13:「散華」~堕天~

「——次の日の朝。一晩中弄ばれた私が、ベッドの上でぐったりしていると、男は早々に帰り支度を始めました。憔悴した顔を見られたくなくて、そっぽを向いていた私の背中越しに、あの男はこう言ったのです。

『何分これでも忙しい身でね。先に失礼するよ。フロントには伝えておくから、なんならチェックアウトの時間までゆっくりしていたまえ。いいかね?私などは、まだまだ甘い方だ。世の中には、もっと悪い男もたくさんいる。これに懲りたら。

 ……オペラのヒロイン気取りは、もう止めておくんだね』

 カフェで捕まった時と同じ。うわべこそ親切めかしていましたが、最後の言葉は明らかに『冷笑』でした——

 ——あんなに人をオモチャにしておきながら!!おためごかしに!!私を馬鹿にして馬鹿にして馬鹿にして!!みじめで、悔しくて。男が部屋を出たあと、わたしはベッドの上で小一時間泣き叫んだわ。ひとしきり泣いて、ようやく涙はとまっても、今度は怒りがあとからあとからあふれてきて。自分の歯がガチガチいう音がよく聞こえたことよ——

 ——私は手早く身支度を調えなおして、チェックアウトの時間を待たず、再び街に出ました。一晩眠っていないのですから体はくたくたのはずでしたが、気持ちがそれ以上に怒りで昂っていたので、かえってじっとしていられなかったのです。

 私は収まらない怒りに顔を歪ませながら、誰もいない朝の繁華街を、着てきた贅沢なドレス姿のままでさまよい歩きました。人が見たらさぞかし異様な光景だったと思います。でもその時の私には体裁を繕う余裕や落ち着きなど全くありませんでした。

頭の中をよぎるのは『どうしてくれよう』の一言だけ。あの初老の男のことももちろんありましたが、それより。私が街で襲われたあの得体のしれない不安と恐怖と疎外感、罪もないはずの私にあんなものを押し付けた何かに、何者かに。その責めを負わせたくてたまらなかったのです。いっそ誰でもいい、噛みついてやりたい——

 ——そしてわたしは最後にとうとう、こう思ってしまったの。

『絶対にこのままではおかない。本物の娼婦になってやる。そして男共をみんなたぶらかしてオモチャにしてやるんだ……今度は狩るのは私の方だ』ってね——

 ——あんな目にあっておきながら。猛々しい私は懲りることも反省することもありませんでした。そして、自分の人生の舵をさらに間違った方向に切ってしまったんです。今思えば、あの男の『忠告』は……本当のことだったというのに……

その行く手に、あの男以上の悪魔が待ち受けていたのに……!」

(悪魔……?)

 オーリィのその言葉にテツジはギクリとした。そして今更のように気が付いた。

(そうだ、俺もだがこの人も……一度死んだ人間なのだ。もしや、その『悪魔』とやらのせいでこの人は……?)

 それはいったい何者なのか。オーリィに何をしたのか。すぐにも問いただしたかったテツジだが、その彼の胸中を悟ったかのように。オーリィはすばやく言葉を続けた。

「やがて朝の街にも少しづつ人通りが増えてきました。そしてあちこちのお店が開き始めたのです。私はその足でそのまま、眼に入った一軒の、開店したばかりのブティックに飛び込みました。前の日、あれほど恐ろしくてどの店にも入れなかったのに。不安も恐れも、今度は怒りの前に影をひそめてしまったかのようでした。そして。

 普段なら絶対に選ばないような派手で大胆なデザインのドレスと下着類を買って店を飛び出し、次に見つけたコスメショップで、またしても一際派手な色のリップにチークにシャドウ、そして香りのきつい香水を買って。きびすを返して大急ぎで、昨晩あの男と泊まってしまったホテルに引き返しました。フロントでその晩の宿泊をキャンセル待ちで予約して……さっき帰ったばかりの色々様子のおかしい客が何故また?と、大分うろんな目で見られましたけれど——

 ——わたしは、むしろその目がちょっと痛快だった。そう、人の目なんか気にしないのが、こんなわがまま勝手こそがわたしなんだって。昨日のわたしは何かの間違い、本当のわたしに戻れたって——

 ——そうしてようやく落ち着きを取り戻したからでしょう、急に眠気に襲われて……とは言えもちろんチェックインの時間まではかなりありましたから、部屋に入るわけにはいきません。私はもう一度街に出て、休める場所を探して……辿り着いたのは映画館でした。何が上映されていたのか、まるで覚えていません。糸が切れたように眠り込みました。ほんの1~2時間程度でしたけれど、頭はそれで大分すっきりしましたし、何よりそんな風にふてぶてしく『眠れる』ようになったこと、余裕と自信を取り戻せたことに満足して、ホテルに戻りました。そこで——

