9:「家路」
未だ日は中天に届かないものの、早朝というには遅い。市から家々のある区画に続く長い一本道には、その時、テツジとオーリィの他は見渡す限り誰もいなかった。村人が途中休むための日よけとして植えられたと思しき立ち木の木陰で、二人は立ち止まった。
「……ここでお伺いいたしましょう」
市で「話がある」と切り出した時の、テツジの固く、苦々しい表情にただならぬものを感じたのか。込み入った話をするには本来向かない場所ではあったが、オーリィは帰宅を待たなかった。
「俺は、軍人だったんですよ」
そうテツジは切り出した。ゆっくりと重い口調。
「俺の国は、俺が生まれる何十年も前から、隣の国と戦争をしていました。お互い数知れない程の命を奪い合って。どちらのどこに大義があるのかもまったくわからなくなっていて。そして、どちらの国も大国が後ろ盾になっていて。引くに引けない泥沼の戦いになっていたんです。
俺の……親父は」
親父、という言葉を発するために、テツジは一際大きく息を吸い込んだ。そうしなければ言葉を続けることが出来なかったからだった。それほどまでに、その一言は彼にとって触れたくない何かであるようだった。
「軍の最高司令部の一員で、政府の閣僚も兼ねていました。エリート軍人で国家の重鎮でした。その息子に生まれたこの俺も、小さいころからエリートコースを歩かされました。いや、それは俺自身の希望でもあったのです。
親父のような、国家のために偉大な貢献が出来る人間になるんだ、とね。
親父には金はいくらでもありましたから、俺は望めばいくらでもいい学校に通えましたし、それに負けないように、そして親父の期待に応えたいがために、必死にわき目も振らずに学んで……体を鍛えて……
とうとう俺もなりましたよ、エリート軍人というやつに。出世を約束された、優秀な若手の将校というやつに。今思えば、そうなれたのも親父の七光りがあったからでしょうがね。とはいえ、最初は階級だけは高くても、所詮軍人に成り立ての若造です。とりあえずお偉いさん方のお供としてゾロゾロついて歩くだけのお飾りみたいなものですよ。重要な仕事や作戦の機密なんてものは任されるはずも知らされるはずもない。そんな頃の事だ……」
語るにつれて、彼の言葉には自嘲的な響きが増していく。言葉も次第に荒いものになっていった。
「俺は前線の視察に行かされた。『勉強のため、実戦を見てこい』とかいう理由で。だがそうは言ったって!偉い親父殿の大切な息子が、そう知られた上で激戦地に送られるはずが無い。安全の確保された後方で、補給の様子でも眺めさせる。猿芝居だ!俺にからっぽの『戦歴』を積ませて形だけ整えて上の階級に引き上げてやれば、おこぼれにあずかって自分も出世出来るやつらが、全部お膳立てしていただけだ!
ところがね……ところが!!
その安全なはずの補給基地に、突然の敵の奇襲ですよ。完全に裏をかかれていました。味方はなすすべくもなく全滅、殆どが戦死した中で……
俺だけが敵の捕虜になった……
なんといっても俺は『将校様』でしたからね。敵国の連中は生かしておくメリットがあると思ったんでしょう。機密情報を聞きだすか、捕虜交換に使うか、そんな腹積もりでね。
実際、俺を待っていたのはまずは拷問でしたよ。来る日も来る日も、飽きもせずあきらめもせず、やつらは俺を痛めつけました。責め続けました。
『何か知っていることがあるはずだ』とね……そんなものありはしなかった!!俺はお飾りの雛人形、猿回しの猿だったんだから!!
ただ、俺は自分の名前や生まれだけは言わなかった。親父の名前は当然、敵国にも知られていましたからね。あの親父の息子とわかったら……それは敵にとって大きな武器です。どんな交渉にも使えるカードになる。それはわかっていましたし、第一俺は……親父の顔に泥を塗りたくなかったんだ……あの偉大で、尊敬する親父の名誉を守りたかった……もし耐え切れなかったら、舌を噛み切って死ぬ覚悟も決めてましたよ。
そしてね、ようやくやつらもあきらめたんでしょう、俺は捕虜収容所に送られました。そこで俺を待っていたのは今度は、お決まりの強制労働ってやつです。凍りついただだっ広い『開拓地』をね、一つの班が掘り返して、その後を次の班が埋めていくんですよ。毎日毎日その繰り返しを、ろくに食い物も与えず、日の出から真夜中までぶっ通しでね。
やつらは『耕作地拡張の第一段階』とか言ってました。掘って埋めて土地をやわらかくして、耕地にするんだって。
バカバカしい!子供でもわかる嘘だ!!毎日同じところばかり掘らされた、埋めさせられた……俺たち捕虜を痛ぶって苦しめて、憎い敵国の兵隊を楽しんで殺すための大嘘だ!!
