18:「誕生」~聖母とみどり児~(2)
「ふわ……おはようございます、婆ァ様」
部屋の隅で眠っていたケイミーは立ち上がってそう挨拶すると、手早くくるまっていた毛布を畳んで身支度を調え始めた。
「……何だい、今朝は妙に早いね?まだ寝てな」
「ありがとうございます。でも、起きてしまいましたから。私、二度寝すると頭が痛くなっちゃってダメなんです。交代します婆ァ様、お早めにお休みになって下さい」
「そんなに都合よく眠たくなるもんかい!もう少し見ててやるから、だったらお前はいつも通り茶でも淹れてきな」
はいと軽やかに返事を返し、ケイミーは隣の自分の家に戻り、台所の土間で炭を起こし茶を淹れた。やがて盆にのせて運ばれてきたカップに口をつけ、一口飲んだよだか婆ァは、ほうと一息声を吐いた。
「お前、こいつはいつものお前の茶と違うね?」
「ええ。コナマさんに教わったんです。『気分が落ち着くお茶』なんですって。婆ァ様がゆっくりお休みになれるようにって、そう言ってましたよ」
「チィ!あいつの差し金かい、道理で……この茶の淹れ方はね、あたしがあいつに教えてやったもんなんだ。そんで元々はね、あたしが山を降りて初めて飲ませてもらった時のこの村の茶、それがこれなのさ。古臭い、今時流行らない茶だがね」
「つまり『思い出の味』なんですね?コナマさんったら!流石だな……」
「あいつもこんな小細工ばっかり上手くなりやがって」
そう言いながら一杯目を飲み干すと、婆ァはケイミーをチラと見て次の催促。ケイミーはにこやかに笑って注ぎなおす。
「お二人とも本当に、仲がいいんですね。私、最初はいきなりケンカになったと思ってびっくりしちゃいましたけど」
「フン!あんな見た目小娘みたいな相手に本気になるのも癪だからね、大目に見てやってるだけさ。それを調子に乗ってますます生意気になりやがる……」
口ではそう言いながら、ケイミーには婆ァの嘴の端が軽く歪むのが見て取れた。同じく嘴持ちの彼女にはわかる、それは鳥を宿した者独特の、微笑。
「私、お二人がうらやましいなって。私も、この人と……仲良くなれたらって」
ケイミーは女の手を取った。
「婆ァ様はこの間、『この人を丸ごと抱け』って教えて下さいました。でも私、まだ人を丸ごと支えてあげられるほど、自分がそんなに大人だって思えなくて。ただ似た者同士、一緒にいて一緒に暮らすことなら出来るかなって。そうやって、足りないところを助けたり助けてもらったりすれば、今度はくじけずに済むんじゃないかなって……教えていただいたことと違っちゃうかも、ですけど」
「構やしないさ。あたしがああ言ったのも一つのものの例えだ。あとは自分で考えりゃそれでいい。そもそもお前は人のいいなりになり過ぎて、それが駄目だったんだ。ちっとは逆らうことも覚えるんだね。コナマみたいに……いいや、お前の場合は、こいつみたいに、かねぇ。こいつはお前の逆で、とんでもない天邪鬼の意地っ張りだ。手本にするには向いてるよ、お互いにな」
「そうかも……」そう言ってケイミーは女の手を自分の頬に当てて言った。
「教えて、アナタのそういう強いところ。私、アナタと一緒にいたいんだよ……一緒に、ここで、ずっと……」
(どうして……!!!)
