3:「蛇と虫」

「でしたら明日の朝、市場をご覧になるのはいかが?」

 その夜。夕食の席でテツジはオーリィからそう言われた。

 彼がこの「村」に来たその日から、おおよそ3日もたった頃である。

「きっといい気晴らしになりますよ。実は、私も市場に店を出すんです。週に一度『水の日』の朝市だけ、それが明日ですの。ですから、最初ちょっとだけ私の商売にお付き合いいただいて……いつもより早めに店じまいにいたしますから、それからゆっくり市をご案内いたしますわ」

(朝市、か。それは悪くない!!それに今のところは、この女に万事合わせていくしかないしな)

「ただ仕込が朝早いものですから。随分早起きしていただくことになるのですけど、よろしいですか?」

「いいですよ。どうせ俺は今、何もしていない身だ。いつ寝ていつ起きても同じことです。無駄にブラブラしていても体がなまるし、朝の空気を吸うだけでも確かにいい気分かも。是非そうさせて下さい」

 如才なくそう答えながら、彼は思っていた。

(だが、油断はするな……)


 次の日の夜明け前、すでに身支度を済ませたテツジは、寝台代わりに床に敷かれた枯れ草入りのマットの上に座り、静かにオーリィの訪れを待っていた。日の出丁度にまず「売り物の仕込み」に行く、そう言われていたからだ。

(フン、それにしても、妙なことになったな)

 どういう話の接ぎ穂でこうなったのか。待ち受ける間彼はぼんやりと、夕べの彼女とのやり取りとこれまでのことを思い返す。その回想は時をまたいであちらこちらと落ち着きなく、とめどないものだった。


「お味はいかが?いつも同じようなものしかお出しできなくて……物足りなくはございませんか?」

 粉を水で溶いて焼いただけの、素朴な無発酵のパン。野菜と豆の煮物。そして炒められた細切れの肉片が少々。確かに、オーリィが彼に三度三度提供する食事は、バリエーション豊かとは言えなかった。多少材料や味付けが異なるものの、毎食似たような献立が続く。

(だがこれは、この女の料理の腕の問題では無いな。この「村」では……)

 仕方無いだろう、テツジはそう思っていた。

(俺の見た限りでは……)

 時間はいくらでもあった。彼は「村」についた次の日から、それこそ村中を歩いて回ったのだ。

(耕作機械の類はおろか、ここには牛も馬もいない。畑は随分広いようだが、やり方はかなり原始的だ。作物の種類も限られているに違いない。そもそも気候が厳しい。本来はかなり乾燥した土地だ……あの荒野……)

「門の広場」のある山、「村」はそれを中心にドーナツ状に広がっている。そして「村」には村境のようなものは無かった。東西南北どちらに進んでも、家や畑が途切れるとその先は。

 草一本とて見当たらない、見渡す限りの荒涼とした平原のみ。

(あの山を中心としたこの一帯だけに、人が住める水や緑がある。オアシスのようなものかも知れないが……不自然だ。何故こんな土地が?

 いやそれはともかく、俺にとって問題なのは!ここが陸の孤島だということだ。飛行機も車も、馬すらない。余程の備え無しでここを出るのは不可能だ。いや備えをしたところで、出たところで、どこへ行く?道らしきものは一本も無し、地図も無し、外の情報も何も無い!《牢獄》としてなら、《収容所》としてなら、ここは完璧だ……)

「いいえ、そんなことはありませんよ。あなたの作ってくれるメシは旨い」

 心中別に思いを馳せながらも、怪しまれないよう相槌は忘れない。そしてそれは半分は正直な感想であった。どの皿も素朴ながら味は悪くない。香辛料にややクセの強さを感じるものの、それは野性味の強い食材の臭い消しなのだろう。彼のようないかつい男には、むしろ好ましい刺激ともいえた。

(以前の俺の暮らしからしたら、一日三度のまともなメシにありつけるのが、そもそも贅沢過ぎるくらいだからな。それに……)

「特にこの蛙が旨いです。蛙なんてものがこんなにいけるとは思わなかったが、こいつがいつもたくさん頂けるのはありがたい」

 と、それはまったく正直な感想だった。カラカラに干からびた四足を踏ん張り、口を半開きにしたまま串に刺された蛙の干物。それを味付けして火であぶった「串蛙」。最初の日、彼女と初めて食卓を共にしたその膳から、それだけはいつもテーブルに山盛りにされていた。見た目に最初はギョッとしたが、すぐに思いなおした。

(この食い物に乏しそうな村では、蛙程度でも貴重なタンパク源だろうな。いや、ここは水の便が悪い土地だ。案外ごちそうのつもりなのかも知れん。まぁいい、どう見てもこれは蛙だ。何を食わされてるのかわからないよりはずっといい)