やつらだってわかってた、俺たちがだまされていないことなんて。
だがその見え透いた大嘘に俺たちは逆らえない……
弱ったやつから死んでいきましたよ、やつらの思惑どおりに。
ただ、俺はあきらめるつもりはありませんでした。そんなところで犬死だけはしたくなかった。毎日逃げる方法を考え、チャンスを窺ってたんです。
そして俺はとうとう脱走しました。追手の銃弾をかいくぐって、野山を必死に走り回って、逃げて逃げて、ボロボロになりながら、俺は運よく帰ってこれたんですよ、自分の国にね…ハハハハハ!!
運よく!運よく!!そう思ってた、そう思ってたんだ!!」
そこまで語ると。怒りで紅潮していた彼の顔が突然、違う感情で歪み、沈んだ表情に変わった。そしてその話の先は、彼にとって余程語るのに苦痛だったのだろう。再び話し始めるまでにしばらくの時間を要した。
その間オーリィは身じろぎもしなかった。彼の苦しみが乗り移ったかのように、唇をかみ拳を握り締めながらも、あくまで静かに彼の言葉を待っていた。
「国に帰った俺は、逮捕されました。反逆者やスパイを取り締まる国の特殊警察にね。そして……また拷問だ!!
『何か敵に機密を漏らしたのではないか』『スパイとして送り返されたのではないか』とね!!疲れ果ててやせ細ってボロボロになって、それでも自分の国に帰ってきた俺を!!毎日毎日……やつらはまた責め続けた!!
結局、あの時の敵の連中と同じで。責めても聞きだせることは何も無いとわかったんでしょうね……実際何も知らなかったんだから、俺は……
そしてとうとう自分の家に帰されましたよ。でも最後に待っていたのはね……
座敷牢だった!!外から鍵のかかる部屋に閉じ込められて、毎日お約束程度の食事を入れられて、便器が置かれて!!
……俺が最初にあの補給基地で敵に捕まった時、俺は死んだ事にされていた。
最初に敵に捕まった時、俺は自分の身元を隠し通した、そう言いましたね?隠し通せた、と。だがそうじゃなかった。当の戦争相手の敵国の要人の家族、情報が掴めないなんてそんな間抜けな話は無い。親父が先手を打って対外的に「息子は死んだ」と強硬に言い張ったんです。これはね、「我々は彼を見限った、だからお前たちに利用価値は無い、いかなる交渉のカードにも使えない、使わせない」という意思表示だったんですよ。だからやつらはあきらめて俺を収容所送りにしたんです。それを知らずに必死で国のため親父のために黙っていた俺は本当に……良い面の皮だ!!
だがそれだけじゃない……その上親父は自分の権力を使って、俺を「国のために死んだ英雄」として、大々的に祭り上げていた……自分の人気取りのために!
だから俺は帰ってきちゃいけなかった!邪魔者だったんだ、親父にとって!!
いや逆にね……よく俺はあの時、親父に殺されなかったものかとね……未だに不思議なんだ。多分、殺したことが万一バレたら、それはもっとまずいと思ったんでしょうがね……毎日のメシを、俺はこれが最後だと思って食いましたよ。いつか毒入りを食わされるんじゃないか、ってね。
オーリィさん、あんたのメシは本当に旨かった。たとえ蛙だろうと鼠だろうと、食ったら死ぬかも知れないわけじゃないんだからな……
俺は親父に手紙を書きました。下げたくも無い頭を下げて、頼んだんです。
俺に新しい名前と身分をくれ、と。そしてもう一度、今度はただの兵隊になって、国のために戦いたい、と。
……戦死必至の劣勢の最激戦地に、出兵を志願するのを条件にして、ね。
それなら厄介払いが出来ると親父も思ったんでしょう。案外簡単に俺の願いは叶いました。なぁに、親父の権力を使えばわけはありません。戦死した兵士の戸籍に細工して、それを俺の新しい身分と名前にしたんです。
『テツジ』というのは、そいつの名前なんですよ。俺の本当の名前は……
思いだしたくも無い!!もう捨てたんだあれは!!」
テツジの言葉が、表情が、再び怒りで燃え上がり始めた。
「俺は!親父には言いましたよ、もう一度国のために戦いたいと。名誉を回復するチャンスを与えて欲しいと。
……大嘘だ!!俺はそんなこと、もうこれっぽっちも思っちゃいなかった!!
