麗しき蛙売り

おどぅ~ん

1:「隣人」

 男が眼を覚ました時、そこは、うっすらとした霧に包まれていた。彼はゆっくりと半身を起こしながら、自分が横たわっていた石畳の固さにまず気づき、そして周りを見渡した。

「ここは……?」

 空気が冷たく澄んでいる。山の、緑の匂い。どうやらここはどこかの山中か、高台の上のようなところに切り開かれた、広場のような場所であった。そして、彼をとりまくように、霧の中に何かがいくつも立ち並んでいた。眼をこらすと、それらは人の背丈ほどありそうな巨石であった。

「公園……?それとも何かの遺跡?……いや!!」

(どこだここは?何故俺は?いったい何が起きた?!)

 背筋が冷たくなる感覚。澱んで朦朧としていた彼の意識が、ようやく焦点を結び始め、彼は、彼をとりまく霧さながらの、頭の中のベールを必死に振り払おうとした。

「確か俺は……あの時……そうだ、あの時……俺は!!

 ……えっ?」

 彼はようやく、自分にまつわるある事実に思い至った。が、次の瞬間、その思考は別のものに掻き消された。彼は無意識のうちに顔に手を当てていた。もの思いにふける時、人が行う自然なあのしぐさ。だが、その手のひらの皮膚が感じる顔の、顔の皮膚が感じる手のひらの、2つの異様な感触は何事だろう。

「何だこれは……?!」

 彼は動揺しながら自分の手を見つめた。恐ろしく大きい。よく知っているはずの自分の手のひらの大きさ、指の太さと明らかに違う。倍、あるいはそれ以上。

 そしてその皮膚。灰褐色にところどころ黒い斑の散らかった色、見た目にもわかる、おろし金のような固いザラつき。さながら、荒削りの岩の彫像だ。

 もう一度自分の顔に手を当てた。その表面の固さもさりながら、彼が驚いたのは、自分の顎の形であった。手のひらに収めるのが難しいほどの、えらのがっしりと張った大顎……そう、今見たばかりの、巨大な手にさえなお余るその質量。

 立ち上がって自分の体を見た。

 裸体だった。だが、これが人間の裸体?胸板も、腹も、足も、手のひら同様それはどこも岩の塊のようだった。

 そしてもう一度周囲を見渡し、続いてすぐに視線を足元に移した。何かを探したかったのではなかった。それは本能的で圧倒的な違和感のせいだった。

「高い……」

 見比べるものは何も無かったが、明らかにわかる。視線の高さが、今までの自分のそれと比べて遥かに高い。だからつま先を見た。地面までの距離が……遠い!

 胃の腑をわしづかみされるような感覚。叫び出そうにも、声も出ない。もし声が出せたら、そのまま心臓まで吐き出してしまうのではないか。

 その時。

「落ち着け!!」

 少ししわがれた、鈍い響きだが力強い声がした。

「よく聞け!眼を閉じて……ゆっくり息を吸って吐け。心を静めろ」

 巨石の後ろに誰か隠れている。その声はそこから聞こえてくるのだとわかった。

「よいか?あらかじめ言っておく。わしらは、わしを含めて5人。皆それぞれ岩陰に居る。だがわしらはお前に手荒なマネをするつもりは全く無い。気を静めて、まずはおとなしくわしの言うことを聞くのだ」

 敵とも見方ともわからない、得体の知れない相手ではあったが、余程タイミングを計っていたのだろう。その者の最初の一喝は、パニック寸前の彼の心をかろうじて素面に近い状態にさせる効果があった。

(そうだ……落ち着け。俺のこの体のことは今は考えるな。こいつらの相手をするのが先だ。しかしこちらは一人でしかも丸腰、やつらは……やつの言い分を信じるなら5人。ハッタリかも知れないが、逆にもっといるのかも。何もわからない。今逆らうのは無謀だ。様子を見るしかない……)

 一度腹が決まれば、彼の【経歴】がものを言った。相手を観察しようとする余裕も生まれた。彼はゆっくりと両手を上に掲げた。降伏と服従のポーズ。

「わかった。この通りだ、俺はおとなしくする。だがなぜあんたたちは隠れているんだ?信用しろと言うなら、せめて姿を見せてくれ」

「あわてるな。わしらの姿なら今見せてやる。ただし、だ。今一度呼吸を整えろ。気を静かに持って、決してとりみだしてはならんぞ。よいか?」

「?」

 やがて正面の岩陰から、声の主とおぼしき人物がゆっくりと現れ出た。

 大きく裂けた口から見える、鋭い牙。頭は羽毛に覆われ、頂上に大きな鶏冠。

 右手に杖を持つその手は、鳥の足先のように鱗に覆われ、鋭い爪を備えている。

 人と鳥と、恐竜をごたごたと混ぜ合わせたようなその姿。

 向かって右の岩陰からも、別の人影が姿をあらわした。

 毛むくじゃらの顔と、水牛のような大きな角。地面を踏む足は、草食獣の蹄。

 左から現れた人物には、固い甲羅で覆われた腕の先に大きな鋏。そして額に生えた長い触角。

(ザリガニ……?!)

