちには一人に一つ、『それを食べないと飢えて死んでしまう何か』があるの。簡単に『糧』と呼んでいるのだけれど。そして一度『糧』に飢え始めたら、他のどんな食べ物でも補いはつかない。何を食べても体は飢えるばかり、それどころか!

 だんだん他の食べ物を体が受け付けなくなってくる。すべての味を失って。

 今あなたの体に起こっていることは、それ。

 あの山に私たちが『現れて』しばらく経つと、人でなくなった私たちの体はこの村に馴染んで……そうして最初の『糧』を求めるようになるわ。そして『糧』はそれほどまでに私たちの体に必要なものだから、『糧』の飢えは体の衰えもとても速い。時間が無いのよ……今言った通り、『糧』はその人によって様々で、だから。何がその人の『糧』なのか、急いで探し出さなくてはいけない……

 飢えて死んでしまう前に!」

(それを試していたのか……!)

 あの狂気じみた魚尽くし、虫尽くしの献立。テツジはにわかに腑に落ちた。

「困ったことに……『糧の飢え』が始まってからでないと、『糧』探しも出来ない。それまでは、普通に食事が出来てしまうから。それが起こってしまうことがわかっていながら、起きるまでは何の手立ても打つことが出来ない……

 だから秘密なの。『新入りさん』には言えないの、『糧』のことは。言っても余計な不安を与えるだけだから。そして『お隣さん』に選ばれた者が、時間切れになってしまう前に、何としてもその人の『糧』を探し出す。

 それが『お隣さん』の一番大事な、そして最後の仕事。でもテツジさん」

 オーリィの顔色が、わずかに明るくなった。

「あなたは今、とても運が強いのかも知れない。前の世界で最悪だった分、取り返しがついたかも知れないわ。

 自分で、しかも自分の家の中で!勝手に『糧』を見つけ出してしまったんだもの。

 あなたの『糧』は『石』。多分間違いないわ。

『糧』を探す手掛かりはね、まるでないわけではないの。例えば。

 私の『糧』は蛙。蛙を食べないといつか死んでしまうわたし、でもその代わり。蛙を捕らえる力が体に自然に備わっている。この力があるからこそ、体が蛙を求めるのかもしれないけれど……鶏と卵ね、どっちなのかしら……ともかくね?

 ケイミーさんの『糧』は『兎の生き血』。だからあの方は兎を狩るのが得意。

 コナマさんは『腐った鼠の肉』。だからとってもするどく鼻が利いて、生きてる鼠でも、いっそ動かない死骸でも探しだすことが出来る。

 では『新入りさん』はどうなのかしら?もちろん『糧』が見つかる前なのだから、その方の『糧を得る力』がどんなものか、はっきりわかるわけじゃない。でも、想像力を働かせれば、ある程度類推は出来る。でしょう?

 テツジさんあなたは……指の爪であの石を壁から掘り出した。その硬い爪……強い力……そしてなんでもかみ砕いてしまいそうな歯と大きな顎。

 あなたのその体は、地面を掘って、岩を割り、自分に必要な『石』を手に入れ噛砕いて体に取り入れる、そのためにあるのではないかしら……?」

 ここまで語ると、オーリィは懐からあの石を取り出して、テツジに見せた。彼の体は震えたが、何故か最前のような激烈な拒否反応は消えていた。

「いいわ。その調子よ。多分お腹は猛烈に空いてしまっているでしょうけど、これを怖がる気持ちの方は大分収まったようね。あとはいよいよ、試してもらうだけ……」

 倒れ伏したままのテツジの鼻先の床に、彼女はその石をコトリと置いた。

「体がだるくてお辛いでしょうけど、どうか頑張って、ご自分で手に取って。

 ああ、まだ少し震えていらっしゃいますのね……でももう慌てる心配はないはず。

 でしたら、最後のご決心が決まるまでの間……

 私の昔話を、聞いていただけますか?」

 オーリィもまた、落ち着きを取り戻したのか。言葉遣いが変わった。軽く目を伏せ、彼女はゆっくりと話しはじめた。

 彼女自身の、死と再生の物語を。(続)

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