やつらだって俺に嘘をついたんだ、俺だって!!
俺は!ただ単純に戦いたかったんだ!!俺を恐れ、憎み、俺を殺したいと思ってる敵のやつらと!!
敵は……俺を裏切らない!!
そりゃぁ、作戦で敵を罠にはめたりすることはあるだろうさ、だがそんなのはお互い様だ。こっちだってやれるならなんだってやる。
でもだ!!たとえそんな時だって!!
敵が俺を憎み、恐れ、俺をぶち殺したいと思う気持ちに、嘘は一つもない。
俺だってだ!!
敵が戦場で味わう辛さ、痛み、苦しみ、それにゃ一つも嘘は無い。
俺だって同じだ!!
俺と敵は同じなんだ、あいつらだけが、俺と同じ気持ちになれる!!
味方は……親父は!俺を裏切ったじゃないか!!
国の名誉だの、英雄だの……嘘ばかりつきやがって!!
俺は、俺と同じ敵のやつらと、同じ憎しみと恐れと殺意を使って、真正面から真っ正直に、骨の髄まで噛み付きあってみたかったんだ!!
念願かなって、というべきですかね……俺はとうとう敵に撃たれました。腹に3発、ただしどれも全部わずかに即死の急所は外れてね。もちろん、急所じゃ無くったって治療しなきゃ死ぬ怪我ですが、あいにく最激戦地だ。そんなこと出来やしない。野戦病院とは名ばかり、傷ついて戦えなくなった兵士を死ぬまで転がしておくだけのベッドで、俺は傷の痛みにのた打ち回りながら……
でも嬉しかった。
俺を撃ったやつ。お前は、そんなに俺が憎かったのか?そんなに俺が怖かったのか?そんなに俺を殺したかったのか?
俺もだ、俺もだ、俺もだよ!ってね……名前も顔も知らないそいつとね……
心が、気持ちが通い合ったような気がしたんですよ……
故郷じゃ、帰ってきた俺を、誰もそんな気持ちにさせちゃくれなかった……
俺には、帰る場所なんて、もうどこにもなかったんだ……
そうやって死んだはずの俺が、どういうわけかこの世界に、この『村』に来るはめになった。もう死んじまっても未練は何もありませんでしたが、生きている限りはね。簡単に死ぬつもりもありません。ただし!俺はもう、人の好意だの善意だの同情だの、そんなものはもう信じられないんです。
『味方』は俺を簡単に裏切りましたからね。今じゃ味方は俺の敵で、敵が俺の味方なんです。
嫌悪、悪意、打算、侮蔑、そんなものこそ、俺には信用できるんです。
例えば。この村の連中が『お前は今日から奴隷だ、死ぬまで働け!』というのなら、俺は歯を食いしばって働いてやりますよ。奴隷扱いには、嘘は無い。
例えば。俺をおだてていい気にさせて、体よくこき使おうというんであっても、その魂胆を見透かした上だったら、俺は黙って働いてやります。騙したつもりの連中を、心の中で嗤ってやれますから。けどね……
善意だの愛だの、そんな言葉に騙されてまた裏切られる、そんなお人よしの大バカになるくらいだったら、もう一度、今度こそ!
……すっかり死んじまった方がマシだ!!
俺は、あんたのことも信じちゃいなかった。「村」の連中から寄越された監視役で、俺の機嫌を取って後でせいぜい上手く働かせるための誘惑係なんだと。
そう、俺はね、オーリィさんあんたを……いっそ寝床に引っ張り込もうかと思ったこともあるんだ。いや、『そういうこと』がしたかったってわけじゃない。
拒絶するのか、手もなくのってくるのか。事が終わったあとで、村の重役連中にお恐れながらと訴え出るか、しめしめ上手く行きましたと報告するのか。
そいつであんたの、この村での立場や役割もわかるんじゃないか、ってね。
あいにくそんな卑怯なマネは、俺には出来なかったが……
今の俺はね、オーリィさん、そういう男なんだ」
テツジはここでまた言葉を切った。深いため息ののち、大きく息を吸う。
そしてオーリィの顔を、その奇怪な両の眼を、がっきりと正面から見据えて再び話始める。自嘲に満ちたこれまでの口調とはうって替わった真摯な声に、オーリィもまた無言ながら、彼の視線をすべて受け止めることで応じた。
「オーリィさん。これから俺があんたに言おうとしていることは、どう考えても無礼千万なことだ。たとえどんな立場同士であったとしても、人として口に出しちゃいけないことだと思う。だが俺にはもう我慢がならん!!
