(6)思い出と今の言葉と

 痛い。きっとイザークは、ただ持ち上げているだけなのだろう。だが不自然な姿勢で持たれた腕は手首を軋ませ、リーゼの体に逃げられない強さを伝えてくる。


「なんで、おまえがここにいる! ここはおまえみたいな身分の者が来る場所じゃない。さっさと出て行け!」


 そのまま握られた手を掴んで、扉のところまで引っ張って行かれそうになる。


「待てよ!」


 けれど、横から駆けつけたアンドリックが、リーゼの腕を持つイザークの手首を握った。


 文官と武官。位の高さは違っても、中央で王太子の補佐の仕事をしているイザークと、地方の荒くれ者を相手にしているアンドリックでは腕力が違う。


「俺たちは、この茶会の主催者に招かれてやってきたんだ。いくらおまえの身分が高いからって、そこまで好き放題にできる場ではないはずだぞ」


「なに――」


 止めたアンドリックに、一瞬でイザークの瞳が冷たくなる。


「ふん。ご立派にナイト気取りというわけか。一年前には、大切な女も守れなかった役立たずのくせに――」


「なんだと!」


  咄嗟にアンドリックがイザークの胸ぐらを掴んだことで、女性達から高い悲鳴が起こる。


「お待ちになって」


 けれど、まるでトランプのルールで少し揉めているのを仲裁するかのようにカトリーレが口を開いた。


「驚かせてしまったようですわね、イザーク。お気に召しませんでした?」


「趣味が悪すぎる――。こんな身分の低い田舎娘を君の茶会に呼ぶなんて――」


 ほほほと鈴のような声が転がる。


「それは申し訳ありませんでしたわ。でも、懐かしい顔でしょう? 誰かによく似ていますし――」


 誰のことをさしているのかわかって、周り中がイザークの挙動に息を呑んだ。けれどみんなの目を受けたイザークは、ふいと顔を横に向けると、見たくもないようにリーゼから顔を逸らしてしまう。


「思い出したくもない。今更、あの頃のことなんて――」


(イザーク……!)


  投げつけられる言葉の一つ一つにドキッとしてしまう。イザークが思い出したくないのは、あの時のことが辛いからだろうか。それとも、前に言ったように、本当にリーゼにうんざりとしていたから――?


「まあ、そう仰らず。折角皆さんで、リリー嬢のお茶をいただいていたのです。イザークもぜひ召し上がってみられたら?」


 だけど、イザークは頷かない。だからカトリーレは微笑んだ。


「意外とお上手なのよ、彼女。きっと、イザークにもおいしいお茶を淹れてくれると思うわ」


 そのままイザークの返事を待つことなく、リーゼの方を振り返る。


「私の婚約者にお茶を。今までの中で一番おいしくお願いしますわ」


 ――私の婚約者。


 言われた言葉に、胸がずきんと痛むが、両親の命を人質にとられている今は、頭を下げるしかない。


「はい……」


 だから、また並べられた茶葉へと向き直ったが、どうしてもさっきの言葉が頭から離れない。


(イザークは、本当にカトリーレ様を好きで婚約したのかしら……)


 もしかしたら。これは賭けではあるけれども、まだ本当にリーゼが生き返ったことに、気がついていないのかもしれない。


(だからあの時、たちの悪い冗談で、からかわれたと思って怒っているのなら――――)


 今ここにいるリーゼが、本物だと気がつけば、カトリーレとの結婚も考え直してくれるかもしれない。


 わかっている。たとえ偽物だと思っているのだとしても、イザークはリーゼを心の底からつまらない婚約者と思っていたのかもしれない。だから婚約破棄をした――そうでなければ、話が合わない。


 だけど、もし少しでも違うのなら。あの時になにか事情があって、婚約破棄をしたのなら。今目の前にいるのがリーゼだと気がつけば、もう一度あの時のような二人に戻れるかもしれない。


(今更――カトリーレ様がいるのに、私を思い出してくれるかはわからないけれど……)


 自分の処刑の瞬間、カトリーレの横にいたイザーク。あれがどういうことだったのか――。まさか……という黒い疑念が湧き起こってくるが、首をふって振り払った。


(とにかく、このままイザークがカトリーレ様と結婚するのをただ見ていたくはない……)


 だからリーゼは淹れたお茶をことんとイザークの前のテーブルに置いた。


「どうぞ――」


「……ああ」


 淹れたお茶は、アールハイリー茶。落日のような色に、甘めの香りが強いお茶だ。だけど、少しだけシナモンの粉を入れた。甘いお茶と独特の香りがするシナモンはよく合う。香りの甘さは倍増し、僅かな辛みも孕むのだ。


 救貧院で、シナモンは元々は体を温める効果もある薬草の一種だと聞いていたので、イザークが風邪を引いたときに入れて以来、すっかりお気に入りになってしまった。


(だから、このお茶は私と公爵邸の者しか知らないはず……)


 イザークに似合う白磁に藍色のカップに入れて渡すと、ためらっていたようだが、しばらくしてイザークは手に取った。


 そして、口元に持って行き、咄嗟に驚いたように動きが止まる。


 ふわりと漂う香りに混じるシナモンに気がついたのだろう。


(私はリーゼよ……! お願いだから、気がついて!)


