(5)訣別の手紙
久しぶりに取り出した便箋を広げると、そっと羽根ペンの先端を確かめた。
長い間使っていなかったが、指の先で、すっと撫でてみてもどうやら傷んではいないようだ。
だから、取り出したインク壺に浸して、ペン先をそっと白詰草の便箋に下ろした。
「イザークへ」
小さい頃から何度も綴り慣れた名前だ。だけど、リーゼが書くのは、きっとこれが最後になるのだろう。
「イザークへ。
あなたには信じてもらえないかもしれませんが、私は女神様の加護で、一年たってから甦りました。
甦ってからの日々、いつもなぜあなたが私との婚約を破棄したのか。そして、最後の時に、私の処刑をカトリーレ様の側で見ていたわけを知りたいと願い続けてきました。
幼い頃から、私の知るイザークは、少しぶっきらぼうでも本当はいつも優しい人だと知っていたからです。だから昔のように、なにか誤解をしているのではないか。私が気がついていないことがあるのではと思い続けていました。
でも、どうやら私の勘違いだったようです。私は小さい頃から、少し楽天家の傾向があるとよくイザークに笑われていましたね。頑張ればなんとかなると考えていましたが、今回はどうやら、それも通じなかったようです。
まさか、あんなにイザークに疎まれるまで、嫌われていたなんて――イザークにしてみれば、きっと世間知らずの私は、ずっとお荷物だったのでしょう。
それでも、私はイザークをずっと愛していました。それは甦った今でも変わらず、今でも思い出すだけで恋しくなります。
でも、もうやめようと思います。
イザークはカトリーレ様を選びました。私といる時とは違うイザークの顔を見たことで、心の中で踏ん切りもつきました。
私をはめて処刑させたのは、カトリーレ様です。だから、どうかお幸せにとは申せませんが、二人の前に現れることはもうないでしょう。
最後に、倒れた私を屋敷まで送って下さってありがとう。幼馴染みとしての気遣いだけは最後まで私に残してくれたことを感謝して、別れたいと思います。
リーゼロッテ・エルーシア・シュトラオルスト」
ことんと羽根ペンをペン立てに置く。途中で何度もペンを止めながら書き綴った文章だった。
迷い、自分の思いをどうすればこの紙の中で伝えることができるのかと悩んだが、書き上げてしまえば文面に書いた通り、どこかで踏ん切りがついた。
だから、一度読み直し、インクが乾くのをまって丁寧に折る。そして、白い封筒に入れた。
隅に白詰草の描かれた封筒を見れば、イザークはすぐに差出人をわかってくれるだろう。
だから、もしもカトリーレ様に見られた時用に、封筒には差出人を書かないでおいた。
代わりに、いつも使っている封蝋を押して、間違いなくリーゼからだとわかるようにしておく。シュトラオルスト家のものとは違う。小さな百合を描いた封蝋だ。
いつも公爵家に使いを出す時には用いていたものだから、まずこれでリーゼからだとわかるだろう。
だから、手紙を仕上げると、側にあった呼び鈴を鳴らした。近くの部屋にいたのか。小走りの音がしてマナーネが来ると、リーゼの部屋の扉を叩く。
「お嬢様、どうかされましたか?」
「ああ、マナーネ。忙しいところを申し訳ないのだけれど、ブルーメルタール公爵家に使いをお願いしたいの」
「イザーク様のところに? それはまたどうして」
きっとアンドリックから最近のイザークの仕打ちを聞いていたのだろう。それとも、カトリーレとの結婚話を聞いていたからか。
不快を示すように眉を寄せたマナーネに、心配を打ち消すように笑ってやる。
「なんでもないわ。遅くなったけれど、この間送ってもらったことへのお礼状よ。これを直接イザークに、私からだと言って渡してほしいの」
「ですが……それぐらいでお嬢様が、わざわざお礼を言うこともないと思うんですがね」
顔をしかめる表情を見れば、やはりアンドリックからイザークの暴言を聞いていたらしい。少し口を尖らせた乳母に、リーゼはくすっと笑った。
「お仕事中に悪いとは思うわ。でも、お願いよ。私からは最後だからと言って、必ず渡してほしいの」
その言葉にはっとしている。
けれど、ただ微笑むリーゼの様子に伝えたい内容がわかったらしい。マナーネは一度目を落とすと、リーゼの名前も書かれていない封筒を見つめた。そして、すっと息を吸って、リーゼを見つめる。