それが最後の楔。
「さて、あたしゃ寝るとするか。あとは任せたよ」
「おやすみなさい婆ァ……婆ァ様!!待って、待ってください、これ……!!」
よだか婆ァをちらと見送って、女の顔に目を戻したケイミーがにわかに叫んだ。
「この人を、これを見て下さい!」
「なんだこりゃ……?」
ケイミーが指し示したのは女の口元。脱力して薄く開いた唇の間から、細長い「何か」がチラチラと出入りしているではないか。
「こりゃぁ……蛇の舌みたいに見えるね……こいつの舌はこんなだったかい?」
「いいえ、あんまり気を付けて見てはいませんでしたけど、普通の人の舌だったと思います」
「じゃぁこりゃ何だ?……おい見ろ、どんどん伸びて出てくるじゃないか!」
女の口の中から伸びて出たそれは、あたかも一つの別の生き物のようにのたうちうごめいた。そして二股に分かれた先端でペタペタと周囲を叩く、何かを探し求めているように。よだか婆ァがそれをギロリと睨んで、そしてほくそ笑んだ。
「……ようやくおいでなさったようだね、こいつの獣が!待たせやがって……よし、何か食わせてみるんだ!何か無いのかい?!」
「あの……コナマさんが!『何かあったらまずこれから試してみなさい』って!!」
ケイミーがテーブルの上から取ったのは、掌に乗る小さな蓋つきの壺。中にはおがくずのような粉末が入っていた。
「干した蛙を、すり鉢で細かく砕いた粉だって……」
「蛙?……そうかいコナマめ、『蛇には蛙』かい!よし試してみろ、匙で皿にあけて、口に、あのチョロチョロするやつに近づけてみな!」
ケイミーが皿を近づけると、何度かの空振りの後、女の口から出た「それ」が皿の蛙の粉を叩いた。すると「それ」は粉の中にモゾモゾともぐりこんで動きを止めた。
「どうしたんだろうね?気に入ったのか?どうなんだ?」
「わかりません。だけど味見をしてるのかも……婆ァ様!」
皿の蛙の粉が湿っていく。二人が目をこらすと、どうやら「それ」の周りに液体が浸み出ているらしい。そして二人の鼻を突く酸の臭い。
「胃液……?体外消化……??」
「タイ……なんだいそりゃ?言ったろう、あたしゃ学が無いんだよ!バカでもわかるように言いな!」
「あの……獲物に牙?とか嘴?を突き刺して、消化液……獲物の肉をどろどろに溶かす汁を注射して、自分の体の外で溶かしたその肉をすする、そういう食べ方をする生き物がいるんです。蜘蛛とか、いろんな虫……」
「虫?そうか、こいつの左眼!違う獣を体に2匹も飼ってるとは、贅沢なやつだね。でも虫が蛙を食うのかい?逆じゃないのか?」
「蛙を食べる虫はけっこういます。水辺のいろんな肉食昆虫。例えばタガメなんかは動くものならなんでも捕まえて……あっ!……この人の左手のあの動き……!!」
「ならいよいよ当たりだね。なぁるほど、汁が浸みたとこの粉が、溶けて無くなったよ……今度は汁が減ってる!吸ってるんだね、溶かした蛙の粉を!つまりこりゃ『食ってる』ってことかい?ええ??」
「そうです、多分、いいえきっとそう!!」
「よし!壺の中身を全部ここにぶちまけな!……みろひよっこ!粉が溶けてどんどん消えて無くなってくじゃないか!コナマめでかした、当たりをひきやがった!!
