17、「誕生」~百舌の目覚め~(4)

 そして夜が明けた。結局ケイミーは一睡もしなかった。奇妙な気分だった。心がざわついて落ち着かない。日が昇ると、いつもよりずっと早く慌てるように隣の家に駆けこんで女の傍に寄った。

(こんなに痩せて……どうして今まで気付いてあげられなかったんだろう)

 無論。女が衰弱しつづけていることは、目で見てわかってはいたはず。だがその事実が事実として、今この時忽然とケイミーの胸に迫って来たのだ。

 あるいは憐憫、あるいは同情、悲痛、そして自らの酷薄に対する羞恥と悔恨。

 何が変わったのだろう、自分の中に初めて湧き上がる様々な思いに当惑しながらも、ケイミーはそれをこう理解した。

(『開き直る』ってこういうことなのかな……自分のことは忘れて、この人にちゃんと向かい合えって。そうだ、私今まで自分を守ることでいっぱいいっぱいだった。気持ちに蓋しちゃってたんだ……私本当は……本当に!この人を助けたいんだ……こんなに、こんなに!)

「おはようケイミー、今朝は随分早いのね……あら?」

 やがて現れたコナマと『援軍』たちは、ケイミーが女の手をじっと握って顔を見つめる姿をそこに見た。

(何か……あったのかしら?今までのこの子と違うわ)

「ああ眠い眠い……夕べは寝ずにあんな余計な話をしちまった、眠くて仕方ないね……フン、多少は甲斐があったみたいだね。殻のかけら一枚くらい落ちたか」

(そう……婆ァ様が何か言ってくださったのね)

 コナマがチラリとよだか婆ァの顔を見て、ニコと笑いかけると、婆ァはプイとそっぽを向いて不機嫌そうなそぶり。そして二人の耳にケイミーの呟く声が聞こえてきた。

「ごめんね。私冷たかったよ。アナタのこと思ってあげられなかった。私はアナタを助けたい。生きて欲しいの。どうか頑張って……」

 ここ数日というもの。弱り切った女は身じろぎもせずただ横たわるだけであった。無論その間一言も無い。しかしその時。

 弱った唇を震わせながら、女のかすかな声が漏れて聞こえてきた。

「どうして……ふふ……馬鹿な人たち……どうしてそんな無駄なことを?言ったじゃないの……わたしは、わたしが要らないんだって。いいわ……好きにするといい……自分でわかるもの、もう何もしなくたって、こうしていればわたしはそのうち死ぬ。もういい……もう要らないのよ……」

「うるさい!!!」

 家が壊れるかと思う程に、その叫びは鋭く強く猛々しかった。コナマも援軍の女たちも、そしてよだか婆ァですらその声に驚愕し畏怖した。

 ケイミーの叫びだった。その突然の情動の爆発。

『怒髪冠を衝く』という、その言葉はケイミーに限っては単なる形容詞ではなかった。その髪を飾るすべての羽毛が逆立ち、メラメラと燃えるように震えていたのだ。その炎は彼女の大きな両目にも燃え移り、見開いた眼差しはすべてを貫くがごとく厳しく激しい。

「ア、ア、アナタが、アナタが!たとえ!何と言おうと!!わたしはアナタを助ける!!アナタのその口は!ゴハンを食べるためにあるの!!死にたいとか要らないとか、余計なことを言うためにあるんじゃない!!だったらずっと閉じてて!!!」

 怒りのあまりもつれる言葉を、それでも一気に叩きつけると、ケイミーは家から外に駆けだして行った。すかさず後を追うコナマ、そしてよだか婆ァも悠然と席を立つ。顔を見かわす老婆達には、若手の二人がこう言ってうながした。

「今この人は私たちで看ます。皆さんはケイミーさんのところへ……!」

 そして。寝台の上に取り残された女も呆然としていた。

(どう……して?)


 通りに植えられた一本の立ち木。ケイミーはその幹に片手をついて寄りかかり、荒い息を吐きながらうつむいていた。その髪の羽毛から足の爪の先まで、震えはなおも止まらない。思いもよらず湧き上がった、自分自身にも正体不明なそのすさまじい怒り、それを抑えるのに必死だった。やがて追いついたコナマが静かに背後に近づくと、気づいたケイミーはかろうじて言葉を返した。

「ごめんなさいコナマさん、私急に……どうしてこんな……怒ったりして……」

「何故?何を謝るの?」

「……え?」

「ケイミー、今のあなたの怒った顔、怒鳴った声……私がこの村で見て聞いたどんなあなたの姿より、ずっと素敵よ……もっと怒りなさい!!」

 コナマの意外な言葉に、ケイミーは驚いて振り返った。

「ケイミー、私のことは前に話したことがあるわね。心臓の病気でずっと病院ぐらしだったって。私はここに来るまで、何かやりたいことがあっても全部あきらめなきゃならなかったわ。思い切り走ってみたかった。海に行ってみたかった。学校に行きたかった、友達と遊びたかった、働いてみたかった、恋も結婚もしてみたかった!

 次から次に願っては、あきらめた。でも今度こそって、そのためにって!何が何でも生きていたい、そう思い続けてきた。68歳まで生きた私、でも私の病気でそんなに長く生き続けたのは奇跡だって、そうも言われた……全然うれしくなかったわ。私はもっと生きていたかったのだもの!!

 私はね、この村で一番生きることに、命に強欲な女よ。だからあの山がこの不思議な体をくれたのかも知れないけれど。

 だからと言ってね?

 あなたやあの彼女。自ら自分の命を断ったあなたたちを、弱虫だとか贅沢だとか言うつもりは無いわ。逆よ!

 誰よりも命が惜しいこの私だから。それを失うのがどんなに恐ろしいことか、つらいことか、考えてもぞっとするの。まして命を自分で捨てる?捨てなければいけなくなるって?考えれば考えるほど恐ろしいし、もしそれが、他の何かに、誰かに強いられたことだったとしたら……わたしだったら……絶対に許せない!!

 モレノも言ってたでしょう?あなたは見殺しにしてしまった教え子のために、後ろめたさのために。持っていていいはずの気持ちまで殺し続けてきたの。あなたを叩き潰した人の世の無情に、運命の不条理に、怒ることを忘れてきた。でも今。

 詳しい事情はわからない、だけど新入りのあの彼女、あの娘を殺したのはやっぱりそういう理不尽な力。同じ死神に憑りつかれたあの姿をあなたは見た。だったら!

 あなたが怒ってあげなくて、誰が彼女のために怒るの?!

 そうよ、もっと怒りなさいケイミー、その怒りはあなたに正しい力をくれるわ、彼女を救う力を!!

 あなたのその大きなよく見える目で、あなたたちを苦しめた死神どもに、しっかり狙いを定めなさい!その鋭い足の爪で押さえつけて、ズタズタに引き裂いて!その嘴で食い殺してしまいなさい!この村があなたに与えた姿と力は、そのためにある……

 そう思いなさい、そう思って戦いなさいケイミー!!」


 一時少し収まったかと思われた彼女の体の震えが、再び激しくなった。だが彼女を揺り動かす感情は、先ほどの正体不明の野蛮単純な怒りではなかった。

 憎むべき相手に正しく焦点が結ばれたとき、怒りが姿を変えるその新たな感情。

 勇気。

 ケイミーは高揚したまま喋るのに必要な分だけ息を調えると、キッとコナマに向き直った。

「長老様はこう言いました、『罪人ほど誇りを持て』って。よだか婆ァ様はおっしゃいました、『開き直ってもがけ』って。今コナマさんはこう言った、『死神と戦え』って。いろんなことをいっぺんに教えてくださったから、私、全部はちゃんと呑み込めてないと思います。だけど、わかったこともあります。