あとでいくらでも謝る。いくら俺を嫌っても、憎んでも、蔑んでもらっても構わない。悪いのは俺だ。だが言わせてくれ!!
あんたに対して、村の連中が言う、『村一番の美女』……あれは、何だ?
……大嘘じゃないか!!
侮蔑やからかいなら論外、同情や世辞でも許せない、冗談でも笑えるものか!!あんたが一体何をしたと言うんだ?!あれは……あれは!!
俺がこの世で一番憎む、『味方の裏切り』そのものじゃないのか?!」
言い放ったテツジだが、その表情にはむしろ後悔の方が色濃かった。
一方オーリィは、唇をかみ締め、ややうつむいたまま黙っていた。
「……済まなかった。これはやはり、何があっても言うべきじゃなかった。
この通りです」
テツジは両膝を大地に着き、巨躯を折り曲げ、続いて両手を地について頭を深くたれた。彼のもといた世界の、彼の国の、それはもっとも深い謝罪の意を示すポーズであった。
ややあって。
「テツジさん」
オーリィが口を開いた。
「あなたは優しい方ね。だって……私のために憤ってくださったのでしょう?」
彼女の意外な言葉に思わず顔を上げたテツジ。反論しようと思ったが、言葉が出なかった。
オーリィの言葉が、あまりにも図星を指していたから。
(そうだ。だが何故だ……何故俺は……)
愛も好意も善意も信じない、そう言ったはずのテツジ。だがいつの間にか、彼は彼女の得体の知れない魅力に惹かれてしまっていたのだということに、この時初めて気付かされた。
「私は——わたしね、前はとっても綺麗だったのよ。自分の顔が好きで、姿が好きで。お化粧して、贅沢な服に着替えて、大きな鏡の前でターンするの。そうするとね、自慢の髪がふわっと流れて……それを見るのが大好きだった。
男の方にも随分ちやほやされたし、いけない火遊びも……たくさんしたわ。
テツジさん、わたしはそういう女だったの——」
(そうか、このしゃべり方は、昔のこの人なのだな……)
「——だからこそ。私は、自分の今の姿がどれほど醜いか、よくわかっているつもりです。それは鏡で顔を見なくても、この右手がちょっとでも視界に入れば、すぐに気付いてしまうことですから。村の方々のあの言葉を、私には、言葉どおり受け取ったりする程、自惚れることはもう出来ないんです」
(そしてこれが、今のこの人、か……)
「未練は……あります。この髪を、何度も切ろうと思ったことがありました。この村の暮らしにはまるで要のない物ですし、むしろ邪魔になりますから。でも——できなかったわ。せめてこれだけは、って。思ってしまうのね。これだけじゃダメなんだって、わかっているはずのに……バカだわ——テツジさん、私は愚かな女ですね」
オーリィの口調は、忙しく過去と現在を行き来していた。感情の高ぶりが昔の彼女を呼び起こし、今の彼女が抑制で応じる。それはまるで、二人の彼女が対話しているかのようにも、争っているようにも、テツジには思えた。
「でもね、テツジさん。言葉は、時にまったく別の意味を持つことだってありますのよ。あなたには、それが『嘘』と感じられるかもしれませんが、そうではないの。村の方々のあの言葉が持っている、もう一つの意味……
ただそれは、この村に、この世界に来たばかりのあなたに、ご説明することはとても難しい……仮に今、私が言葉でそれを御説明しても、あなたの心に伝わるかどうか、ご納得いただけるのかどうか……私には自信が無くて。
先ほど少し黙ってしまったのは、気分を害したためではありません。あなたの問いに対する答えが見つからなかったからです。
お時間を下さい、私に、答えを探す時間を。必ずお答えする時が来ます。あるいは、その間にあなた御自身がお気づきになるかも知れませんが。
……言葉だけの約束を信じないあなたに、信じてくださいとは、申し上げても無意味なことでしょうけれども」
「いえ……もとより無礼な質問だったのです。今度ばかりは、俺が騙される覚悟を決めるべきだ。あなたから答えをいただける時を、俺は……信じて、待ちます」
「ありがとうございます。さ、お手を挙げて、お立ちになって下さい。
……それと」
「?」
「私——わたしね、今日はあなたの気持ちが聞けてうれしかった。あなたはわたしによく似てる。それがわかったから……必ず……必ず助けてあげる……!」
助ける、とは?テツジはそう問おうとして、止めた。
時がくれば、それも彼女はきっと語ってくれる。そう『信じて』。
日は既に中天に近い。
二人は来たときと同じように、家路をとぼとぼと歩いていった。(続)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます