(6)外れていく枷

 ラッヘクローネの像の陰に隠れ、やってきたイザークとカトリーレの列をリーゼは息を殺しながら見つめた。


 先導しているのは白い神官服をまとった大司教だが、二人の後ろには美しい水晶で造られたたらいと、月桂樹の木の枝を携えた神女が同行している。もう一人神女が、側で篭を抱えているのは、きっと中に入っている宝石細工の花が、それぞれの神に夫婦の誓いと共に奉納する供物だからだろう。


(もう少し――もう少しよ)


 じりじりと焼けつくように見つめる。


 今から供物を納めるのに、手を清める儀式を行うのだろう。それが終われば、大司教と神女はこの回廊を出て行き、残されるのはイザークとカトリーレの二人だけになるはずだ。


(もう少し――)


 そして、全てが終われば、リーゼは回廊の窓から外へ飛び出し、下にある神殿の水路を伝って川に出るつもりだ。


 こんな計画でうまくいくのかなんてわからない。いや、むしろ成功する確率の方が低い。


(それでも――)


 大司教の祝詞を聞き終えたイザークが、側に立つ神女に水晶の盥にひたした月桂樹の葉で、手に雫を掛けられている姿に、唇を噛みしめてしまう。


 そして、次に行うカトリーレに、微笑みながら手を清める枝の感触を話している姿に胸が焼き切れそうだ。


(王位などにイザークを奪われなければ、今あそこでイザークと微笑んでいるのは私だったはずなのに――)


 それだけに、イザークがカトリーレに向ける笑みの全てに心がひりつく。リーゼが見つめる前で、神に捧げ物をする儀式をしている二人の様子は、まさに初々しい夫婦そのものだ。


(そんな顔をカトリーレに向けないで! 嫌よ! あなたを奪われていくなんて――)


 永久に奪われてしまうのなら、たとえ二度と自分に微笑みかけてくれなくてもよい。


(それぐらいなら殺してでも、あなたを抱きしめるわ!)


 だから、そんな瞳でカトリーレを見ないで――――。


 イザークがカトリーレに向ける優しい笑みを見たくないように、強く目を閉じた時だった。


「では、これで儀式を終わります」


 はっと目を開く。


「神の祝福がまだお若い二人に授けられんことを」


 一通りの説明と儀式が終わったのだろう。神女が持っていたはずの宝石の花を入れた篭は、いつの間にかカトリーレの腕にかけられている。そして、白い礼服を着た花婿と、深紅のドレスを纏った花嫁に礼をすると、大司教達は、ゆっくりと回廊の入り口にある扉へ戻っていこうとしているではないか。


(もう少しだわ――)


 抜いていたカリーの短剣をそっと像の陰で持ち上げた。


 もう少しで、イザークとカトリーレだけになる。


(そうなれば!)


 だから、胸の前でカリーの短剣を構えた。けれど、なぜかその瞬間に、体に鋭い痛みが走る。


「なっ……に……」


 予期しない痛みに、思わず眉を寄せてしまう。それなのに、体の奥から湧き上がるような痛みはまた襲ってくると、今度はリーゼの胸を切り裂くように鋭く走ったではないか。


「な……!」


 あまりの痛みに、息をすることさえうまくできない。


(どうして? なぜ、今この痛みが戻ってくるの?)


 この痛みはよく知っている。ほんの十日とたたない前にも、リーゼの全身を切り刻み、死の淵へと誘おうとしたあの体が死んでいく感覚ではないか。


(どうして!? まさか、半月ぐらいと言っていたのに、もう残りの命が切れたの!?)


 確かにラッヘクローネはよくもって半月と言っていた。ならば、予想より短いということも十分に起こりうるのだろう。


(あ……)


 息を吸い込みたいのに、喉が鳴って、うまく肺に取り込めない。


(だめよ! もう少しで、イザークをカトリーレから取り返すことができるのに!)


 嫌だ! 絶対にイザークを奪われてしまうのだけは!


『リーゼ……』


 しかし、意識が霞んでいくにつれて、前に苦しんだ時にも夢の中で聞いた声が響いてくる。


(やめて! これは、幻聴よ!)