「わかりました。必ず、イザーク様本人にお伝えします」
「お願いよ」
きっとリーゼの覚悟が伝わったのだろう。一度頭を下げると、封筒を受け取って下がっていく乳母の背をリーゼは見つめ、そしてぱたんと扉を閉めた。
静かに白詰草の絨毯を歩いて、ゆっくりと窓辺に近づく。かたんと側の椅子に座って窓から庭を見下ろせば、小さな屋敷ながらもよく整備された花壇には、色鮮やかなシクラメンがいくつも可憐な花を咲かせている。小さな炎のような形で、必死に寒くなり始めた空に手を伸ばす花の形に、リーゼも薄い冬の空を見上げた。
(これで、本当に終わったんだわ……)
やっと死ぬ前からの辛い日々に終わりを告げられた。だからもっと晴れやかな気持ちになってもいいはずなのに、脳裏にはイザークと過ごした幼い頃からの月日が甦ってくる。
初めて会った時。
次に、子爵家に遊びに来た時。親に黙って二人だけで万博会場に行って、怒られた時に見せた片目だけをつむった笑み。
「リーゼ。君が喜びそうな職人がいたよ」
領地に戻った自分にわざわざ送ってくれた手紙。都に来るのと同時に、急いで会いに行くと、資金繰りに困っていた工房をブルーメルタール家の援助で盛り返したお蔭だと、二つ返事で領地への弟子の派遣を了承してくれた。
「ありがとう、イザーク」
「たいしたことじゃないさ」
ぶっきらぼうに言いながらも、頬が赤くなっていた彼をかわいいと思ったのは、いつのことだったのか――。
「リーゼ、君がやりたい事業なら、多分この人が詳しいよ」
「いつも、がんばるなあ。俺も手伝うからさ、たまには二人でお茶にいこうよ」
今までに聞いたイザークの色々な言葉。笑ったり、すねたりしたような表情の様々を思い出すと、知らない間に頬から涙がこぼれてくる。
(どうして泣くの? もう、思い切ったはずなのに――)
過去がどうであれ、自分はイザークに嫌われてしまった。死んでもよいと思われるぐらい。
(ここまで心が離れたのなら、別れるのが当たり前でしょう? それなのに、悲しいなんて――)
どうして涙がまだこんなにとめどなくこぼれてくるのだろう。
好きだったイザークが、自分を殺した憎いカトリーレと一緒になるから? それとも、ついに二人の間が終わってしまったからだろうか。
(わからない――)
ただ、こぼれる涙を拭うことも忘れて、リーゼは椅子に座ったまま空を見上げて泣き続けた。
どれくらいの時間そうしていただろう。濡れた頬にただ太陽の日差しを感じていると、こんこんと控えめに扉を叩く音がする。
「お嬢様」
声からすると、ブルーメルタール家に使いに出したマナーネが帰ってきたらしい。
(ああ――)
全てが終わったのだと思い、急いで頬を見られないように拭った。きっと泣いていた跡は消えないだろうが、幼い頃から自分を育ててくれたマナーネなら、何も言わなくてもわかってくれるはずだ。
だから心配かけないように、急いでごしごしと目の周りをこすると、帰りを待ちわびていたように微笑みながら、かちゃりと扉を開いた。
「早かったのね。イザークには渡してくれた?」
「それが……」
けれど、いつもしっかり者のマナーネにしては妙に歯切れが悪い。よく見れば、マナーネの手の中には、まだリーゼが渡した白詰草の封筒があるではないか。
「お嬢様が言われた通りの言葉を伝えて、執事にイザーク様への面会を頼んだのですが、『ならば、今は決してその手紙を受け取ることはできません』と言われまして……」
「え?」
(ギンフェルンがどうして……)
けれど言われたマナーネも、余程困惑しているのだろう。少し視線が泳いだが、周りを見回して誰もいないのを確認すると、そっとリーゼの耳元に顔を近づけた。
「だから、こっそりと公爵邸の顔なじみを探したんですがね。昔、よくイザーク様のお伴でうちに出入りしていた若い者を見つけたんで、訊いてみたのですが……」
そして、更に一段声を潜める。
「イザーク様は、もういつまでもつかわからないお体だそうですよ。都中の名医にも、匙を投げられたとか――」
囁かれた言葉に、リーゼは大きく眼を見張り秘密の情報を持ち帰ったマナーネを見つめた。
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