ひよっこ、これはもう無いのかい?この分じゃすぐに全部無くなっちまうぞ?!」
「蛙の粉はもうありません、婆ァ様、それだけ。でも……!」
いつの間に来ていたのか、背後にコナマが近づいていた。早くも事態を飲み込んだのだろう、彼女の口調は興奮をきわどくこらえ、敢えて平静を保っている響きだった。
「材料の干蛙なら、ケイミーの家の戸棚に沢山!婆ァ様、ちょっとそのままお任せします。ケイミー、一緒に来て。急いでおかわりの用意をするわよ!」
急ぎ隣の家に駆けこんだ二人。
「まず火をおこして!大きなお鍋でお湯を沸かすの……沢山の蛙を粉にするのは時間の無駄、一度に煮てスープにしましょう!」
待ちに待っていた女の「獣の力」の現れ。この機を逃すわけにはいかない。女の残りの体力を思えばこの場は一刻を争う。しかしコナマの振る舞いには、急いではいてもうろたえている気配はなかった。先ほどケイミーが茶を沸かしたばかり、かまどには炭が熾火になって残っている。そしてやかんにはややぬるくなった湯が。婆ァに茶を淹れた後、ケイミーが後から来るコナマ達のためにまた茶を用意するのがこのところの常、もう一度火を起こすのにも湯を沸かし直すにもさほどの時間は要さない、それがコナマにはすでに計算済み。いざ事が動いた時のために、老獪な彼女はあらゆる場面での動き方をシミュレートしていたのだ。
ケイミーは熾火に薪を足してもう一度火を大きく起こし、やかんからぬるくなった湯を鍋に移してかまどに掛けた。その間にコナマは干蛙を次々に取り、包丁で叩くように荒く切り刻む。大皿に山盛りの蛙が出来上がると、ケイミーの用意した鍋の沸騰を待たず、それをバサバサと放り込んだ。
「いいことケイミー、ここまでくればこっちのもの、慌てては駄目よ。あの子は弱ってる、ちゃんと喉を通るようにしてあげないと……よく出汁を取って、出汁がらもちゃんと柔らかくなるまで煮る。大丈夫そんなに時間はかからないわ、だから落ち着いてね!出来たら鍋ごと隣に運んでもらうけれど、慌ててお鍋をひっくり返したりでもしたら、それこそ時間と材料の無駄よ、わかるわね?」
真剣な面持ちでうなずくケイミー。そしてコナマとて実は、「落ち着け」はむしろ自分に言い聞かせているのだ。鍋を囲んで見つめるわずか数分が、彼女にもじれったくてたまらない。
「そろそろいいかしら……うん、お出汁もよく出たし、出汁がらもクタクタに煮えた、これなら!ケイミーお鍋をお願い、落とさないでね、急がなくていいから!」
そう言うとコナマは包丁とまな板を持って先に隣に駆け戻る。ケイミーは一息深呼吸して、鍋を持ってついていく。やや速足ながらも言われた通り、慎重な足運び。
女の家に戻ると、じれ切った顔のよだか婆ァが、とっくに空になった蛙の粉の壺を未練気にのぞきこんでいた。そして二人が来たのを見て何か言いかけたが、コナマはこの時とばかり目で制して黙らせた。今は流石の彼女も婆ァの相手をする余裕は無い。婆ァもそれを察し、怒鳴りかけた声をゴクリと飲み込んで二人の作業を凝視する。
「ケイミー、お鍋をそこに置いたらお皿を沢山用意して、お鍋の周りに並べて。この子に飲ませるには冷まさないと。小分けにするの、一皿に半分づつ位にね!」
そう指図して自分はまな板を置き、鍋から出汁がらをすくい出してさらに細かく刻む。その間に、ケイミーが並べた皿にスープを次々に注ぐ。
「最初に注いだお皿は?これね!よしちゃんと冷めてる。ここに刻んだ出汁がらを盛って……まだ少しスープが入るかしら?隣のお皿から……これでよし!」
手順を一々口で呟きながら用意を整えるコナマ。無論それは同じ手順でケイミーに次を用意させるための説明。だがやはり、はやる自分の心を抑えるためでもあった。
「ケイミーあなたは続きを作って!さぁあなた……特製蛙スープの出来上がり、飲んでごらんなさい……!」
