10:「発症」

(体が重い……力がまるで入らない……いったい俺の体はどうなっているんだ?)

 市場に行った日から、更に三日ほど経ったある日の夕方。テツジは寝床の上に座りながら体の不調に耐えていた。本当ならそのまま横たわってしまいたかったのだが、恐ろしさにそれも出来なかった。

(いや、このまま寝たらもう二度と起き上がれそうにない……このまま……?)

 死んでしまうのではないか?それと。

(それに【あれ】は何だ?どうして俺は【あんなもの】に……こんなにも?)


 予兆は、思えば市場から帰った晩あたりから既にあった。きっかけは夕食だった。

(ん?なんだか今日の蛙は妙に味気がないな)

 毎食の密かな楽しみになっていた串蛙が、まるで期待外れだったのだ。塩気もスパイスの刺激も少し焦げた皮の香ばしさもさっぱり感じられない。

(珍しい。この人は料理の腕は確かなのに、こんな時もあるのだな)

 と。オーリィの顔を盗み見ながら、蒸した厚紙のように口の中でゴワゴワするだけのそれらを、しかしテツジは文句も言わずに黙って食べ続けた。

(図体ばかりでかくてよく食う居候が、本来売り物のはずのものをこれほど食わせてもらっているのだ。何か言えた筋合いではない……)

 だがその次の日の朝も。

「あの、テツジさん?あまり食が進んでいらっしゃらないようですけれど、どうかいたしまして?」

 食欲は確かにあった、だがいざ食べてみると。蛙ばかりではない、どの皿もまるで作り物のような味気無さ、喉に流し込むのがやっとの思いであった。そして味もさることながら、いくら口に入れても、何かを食したという「充実感」がまるでない。だから不味さに辟易としながらもつい食べ続けてしまうのだが、もはやある種の苦行に近かった。そしてそれは、テツジのポーカーフェイスをもってしても、流石に悟られてしまったらしい。

「いえ別に……何しろこのところ俺は本当に何もしていないですからね。どうやら腹もあまり減らないんですよ。こんなに用意してもらっていて申し訳ないですが……」

「それは構いませんのよ、お気兼ねなく。ただ……長老様もおっしゃっていましたけれど、何かお体の具合でも悪いなら……」

「いえ、別になんともありませんよ」

 まんざら嘘でもなかった。その朝はまだ起き上がるのに少々だるさを覚えた程度だったのだ。

「そうですか……?ならよろしいのですけれど……」

 と。そう言って一度自分の皿に目を落としたオーリィが、上目遣いで彼の顔色を伺うその視線が、何故か異様なかぎろいをまとっているのに、テツジは気付いた。

(?)

 オーリィの表情は元々読み取りづらい。異形の両目が、人間らしい感情を映し出すのに適していないのだ。本人もどうやらそれは自覚しているらしく、普段は首傾げや手のジェスチャーなどがやや大げさになりがちで、確かにそれで補われているのだが。

 今のように静かに凝視されると、彼女が何を思っているのかまるで見当がつかない。

(妙だな……この人らしくない……)

 市場帰りのあの告白以来、テツジのオーリィに対する感情は自分でも驚くほど軟化していた。自分が抱えていたものを洗いざらい吐き出してしまい、わずかながら彼女の過去と人となりも知った。それが、彼の心をかたくなに閉ざしていた壁に一つの窓を開けてしまったのかのようだった。

 今でも。彼女は村の「手先」なのかもしれない、そうは思いつつ。

 ならば仕方ないだろうと。

(この人はあの時こう言った。俺が自分に似ていると。必ず助ける、と。そして俺も言ったのだ。答えは信じて待つ、と。)

 この人になら、だまされても仕方がない。そう思い始めていたのだった。

 だが、この時オーリィの異様な視線を感じて、テツジの胸に一抹の疑念が再びわき始めた。

(ただ……この人は俺に何か隠している。それはやっぱり確かなことだ……)

 結局彼はその日、その後の昼食も夕食も、出された料理の大半をもはや口にすることさえ出来なかった。

〈メシの好き嫌いは言わない、出されたものはすべて食べる〉という彼の掟。一見子供への教訓じみたそれは、しかし彼にとっては、強制収容所での飢餓と幽閉生活での毒殺の恐怖、それら2つの体験から刻み込まれた厳粛なもの。しかし、彼は初めて心ならずも自らの掟に背かざるを得なかったのだった。


「お食事の用意ができました……」

 次の日の朝。いつものようにテツジの家にオーリィが彼を呼びに来た。

「はい……今支度をします……どうも寝過ごしてしまって。少し待ってください」

 嘘だった。目ならとっくに覚めていた。恐ろしく空腹だったから。だが。

(何だ、だるい……体が重い!ろくに物を食ってないからかもしれないが、いや!

