終章:「共生」(1)
「オーリィさん。ちょっとお話したいことがあるのですが」
夕食後の片づけを終えて就寝前のほんの少しのひと時を、茶で語り合う。それは二人のこの頃の常の習慣であった。なのにこの時、急に改まって話がしたいと切り出したテツジに、オーリィは穏やかな笑顔で、だがいつもの通りやや大げさに首を傾げた。
「あら?どうかなさいましたテツジさん、何か……」
「これを見て下さい」
テツジが懐の小さな革袋から取り出したもの、木彫りの花のブローチ。素朴でスッキリした、清楚なデザイン。花芯に貝殻を配し、花弁は真っ白に彩られている。それをそっとテーブルに置いて。
「今日、市で買ったものです。俺の初めての給金で、あなたのために。助けていただいたお礼の印です。どうか受け取ってください」
「まぁ……」
オーリィは思わずうっとりとして、それに手を伸ばしかけた。だが急に躊躇いの表情を浮かべる。伸ばした指先も宙で止まった。
「……あの、でもテツジさん、私は……」
「これはねオーリィさん」テツジはオーリィの言葉を遮った。彼女が受け取るのを辞退するであろうことが、彼には瞬時に分かったからだ。だがみなまで言わせるわけにはいかなかった。
(修道女のように、か。ですが申し訳ありませんオーリィさん、これは……是非とも受け取っていただかなければなりません。伝えたいことがあるのです……これで!)
「実のところを言えば、ケイミーさんに選んでいただいたのです。俺はあいにく、こんなことに不慣れだったものですから。ですからこれは、俺だけではなくあの人から預かった贈り物でもあるのです。ですから、是非……!」
テーブルの上で、ブローチをグイとオーリィの前に押し出した。贈り物がしたい、その言葉とうらはらな、テツジの有無を言わさぬ、押し売り同然の断固たる調子。オーリィも、ようやくそのただならなさを感じ取った。
「……先にお話を伺いますわ。おっしゃりたいことがおありなのでしょう?」
「ええ。この白い花のブローチ。今言った通り、あなたのことを一番良く知るあの人に選んでもらいました。オーリィさん、あなたは花が好きだからと。今のあなたに似合う、今のあなたのような花を選ぼうと、あの人は言ってましたよ。
流石はあの人だ。この白い花は今のあなたにふさわしい。控えめで、清らかで。
……ただねオーリィさん!」
再びテツジは、オーリィが何か言わんとしたのを遮った。オーリィの顔に浮かぶ苦悶。テツジにはその理由がわかっていた。
(あの『痛み』に耐えていらっしゃる。申し訳ありません。ですが俺は言わなくてはならない!)
「贈り物はこれだけではないのです。もう一つ、これを……!」
テツジの手つきはまるで、急所の一手を盤面に打ち付ける棋士のようであった。先ほどの革袋から取り出され、テーブルに置かれたもう一つのそれ。
彫金仕立ての、真っ赤な花のブローチ。色ガラスを焼き付けて色彩をつけたそれは、つややかで艶やか。先に置かれた白の花とは著しい対照を成していた。
「これは、あの人には黙って、俺だけで選んだ物です。これはもう一人のあなたに。あなたが忌み嫌い閉じ込めようとしている、あなたが傲慢でわがままで淫蕩だと言う、昔のあなたのために!俺はこれを選びました。
……是非これも、受け取ってもらう!!」
重い沈黙。言葉の鯉口を切ったテツジに向ける、オーリィの視線のフルーレ。
一閃、火花が散った。
「……あの晩の、リターンマッチということかしら?つまりこのブローチは挑戦状ね?素敵、手袋なんかよりよっぽど気が利いててよ。いいわ!テツジさん、あなたはこの『わたし』に何が言いたいの?!」
「その通りだ。今度は俺があんたを打ち負かさなければならん。俺はあんたにもう一度会いたかった、昔のあんたに。だから挑発したんだ。ありがたい、そうやって出てきてくれて。さぁ聞いてくれ、クロエさん……」
オーリィが息を呑んだ。新たな戦いの幕開けに、テツジが繰り出したその一撃。彼女が捨てたはずの、思い出したくないはずの昔の名前。際どい不意打ち。
「今だけは、あんたのことをそう呼ばせてくれ。俺が今話したいのは昔の、赤い花のあんただ。この村で新たに命を受けた、白い花のあなたではなく。それにはこの名前がふさわしいと、俺は思う。
クロエさん。もう隠れるのはよせ。あんたは存在していいんだ……ここに、村に。
オーリィさん、どうかお願いします。クロエさんを自由にしてあげて欲しい。
あんた達は、あなた方は、共に生きるべきなんだ!!」
オーリィの表情が、見る間に歪んでいく。あの夜、窓を通り抜けて現れテツジを脅かした時に数倍する、妖魔と見紛うばかりのその邪気……
クロエ。オーリィの心に潜む陰。
「わたしに……姿を見せろですって?自由にさせろ?共に生きろ?……フフ……
アハハハハハハハハハハハハハハ!!何のつもりか知らないけど、なめられたものね……このわたしを、クロエ・ドゥ・アルケーニュを!名指しで呼び出すなんて!
