(2)譲れないもの
リーゼはイザークの唇の上に置いた指に力をこめた。
それだけで、自分が何を止めたのかに気がついたのだろう。
カトリーレについて訊こうとしていたイザークの唇が、リーゼの指の下で止まり、藍色の瞳が大きく見開かれる。
だから、リーゼは驚いているイザークの藍色の瞳をじっと見つめた。
(そうよ……確かに、カトリーレは望み通り私になった)
忌ま忌ましいという気持ちはある。最後まで、彼女の思い通りになってしまったという悔しさも。
(だけど、カトリーレ! あなたはあの時私に敗北宣言をしたのよ!)
『だったら……私が愛されるためには、後はもう私がリーゼになるしかないじゃない! あの娘の一部になるしか、どうやってもあなたに愛されることができないのなら――!』
あの言葉を叫んだ瞬間、確かにカトリーレは認めていたのだ。
リーゼしか愛されないと。
どれほどの知性、どれほどの美貌をもった姫でも無理だった。それどころか、一国の王という人として最高の地位と引き換えにしても、愛する人には振り向いてもらえなかった絶望。
(あの時、あなたは人生を賭けた願いで私に完敗したのよ!)
だから自分を捨てることを選んだ! リーゼの中に入り、その一部になることでしか、イザークに愛される方法がなかったのだから!
腹が立たないと言えば、嘘になる。願いのために、リーゼの命を踏みにじり、強引に自分の望みを叶えた。
(――だけど)
『残った命の炎をどう使うかは、持っている者の自由じゃ! どうせ、いつかは必ず消える命! 好きな生き方を選べ!』
最後のラッヘクローネの言葉を思い出す。
そうだ、命の炎をどう使うかがその者次第なら、カトリーレはまさしく自分の好きなように命を使って、願いを叶えたのだろう。
(ならば、私は生きてイザークを愛することを選ぶ!)
自分の命よりも大切にしてくれたイザークの想い。ここまで切実に生き返ることを望まれて、どうしてまた死を選ぶことができるだろう。
(そうよ。私は誰よりもイザークについては貪欲なの。だから、生きて側にいることも、彼に愛される場所も誰にも譲るつもりはないわ!)
生きて、最後まで彼に愛され続ける。愛しているイザークに。
これだけはたとえ体の中に入ったカトリーレにでも、譲るつもりはない。
(だって――私は、私の中に入ったあなたなんて、恐ろしくはないのだもの)
カトリーレは気づいていなかったのかもしれない。愛される存在になる代わりに、リーゼの体の中に入るということを――。
(あなたは、私の体という永遠の牢獄に入ったのよ! 私には、あなたの魂を一生奥に閉じ込めることも、イザークに会わせないこともできる!)
だから会わせて、イザークにカトリーレを愛させたりなどは、決してしない。自分が生きる限り、この体という牢獄に繋ぎ、命の最後の炎まで、リーゼがイザークを愛するために使い続けることになるだろう。その知性も教養も。全てをリーゼのために。
体の奥に閉じ込めたカトリーレの命の炎が、僅かに抗議の声をあげるのを感じながら、リーゼはそっと空色の目を伏せた。そして、イザークの唇を押さえる指に力を入れ、ゆっくりと空色の瞳を開けていく。
「呼ばないで――その名前を」
けれど戸惑うように、イザークの瞳が揺れる。
(呼ばせない。会わせない。あなたの全てをイザークには――――)
だから、ゆっくりと息を吸い込む。
「私は――リーゼよ。だから、あなたにだけは、私の前ではその名前を忘れてほしいの――――」
名前を呼べば、きっとカトリーレは体の奥で喜ぶ。けれど、それは、イザークにいつまでもリーゼの中に入ったカトリーレを思い出させるだろう。
一瞬だけ、髪がストロベリーブロンドに光ったような気がした。
けれど、イザークはそれに目をやり、すぐにリーゼの言いたいことがわかったのだろう。
――イザークには、リーゼだけを見ていてほしい。
だからリーゼが指を唇から離すと、その前でこほんと戸惑ったような咳をしている。
「そう、だな……。うん――忘れるよ。君は君だ」
きっと、これが最大の復讐。
(私は、あなたの命も望みも、全てを踏み台にしてイザークを愛していくわ!)