 一日や二日の絶食なら収容所でも脱走中にも何度も味わった。こんな風になることはない。それにしても、いくら食いたくてもあれでは……あの味では……)

 いっそ断りたかったのだが、それでは、今彼の体を襲っている奇妙な現象を彼女に説明しなければならない。

(なんでもおっしゃって、あの人はいつもそう言うが……そうだ、あの時長老も言っていた、体の調子に何かあったらオーリィに教えろ、と。

 だが教えていいのか?大丈夫なのか?)

 例えば。仮にこの村が「頑健強壮な奴隷労働力」を求めているとして。そのために今まで彼を手厚く歓待していたのだとして。

(役立たずと思われたら、見捨てられるのではないか?)

 それはオーリィを半ば信じるようになってからは忘れていた疑念だったのだが、ここに至ってそれは再び蒸し返されてきたのだった。

(とにかく行動だ。体がどうにか動くなら、あたってみるしかない。それで悟られたとしても、どうせただ寝ていてもこの分では結果は一緒だ)

 必死に力を振り絞って隣家へ赴く。どちらも小さな家のこと、ほんの十歩も歩かないはずの距離が、今の彼の鉛のような足には途方もなく遠い。それでも何とかたどり着いた食卓には、異様な光景が広がっていた。

 見慣れたあの煮物や炒め肉の類も、いつもの串蛙も今朝は全くない。その代り。

 テーブルを埋め尽くす、おびただしい数の小鉢、数十皿はある。しかも盛り付けられているのは、魚料理のみ。しかもどうやらすべて違う魚の。

「オーリィさん……これは……?」

「今まであまりお魚はお出ししていなかったような気がして……食が進んでいらっしゃらないようですので、口を変えてみようかと……」

(そんな普通の沙汰ではない!こんなに魚ばかり、どうやって用意したんだ?)

「今朝市場に早出して、ある限りの種類のお魚を買ってまいりましたの……」

 心の中を見透かすかのように、彼が言葉にする前に返事が返ってくる。彼女と話していると、今までも時々こういうことはあった。カンのいい人だ、ぐらいに思っていたテツジだったが、この時は背筋が冷えた。

(いやおかしい!『口を変える』と言ったって、それなら一皿二皿で済む話じゃないか!こんな馬鹿げた献立を何故?!)

「もちろん、全部でなくてけっこうですのよ……お気に召しそうなものを選んで、一口つまんでいただければ……」

 何かを試されている。卒然とテツジはそう思った。だが何故、いったい何を?

(わからない!だが、『何かを選ぶ』ことを試されているのだとしたら、悟られないためには……全部食ってみるしかない!!)

 しかし最初の小鉢の焼き魚を口にした時、テツジの不快感は絶望的なまでにひどかった。何の味もしない魚料理、感じられるのは触覚による食感のみ。中途半端に硬く鱗がザラザラする皮、モソモソとした肉の舌触り。それだけ。

 吐き気を催した。それでも皿から皿へ、何とか一口づつ口に入れていったものの、切り分ける「一口」の大きさがみるみる小さくなっていく。そして、皿数の半分もいかないところで彼の手はバッタリと止まった。何か言い訳をと彼は思ったが、口を開いたらそのまま嘔吐してしまいそうで、それも出来ない。

「そうですか……どうぞお気になさらず……」

(またその目つきか……やめてくれ、そんな目で、眼で俺を見るな……!)

 無言で何とか立ち上がった。挨拶も無しに、テツジは席を立ってオーリィの家を出た。たとえ形ばかりの礼儀だったとしても、今までそんな無礼をしたことはなかったが、もはや取り繕う余裕は全くなかった。

 食事の不快よりも、あの異様な視線から逃れたかったのだ。

(あの時の眼……池の中の蛙を狙う眼!あれと同じだ……俺の何を狙って?)

 そして。猜疑と恐怖とともに、彼の心に湧き出したもう一つの感情。

(オーリィ……さん……俺は……やっぱりあなたを信じちゃいけなかったのか?)

