第四章 訣別を告げるために

(1)命の期限

 

 苦しい。手も足も重くてまるで鉛のようだ。息を吸いたいのに、うまく口を開けることさえできない。


(誰か助けて!)


 必死に叫ぼうとするのに、声は口から出ていくことさえできない。唇が固まっているように動かないのだ。


(誰か――)


 泣きたいような気持ちで叫ぶのに、指一つ持ち上げることさえできない。ただ、深淵の虚無だ。冷えた闇が体を包み、いつでもリーゼの全身を呑み込もうと周囲で待ち構えている。


 足も腕も目に見えない闇の鎖に捕らわれて、今にも虚無の奈落に引きずり込まれていくようではないか。


(いやっ!)


 助けて。誰か――!


 けれど、動かすことさえできない手を持ち上げようとした時、不意に誰かがリーゼの冷え切った手を握るのを感じた。


「リーゼ……」


 誰だろう。すごく温かい。


 そして、今の今まで死の冷たさに捕らわれていた指が、握る温もりからゆっくりとこちらの世界に戻って来るではないか。


 小さいけれど、ゆっくりと喉が動いた。そのまま息を吸い込んで、体の隅々まで酸素が走って行くのに、ほのかに体が温かくなっていく。


「リーゼ」


(誰……?)


 わからない。耳元で繰り返し自分を呼ぶ人物が誰なのか――。


 ただ、握られた手から伝わってくる温もりに、まなじりから涙が溢れていく。


 すっとこぼれた感触が頬を伝い、髪に吸い込まれるのと同時に、ふっと意識が戻った。


 ゆっくりと重たい瞼を押し開く。


 目に入ったのは、紅葉の木で作られた赤茶色の天井だった。白詰草を描いた若草色のカーテンが、温かな光に白く染め上げられながら下がっている。


 置かれている白い衣装箪笥、暖かな炎をあげて燃える白い暖炉。何もかもが、自分の部屋のものに間違いがない。


「どうして、私……」


 こぼれた声は、自分のものとは思えないほど掠れていた。それでも、扉を開けて入ってきたエディリスには聞こえたらしい。


「姉さん!?」


 抱えていた盥を慌てベッドサイドに置くと、そのまま急いでリーゼに駆け寄ってくる。


「エディリス、私どうして……」


「姉さんは倒れたんだ。覚えていない?」


 倒れた――。言われて、やっと招かれたカトリーレの庭で、突然息苦しくなったのを思い出した。刺されるように胸が痛くなり、息ができなくなって――――。


(――そうだわ。あの時、もう一度死ぬのかと思った……!)


 思い出したあの時の恐怖が、まざまざと甦ってくる。思わず空色の瞳を大きく見開いてしまうほど。


「そう……だったわ。私、あの時苦しくて動けなくなって……」


「そうだよ。だから、倒れた姉さんが抱かれて帰ってきたのを見た時は本当に驚いた」


「抱いてって――アンドリックが?」


 では、夢の中で感じたあの指は、アンドリックだったのだろうか。


 幾度も幾度も、繰り返しては撫でられ、ひどく優しげだった。――それこそ、愛しげだと、錯覚してしまいそうになるぐらい。


 けれども、リーゼが尋ねた途端、エディリスの顔は強ばった。そして、少し言いにくそうに口を開く。


「いや……姉さんを連れてきたのは、イザークだよ」


「イザークが!?」


「詳細は知らない。ただ、体調が悪いようだから、しばらくの間静かに寝かせてやってほしいと、丁寧に頭を下げて帰って行った。昔とは違って、ひどく硬い表情だったけれど――」


 イザークが! では、あの夢の中の指はイザークだったのだろうか!?


「そんなはずは――――」


(イザークは私を嫌っているはずよ? それなのに、どうしてあんなに優しい手つきで――)


 わからない。何故彼が嫌っているはずの自分を送り届けてくれたのか。彼が、リーゼを嫌っているのは、昨日の発言からももう間違いはないはずなのに。


 だが、頬を両手で押さえた次の瞬間、ばたんと扉が開いた。


「リーゼ!」


「アンドリック!」


 走り込んできたのは、茶会に一緒に行っていたアンドリックだ。代わりに安心したように出て行くエディリスに代わり、急いで枕元に近づいてくる。


「気がついたか、リーゼ!! おまえ、あいつに何かされたのか!?」


「あいつって――イザーク?」


 けれど、突然のことに驚くリーゼの前で、アンドリックは悔しそうに拳を振り上げている。


「そう! あいつ、俺が姿が見えなくなったリーゼを探している間に、御者に伝言しやがって! だから慌てて帰ってきたんだけど、あんな奴に送られただなんて、いったい何を言われたか――また、なにかされたんじゃないか? むしろそれで気を失ったんじゃないかと、気が気じゃなくて」