 ——わたしは狩りの準備を始めたわ……」

 ここまで語ると、オーリィは自分の両肩を抱いて震えだした。抑えがたい何かを必死で抑え込もうとするかのように。

「部屋に入ってドアに鍵をして、すぐその場で……服を全部脱いで。脱ぎ散らかしたものを踏みつけながら浴室に入ってシャワーを浴びて。それから髪を念入りに乾かして。朝買った香水を体中に吹いた。強い香りに酔ったようなわたしは、そこで部屋に大きな姿見が置かれているのを見つけて。裸の自分の体を念入りにチェックしたわ。昨夜のあの男のひどい扱いで、傷をつけられていないか確認したかったの。結果は無事。ついでに相変わらずの自分の体の美しさに満足して、新しい下着を身に着けた。とても大胆なものよ……着ていない方がよっぽどつつましく見えるような!ひとしきり鏡を眺めてほくそ笑んで、今度は新しいドレス。また鏡を見て、大きく開いた胸元と裾のスリットにもう一度含み笑い。そのまま新しい化粧品でメイクを始めた。けばけばしく塗られても……相変わらずわたしの顔は……とっても綺麗で……」

 語るにつれ。オーリィの表情が恍惚としていくのがテツジには見てとれた。だがそれと裏腹に、その体の震えは何故かひどくなり、自分の両肩を抱いている指が、体に食い入るように固く掴まれていく。そして。

「それから髪をきちんとブラッシングして整えて……また鏡……綺麗で、とってもキレイで、これなら、これならどんな男でも……あああああああ!」

 語る言葉が、感情の昂ぶりで途切れ途切れになったかと思うと、オーリィは突然苦悶の叫びを上げてがっくりとうなだれた。

 固唾をのんで見守っていたテツジの耳に、再び聞こえてきた彼女の声は、か細く弱々しかった。

「なんて愚かな女、浅ましい、浅ましい……『美しいわたし』、もうそんなものどこにもいないのに。思い出す度にこんなに苦しいのに。そのせいで身を滅ぼしたのに。いつになったら……『もういらない』と思えるようになるの——」

 オーリィの、失われた己が美貌への執着。その一端は市場からの帰り道に彼女から聞かされていたものの、その深さ大きさはテツジの想像も理解も超えるものであった。

 しかし。身を捻じ切らんばかりに身悶えし嘆くその姿に、彼は一片の嘘も誇張も感じなかった。

(俺はあの時、確かに『無礼は承知』だと言った。だが……これほどとは……)

 オーリィに問うたあの「問い」が、彼女にとって如何に残酷なものであったか、それに思い至って、彼は自らの無自覚の無慈悲に背筋が凍り付く思いであった。

 しかしそれと同時に。

(それならやはり、連中が口々に言うあの『村一番の美女』という言葉は?)

 彼女にとっては地獄の責め苦、拷問以外の何物でもないのではないか?

 何故それを、この彼女が、甘んじて受け入れることが出来るのか?

(答えは……やはり待つしかないのか……)

「——そうして、『狩り』の準備を整えた私は、夕暮れを待って街へ再び繰り出していったのです。街は賑やかで、もちろん男性の姿もたくさんありましたが、私に声を掛けるような人はなかなか現れませんでした。それはそうでしょう、賑やかな代わりに人目も多い、高級な繁華街なのですから。例えば下町の裏通りの、それこそ街娼が立つような場所とは違います。簡単に『客』が、『獲物』が釣れるとは、流石に自惚れの強い私でも思ってはいませんでした。

 それでも良かったのです。たとえ声を掛けられるまでには至らなくても、確かに私は通りすがる男性達から注目されていました。その刺さるような視線の束に、はしたない私は胸をときめかせていたのです。声が掛からないことを、自惚れの強い私はかえって、彼らが怖気づいているからだと解釈しました。そして、彼らには手の届かない貴重な物をお慈悲で見せてやっているのだ、という台本を頭に描いて悦にいっていたのでした。自作自演の、三文オペラのプリマ……テツジさん……

 あの池で、蛙を捕っていた時の私の様子、覚えていらっしゃいますか?」

 またしても、オーリィの不思議な問い。

「私の右眼は、池の中の蛙の様子をはっきり見通すことが出来ます。だから分かるのです。私が池に入ると、蛙もみんな私を見ていることを。

 蛙などという小さな動物にどの程度知恵が、心があるのかどうか……それはわかりません。何故私を見るのか?私のことをどう思っているのか?多分はっきりした意識などないのでしょう。自分たちの住処に大きな動物が入り込んできたことに、本能で驚き警戒している、その程度、それがせいぜいだと思います。ですけれど、私は。