 それは言い知れぬ「寂しさ」であった。


「お食事の用意ができました……」

 あの不快極まる朝食から帰ってからずっと、部屋の片隅で力なくうずくまっていたテツジは、昼食の誘いにまたも彼を訪うオーリィの声に震えた。

(もうやめてくれ……)

 出ていくつもりはなかった。やり過ごせるとは思わなかったが、気の利いた言い訳も思いつかない。だまってじっとしていれば察して立ち去ってくれるのではないか?

 ところが。

「お加減がよろしく無いご様子でしたので、お宅にお食事をお持ちいたしましたわ。……お邪魔いたしますね……」

 戸締りを、していなかった!!

 そういって、テツジの家にするりと入ってくるオーリィ。言葉つきこそ丁寧だが、問答無用で上がり込んできたも同然。そして、絶句するテツジに向かって放つ、あの妖気をまとうかのような凝視。

 手にしているのは、蛙を取りに行く時につかうのに似た、タライのような浅い桶。そこから小鉢をいくつもいくつも次々と取り出し、テツジの部屋のテーブルに並べ始める。カチカチと小鉢が当たる音、科学者が実験台にシャーレを並べるような、巧みだがせわしない手つき。これまでのオーリィの、優雅でもてなしの心が見えるような配膳とはまったく違う。

「さぁどうぞ。お気に召すものを……」

 飢えているにもかかわらず、食欲など全くない。だが、逆らうにはそのための気力がすでに尽きていた。テツジはフラフラと立ち上がってテーブルに向かったが、席につく前に体が固まって立ち尽くした。

 またもや並べられたおびただしい小鉢、中に入っていたのは。

 すべて、虫。

 焼いたバッタ。芋虫の和え物。煮物の具は甲虫。油で炒めた蜘蛛と百足。

「今まであまり虫はお出ししていなかったような気がして……驚かせてはお気の毒だと思ったものですから。でもこの村ではどれも当たり前の食べ物ですの、動物の種類が少ないですから、ここは。……どうぞ?お試しになって!!」

 オーリィのその時の言葉には、有無を言わせない響きがあった。テツジは追い立てられたかのようにバッタの焼き物を手で直に掴み、無我夢中で口に入れた。

 嘔吐した。

 胃の腑には朝食時に無理に詰め込んだ魚の肉がわずかばかり残っていただけだったが、それをすべて吐き出した後も吐き気は止まらなかった。

「そうですか……お気に……なさらず……!!」

 苦しむテツジに目もくれず、彼女は出した時と同じ事務的な手つきで小鉢の群れを片付け、次にテーブルと床の吐しゃ物を雑巾で拭うと。

 来た時と同じように、するりとテツジの家を出て行った。

 そして、夕食の誘いは無かった。

(何故だ、何故あんなことを……俺に……)

 安堵と絶望を半ばづつ抱きながら、その日テツジは眠りに落ちた。


 次の日の朝。テツジが真っ先にしたことは、家の入口に閂をかけることだった。寝床からわずか数歩の距離を、四つ這いで進んで、それしきのことをやっとの思いで成し遂げると、彼は扉にもたれて動かなくなった。

(これで何とか……もう何があってもここは開けない……返事もしない!)

 ところが。その日はいつになってもオーリィは現れなかった。

(そういえば、夕べもあの人は来なかった。いったいどうして?)

 自分は何を求めているのだろうか。彼女に来て欲しいのか、来て欲しくないのか?

(俺は、馬鹿なことをしているんじゃないか?どう考えても今の俺は病気だ。治療が必要なんだ。あの人に素直に話して助けを求めればきっと……)

(だがこの症状は、何が原因なんだ?もしや……毒?)

(いやおかしい!俺は少なくとも、ここで殺されるような真似だけはしていないはずだ。まさか、まさか……)

(だがそういえば。水牛頭が言っていたではないか。『何かを乗り越えなくてはならない』と。これが……それなのか?あの人もわかっていて、俺が『乗り越えられる』のかどうか観察しているのか?)

(いやひょっとして。俺はもう『乗り越えられなかった』のかもしれないじゃないか!何かを……知らないうちに試されて!だから村にも、あの人にも見捨てられた……あの冷たい態度、嫌な視線……そうなのか?違うのか?)

 助けが欲しかった。だが、見捨てられたという事実は知りたくない。

 テツジの思いは乱れ、同じところを堂々巡りしていた。

 思わず知らず、隣家に近い側の壁に這いよっていた。今は会えない彼女の存在を求めるかのように。

 すると。

(あの人の声が……聞こえる……!)

 二人の家は隣接していて、隣接した壁同士に窓が開いていた。家と家の間に窓があるのはおかしいが、風通しのためなのだろう。そして無論土壁は丈夫だったが、窓は壁に穴が開いて木の板で塞いであるだけ。

 そこからなら、普段からある程度隣の物音は聞こえてくる。

 テツジはもともと幼い頃から耳ざといほうだった。親の期待に応えたいと思っていた頃の彼は、言われることはすべて聞き漏らすまいと、周りの言葉にいつも耳を傾ける習慣が出来ていた。そして収容所では脱走の機会を伺うため常に耳を澄まし、脱走中は追手の足音におびえ、幽閉中は家人の動きに緊張しつづけ、戦場では敵の気配を必死で探り。その感覚は望まざるして研ぎ澄まされていた。

 それはこの村に来ても変わらなかったのだ。

(誰か他の人間と……?いや違う、どうやら独り言だ。だが……?)

 これまで、オーリィに独り言の癖があるなどという光景は、テツジは見たことが無かった。しゃべれば優雅で雄弁ですらあったが、その必要が無い時の彼女は至って静かだったはず。その彼女が。

(どうしよう……どうしよう……!)

 はっきりと聞き取れる。いかに窓の板が粗末で薄いとはいえ、それなりに大きい声でなければここまでは聞こえない、そう思うほどに。

(肉や野菜は……大概のものは試したはず……魚でもなかった……虫でもなかった……よほど変わったものなの……?)

 何かにとり憑かれたような、不穏な声の響き。

(夕べ長老様は……『それならばいっそ、もっと飢えるのを待った方がいい』……そうおっしゃったわ……『何かきっと反応が出るから待ちなさい』って……でもきっと!もう時間も無いわ……どうしよう……どうしよう……!)

 テツジは、暗い穴に蹴落とされたような気がした。

(あの人は夕べ、あの長老と会って、何かを打ち合わせた。『もっと飢えるのを待て』だと?……だから夕べも今朝も、あの人は来ないのか……ああ!)

【反応が出る】とは?【時間が無い】とは?わからないことも多かったが、彼には問題ではなかった。

(あの人は……やはりあの長老の、この村の手先なのか……言われるままに動いて、俺をどうにかしようと……ああああ!)

 大顎にあわせて大きく裂けたテツジの唇が、わなわなと震えた。

 涙が流れた。

(あんなに自分に誓ったはずだったのに、俺は!やっぱり馬鹿なお人よしだった……

 いやかまわん!裏切られるのはもう慣れっこだ。自分を嗤えばそれで済む。

 でも俺は……あなたにだけは……)


 どれだけの時間が流れたのか。テツジにはそれすらはっきりとわからなかった。隣家に接する壁面に体をもたれさせたまま、彼は同じ姿勢でじっとうずくまっていた。あれ以来、彼女の声も聞こえてはこない。体を動かすにも何か考えるにも気力はとうに無く、うつろな視線で室内をぐるぐると意味もなく見渡すばかり。

 すると。彼の視界に、【それ】が飛び込んできた。

(壁に……何か……石だ)

 室内の土壁の表面は、きれいに塗り固められていた。壁の主たる建材である石は、本来土の中に塗りこめられて見えないはずだったが、一か所。

 壁に亀裂が生じていて、埋められた石の一部が顔をのぞかせていたのだった。そうとわかれば何の変哲もない、つまらない光景であり、つまらない物体……だが。

 よろよろと、テツジはその石に向かって這い寄り始めた。不可解な、しかし逆らい難い奇妙な衝動。そして、指の爪で石の周りの壁を崩し始めた。

 変身後の彼の全身の皮膚は硬かった。関節のある部分だけやや薄くなっているらしく、行動に支障はなかったが、曲げ伸ばしには数日過ぎたいまだに違和感があるほど。そして、それに応じて指の爪はさらに恐ろしく硬い。試してみたことがあったが、岩に文字を刻むことが出来るほどであった。伸びたらどうやって切ったらいいんだ?と、その時彼は自嘲気味に思ったものだが。

 その彼の爪をもってすれば、土壁を掘るなど造作もない。石の周りの壁土は見る間に崩され、やがて、その石はゴロリと壁から転がり落ちた。

 拾い上げて、手の中の【それ】、その石に目を落とす。

(……うぐっ!!)