 きっと本当に心配してくれていたのだろう。あの茶会で起こったことを知っているから尚更。だけど、よく見ればアンドリックの右手は少し赤くなっている。


「アンドリック……その手」


 まさかと訊くと、ああと拳を見下ろした。


「あんまり腹が立ったんで、茶会を出るときに一発殴っておいてやったんだ。あいつ――昔より、根性悪くなりやがって」


「殴ったって……。まさか、イザークを?」


「当然。過去とは言っても、自分の婚約者だった相手にあんな暴言を吐く奴なんて許せるか!! だいたい自分は上流だからってえっらそーに! おまえの服も全部人に作ってもらっているだけだろうが!」


 得意げなアンドリックの言葉に、思わずくすっと笑みがこぼれる。


「そんなことをして――アンドリックが危ないわよ?」


 だけど笑みに隠して本心の心配を伝えれば、ふふんと不敵に笑っている。


「お前が部屋を出た後だからな。これで何か咎めるのなら、俺が犯人だと宣言したから、出席者全員が証人だ」


「もう――すぐに、そんな無茶をして」


 だけど、気遣ってくれるアンドリックの優しさが嬉しい。だから、またくすっと笑ったのに、微かに胸に痛みが走った。眉を寄せたのに気づかれたのだろう。アンドリックの表情が慌てたものに変わる。


「おい!? 大丈夫か!?」


「たいしたことはないわ。さっき気を失ったのも――ちょっと体調が悪かったからだし」


 なのに、無理をして笑おうとした途端、ぐらっと体が揺れた。全身に力が入らない。それどころか、ベッドから起こしていた背中にも腕にも、鋭い痛みが走るではないか。


 ――まるで、焼けた骨が、僅かな力で折れそうになっているかのように。


 次の瞬間、ずきんと凄まじい痛みが心臓を貫いた。


「ほら、やっぱり! すごく青い顔色だぞ!? 今すぐ医者を呼んでやるから!」


「待って! お医者様は呼ばないで!」


 医者など呼んでも――自分の体が治らないことは、十分すぎるほど知っている。この心臓を止めるような痛みが、何故起こるのかも。


(私の命がつきようとしているから!)


 だから、医者を呼んでも、所詮家族を悲しませることにしかならない。


「なに、言ってるんだ! そんなに苦しそうなくせに」


 だけど、少し動いただけで、胸が切り裂かれるように苦しい。それこそ――今、まさに心臓が止まろうとしているかのように。


 いや、止まりかけている心臓が、どうにか生き延びようと必死で足掻いているかのようだ。


 額に嫌な汗が浮かんだ。よく見れば、息がうまくできないからか、手足の先は僅かに青白くなってまるで死体が動いているかのように色が悪い。


 はっと壁にかかっていた鏡を振り返った。


 すると、そこには完全に唇が青くなった自分の白い顔が映っているではないか。


(知っているわ――これ。死の前兆におこる肌の変色よ)


 救貧院で、残りの命がわずかな者によく見かけた症状だ。それが自分の体に起き出していることに、顔をおさえた手が震えてしまう。


(そんな! 私の命は本当にあと僅かしかないの!?)


 この症状が出始めてからしばらくして、急変した者を何人も見てきた。領地に来てほしいと回復を願っていた職人達の中にもたくさん――。


 息を呑むが、救貧院にあまり来たことのないアンドリックは、気づかなかったのだろう。


「ほら。休んでいろ。今、どこか内緒でみてもらえる医者を探してくるから」


 だから、横にさせようとするアンドリックの手におとなしく従ったが、布団をかけてベッドに潜り込んでも、手の震えはおさまらない。


 アンドリックが閉める扉の音を聞きながら、ただ自分の色を無くした指をじっと見つめる。


(私はまた死ぬ――! 今度こそ甦ることさえ許されずに!)


 助けてと縋りたいのに、誰にも言うことができない。


(嫌よ! 死にたくない! まだ生きていたいのよ!)

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