……お前はなんて愚かなのかしら?止めておくことね。お前の恩人が、『蛇と虫の目の』オーリィが、私がどうなっても知らないわよ。
お前は私に、わたしがどんな女だったか聞いたはず。そうね……私は悪魔に魅入られて死んだ。叔父と、男娼猫。でもあいつらは、元はと言えばわたしが自分で引き寄せたようなもの。あの二人が悪魔だというなら、わたしは死神。自分を殺すために生まれ、私に憑りついてきた死神……穢れた死神……
……だから!清い者ばかりのこの村で、木の梢に磔にされたのよ!!
わたしを自由にしたら、私は必ず不幸になる。そうよお前が言った通り。傲慢で、わがままで、淫蕩で!このわたしが姿を現したら、私に居場所は無くなるわ!
今更『百舌のはやにえにされた死神』に、何の用があるというの?大人しく、磔のまま朽ちて消えてあげると言ってるのに……どうして?!」
「愚かなのはあんただ、クロエ。自分のことがちっとも見えていない。それに」
テツジは冷厳に言い放った。
「今のは俺が見たあんたの舞台の中で、最低の猿芝居だ。蛙に見せる価値も無い」
「……!!」
青い炎の吹き上がるようなクロエの視線。迎え撃つテツジは、全身さながら巨大な氷山。容赦のない舌鋒に引き比べ、顔色は取り付く島もない無表情。
「挑発して怒らせる。なるほど、あんたを相手にするには、黙らせるには、『猫』の使ったこの手に限るな。前にそう教えてくれたのはあんただ。迂闊だったな……
いいか?『なめるな』は俺の台詞だ。俺がどれだけの死線を、飢餓を、鉛玉の雨を超えて来たか……俺もあんたに教えてやったはず、忘れたか?フン、死神だと?死神なら、俺は何人も返り討ちにしてきたんだ。あんた程度の出来損ないの似非死神に、凄まれて恐れをなす俺と思うな」
自分が、これほどの口汚い罵倒を繰り出せるとは。むしろテツジが驚いていた。
(俺は何としてもこの人を……クロエを、オーリィさんを変える。だから今だけは、俺も変わらなければならない。今だけは、この人と同じ地平に立つ……!)
「俺だけがあんたの本当の名前を知っている、そっちはやりにくいかも知れないな。俺の元の名はカズマ、フリヤギ・カズマ。国一番の勇士になれと、親父のタクマ陸軍総司令殿が、息子に付けたありがたい名前だよ。今となってはお笑い種だがな!