 残りの二人も同じ。彼をとりまく、とりどりの姿の怪物達。息を呑み、眼を奪われる。一度は落ち着いたはずの彼の心臓が、また早鐘のように鳴り始めた。

「さぁよく聞け!!」

 リーダーと思しき恐竜男の、またもや絶妙の一喝であった。

「今お前のいるここは……わしらは『門の広場』と呼んでおる。

 一度死んだ者が、人の姿を捨てて再び現れる場所。

 そう、お前は一度死んだ。覚えておるだろうが?」

 覚えていた。

(そうだ、あの時、俺は……敵に撃たれた……俺は死んだ!!そして……)

「こっちを見ろ。この岩だ。そら、わしが杖を振るのが映っておるだろう?この岩は面が良く磨かれている。これは『鏡』だ。これで」

 と、恐竜男はそこで一息つき、今まで以上にゆっくりと厳かな、そして少し憐憫の情のこもったような声で、彼にこう言った。

「お前の姿を見るがよい。だがくれぐれも、気を静かにな……」

 見るまでもないことではあった。最前からの出来事からすれば、そこに何が映るのか、彼にはそんなことはある程度予想がついた。いやそもそも、恐竜男達のもったいぶった登場は、彼にその覚悟を持たせるための「段取り」だったのだと、彼は思い至った。

 鏡の岩に映る顔の上半分には、彼の面影が残っていた。確かにそれは彼の顔だ。だがしかし。耳の下あたりから、彼の顔の骨格は突然ふくれあがり、石臼を下手くそに接木したかのように巨大な顎が接続されていた。口をあけると、ノミの切っ先のような頑丈な歯がみっしりと並んでいる。

(まるで鬼だ……岩で彫った鬼の像……これが俺なのか……)

「見ての通り。お前も、わしらも!今は同じく『怪物』だ。変らんのだ。だから、わしらはお前に乱暴はせんよ。おとなしく『村』まで着いてこい。決して悪いようにはせんから。の?」

 恐竜男の言葉はすっかり和らぎ、親が子を諭すような口調に変っていた。

 彼は小さくうなづいた。しかしそれは、無条件の服従でも屈服でもなかった。

(観察だ。様子を伺え。油断するな……)


 広場のあった山を降りる道すがら。恐竜男は、自分のことを『村』の長老の補佐役だと言った。

「長老は村長で、自分は助役…というようなものかな。月番制でこの5人で回しておる。今月はこのわし、『恐竜男のグノー』が助役頭というわけ。で、『広場』に現れた『新入り』を迎えに行くのはわしらの仕事の一つなのだ。まずお前を長老に会わせる。それから、住む場所……お前の当座の家に案内してやろう。こんな時のために、村にはいつでもちゃんと空き家を用意してあるのだよ」

 最前とうって変わって、恐竜男の口調はまるで近所の不動産屋か大家のようなくだけたものであった。

「さっきのあれか?フフ、あれはお前……芝居みたいなものだよ。だが上手くやらないとな……『新入り』はみんな気が動転しておるから。逃げ出して川に落ちたり、高台から転げたり森に迷い込んだり。大怪我をしてしまう場合もある。だから顔色を見て怒鳴って気付けをしたり、なだめてみたり。コツはいろいろあるんだが……そこがわしら助役の腕の見せ所さ。

 これがわしの素顔。自分で言うのも何だが、わしも含めて村の連中はだな、姿は恐ろしいが気の好い者ばかりだよ。安心して、今は全部、わしらにまかせるがよい。

 ……そら、見えてきたぞ!」

 山道の眼下に見える、こじんまりとした家の群れ。それが彼らの村であった。

(これが『村』か。まるで田舎だ……)

 土と木で造られ、石積みの塀で仕切られた、素朴で小さな家々。村の中央を通る道はレンガのようなもので舗装され、きれいに掃き清められているようだが、一歩わき道を行くとむき出しの土の道。

(見たところ、文明的な通信交通手段は無し……すぐ『逃げる』のは難しいか)

 男は彼をとりまく状況を冷ややかに観察していた。いざという時のために。

(『わしらを信じろ』、か。『悪いようにはしない』、か。……フン!!

 俺はそんな甘ちゃんじゃない。お前等の腹の内がわかるまで、おとなしくしてやっているまでのことだ。

 俺はそういう男、他人の好意など、端からもう信じていない……!)