蛙の粉を与えたのと同じ要領で、コナマは女の口元でうごめくあの奇妙な器官に皿を近づける。すると今度は迷うことなくスープめがけてそれは伸びた。ピチャリと音を立てて先端がスープに浸ると、驚くほどの速さでまず汁気が吸われて無くなった。そしてまたあの消化液。柔らかく煮えた蛙の肉は溶けるのも早く、そしてそれもすぐに吸われて皿から消えた。
「食った!食ったぞ!コナマ、ひよっこ、でかした!!」
邪魔になるまいと必死に口をつぐんでいたよだか婆ァが、ついに耐えきれず叫んだ。もろ手を頭上にヒラヒラと舞わせ、子供のように踊り飛び跳ねる。
いや、耐えきれなかったのはコナマも同じ、どれほどこの時を待ったことか。思わず拳を握りしめ、婆ァとは逆に興奮にギリギリと食いしばった歯の間から呟く。
「……やったわ……これで!この子は……助かる……!!」
そして今度こそ大きく叫んだ。
「ケイミー!!そっちは代わるわ!今度はあなたがスープをあげて!さぁ!!」
やはり必死で目を逸らし、自分の作業に打ち込もうとしていたケイミー。しかし女の様子が気にならないはずがない。目と手は手元の皿にあっても、耳と心はすべて女とコナマの様子を伺うのに奪われていた。許しを得たケイミーはバネがはじかれるように立ち上がり、女の寝台に駆け寄った。その顔はむしろ泣き出さんがばかり。
コナマから皿を受け取り、女の口元に近づける。喜びと安堵に震える手つき。そしてこれも震える声でそっと声をかけた。
「ありがとう、食べてくれて。これはアナタの元気の素なの。もっとあるんだよ、みんなアナタの分。さぁ……」
そういいながら、ケイミーは皿を持たない方の手で女の前髪を左右に払い、肩を撫ぜた。すると。それまでぐったりとうなだれ目を半分閉じていた女が顔をもたげ、よろよろと左手を延ばし始めた。
「そう……自分で食べたい?いいよ、重たかったら支えてあげるから。お皿を持ってみて……」
女の手つきもまた震えていた。ケイミーに下から支えられながら皿をつまみ、左腕で胸元に抱きかかえるように持つと、やはりよろよろとした手つきの右手が、そのまま直に皿の中に入った。
頑是ない子供のような手づかみで。女は蛙の肉を頬張った。袖口が襟が顔が汚れるのも構わず、一心不乱に。音を立て、うむうむと赤子のような声をあげながら。
それは、はかなくも健やかな、命の原初の姿。新たな命の再生、誕生の瞬間。
その美しさに、踊っていた婆ァも動きを止め、コナマも恍惚と見とれる。
そしてケイミーは……またしても、愛ゆえに怒る明王の形相!!
彼女にとっては、その美しく喜ばしい光景はむしろ。あの「死神」に最後のとどめを刺すべくうち鳴らされた、戦いの鐘だったのだ。
「コナマさん!婆ァ様!私、行ってきます!!山のふもとの森の池、あそこならいつでも蛙がたくさんいる……生きた蛙なら、この人にもっと効くかも!!」
二人の老賢母にも、その闘志はすぐに乗り移った。
「いいわケイミー!行きなさい、早く!!」
「他の連中ももうすぐ来る、ここはあたしらに任せな!行け!!」
彼女らもまた、強く猛々しい獣の村の女であった。
(……何かあったな!)
その朝メネフがケイミーの家近くに現れたのは、ちょうど鍋をもったケイミーが女の家に駆けこんだ時であった。
(あのツラ……普通じゃねぇ!)
彼女が部屋に入ったのを見澄まして、すばやく家の戸口の脇に駆け込み、聞き耳を立てた。コナマが緊張した声で指示を出し、ケイミーが慌ただしく食器を用意する。その様子を彼は逐一聞いた。
(蛙の……スープだと?見つかったのか、あいつの『糧』は蛙だってのか?)
そしてついに、ケイミーが戸口から飛び出してきた。
「おい待てケイミー!!」
声をかけた。だが聞こえなかったのか無視されたのか、返事どころか見向きもしない。一瞬は追いかけようとしたのだが。
(ダメだ、速ぇ!アイツは脚が強い、追いつけねぇか……森の池で蛙捕りだと……?だがまずいな、あれじゃまずい。だったら!)
いずこを目指してか、彼は全く別の方向に駆け出していった。(続)
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