(6) 婚約破棄
婚約破棄――――。
炉にくべられた薪が、大きな音を上げてはぜる。暗い牢の中に、鮮やかな火の粉が飛んだ。
その側に立つリーゼの白いドレスは、黒い砂埃と水の染みで今は見る影もないほども薄汚れてしまっている。けれど、今でも澄んだ空色の瞳は、聞いたばかりの言葉が信じられないと大きく見開かれ、胸の前に組み合わせた手と一緒に細かく震えている。
「婚約破棄って……どうして、イザークが……」
唇からこぼれる声さえ、自分ではないようだ。けれど、リーゼの動揺した様子に、カトリーレはくすっと笑う。
「どうして? 当たり前でしょう。王家にも繋がる公爵家の妻に、犯罪者を迎えられると思っていたの?」
「……そんな……」
(私は何もしていないのに。まさか、イザークも私を疑っているの?)
自分がカトリーレを刺したのに違いないと――――。
けれど、リーゼはぐっと一度手を握りしめた。
「……嘘よ」
しかし、口からは止めようもなく言葉がこぼれていく。思わずあふれた呟きに、カトリーレが鮮やかに笑った。
「あら? なにが?」
「嘘よ! イザークが私を見捨てる筈がないわ!」
そうだ。都に来て、初めて会った頃から、ずっと側にいた。よく子爵家の庭で木登りをしたり、走り回って遊んだり。
ずっと好きだったから、親同士が婚約を決めたと聞いた時も、最初はあまりに夢みたいな話で、信じられなくて。
「イザークは私でいいの?」
だけど自信がないから、少しもじもじとして尋ねる自分に、
「リーゼだから頷いたんだ」
少しはにかんだように笑いながらそう言ってくれたではないか!
だから気持ちをのせて、全力で叫ぶ。
「全部あなたの嘘よ! イザークが私を捨てるはずがない!」
ましてや、こんな時に!
しかし、目の前に立つカトリーレは艶麗に笑う。
「あら? じゃあ確かめてみる?」
「え?」
意味がわからなくて、眉を寄せる。すると、カトリーレはふふっと内緒話をするように、扇で隠していた口元を見せた。
「今、ちょうどイザークが私の部屋に来ているの。信じられないのだったら、自分の目で確かめてみるといいわ」
「イザークが、カトリーレ様の部屋に……?」
(――――私が捕まっているのに、どうして今……)
まさか、本当に自分に見切りをつけたのだろうか? だからカトリーレと?
けれど、浮かんだ考えに、急いで首を振る。
(いいえ、違うわ。嘘をついて、私を陥れた人の言葉だもの。信じるなんてとんでもない)
だから、自分でしっかりと真偽を確かめなくては――――。
しかし、ぱんと扇を閉じたカトリーレは楽しそうに話す。
「ただし、時間は三分。罪人を牢から特別に出してあげるのですもの。当然よね?」
頷くしかない。だがこくりと硬い表情で答えたリーゼに満足すると、カトリーレは、側にいる牢番にリーゼの足から鎖のついた重い鉄球を外させた。じゃらりと音がして、足は軽くなるが、心は同じように軽くはならない。そのまま左右をカトリーレの護衛の兵に連れられるようにして、地下の拷問室から王宮へと向かっていく。
(こんな構造だったのか――)
無理矢理連れてこられて、明かりもろくにないまま放り込まれたから、牢からこの拷問部屋に来るまで以外の道はよくわかっていなかった。
おそらく政治犯を収容しているのだろう。左右に並んだ古い木の扉からは、時折苦痛に呻くような声が響いてくる。おそらく、先ほどの拷問部屋で受けた責め苦のせいか。生きているはずなのに、時折膿んで腐ったような匂いが鼻をつく。
けれど、それらの声もカトリーレはさらりとストロベリーブロンドの巻き毛を翻して聞き流すと、灰色の石段を登った。
すっかり汚れた石段なのに、外からの光のせいで白く見える。
何時間ぶりの太陽だろう。もうすぐ山の端に隠れようとしているところを見ると、あれから一日近くがたつようだ。
(あれから何があったのかしら……)
どうして、イザークが今になって急に婚約破棄を言い出したのか。
(いいえ。きっと何かの間違いよ)
信じてはだめと首を振る。
だがそれならば、なぜカトリーレは、今自分をわざわざ牢から出してイザークに会わせようとするのか。
だけど、この理由の一つはすぐにわかった。
薄汚れたドレスで、足に鎖をつけながら廊下を歩くリーゼの耳に、貴族達のひそひそと囁く声が聞こえたからだ。
「あれはシュトラオルスト子爵の――」
「では、やはりリーゼ嬢がカトリーレ様を襲ったというのは本当だったのですね」
かっと頬が屈辱に赤くなる。
(だめよ。我慢しなければ……)
ここで怒りにまかせて、また牢に戻されるわけにはいかない。だけど、カトリーレはどこまで自分を貶めれば気がすむというのか――。
だから、たくさんの嘲笑と冷たい眼差しをふりきるようにして、前を行くカトリーレを見つめた。
「アンドリックは無事なの?」
ずっと気になっていた、一緒に夜会に来ていた従弟の名前を口にする。自分が捕まったときにはアンドリックは側にはいなかったが、イザークの代わりに今夜のリーゼのパートナーとして来ていたのだ。
(アンドリックは無事なのかしら?)