 彼は声も上げずにうめいた。彼を襲うその耐えがたいある種の苦痛。それは、確かにその石を見ているから起こるのだと彼にはわかったが、にもかかわらず、それから目を離すことが出来ない。

(何だこれは…【これ】は何だ?どうして俺は【こんなもの】に……こんなにも?)

 出ない力を振り絞って、その石を反対側の壁面に投げつけた。それを見ないで済むように、振り向いて目の前の壁に向かって顔を近づけた。だが。

(そうだ、そういえば……この中にも別の石が……埋まっているはず……)

 爪を壁面に近づけようとして、かろうじて我に返った。目をつむり、顔を手で覆った。床と天井以外、周囲は当然ながら壁なのだ。どこも見ることが出来ない。顔を伏せ床面だけを見ながら、手探りで寝床に這い寄ると、跪いた姿勢のまま枕に顔を埋めてその場に座り込んだ。

(【あれ】は何だ?どうして俺は【あんなもの】に……こんなにも?)

 同じ疑問を、心中で何度も繰り返しながら。

 さらにどれほどの時間が流れたのか。先ほどあの石ころを見て受けた謎の苦痛が、ようやく収まってきたようにテツジは思った。

(さっきのは何だったんだ?いや、体の具合がおかしいせいで、一時的に頭もおかしくなっていたのかもしれん。案外もう一度見てみれば、なんてことないただの石ころなんじゃないか?)

 不安はあったが、仮にこのままではどうしようもなくなる。確かめて安心したいという気持ちの方が勝った。

 枕から顔をあげゆっくりと、最前あの石を投げ捨てた方向に目をやった。

 そこに音もなくただ転がっている、あの石。

「……ぐああああああああああああ!!!」

 もはや声を抑えることなどできなかった。それを見た瞬間、最前よりも何倍ものあの【苦痛】が彼の体を駆け巡ったからだ。

 そしてさらに、激しく戸を叩く音が。

「テツジさん!今の声は?!どうかなさったの?!ここを開けて!!」

 自分のただならぬ悲鳴が、オーリィに聞こえてしまった。テツジは進退窮まった。

 こうなった以上、彼女の心づもりがどうあろうと、もう打ち明けて救いを乞うしかない。だが、石は彼と戸口の間に転がっている。

(あれがあそこに…行けない、俺は戸に近づけない!!)

 外でオーリィが戸を叩く音、それが突然やむと。今度は隣家に向いた窓の板がガタガタと揺れ始めた。

(そうか、あの人の細い体なら、窓を開ければここに入れる!今そこにいって板を……)

 そう思った瞬間。窓の、確かに薄いが木製の蓋を、何かが貫いた。

 オーリィの、鱗の右手。

(あの見えない抜き手だ、蛙を捕るときのあの……しかしまさか、素手で?!)

 硬い木の板を突き破ったのだ、当然無事ではなかった。彼女の指先、割れた爪から滴り落ちる血。当然感じているはずだろう痛みを、その手はしかし、ものともしていないかのように、バタバタと板の留め金をまさぐり探している。飛び散った血で押された手形によって、板は赤黒く彩られていく。

 助かる、そう思った気持ちがテツジから瞬時に失せた。

 自分は、石よりももっと恐ろしい者を呼び寄せてしまったのではないか?

 体力的にはしょせん女。以前から、自然とオーリィをそうあなどっていたテツジ。ありそうもないことだが、万が一彼女と直接争うようなことがあったとして、普段の彼なら絶対に肉体的な戦いで負けはしない。そう思っていた。だが。

(今の満足に動けない、力も出ない俺では……あの抜き手なら刺し殺せる!!)

 べったりと血糊のついた板が、ガラリと床に落ちた。留め金が外れたのだ。

 どうやら時刻はもう夕方に差し掛かっていたらしい。窓の外は薄暗い穴。

 やがてそこから、ゆっくりと頭から入り込んでくるオーリィ。彼女の体でも、肩を通すのは難しい。片腕づつ、角度をいろいろに変えて、上半身を窓だった穴にねじりこむ。やっと両肩が通ると、彼女の体はそのまま頭を下にずるずると落ちていく。その動きにあわせてのたうつ、長い彼女の髪。

 両手が床に届いた。そこで彼女は逆さ釣りのまま首を反らし、室内を見回して。

 テツジと目があった。唇をギッとかみしめ、大きく見開いたあの蛇眼で睨むその姿、その形相……

(大蛇……!!)(続)

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