 私が弱虫のままじゃ、あの人を助けてあげられないって。そうですよね?」

「そうよ!」

「あの人のためだったら、私は怒っても戦ってもいい……そういうことですよね?」

「その通りよ!」

「だったら…」その時ケイミーの顔に、誰もが彼女には見たことのない表情が現れた。不敵な笑み。

「だけどさ【コナマ】、あんたはそう言ったけど、死神なんて……食べても美味しくなさそうじゃない?ごめんだわ!」

(この子……私を【子供扱い】している……そうなの、つまり……)

 これまでどうコナマが水を向けても、遠慮してよそよそしい態度を取り続けてきたケイミーの豹変。コナマを敢えて子ども扱いすることで、わざと無頼な口の聞き方をすることで、自分を鼓舞しようとしている。コナマはそう見て取った。

(そうよケイミー、私はそれを待ってたのよ!)

 コナマもまた、クルリと生意気なあの子供の調子に戻った。

「何だヨケイミー、せっかく教えてやったのにサ?だったらどーすんだヨ?」

「あたしだったら……そうね、いいじゃないこの木!いい枝ぶりよ。この梢にとっ捕まえた死神とやらを引っ張り上げて、てっぺんに突き刺して!村中の晒し者にしてやるわ!!それで、あの人が元気になったら、一緒に見上げて言ってやるの。

 ……ザマァミロって!!」

「いいじゃんケイミー、ソレすっごくかっこいいゾ!なぁそのザマァミロ会だけどサ、アタイもまぜてくれるんだよナ?」

「もちろんよ!……婆ァ様もいかがですか、ご一緒に?」

「ゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲゲ!」

 少し後から、二人に追いついてじっと話を聞いていた、よだか婆ァのその怪鳥のような声が、すなわち笑い声だった。

「死神を?『はやにえ』にするってかい?こいつはいい!そうかわかったよ、お前は百舌だ、百舌女だ!!見たところワシタカの類だが、あたしですらもどきのよだかなのに図々しいと思ってたんだ……百舌なら丁度いい!なぁに、百舌だって立派なもんさ、小さくたって猛々しい鳥だよ。トカゲにヤモリに蛙にバッタ、自分の体に見合わないどでかい獲物を捕まえて、食いきれなけりゃそこらの枝に突き刺して。

 ひよっこ、お前は今日から『百舌女のケイミー』だ。『死神のはやにえ』、きっちり仕上げてあたしに拝ませな!!」

「あたしが……『百舌女』!婆ァ様、名前をくださってありがとうございます!」

「あたしが考えたんじゃない。お前の鳥が目覚めて鳴いたんだ。あたしゃその声で名前を当ててやっただけさ。だけど、名前負けするんじゃないよ!!」

「はい!コナマさん、皆さん、あらためてお願いします。私に……いいえ、あの人に力を貸してあげてください!それと婆ァ様、お願いがあります」

「何だ?」

「ゆうべおっしゃいましたね?婆ァ様は夜の方が目が冴えるって。あの人は、もう一瞬も目が離せない。これからは、昼間は今まで通り私が、でも夜は婆ァ様が見守っていただけませんか?お願いします!」

「調子に乗るんじゃないよ、ひよっこがあたしに指図かい?!フン……けどまぁ、今日は確かに眠たくてたまらないよ。あたしはもう一寝入りする。せっかく頑張って昼間起きるようにしてるのに、ひっくり返っちまうね、これじゃ……コナマといいお前といい、どいつもこいつもあたしを何だと思ってるんだろね?!

 ……夕飯時分に起こしな!!」

 そして一人トコトコとケイミーの家に戻っていく。相変わらず、よだか婆ァは嫌とは言わない。ただだまって人の言うことを聞いてやるのは癪に障るだけ、何か文句の一つも言わないと気が済まないのだ。その珍妙な風情に、ケイミーとコナマは顔を見合わせて微笑んで。

 同じ微笑みの老婆達とともに、女の家に戻って行った。

(あの人が待ってる……今度こそ!!)(続)

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