(3)事件
カトリーレに連れられてリーゼが向かったのは、王宮の奥にある王族達の住まいになっている一角だった。幾何学模様で作られた大理石の床をこつこつと歩くと、人が少ない廊下に反響していく。だが、さすがは王宮だ。白い壁には細やかな彫り物が施され、いくつもの歴代の王の絵が飾られている。
現国王の孫といえど、臣下に下った息子の子供である以上、カトリーレは本来は大公家の屋敷で妹と共に両親と暮らしているはずだが、王太子夫妻に子供がないことで、数少ない王孫として特別に部屋を与えられたのだろう。
軋む音さえなく開けられた部屋は、緋色の絨毯を敷き詰められた、ほかでは見ない豪華さだった。家具は全て孔雀石で造られ、一歩入っただけでも赤と緑のコントラストが眩しい。
けれど、部屋を彩る色彩にも臆することなくカトリーレは歩を進めると、半ばまで入ったところでくるりとリーゼを振り返った。
まだ入ったばかりのところで礼をしていたリーゼの背後で、金色の扉が重たく閉まる。
「さて」
華やかなストロベリーブロンドを輝かせながら、笑っているカトリーレが恐ろしい。笑っているはずなのに、リーゼを見る瞳が怒りを孕んだように冷たいからだ。
「はっきりと申し上げますわ。イザークとの婚約を破棄してほしいんですの」
「なっ!」
突然の申し出に言葉が続かなかった。王族の前だということも忘れて、思わず礼の姿勢から頭を上げたが、カトリーレの瞳はいまだにリーゼを嘲るように見下ろしている。そして、閉じた扇をあてた口元が酷薄に笑った。
「イザークだって困っておりますのよ? いつまでたっても都に疎くて、社交界にもなじめない貴女に。それで未来の公爵夫人が務まるとお思い?」
「それは……」
確かに重荷だろう。でもと、一瞬伏せた顔を持ち上げる。
「でも、イザークは私らしくいればいいと言ってくれました!」
「それは親同士が親友だから決めた婚約者への思いやりですよ。考えてもみなさい。公爵になれば、あらゆる公式行事への出席が求められます。そこに人から笑いものにされているような妻を同伴しなければならないことが、どれほど情けないか」
かっとリーゼの頬に火が点った。ドレスの裾を握った指が震えそうになってしまう。
「――――それは。……これから、一生懸命勉強します。決して、イザークの足手まといにはならないように」
「既になっていると言っているんですよ? 殿方から切り出されたのでは、貴女の不名誉になると婚約破棄を言い出せないイザークの優しさがわかりませんか?」
(それは……そうかもしれない)
でも、と固く瞼を閉じる。
都に来たばかりの頃、貴族のお茶会に呼ばれても同年代の子が話す都で流行しているデザインなどの話題がさっぱりで、会話についていくことができなかった。田舎育ちを嘲る視線に泣いて庭に逃げた時に、イザークが連れて行ってくれた博覧会。珍しい最新鋭の農機具がいっぱいで、目を輝かせながら故郷の領地で使えないかと説明を聞いていたら、後ろにいたイザークが突然微笑んだのを思い出す。
「さっきとはまるで別人だな」
「え?」
まだ婚約する前だったから、みたことのなかったイザークの素の笑顔に慌てて振り返る。
「借りてきた猫みたいにおとなしくて。逆にどこの深窓の令嬢かと思っていたのに」
「だって! さっきはすごく緊張して」
だけど、焦って顔を真っ赤したリーゼに今度こそたまらないように吹き出す。
「あはは。そっちの方がいい。リーゼ、君はどんなところでも君らしくしていた方がずっといいよ」
笑いながら言われた言葉に心臓がとくんと鳴った。
(あれが――今から思えば、私の初恋)
そして、今でも自分は初恋の夢の中にいる。ならば。
きっと空色の瞳を持ち上げた。そして礼の姿勢を改め、凜と背を伸ばす。
「私はイザークを信じます。そして、イザークと共に生きられるように最善を尽くします」
すると、カトリーレは大仰に溜息をついた。
「これほど言ってもとは――――」
そして、ふっと笑う。けれどなんと禍々しい笑みなのだろう。まるで蛇が襲うべき獲物を捕らえたような輝きを目に浮かべると、すっと口元に当てていた扇を下ろした。
「わかりました。では、仕方がありませんわね」
カトリーレの言葉に一瞬ほっとする。やっとこれで解放してもらえるのだろうか。
けれど、リーゼに背を向けて歩き始めたカトリーレは奥の引き出しの前まで来ると、突然中から銀色のナイフを取り出したのだ。
「なっ――!」
(殺される!?)
美しい百合を彫られた鞘から刀身を引き抜くと、カトリーレは紅いドレスを翻してリーゼを振り返る。浮かべた表情に宿るのは、魔物さながらの美しい笑みだ。
「では、こうするしかありませんね」
素早くカトリーレの手が繊細なナイフを持ち上げていく。細身だから、大きな傷を負うということはないだろうが、それでも心臓にあたれば致命傷になるし、内臓にだって取り返しのつかない損傷を与えることはできる。だから、咄嗟にリーゼは逃げようとしたが、白いドレスを翻すのよりも早くに、カトリーレの刃が向かったのは、自らの左腕だった。
ざくりと音がして、リーゼに向かうと思われた刃が、カトリーレの白い腕を切り裂いていく。
開いた白真珠の肌から鮮血がこぼれて、紅いドレスを更にどす黒い深紅へと染め上げていった。
「えっ? カトリーレ様!?」
(一体何を)
突然の事態に慌ててリーゼが駆け寄るのと、カトリーレの手からナイフが床に落ちるのは同時だった。ことんという音が絨毯に吸い込まれて消える。
そして、リーゼの手がまさにカトリーレに触れる寸前に、絹を裂くような悲鳴があがったのだ。
「カトリーレ様!?」
「何事です!?」
ばんと扉を破る勢いで、廊下にいた衛兵達が駆け込んで来る。そして、中にいた血まみれになったカトリーレの惨状に息をのんだ。
だが、次に色を失ったのはリーゼだ。
「早く捕まえて! この者が、突然私を殺そうとナイフで襲ってきて……!」
「なっ!」
寝耳に水とはこのことだ。一体、自分がいつカテリーナを殺そうとしたのか――――。
けれど、駆け込んできた衛兵にリーゼの手は後ろに回され逃げられないようにとねじ上げられてしまう。
「おとなしくしろ!」
「王宮でカトリーレ様を狙うなど! なんて不届き者だ!」
「違います! 私はカトリーレ様を殺そうとなんてしていません!」
しかし、誰もリーゼの言葉に耳を貸そうとはしてくれない。後ろで腕を縛り上げながら、衛兵が叫んだ。
「だったら、その落ちているナイフはなんだ! 立派な暗殺の証拠だ!」
「違うったら!」
だが誰もリーゼの言葉など信じない。ただ衛兵に強引に体を縄ごと引き立てられると、血が溢れた腕を押さえながらほくそ笑むカトリーレの前から連れ出されていく。
そのままカトリーレの部屋から引きずるようにして灰色の石をむき出しにした地下に連れて行かれると、明かりさえろくにない牢の中へと投げるように放り込まれた。
「入れ!」
どんと突き飛ばされる。せっかく夜会にと選んだ白いドレスが、むきだしになった湿った土の床で黒く汚れていく。転んだ頬にも土がつき、何が自分の身に起ころうとしているのかさえわからない。だけどリーゼが振り返った先で、牢の扉は外からの明かりを閉ざすようにがしゃんと無情に閉められたのだ。
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