 彼の侮蔑を含んだ歪んだ笑いは、大顎のせいで他人には極めて読み取りづらかっただろう。その警戒と猜疑に満ちた心境に気づいた様子もさらになく、助役達は軽い足取りで彼を村の奥へと案内していく。やがて見えてきた村の中心に、ちょっとした花壇の広場と、他と違ってやや大きな建物があった。もっとも彼の眼には、他の民家と五十歩百歩としか映らなかったが。

「さてここが、村役場・兼・集会場・兼・長老の家だ。入った入った……

 長老!新入りを連れてきましたぞ」

 外見どおり粗末な室内に、テーブルを囲んで椅子が10脚ほど。要するにそれが「役場」であり「集会場」なのだろう。そこに男が一人。

 牧師のような丸い帽子を被った老人だが、異様に首が長い。一行を迎えて立ち上がると、脚も異様に長く、低い天井に頭がつかえて顔が傾いている。そしてその姿勢のまま老人が発した言葉は、ひどく甲高く素っ頓狂な響きを伴っていた。

「ん、みんなご苦労ちゃん♪さぁそこのお菓子でもつまんで一息入れちゃって」

 これがどうやら「長老」のようだが、威厳も何も無い。男は拍子抜けた。

「新入り君もホレ、一口どうかね?……要らんとな?まぁ無理も無いけど、この際リラックスリラックス!!で、お前さん名前は?」

「……テツジです。イイヤマ・テツジ……」

「んじゃ呼びやすく『テツ』でいいよね!わしはこの村のいちおう長老、『ダチョウ男のモレノ』。よろしく!」

「……いちおう?」

「フフ、だってテツ君、長老だの村長だのいう者はだねぇ、村民の自治に問題がなければ、だ。そもそもやることが無い!神輿の上の風見鶏だよわしはね……それでいいのさ。ここは、そういうところ、だから」

 その時。一瞬の間ではあったが、「長老」がちらりと見せた鋭い視線。それは男=テツジの背筋をヒヤリとさせる凄みがあった。

(こいつは……!!あの目つき、どうやら油断は禁物のようだ。さっきのも、『だからお前も村の秩序を乱すな』ということか。いいだろう!そうしてやるさ、当分の間は、な……)

 テツジの目から発した猜疑の火花に、気がつかないのか、無視したのか。最前の素っ頓狂な調子に戻った長老は、こう続けた。

「わしらはさ、お互いみんな、もともと住んでた世界から見捨てられちゃったっていうか……迷子ちゃんなんだよね。だからせめて、み~んな気楽に仲良くやろうよ、っていうのがわしのモットーなの。堅苦しいのはごめんでね。さてと!

 オーリィちゃん、待たせたね、キミの出番だよ♪」

「はい長老様」

「またまた~、『様』とかやめてって、恥ずかしいからさ。テツ君、こちらの女性が、キミの住む予定の空き家の『お隣さん』。この村ではね、新入りさんは村に慣れるまで、しばらく『お隣さん』が面倒を見るしきたりになってるの。彼女が案内してくれるから、さ、着いてって着いてって!」

 シルエットの美しい女性だった。すらりと長い手足、細身だが体の曲線はあくまで丸くなめらかだ。ゆったりした、それでいてある種のダンスのように心地よいリズムをもった優雅な身のこなし、その上で揺れる首筋はどこかあどけなさも残しながら、顔の傾きに品の良い均衡を保っている。

 そして一際眼を引くのが、腰まで届くつややかな長い髪だった。深い紫のその髪が、光の加減で時に緑に輝く。その様は一種神秘的な光景だった。

 だが。

 彼の方に振り返った彼女を見て、その残酷に胸を破られた。

 彼女の右の首筋から腕にかけて、すっかりと包み込むのは、玉虫色の鱗。サンダルの右の足先を見れば、やはりそこも……服に隠されて定かではないが、おそらく右半身はすべて鱗で覆われているのではないか。

 顔立ちも本来ならば……色白の肌にすんなりと乗った、細く長く下がり気味の優雅な眉。よく通った鼻筋と形の良い唇にはどこかしら気品も感じられるが、うっすらと乗ったそばかすが親しみも加え、冷たい印象はまるで無い。だが!!

 彼女の右の眼は。

 黒い眼球にのった、縦長の虹彩を持った緑の瞳……蛇眼。

 彼女の左の眼は。

 六角の細かい部分に区切られた、虹色の球体……複眼。

 美と醜の、その仮借なきコントラスト。彼は打ちのめされた。

「はじめまして、テツジさん。私はオーリィ……

『蛇と虫の眼のオーリィ』と申しますわ。よろしくお願いいたしますね」

 そして初めての出会いに。ためらいなく。

 彼女はその恐ろしくも無残な二つ名で、自分をそう呼んだのであった。(続)

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