 あの蛙達の視線を受けると、あの頃の『わたし』に戻ってしまうのです。かつて夜の街角で浴びた、男性達からの視線を思い出して……そして小さくて弱くて、醜い蛙相手なら、今の自分でも美を誇れる、そう感じてしまうのでしょうね。

 あの池は、『わたし』だけのための小さな劇場。お客様は……みんな蛙……」

 クスリと、ため息交じりに自嘲の笑いを漏らすと、一息入れたオーリィはテツジの目を見つめなおしてこう続けた。

「テツジさん。私は、あなたに謝らなければいけないことがあります。

 あの時、あの池で。私は自分を試すためにあなたを利用したのです。

 前の晩、朝市にご案内しますと言い出した時。それだけのことでしたら、何も蛙捕りにまでお付き合いいただく必要はなかったはず。あなたは村にいらしてからあの日までずっと、村中の様子を見て歩いてまわっていらっしゃった、市場の場所もすでにご存じだったでしょうから。市場で待ち合わせしてもよかったのです。

 ただ私は、あの時。あなたという立派な方のいる前でなら、池の中でも。私は恥じらいという気持ちを思い出して、つつましい『私』を保てるのではないか、そう思いついてしまったのです。

 失礼なことです。けれど私はどうしてもそれが試したかったのです——

 ——ただ結果は……御覧の通りだったわね……あなたという久々の、稀に無い賓客を迎えたわたし。かえって『私』ではいられなかったわ。むしろいつもよりときめいて、昂っていたかも……そしてあなたをからかって楽しんでいた……ああ!——

 ——本当に申し訳ありませんでした。お許しくださいましね……

 またお話がそれました。どこまで……そう、あの晩のことでしたね。

 そうして夜の街をさ迷い歩いた私。申し上げた通り、客はなかなか見つかりませんでしたが、私は半ば満足していました。男性達の視線の刺激、それもさりながら、なにより。そうしていれば、あの得体のしれない不安や恐怖をまったく感じなかったからです。もう目的は果たせたのでは、そう思いかけた時。

 とうとう、私に声を掛ける男性が現れたのでした。

 その方の事、その時の事は……あまりお話出来ることがありません。その後何人も同じように床を共にした男性達、その顔も、あった事も私の記憶の中でごちゃごちゃになってしまっていて。詳しく思い出せないのです。すべては刹那の、軽はずみで無意味な遊びだったのですから。ただ、とても皮肉なことですけれど……私を弄んだあの初老の男——

 ——彼の『レッスン』がとても役にたったの。お金持ちの、色好みだけどどちらかと言えばお上品な男たちを、ベッドの上できりきり舞いさせるのに!あの男の教えてくれた淫らな技の数々で、わたしは思う存分他の男たちを弄んでやれたわ。その最初の人も、たしか、多分、ね——

 ——これが私が娼婦になったきっかけなのです。そしてあとはそのあとは全部一緒、同じことの繰り返し。淫蕩に着飾って夜の繁華街に繰り出しては、声の掛かるのを待つ。そうでない時は……屋敷に引き籠る。

 実はその後も何度か、普通に街に遊びに出ようとしたことはあったのです。『狩り』など考えず、のんびり贅沢を楽しもうと思って。

 駄目でした。

 何も『狩りの備え』無しで街に出てしまうと、またあの不安と恐怖が襲ってきて。何かを楽しむなんて、思いもよらなくなってしまうのです。結局、ほうほうの体で屋敷に逃げ帰るか、あるいは……怒りに任せてその場で『備え』を調えて、その日の予定を『狩り』に変更するか。そのどちらかしか、私に出来ることはなかったのです。

 うんと最初に申し上げた通り、娼婦としての私の生きざま、それは『あてつけ』で『復讐』でした。嘘ではありません。ベッドの上では私は常にそういう気持ちでしたから。ただ……裏を返してみると——

 ——わたしには!それしか出来なかった!!屋敷に居れば、砂を噛むような虚しい時間、街に出れば襲ってくる不安、どちらにも耐えられなくて。復讐に逃げるしかなかったの。ああ……

『自由』は?わたしが手に入れたはずの自由は?どこに消えてしまったの?!——

 ——3年、あるいは、5年……私はずっとそう問いつづけながら、虚無と狂騒だけの日々を過ごしていたのです。そしてその答えは。

 ……あの悪魔が教えてくれたのでした。ある時のことです——」

 そして一息間を置くと、オーリィは今まで以上の沈痛な口調でこう切り出した。

「——好きな人が出来たの」(続)

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