(6)現れたカトリーレ


(どうして!? なぜここにカトリーレ様がいるの?)


 しかしこつこつという靴音は、まっすぐにリーゼに向かってくる。そして、手前で顔をあげた。まるで面白い生贄でもみつけたかのように――。


「あら? なつかしい顔があるわね」


 こちらを見下ろしてくるストロベリーブロンドが、冬の日差しにまるで薄く血の色をあびたようにピンク色に輝いている。


 翠玉の瞳がすっと座っているリーゼを捉えた。


(逃げなければ……!)


 と思うのに、息がうまくできない。力を入れようとした足も震えて、膝がうまく立ってくれないのだ。


(だめよ! 急いで、逃げないと――!)


 また、牢獄に放り込まれてしまう。そして、今度は何をされるかわかったものではない。だから、震える膝を叱咤して必死に立ち上がったのに、護衛を従えたカトリーレの姿はもうリーゼのすぐ前にまで来ていた。


 逃げる間もなく、閉じた扇を顔に刺すように鋭く突きつけられる。


 嫌な汗が体からどっと吹き出した。


「どうして、私が昔処刑した娘がこんなところにいるのかしら?」


 刃物のように突きつけられた扇子に息の根が止められるようだ。そのままリーゼを見つめてくるカトリーレの翠玉色の眼差しは、苛烈なまでに容赦がない。咄嗟に頭を下げて隠そうとしたリーゼの顔を酷薄に睨みつけると、下げようとした顎の動きでさえも扇で押さえて止めた。


「リー……!」


 気がついたアンドリックが、慌ててリーゼの側に戻ってこようとするが、思わず叫びかけた名前を急いでのみ込む。


(お願い。気がつかないで……他人の空似だと思って)


 しかし、カトリーレの金で作られた扇子は、そのままくいっとリーゼの顎を持ち上げた。無理矢理持ち上げられたリーゼの顔は、強制的にカトリーレの正面を向かされ、ゆっくりと歪んでいく唇が見える。


「本当に忌ま忌ましい顔。死んでも私の婚約者につきまとうなんて――」


 そして、残酷に笑った。


「今度はどう殺してやろうかしら? 生きたまま馬で引き裂いて、亡骸すら粉みじんに潰してやれば、少しはこの胸もすっとするのかしら?」


 綴られる恐ろしい言葉に、どんどんと心臓の鼓動が早くなっていく。


 ――苦しい。怖い。


 声を出すことさえできないのに、どうすれば逃げることができるというのか。


 脳裏に甦ってくる死刑の記憶に、息さえできなくなってくる。だから、せりあがってくる恐怖に、必死に目を閉じて自分を保とうとした時だった。


「カトリーレ」


 近づいてくるイザークの声がしたのは。呪縛が解けたように目を開くと、いつのまに戻ってきていたのか。イザークが二人のすぐ側に立って微笑むと、カトリーレへと手を伸ばしているではないか。


「早かったんだね。約束の時間にはもう少しあるだろう?」


「ええ。でも今日は新しいドレスが届いたから。一刻も早くイザークに見せたかったのよ」


 言いながら手をふわりと広げたカトリーレが着ているのは、赤い薔薇の花びらを重ねたように豪華なドレスだ。舞うような仕草に合わせて、リーゼの前から、すっと扇子が離れる。


 そして、襟と袖口にあしらわれた黒いレースを見せるように、少しだけ体をひねった。


「どう? 似合っているかしら?」


「ああ、とっても似合っているよ。いつも綺麗だが、改めてこんなに美しい君を見ると、心がとろけてしまいそうになるな」


「まあ――」


 嬉しそうにカトリーレの唇がほころぶ。


(イザーク!)


 けれど、二人の仲睦まじい様子に、リーゼの手は震えてくる。


(そんな……嘘よね? だって、私には一度もそんな風に言ってくれたことがないのに……)


 リーゼが慣れない夜会でいじめられないように、せめて身だしなみだけでもと頑張っておしゃれをしても、いつもぶっきらぼうに見つめて「ああ」とか「かわいい」と答えてくれるのが精一杯だったのに。


 しかし、今カトリーレを見るイザークの瞳は、まるでうっとりとしたように甘い。


 イザークの優しい視線を感じて、くすくすとカトリーレも微笑んだ。


「嬉しいわ。イザークのための装いですもの。ところで」


 すっと笑顔が消える。そして扇を持った手首が、くいっとリーゼの方へと折り曲げられた。


「婚約者様にお訊きしたいのだけれど、あの女はなんなのかしら? どうして私に処刑された女がまだイザークの側にいるの?」


 その言葉に、再度心臓がどきんと打つ。


「ああ――――」


 けれど、イザークはちらりとリーゼを見ただけだ。向けられた藍色の眼差しは、今までカトリーレに注がれていたのと同じものだとは思えないほど冷たい。


 さっと、アンドリックが二人の目から守るようにリーゼの前に立った。


 けれど、イザークは、咄嗟にとったアンドリックの行動をまるで嘲るかのように見つめている。


「突然訪ねてきたんだ。アンドリックの縁者だろう? リーゼの死について知りたいと言っていたから」


「あの娘の?」


「ああ。そっくりな姿で俺を驚かせるつもりだったらしい。だが、俺は彼女がアンドリックのもう一人の従妹であるリリー・ウィンスギートだと知っている。以前、リーゼが自分によく似ていると言っていたからな」


