(7)白椿の庭で
(やっぱりイザークは私を嫌っていた!)
カトリーレの茶室から飛び出しても、さっきイザークに投げつけられた言葉はぐるぐるとリーゼの頭を回り続ける。
絶対に信じたくはなかった!
イザークが自分を疎んでいたなど! だから、必死に嫌われている以外の可能性を探し続けていたのに、さっき投げつけられた言葉で、心の堰が一気に切れてしまった。
どんなに涙を止めようとしても、後から後からこぼれてくる。投げられたお茶で汚れてしまった高価なドレスも、泣き続けている自分の姿も、全てが惨めだ。だから、泣き顔を見られないように、リーゼは回廊から飛び出すと、大公家の者がいない庭に走り出た。
この広い庭のどこかの端に、リーゼ達が乗ってきた馬車も止まっているはずだ。だから遮二無二走ったのに、広すぎる庭園ではどこに馬車泊まりがあるのかさえわからない。ただ今は、家から連れてきた御者にさえ、自分の泣き顔を見られたくはなかった。
だから人目を避けて庭に生い茂る椿の一角へ走ると、木立の中へと飛び込む。
「おい! リリー!」
後ろから来たアンドリックが慌てて追いかけてくるが、とても今は彼の慰めを聞く気にもならない。
だから、緑の枝の間から伸ばされた手を強引に振り払った。
「一人にしておいてよ! 今は――誰とも話したくはないの……!」
「リーゼ……」
困惑したようにアンドリックが、肩を掴もうとした手を空中でさまよわせている。だけど、しばらく迷った後、浮かせていた手を握りこんだ。
「そうだな――すまん。だけど、危ないから……」
「わかっているわ! でも、無理なの……! 今だけは、誰とも会いたくない――」
「わかった……。じゃあ、俺は叫んだら聞こえるくらいの場所まで離れているから」
とめどなく流れる涙で頬を濡らしているリーゼに気がついたのだろう。一瞬息を呑んだように見つめ、リーゼが入った椿の一角から踵を離すと、大公邸との道の間に立ってくれた。きっとリーゼを害する者が近づかないように見張りをしてくれているのだ。
わかっている。アンドリックが慰めに来てくれたことは。
だけど、今はとても誰かの言葉を聞ける状態ではなかった。
こぼれ続ける涙の奥で、何度も何度も、さっきのイザークとカトリーレの光景が回り続けている。
(本当に嫌われていたなんて……!)
絶対に知りたくはなかった。だから婚約を破棄したのだ。死ぬ前にあんなに冷たくなっていたのも、つまらない女だと思われていたから――――。
だけど、悲しくて悔しくてたまらない。仲睦まじい二人の様子に。自分を嵌めたカトリーレにイザークをとられたことが!
裏切られても。捨てられても! まだこんなにもイザークを好きなのに!
(どうして私を殺した人を選んだの!? いくら私を嫌いになったからといって!)
自分と正反対だから? 優雅で洗練された社交界の花だから?
(だから、私を嵌めて殺したのがカトリーレ様だと言っても、まだ彼女がいいの!?)
けれど、涙をこらえて見上げた空からは、静かに白い椿の花びらが降ってくる。散り椿の一種なのだろう。まるで雪が泣いているかのようだ。
「違うわ……私は、イザークに死んでもよいと思われていたのよ……」
だから、あの時カトリーレの側で自分の処刑を見ていたのだ。
助ける価値もないと思われていたから!
「馬鹿ね、私……」
ましてや、リーゼが罪を犯したせいで処刑されると思っていたのなら、尚更……!