 と、たかをくくって肝試しのつもりで口にしたところが。パリパリとして香ばしい皮と、淡白ながら噛みしめるごとに旨味の出る身。細い骨は口の中でたやすく砕け、食べるのに邪魔などころか心地よい食感のアクセントになっていた。味付けのタレもスパイシーなものもあれば甘辛いものもあり、飽きがこない。

(まったく。あの蛙のおかげで、ここのメシはまんざらでもないからな……)

「そうですか、よかった。そうおっしゃってくださるとホッといたしますわ。私なら、その蛙だけはたくさんお出し出来るものですから」

 ちょっと妙な言い草だったな、とテツジは思い返して気づいた。「自分なら」蛙をたくさん出せる、とはどういうことだろう?しかし、思わず蛙のことばかり考えている自分に軽く苦笑いを浮かべた。

(いやまて……しっかりしろ。蛙のことなどどうでもいいだろうが。そうだ、あの時もそう思って話を変えたんだったな)

「ただ、メシはたいへんけっこうなんですが、その他が……遊んで食わせてもらって申し訳ないが……やっぱりどうにも退屈でなりません」

 退屈、というのはものの言い様であった。実際の彼の気持ちは「焦燥」に近い。

(たとえこれから、何か俺にとってまずいことが起きるとしても、この「村」から当分出られないのは確実だ。なら、ここの連中がどんなことを考えているのかを探らないと安心は出来ない。今までのようにあてもなく見て周るだけでは駄目だ。何か手がかりが欲しい。何か変化が……)

「そうでしょうね。ここに来た時分は私もそれでとっても困りましたもの。ここの暮らしはのんびりしていますから。長く住めば、それなりに催し事などもあるのですけど普段は何も……ああそうですわ!

 でしたら明日の朝、市場をご覧になるのはいかが?」


「おはようございます、テツジさん。お目覚めですか?」

 彼の回想が一つの円につながったまさにその時。静かにドアを叩く音と共に、オーリィの声がした。今の彼の巨体にはいささか小さすぎる出入り口に閉口しながら、体をよじって戸口に出ると。それが商売道具なのであろう、長い天秤棒を肩に担いだ彼女の姿があった。棒の先にはタライの様な大きな平たい桶が吊るしてあり、桶は目の粗い細縄の網で蓋がされていた。そして腰に紐で下げられている、口の狭い花瓶のような形の籠。

「さぁまいりましょう。どうぞ着いてきてください」と。彼女は先に立つと、村に一つしかないあの山に向かって歩き始めた。

(仕込みというのは、何かを採りに行くようだな。特段他に道具も無さそうだし、手で簡単に採れるもの、山菜か木の実の類だろうか?しかし天秤棒とタライというのは少しおかしいな。それとあの小さい籠は?魚籠のようだが……そうか、魚捕りの罠でも仕掛けてあるのかも知れん。いや、それにしても)

 朝焼け間近の薄明かりに浮かぶ、オーリィのシルエット。荒れた砂利道でも、彼女の歩みは流れるように軽く優雅だ。その歩調にあわせてしなる天秤棒と、揺れる長い髪の、リズミカルに交錯する動き。気を許すなと思ってはいても。それを美しいとテツジは思わざるを得なかった。

(せめてあの眼さえなければな……)

 山頂に向かう道に入って程なく、森の中に入るわき道があった。そして。

「さぁもう少しですよ。ほら、見えてきた!あそこの池が」

 そこで彼女は後ろのテツジを振りかえり、これまであまり見せなかったいたずらっぽい笑顔でこう言った。

「私の漁場ですの。『蛙売りのオーリィ』の蛙捕り、妙技をどうぞご覧あれ」

(『蛙売り』だと?つまりこの女が市で売るのは蛙なのか?そしてここでその蛙を捕まえる……)

 「私なら」というあの言葉に合点はいった。二人の毎日の食卓にうず高く積まれる串蛙。売るほど捕れるなら、その一部を自家消費も出来るのだろう。

(しかし、そんなに捕れるものなのか?どうやって?)

 思う間に。オーリィは天秤棒を肩から下ろし、池の中にタライを軽く沈めて少し水を張った。次にその長い髪を懐から取り出した細紐で頭の上でまとめ、腰の紐を解いて魚籠をその場に置き、そして。

 こともなげに服をさらりと脱いで地面に投げ下ろした。

 胸を隠す白い布の帯と、短い腰巻だけの後姿。

 その体の輪郭が描く曲線は、息を飲むほどになよやかで美しかった。

(この女は……この姿を、この森の中で、仮にも男と二人きりで……見せてしまうのか?)

 だがその右半身は。テツジの想像どおり一面ざらついたウロコに覆われている。

 余程大胆で、男の前に己の美しさを誇りたいのか。

 余程卑屈で、その醜さゆえに間違い事はなかろうと開き直っているのか。

 彼には容易に判断しかねた。

 最後に、服を脱ぐために一度腰から外した魚籠をもう一度、裸の腰にぶら下げると、それで用意が出来たのか、オーリィはするすると水の中に歩いていった。二・三歩池に踏み込んだところで、水中を覗き込む。

「まずは左の虫の眼で……全体を見渡して……この眼は一度にたくさんの方向を捉える事が出来るの。大体のアタリをつけたら、今度は右の蛇の目で深さを測る……こっちは水の奥の奥までよく見える……」

 あくまでひそやかな口調だったが、それは無論独り言ではなく、テツジに聞かせているのだ。山の裾野近く、森の中にひっそりと開けたその池。湧き水が水源なのだろうか、その水はよく澄んでいるようだ。だがもちろん夜明け間際という時間が時間だ。水面はまだ暗く、思わず真似して覗いたテツジだったが、彼の眼には水底はまるで見えない。

 すると。

「最初はこっちね……それ!ほら見て、捕れたわ」

 早業であった。文字通り、目にも止まらない。恐るべきスピードで彼女が放った右手の抜き手は、しかも水面をまったく揺らさず、水しぶきも上がらない。そして彼女の手に握られているのは、蛙が、一度で二匹。

「この子はちょっと小さい……また会いましょう!でもあなたは逃がさないわ」

 一匹は池に投げ捨て、選んだ一匹は腰の魚籠の中に。そしてまた抜き手一閃。

「うん、よく太っているわね。上物上物」

 まるで、目の前に落ちているものをただ拾っているだけのように。こともなげに次々と蛙を捕らえていく。ただしその度に品定めを欠かさず、小さい蛙や痩せた蛙は惜しげもなく池に放り戻す。これほど無造作に捕まえられてしまうのなら、選び放題なのだろう。数匹捕らえると、池から上がって魚籠の蛙を天秤棒のタライに移す。網で蓋がしてあるのは、獲物が飛び跳ねて逃げる蛙だったから。そして池の周りを少し回って場所を変え、また水の中へ。

「ちょっとタネあかし。朝は水が冷たいから、蛙も動きが鈍いの。だから捕るのも案外簡単。いくらでも捕れるのだけれど……ただ、調子に乗って捕り尽くしてしまうといけないから。獲物はよく選んで、良いのを必要な数だけ……フフフ……」

(何が簡単なものか!!あの手の動き……まるで蛇だ)

「あら!こっちはガマだわ。大物狙いね。こういう時は左手の出番よ」

 最前より腰を深く屈め、水面に顔がつくかつかないかのところまでの姿勢になると。今度は動いたのは左手だった。横からボクサーのフックのように水面に侵入し、そのまま上腕と二の腕で抱え込むようにして捕らえたのは、これまた一度に二匹の、それぞれ拳ほどの大きさのガマ蛙。

「テツジさんわかる、この動き?眼以外に姿に現れていないから、ちょっとわからないでしょう。これもタネ明かし。あの子は蛙と違って刺すから慎重に……ちゃんと逃がしてあげるから、大人しく捕まってね。はいこれよ!!」

 彼女が水中から捕らえた今度の獲物は、一匹の虫。

「タガメだ……」

「あら、よく知ってるのね。そうよ、タガメ。虫でも魚でも、それこそ蛙でも!動く獲物は手当たり次第、長い腕で抱きしめて捕まえる情熱的なハンターで、吸血鬼。きれいな水にしか住めないセレブ。この虫の力が、わたしの左半身に宿っているらしいの。まぁね!わたし、こっちの世界に来るまで虫なんて見るのも嫌だったから。人に教えてもらうまでそんなこと全然知らなかった。ただの受け売り……元気でね!」

 ポイとその虫を池に投げ捨てると、オーリィは池から上がって服を身に着け、髪を降ろした。

「今日はこのくらいで充分ですわね。お待たせいたしましたテツジさん、今度は市にまいりましょう」

 彼女の口調が変わっているのを、テツジは聞き漏らしてはいなかった。

(またおっとり口調に戻ったか……蛙を捕っている間はまるで別人だった。あの女王様気取りの、気の強そうなしゃべり方。どっちがこの女の正体なんだ?)

 市に向かって、とぼとぼと、来た道を戻っていく二人。

 荒涼としたこの世界でもかわらず美しい朝焼けの空と、澄んだ冷たい空気。

 だがそれらも、テツジの胸の内の疑念を晴らすことは出来なかった。(続)

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