 そして、アンドリックに視線を定めた。


「そうなんだろう? アンドリック」


ぐっとアンドリックの拳が握られる。だが、一度カトリーレに視線をやると、怒りに震えながら頷いた。


「ああ――そうさ。驚かせて、半年で婚約者を忘れた薄情なお前に、少しでも罪悪感を抱かせたかったんだよ」


「だとさ――」


 呆れたように、イザークが肩を竦める。


 おどけたような仕草にくすくすとカトリーレが笑った。


「馬鹿ね。今更そんなことをして、イザークが後悔するとでも思ったのかしら」


「まったくだ。悪ふざけにはつきあっていられないよ」


「なっ――!」


 アンドリックが叫ぼうとしたが、後ろから伸ばされたリーゼの手に、ぐっとこらえる。


 けれど、イザークはそんな二人の様子には気がつかないように、カトリーレの肩へと手を置いた。そしてそっと柔らかく囁く。


「リーゼは間違いなく死んだんだ。君まで驚かせて悪かったね」


「気にしないで。違う意味で、ちょっと驚いただけよ。あなたがまだあの娘に未練があったのかと――」


 けれども、その言葉にイザークは大きく笑う。


「まさか! 彼女が婚約者でいる間、俺はさんざん社交界の笑いものにされたんだ。あんなので公爵家の妻が務まるのかと――。それなのになんで今更!」


(イザーク!)


 聞きたくはない言葉だった。


「観劇にも夜会にも興味がない。お蔭で、俺まですっかり田舎者同然の物知らずの扱いを受けてしまうし」


 大げさに両手を持ちあげて、おどけている。


「だから別れられて清々したぐらいだ。今更リーゼのことなんて、思い出すのもごめんだよ」


「まあ――」


 カトリーレが口に手をあてて笑う。


「それよりも、今日の劇の帰りに、君が婚礼衣装で身につける首飾りを見に行こう」


「あら? イザークが選んでくださるの?」


「当たり前さ。花嫁が式で身につける首飾りを贈るのは、古来より夫となるものの務めだからね」


 そして、緋色のドレスを着るカトリーレの肩を柔らかく抱き寄せる。


「今は、ただ君との結婚式が一日でも早く訪れるようにと、待ち遠しくてたまらないのに――」


「まあ」


 くすくすと笑う声が、イザークの手の中から聞こえてくる。だけど、もうこれ以上聞き続けるのを耐えることはできなかった。


 そのままリーゼは飛びだすと、今カトリーレが歩いてきた小道を遮二無二走っていく。


(嘘よ!)


 ――あれがイザークの本音だなんて。


 今聞いた信じられない言葉が、ずっとイザークが思っていたことなのだろうか。嫌なのに、親の決めた婚約者の手前隠していた? だから、リーゼをおいて、ほかの女性のサロンに出入りをしていたのだろうか?


(私のことをつまらなく感じていたから――)


 涙を止めることができず、ぽろぽろと頬へとこぼれてくる。手で拭うことさえ思いつかない。ただ視界が歪むままイチイの生け垣の間を走り抜け、切れる息にもかまわずにブルーメルタール公爵家の前庭まで駆け続けた。


「おい、ちょっと待て」


 後ろから、アンドリックの声が追いかけてくるが、とても足を止める気にはなれない。


(こんなことなら、イザークの気持ちなんて聞かなければよかった……)


 せめて、あのまま死んでいれば、以前のイザークとの思い出全てが苦しくなることはなかったのに。


 少なくとも、今みたいに辛い想いをすることはなかったはずた!


(どうして、私は生き返ってしまったの!?)


どうして。どうして――。


 何度石畳を駆けながら反芻しても、答えなど出てこない。


(どうして――!)


 だけど、何回目になるのかわからない言葉を心で叫んだ時、ふと別の恐ろしい疑念が浮かんできた。


 思わずぴたりと足が止まる。


(どうして? ――私は本当に生き返ったのかしら?)


 思い出すのは、リーゼは死んだと繰り返すイザークの言葉だ。


(そうよ……。本当に死んでいたのなら、イザークの言葉通り、生き返るはずなんてないんだわ。首を落とされて焼かれたのだから……)


 だとしたら、今ここにいる自分はなんなのだろう? そして、自分に残ったこの処刑の記憶は?


これだけ生々しいのに、まさか全てが夢か催眠術だったとでもいうのだろうか。


(わからない――)


 自分の今の存在も。自分の記憶でさえもが、本当は幻なのではないかと疑ってしまう。


「おい!」


 けれど、木の陰で走るのを止めたリーゼの肩は後ろからぐいっと掴まれた。ずっと後ろから追いかけてきてくれていたアンドリックだ。掴んだ手は汗で濡れて、こちらを見つめるアンドリックの琥珀色の瞳も心配そうに揺れている。


「大丈夫か?」



しかし、息の切れた顔は、ひどくリーゼを案じているようだ。だから、ゆっくりと振り返った。


「アンドリック、お願いがあるの――」


 確かめたい。イザークが言う通り、自分は本当に死んだのか。それなら、ここに今いる自分は何者なのかを。


 だから突然の言葉に首を傾げるアンドリックに、リーゼは涙で濡れた頬をはっきりと持ち上げた。


「私の墓に――連れて行って」

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