(それなのに、イザークのことがまだこんなにも好きだなんて……)
空からは、はらはらと八重咲きの椿の花びらが落ちてくる。
「あなたが憎いわ、カトリーレ……」
憎くて、苦しくて、殺してやりたいほど――。
(私の代わりにイザークに愛されている。私を陥れて殺したあなたが……)
「本当ならば、イザークの隣にいるのは私だったわ……」
それなのに、カトリーレの罠にはまったせいで、イザークに捨てられるきっかけを与えてしまった。
もし、もう少し時間があれば、イザークの離れていた気持ちにも気がついて、やり直すことができたかもしれないのに――――。
「あなたを――――殺したいわ、カトリーレ……」
殺して――自分の命の糧にできたら。
わかっている。そんなことをしても、もうイザークは自分の元には帰ってはこない。
それどころか、愛した女を殺した者として、自分はイザークに生涯憎まれるだろう。
本来ならば、自分こそが彼にそう追慕されるべき位置だったのに――。
「だめよ、リーゼ。それに家族がいるでしょう?」
目の前に降る白椿の花弁に、必死に唇を噛みしめる。
それでも、落ちてくる涙は止まらない。
今、自分がこの衝動のままカトリーレを襲えば、やっと謹慎にまで処分を緩められた家族もただではすまないだろう。一年前に暗殺を企んで処刑されたと思われている娘の一族だ。カトリーレを殺して、真っ先に疑われるのはわかっている。
だから、決してカトリーレを憎んではいけない。
(――なのに、どうしてこんなにも辛いのかしら……)
「滑稽ね、私。こんなことを知っても、まだイザークが好きだなんて――」
灰色の空からは、白椿の花びらがまるで雪のように落ちてくる。はらりはらりと。リーゼの悲しみに寄り添うように。
美しいとさえ感じられない。ただ、あまりにも愚かだった自分が情けなくて、涙が降りやまずにこぼれ続けてくる。
――どうして気がつかなかったのだろう。
冷たくなったのが、リーゼに興味をなくした印だったのに。
わかっている。誰だって幼い時と同じではいられないのだ。昔は優しかったとしても、いつのまにか見えない何かが、二人の間で変わってしまっていたのだろう。
八重に咲いた白椿の花びらが、ふわりとリーゼの上に降り注ぐ。
そして、ふと胸に落ちたときだった。
ずきりと、リーゼの胸を刺すような痛みが貫いたのは。
花びらはただ胸にのっているだけなのに、まるで矢で心臓を射貫かれたような痛みが走り抜ける。
(え……今のは、なに……?)
思わず右手で胸を押さえたが、痛みはどんどんと大きくなってくる。ついで、ぎりっと心臓を止めるかのように胸の中央が軋んだ。うまく息ができない。
思わず胸を握った指の隙間から、椿の白い花びらが落ちた。
だが、掴んだドレスの下では、痛みに抵抗した心臓が必死に鼓動を打とうとしているのに、まるで鎖で雁字搦めにされたかのようだ。
口をぱくぱくとさせるが、喉さえも息をうまく吸い込めないではないか。
(まさか……)
まるで、心臓と肺の動きが止まっていこうとしているかのような――――。
嫌な汗が、額に浮かぶ。
(もしかして、私の仮初めの命ってそんなに少なかったの!?)
まさか、もうラッヘクローネの言っていた自分の命が尽きたのだろうか?
だから、息ができない? 心臓や肺を正しく動かす力がないから?
(嫌よ! こんなところで、もう一度死ぬなんて――)
まだ生き返ってから、何もしていない。悲しませた父にも、母にも。慕ってくれる弟に別れさえ言っていないのに、またこんなところで人知れずに命を落とすなんて――!
(絶対に嫌!)
だから、助けを求めるように、椿の枝の間に手を伸ばした。指が引っかかったのだろう。触れた赤い椿の花が、首からことんとリーゼの手首の上に落ちる。
「たす……け、て……アンド、リック……」
遠くに見える従弟に手を伸ばしたが届かない。きっとこんなくぐもった声では、離れたところにいるアンドリックには届かないのだ。
「おねが、い……だれ、か……」
しかし、切れ切れに呼ぶ声に応える者は誰もいない。
(このまま死んでいくのかしら――)
また、あの全てが虚無の世界へ。
(お母様、お父様……エディリス……、アンドリック……)
しかし、息ができないまま、意識は急速に暗くなっていく。そして、呑み込まれそうになる暗黒の中では、ひどく冷たい空間がリーゼの意識をのみ込もうと待ち受けているではないか。
(いや! あの中に落ちたらもう戻ってはこれない――)
あれは、処刑の最後の瞬間にも見た虚無の深淵だ。あの中に入れば、意識は完全に消えてしまい、もう誰の声も届かない世界に入ってしまう。
(助けて――! 誰か……)
けれど、急速に消えていく意識の中で、ふと自分を抱きしめる温もりを感じた。
(誰だろう……)
わからない。たが、今はこの温もりだけが、消えていく意識の中で縋れるたった一つのはかない糸だ。
だから、必死に頬に触れる優しい温もりを追いかけた。どこかでいつか嗅いだような匂い。
「リーゼ……」
呼びかけられた声にふっと息が軽くなった。
何度も何度も。リーゼの柔らかなクリーム色の髪を撫でる優しい手つきに、温もりで支えられているような気さえしてしまう。
(誰――?)
どうして、自分をこんなに優しく抱きしめ続けるのか。
どこかで知っているような指の感触を追いかける内に、ふっとリーゼの意識は途切れた。
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