あんたも呼びたければ俺をそう呼べばいい。これでフェアだ。
……そのまま黙って聞け」
「カ……ズ……マ……!!」
震えるクロエの唇。息をひそめたままの呟き、声は音にならない。それは怒りか、怖れのゆえか、あるいは敵に狙いを定めた舌なめずりなのか?彼には判別しかねた。
だが彼は、一向に構わない様子で悠々と。
「……まずさっきの茶番から片付けるとするか。またあんなくだらんものが始まったらかなわない。ああ茶番だよ。いいか?この村に来てあんたと会ってから、俺はあんたの芝居にずっと目を奪われていた。あれだけ見せつけられれば、俺程度のお粗末な審美眼でも、多少は目が肥えるものさ。
最初に見たあんたの舞台。森の池、蛙捕りのショー。普段は蛙しか観ることの出来ない、魅入られたら命を奪われるかも知れない、危険なパフォーマンス。俺はあの時初めて、オーリィさんの別の顔、あんたの存在に気付いたんだ。
市場で聴いた歌。即興を交えた、風のように自由な調べ。
コナマやケイミーを交えたコント。騙された。あの時のあんたはどう見ても『子供好きで子供に甘く、お人好しで商売っ気の薄い、少し間抜けな女店主』だった。大した『遊び心』さ」
カズマはここで言葉を切り、クロエの反応を見た。
(大分落ち着きを取り戻している。あの顔、おそらく反撃の隙を伺っているのだろうな。かまわん。このまま押し切れるような相手ではない、それも覚悟のうちだ)
目元に青い怒りの残り火をわずかに灯しながら、クロエの口元にはむしろ、皮肉な笑みが浮かび始めている。それを見据えながら、カズマはあくまでも冷静なポーカーフェイスのまま、再び話し始めた。
「監督は、あの人は仕事はともかく役者としてはとんでもない大根だ。いいところで必ずトチる。だが、あんたはよくリードしていたよ。
長老の時は、あんたは全くの黒子だった。聞きほれていたんじゃないか?二つの顔を使い分けるあの人の芸風を、立て板に水の弁舌を、催眠術師のような話術を、あんた自身の芸の肥やしにしようと、違うか?」
語りながら、問いながら、カズマはクロエの顔色から目を離さない。
(俺の手の内は見切った、そういう顔だな……だろうな)
クロエの薄笑いが示す、落胆と、軽蔑。
(わかっている、猿芝居は俺の方、もっと退屈しろ。いつ席を蹴って立つか、その時こそ……!)
「クロエ。俺は市場からの帰り道で、初めてあんたの楽屋の顔、あんたの後悔と憂いの顔を見た。あれでようやく、うっすら気付いたんだ。今までのが全部芝居だったってことを、『清く正しく生きる幸福な村人』を懸命に演じてたってことをな。
そしてあの夜の、極めつけの大舞台。
第一部は、ホラーショー。いかれた献立の前振りで俺の不安を掻き立てた後で、あんたは素手で窓を破り、さんざん自白を強要し、石をばらまいて、挙句俺の首を絞めて引きずり回した。本当に殺されるかと思った。クライマックスは秘密の蛙と、あんたの秘密の姿。あれは演技じゃなかったが、ホラーにふさわしい体を張った演出だった。『覚悟を決めろ』とあんたは言ったが、それこそ俺は蛇に睨まれた蛙。あの時震えが止まったのは、頭がしびれて逆らえなかったというのが本当かも知れん。
第二部は、一人の女の転落を描いた、セピア色の悲劇。悲しくも美しい、古い名画のような……あんたの自伝と知らなければ、ムードに酔いしれていたことだろうな。
第三部も見ものだったよ。敢えて自分をわき役の一人に置いて、大勢を一人で演じ分けるご趣向がな。
そして最後に……」
「もういいわ、もう結構よ!!だから何だと言うの?!」
(来たか!!)
ここからが正念場。カズマは鉄面皮の陰でさっと心を身構えた。
少し前から、クロエの表情は退屈を通り越して、険しい苛つきを露わにしていた。それと知りつつ、カズマはくどくどと話を伸ばしていたのだ。
(例え芝居は猿並みでも、所詮お飾りの将校様だったとしても。戦争なら、戦いの駆け引きならクロエ、俺の方がよく知っている。
そうだ、まずは相手に『自分が有利な状況』だと思わせて誘う……)
(続)
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