 必死に頭を振って、響いてくる声から逃げようとするのに、朦朧とした意識は、既に夢を見ているのだろうか。何度も何度も。優しくリーゼの髪を梳くイザークの指の感触を思い出す。


『リーゼ……』


「やめて……今、私を惑わせないで……」


 聞こえないほどの小声で、夢の中のイザークに哀願をしてしまう。こんなに優しく髪を撫でられ続けたら、たとえこれが死の国へ誘う幻だとしても縋ってしまいたくなる。


「やめて、イザーク」


 けれど、まるで囁くように甘い声は、まだリーゼの意識の中で響く。そして、愛しむように柔らかく髪を梳き続けた。


『待っておいで……』


(なにを……待っていたって、もうあなたは、私を捨てたのに……)


『必ず俺が君を生き返らせてあげるから』


 はっと耳を澄ます。


 記憶の中で口づけを捧げられるリーゼの髪は、燃えてまだ半分黒いままだ。けれどその上には、イザークのこぼした涙が珠のように連なっているではないか。


『苦しいのは今だけだよ。絶対に俺が、自分の全てを使ってでも君を生き返らせてあげるから――』


「なっ!」


 脳裏にはっきりと甦った言葉に、思わず目を見開いた。


(今のは――なに?)


 こんなイザークの言葉は知らない。一度も聞いたことはないし、髪に口づけをされたこともないはずだ。それなのに、今頭の中に甦ってきた光景は、ひどく生々しくて――――。まるで、昔繰り返し耳元で囁かれた言葉が、その時と近い状態になったことで、やっと記憶の底から浮かんできたかのようだ。


(どういうこと!? イザークは、私が無実だと知りながら、処刑されるのを見ていたはずよ!?)


 それは生きていては、邪魔だということなのに。


 それなのに、どうして自分を生き返らせようとしていたのか――!?


(わからないわ! どういうこと!?)


 絶対に自分に知らされていない何かがまだある。


 けれど、動転して両手で頬を押さえた瞬間、手に持っていた短剣が床に滑り落ちた。


 からんと軽い音が磨きぬかれた白大理石の床に響く。それに、回廊から外に出ようとしていた大司教と神女達が気がついた。


「あ……」


 一斉にこちらを振り返る視線に、リーゼも床に転がったカリーの短剣を見つめる。


「リーゼ……」


 呆然としたイザークが、物陰に立っていたリーゼに気がついて呟いた。


「あ……」


 視線を受けて、まだ固まったままのリーゼに、カトリーレがふっと笑う。


 しかし、落ちた短剣で、大司教は容易ならざる事態を感じたらしい。


「衛兵! すぐに参れ! くせ者じゃ!」


 外に向かう大司教の声に、神女達の悲鳴が被さる。


「あ……」


 まさか、こんなことになるとは思っていなかった。


 だけど、今を逃せば、きっと自分が復讐を遂げる機会はなくなってしまうだろう。


(でも、どっちなの? 私に死んでほしいと思っていたイザークと、私を生き返らせようとしていたイザーク)


 一体どちらが、本当なのか?


「リーゼ……」


 だから、呟くイザークとその腕をとるカトリーレの姿をただ見つめる。


 どちらが?


(待って……おかしいわよ……)


 そうだ。自分を邪魔だと思っていたから、見殺しにしたのなら、なぜイザークが今更自分を生き返らせたのか?


(そうよ……そのまま、捨てておけばよいだけなのに……)


 それなのに、焼け焦げた自分の亡骸に幾度もキスをしながら、涙をこぼして必死に生き返らせる誓いを紡ぎ続けた。


 今のイザークが言った言葉と、記憶の中のイザーク。どちらが本当の言葉なのか?


(どちら!? 私は本当にイザークを憎んでもいいの!?)


 どちら――。遠ざかっていく大司教の声に、視線がせわしなくカトリーレと並び立つイザークの上をさまよう。


 イザークとカトリーレ。


(どちら!)


 けれど、二人の顔を視線がさまよう中で、不意にリーゼの心の深淵で、ずっと見るのを背けていた何かの枷が外れるような気がした。


 ずっと、いけないと自分に許さなかった感情。その蓋が開いたように、黒いものがしめやかに心の中に忍びだしてくる。


 そうだ。もう家族やアンドリックは逃がした。今の自分が感情を押し殺してまで、守らなければならないものは何もない。


 鈍い音をあげて外れていく最後の理性の箍からは、どろりとした黒い物が止めようもなく心の中に這い出してくる。


 だから、落とした短剣を拾うと、リーゼはすぐに構えた。


(そうだ。本当に憎んでいるのは――)


 そして鋭い銀色の刃を向ける。


「私が本当に憎んでいるのは、あなたよ! カトリーレ!」


(私からイザークを奪い、そして私を殺した憎い女!)


 心の奥底から噴き上がる憎悪に、心の全ての枷が外れていく。だから、リーゼは銀の短剣を輝かせながらカトリーレに向かって白大理石の床を走りだした。

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