カトリーレには、たとえイザークの声のひとかけらでも渡さない。
けれど、まっすぐに見つめるリーゼの瞳に、イザークは少しだけ視線を泳がせた。
そして、ちらりと馬車の方を見る。
もう出発の時間が近いのだろう。けれど、御者は最後の別れと心得ているのか。何も言わずに馬の様子を見ているのに、イザークはこほんとまたリーゼに向き直る。
「これから……君は、どうするんだ? ご家族は――?」
きっと領地に帰ったと聞いたまま、一度も現れない家族を心配していたのだろう。だから、少しだけ目の端を下げて尋ねるイザークに、ふふっと優しく微笑んで返す。
「安心して。シュバルト港から、怒ったような手紙が届いたわ。エディリスだけは逃がしたかったから、そこまで行ったけれど、お父様とお母様は、すぐに戻ってくるって。だから叱られてから、家族と一緒に領地に帰ることになると思うわ」
「そう……」
もう冤罪で殺されたことが判明したリーゼにも子爵家にも、お咎めはなにもないことに決まった。むしろ、姪の暴走で、碌な取り調べもなくリーゼを罪人として処刑してしまったことに、王太子殿下は心より詫びてくれたのだ。だから心配することはもう何もないはずなのに。どうしてだろう。イザークの表情が、心なしかがっかりしたように見えるのは。
ぶるると後ろで馬が小さく鬣をふった。けれども、またイザークはちらりと馬を見ると、何かを探すように視線をさまよわせている。
まるで、少しでもこの時間を引き延ばせないかと、話す内容を探しているかのように――。
そして、ちらりとリーゼの着ている淡いラベンダー色のドレスを見た。
清楚な色は、袖と襟に重ねられた白いレースと相まって、ひどく優しい雰囲気だ。
「そのドレス――。あまり、着ない色だね」
きっと紫色をあまり身につけないのを覚えていたのだろう。だから、レースを重ねられた裾をふわりと両手で摘まみあげてみる。
「似合うかしら? 初めて着てみたのだけれど」
「あ、ああ……。すごく……その、かわ、いいというか、かわいくて――――」
どうしよう。見ている前で、耳まで赤くなっていくではないか。自分でも、赤くなっているのがわかるのか、右手で顔を押さえて隠しているが、イザークの頬も鼻もどうしようもなく赤くなっていく。
(――そうだったわ。イザークって、よくこういう反応をしたわよね?)
あの頃は、うまく言えないほど似合わないのかしらと思ったが、なんだか違うような気がする。
「やっぱり、着こなしがいまいちかしら?」
「そんなことはない! ただ、その――――」
言葉を探すように、イザークの顔は赤いまま俯いてしまう。
「……すまない。俺は心から思っている時には、どういったらよいのかわからなくなるんだ。特に、君を前にしている時は……」
(え!?)
それは、ひょっとして頭の中がいっぱいになってしまって、うまく言葉が出てこないということなのだろうか。
(まさか、誰にでも器用に社交をこなしているイザークに、そんな純朴な一面があったなんて!)
けれども、驚くのと同時に嬉しくなってしまう。
誰もこんなイザークは知らない。きっと、言葉が出ないほどイザークが真っ赤になってしまうのは、リーゼただ一人だ。
だから、リーゼは嬉しそうに微笑んだ。
「よかったわ。このドレスは、イザークのお母様にいただいたの。だから似合っていなかったらどうしようって……」
「母上が? どうして、君に?」
けれど、イザークにしてみれば、大公家と率先して争っていた母が、王太子夫妻の預かりとなっていたリーゼに服を贈っていたのが意外だったのだろう。首を傾げているのに、つい視線を逸らしてしまう。
「あ……いろんな人から、お話を聞かれている内に、この間のお茶会のことが耳に入ったらしくて……。その、息子がしたことのお詫びにって……」
「ああ……」
イザークも、あの時リーゼにお茶をかけてドレスを汚したことを思い出したらしい。少しだけ藍色の瞳が、辛そうに細められると、静かにリーゼを見つめた。
「すまないことを言った。君を退室させるためだったとは言え、心にもないことばかり――」
「あ、いいのよ。今では、イザークが私を帰らせるために、あんなことをしたのはわかっているから」
確かにあの時は傷ついた。だけど、今になって考えてみれば、どこにカトリーレの罠が仕掛けられているのかわからない状態のお茶会から、一番早くリーゼを脱出させる方法はあれしかなかったのだろう。
「それもあるけれど……あのドレスは、彼女にリーゼに贈った物だと知られていたんだ」
「え?」
「前に――……。君に贈る前に、今のドレスの流行なら、プレゼントにはどれが良いかとデザイン画を見せて、尋ねたことがあったから。だから」
(ああ……だから、カトリーレは私のドレスを見た瞬間、イザークから贈られたものだと確信したんだわ)
そうでなければ、どうして初めて見たドレスで公爵家お抱えのデザイナーなどという言葉が出てくるだろう。ブルーメルタール公爵家には、ほかに妙齢のドレスを作るような娘はいないはずなのに。
けれど、納得したリーゼの前で、イザークの瞳は少しだけリーゼから逸らされた。そして、何かを決意したように僅かに伏せると、ゆっくりとリーゼへと戻っていく。
「君には、申し訳ないことをした。傷つけるようなことばかりをしてしまって……」
「イザーク……」
きっと本意ではなかったのだろう。今ならば、彼の瞳が湛えているのが、ひどく悲しい色だとわかる。
けれど、まるで深い夜のような藍色の瞳を、イザークはリーゼに合わせると、はっきりと瞳を見て告げた。
「俺は――、ずっと君に嫌われたかった」
突然の思わぬ告白に、リーゼは冬の風の中で、息を呑んだ。
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