 イザーク! 心の中で念じて、見つめる。


 紅茶を手にしたイザークの瞳が一瞬緩んだように感じた。


(イザーク!)


 僅かにほころんだように見える唇に、両手を合わせて祈るように見つめる。けれど、次の瞬間、お茶はリーゼのドレスにばしゃっと投げつけられたのだ。


「え……」


 なにが起こったのかわからない。今まではどんなにまずいお茶になってしまっても、こんなことをされたことはなかったのに――。


 けれど、動きを止めてしまったリーゼに、イザークの藍色の瞳が突き刺さる。


「こんな臭いお茶が飲めるか!」


「え……」


(そんなはずは……。だって、あれはイザークが気に入ってずっと飲んでくれていた味なのに……)


 だから、公爵家でも飲んでくれていたはずだ。それなのに、どうして――。


 けれど、イザークは立ち上がると、驚いて床に手をついてしまったリーゼを見下ろす。そして、空になったカップを指の先で回した。


「誰に聞いたのかは知らないが、俺はこんな薬くさいお茶は大嫌いなんだ。それをおべっかで一度うまいと言ってから、家の連中も信じ込んで――どこで俺がこのお茶を飲むことを聞いたのかは知らないが、追従を信じ込まれるのも迷惑だ」


 追従――言われた言葉に、目を見開く。


(そんな……)


 でも、またぐっと指を握りこんだ。


(あなたは、今私がリーゼだと気がついたはずよ……! あなたにもらったこのドレス。それにお茶。どちらも私しかありえないのに……)


 それなのに、お茶で濡れたリーゼを見下ろすイザークの視線はますます冷たい。


「だいたいなんだ、そのドレスは。都の最先端にしては、着方が泥臭い。洗練された仕草を知らないから、そんな野暮ったい姿になるんだ」


 ぎゅっと指を握る。


「ましてや、お客に対するお茶の淹れ方一つ知らない。侍女のまねごとをするのに、侍女にさえ劣るから、物知らずな田舎娘と恥をかくんだ」


「おい! 無理矢理やらせておいてそんな言い方!」


 咄嗟にアンドリックがイザークの肩を掴もうとするが、ぱんと片手ではねのけられる。


「本当のことを言ってなにが悪い。ならばはっきり言う! その田舎くさい仕草が気に入らないんだ! 泥臭いことしかできないくせに、変に努力ぶって、上流の世界に入ろうとする! それが忌ま忌ましいんだ!」


 怒っている。目を見開いてこちらを睨む姿は、嘘や偽りではない。


(イザーク……!)


「目障りだ! 君の顔を見ているとイライラする、二度と俺の前に姿を見せるな!」


 ――イザーク!


 本気だ。リーゼの前で仁王立ちとなり、憤怒の視線で睨みつけてくるイザークは、明らかにここにいるリーゼをうとましいと思っている。


「おい!」


「イザーク」


 しかしアンドリックが殴ろうとかまえるのよりも早くに、カトリーレがゆっくりと奥から声をかけた。


「ごめんなさい。あなたの気に障ったのね」


「ああ、カトリーレ」


 すると、今までリーゼに見せていた顔が嘘のような笑みでカトリーレに近づいていく。そして、恭しく白い手を取った。


「ただ、心配なんだよ。君は昔、殺されかけただろう? その犯人と同じ顔の縁者が側にいるなんて」


 なんて甘い声だろう。今までリーゼに見せていた怒りが嘘のように隠れ、細めた藍色の瞳で愛おしそうにカトリーレを見つめている。


「あなたの気持ちを考えなかったわ。ごめんなさいね」


「いいんだよ。君が無事なのなら――」


 しかし、まだショックで座ったままのリーゼに、カトリーレはくすりと笑いかける。


「あら? 私の婚約者が悪かったわね。でもそのドレスではさすがに恥ずかしいでしょう? もう下がってもよろしくてよ」


「失礼……しま、す……」


 確かに、とてもこのままこの場に居続ける気持ちにはなれなかった。


 だから立ち上がって、裾を広げて挨拶をしたのに、涙はぽろりと頬にこぼれてくる。礼をするために裾をもつ手さえ、押さえることができずに震えてしまうではないか。


 きっとこれ以上は我慢できない。だから、リーゼは一度ぽろぽろと涙がこぼれる頬を手の甲でぐいっと拭くと、あまりのいたたまれなさにそのまま茶会の部屋を飛び出した。


 ばん! と何かを殴るような激しい音が後ろで走り、茶会の席にいたはずの女性達の悲鳴が響く。


「リーゼ!!」


 だけど、追いかけてきたアンドリックの声にも振り返ることはなく、リーゼはただ走り続けた。


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