自分より一つ下なのに、ひどい目に合わされていなければいいけれどと、手をぎゅっと握りしめてしまう。
「アンドリック?」
しかし、カトリーレはわずかに振り返った。
「ああ。あなたの従弟の――。そりゃあ、あなたと一緒に来ていたんですもの。事情はきいているけれど、心配する必要はないのじゃなくて?」
くすっと笑う。
(そうよ。心配する必要はない――私やアンドリックが無実なのは、誰よりもカトリーレ様がわかっているのだから)
それなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。
けれど、悩む間にも、リーゼの足は、カトリーレの部屋にたどり着いてしまう。
「開けなさい」
カトリーレの声と共に、重い金の扉が開く。
すると、中には緋色の絨毯の上に立ったイザークの姿が見えた。昨夜会った時と同じだ。少し青みがかった黒髪。すらりとした手足は均整がとれて伸び、その上にある貴族中の女子を憧れさせた端正な顔が今は驚いたようにこちらを向いている。
「リーゼ……」
そして、入ってきたリーゼの姿に驚いたように藍色の瞳が見開かれた。
「イザーク……」
たまらずに名前が口からこぼれでた瞬間、駆け寄ってきた広い腕が体を抱きしめる。
そして、いつもしてくれるように、リーゼのぼさぼさになったクリーム色の髪を指で整えるように撫でてくれた。
「よかった……! ひどいことはされていなかったんだな」
――ひどいこと。
それは、今汚れたドレスに隠されている足に刻まれた、取調官に踏みにじられた痕のことだろうか?
(イザークは、私が拷問を受けていたことを知らない?)
でも、心配していたのならどうして。
だから、リーゼは抱きしめてくるイザークの腕をそっと押し返すと、広い胸から顔をあげた。
そして、おずおずと切り出す。
「イザーク。私との婚約を破棄したと聞いたのだけれど……それは本当?」
嘘だと言ってほしい。
それなのに、リーゼが言葉を発した瞬間、今まで安堵していたようなイザークの表情が明らかに変わった。顔色は白くなり、指の先が微かに震えている。けれど、その指を握りこむと、後ろめたいようにリーゼから顔を逸らす。
「……本当だ。お前との婚約は、今日限りで解消した……」
「どうして!?」
(なぜ私との婚約を破棄するの!? あなたも私を疑っているの!?)
「一分」
けれど、後ろでくすっと笑うカトリーレの声が、二人の間に響く。
「それよりも!」
しかし、リーゼの疑問には答えず、イザークの広い手はリーゼの肩を掴んだ。がしっと響く音と共に近づくのは、まるで鬼気迫るような表情だ。掴んだ手が、リーゼの肩の骨を砕きかねない力で握りしめている。
「カトリーレに謝罪するんだ!」
「えっ!?」
迫られた言葉がわからない。
(どうして私が? なぜ、謝罪をするの?)
しかし、イザークの気迫は、リーゼに言葉を挟ませることさえ許さない。
「このままでは君がどうなるか! 王族の殺害を企てたなんて思われたら、死刑にされるかもしれないんだぞ!?」
「死刑――」
言われた言葉に、ごくりと唾を飲みこむ。だけど、心の中では同時に言い様のない悲しみが広がった。
(――そうなんだ。では、やはりイザークも私を信じてはくれなかったんだ……)
リーゼが罪を犯した。カトリーレを刺し殺そうとしたと信じているからこその言葉に、心を抉られる。
「今謝れば罪も減じられる! だから!」
「二分」
見ていたカトリーレが、孔雀石の暖炉の上で動いた時計の針をくすっと数える。
「ははっ……」
乾いた笑い声が、口の中からこぼれてくる。目から溢れているのは、涙だろうか。とめどなく、幾粒も幾粒も溢れ、拭うことさえ思いつかない。
「リーゼ……」
呆然と声をあげたイザークの腕を思い切り振り払った。そして空色の目できっと見つめる。
「私はカトリーレ様を刺したりなんかしていないわ! どうしてイザークまで私を信じてくれないの!?」
「リーゼ……!」
勢いよく振り払った仕草に、明らかにイザークの表情が慌てたものに変わる。
「君を信じていないわけじゃない! だが謝罪するんだ! そうすれば君の罪も軽くなる!」
「罪?」
(――信じていないじゃない)
罪が軽くなる? 何の? 犯してもいない罪の何が軽くなるというのだろう?
「私を信じているのなら、どうして婚約を破棄したの!?」
だからまた伸ばしてくるイザークの手を払って叫ぶ。
「私が邪魔になったから!? だから別れたいの!?」
犯罪者に仕立て上げられて、実家の力ではおそらく助かるあてもない貧弱な子爵家の娘。だから、側にいては邪魔になるから? イザークの輝かしい未来にはふさわしくないから?
けれど、答えを望んで叫んだのに、聞いたイザークは一瞬ぐっと押し黙った。
ほんのわずか。一秒にも満たないほどの底なしに冷たい沈黙が訪れる。
けれど、絶望のような静寂を破ったのは、さえずるように楽しげなカトリーレの声だった。
「三分。衛兵達、リーゼを牢に連れて行きなさい」
扇を持ち上げて微笑むのと同時に、リーゼの両腕はまた後ろにいた衛兵達によって拘束されてしまう。ここに来た時と同じように。
けれど、両腕を衛兵に抱えられたリーゼを見た瞬間、イザークの顔色が変わった。そして、必死にこちらに手を伸ばす。
「待ってくれ! リーゼ、とにかく謝罪を! 頼む、カトリーレに謝ってくれ!」
だけど、聞きたくない。
「やめて! ……イザークだけは、信じてくれると思っていたのに……」
涙を流しながら言えたのは、これだけだ。
「リーゼ!」
衛兵に引き立てられるように歩いて行くリーゼの後ろで、カトリーレの笑い声が豪奢な部屋にくすくすと響く。
そして、扉はばたんと二人の声を遮るように閉められた。
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