(2) 不幸の始まり

 咄嗟にうまく返事ができない。


 耳に流れてくるのは、窓を開け放された広間からの音楽と広い王宮の庭を渡る風の音ぐらいだ。だけど、今のリーゼの耳にはどちらも聞こえてこない。


 ただ、クリーム色の髪を夜風が流して、闇の中にざわりと揺れた。


 けれど、息を忘れて見つめるリーゼの前で、イザークは苛立ったように腕を組んだまま視線を逸らさずにいる。


「どういうつもりだ」


 以前は明るく話したはずの声が、重く闇の中に響く。


 藍色の瞳の奥が冷たく光るのを見て、リーゼはぎゅっと手のひらを握りしめた。


「な……なに、が」


(怒っている――――どうして?)


 なぜ怒っているのかわからない。


 だけど焦るリーゼの前で、イザークは腕を組んだまま自分の肘をとんとんと指で叩き続けているではないか。


「婚約者がいる身で、こんなところにほかの男を同伴に連れてきたりして。俺に恥をかかせるつもりか」


「それは――――!」


(噂で、イザークが今日のカトリーレ様のパートナーを頼まれたと聞いたから……!)


 しかし、焦って一歩前に出たリーゼから目をそらすように、ふいと顔を横に向けられる。


「それに婚約者だというのに、俺が訪ねなくなった途端、公爵邸にも顔を出さない」


「だって、イザークがもうじき宮中に出仕することになって、今は忙しいと伝えてきたから!」


 だから、遠慮して公爵邸にも行かなかったのに。


 けれど、リーゼのところには忙しさを理由に遠のいた足で、イザークがカトリーレのサロンに出入りしていたのは知っている。カトリーレだけではない。公爵家の跡取りであるイザークを狙っている令嬢達のいろいろなサロンに出入りしていたことも。


 けれど、ふんとイザークはつまらないように鼻を鳴らした。


「それなら、手紙ぐらい出せばいいだろう。それが手紙はよこさない、訪ねてもこない。あまつさえ、前は俺を誘っていた街への外出に、代わりにあの従弟君を誘うのでは、君は本心では俺との婚約を嫌がっているのではないかと疑うよ」


「そんな!」


 思わず驚いて声が飛び跳ねる。


「あるはずが……ないわ……」


(もしも、この婚約を嫌がっているとしたらイザークの方よ……。だって、私には夢みたいに幸せな話だったけれど、イザークにしたら、親に決められた話なのだし……)


 だから、少しだけ自信を失った語尾が小さくなってしまう。けれど、イザークは呆れたように大げさに溜息をついた。


「どうだか。現にこの間だって、俺がキスしようとしたら逃げたじゃないか」


「あ、あれは! 突然だからびっくりして――――」


 まさか振り返った瞬間に、抱きしめられて顔を近づけられるとは思わなかったのだ。だから、驚いたあまり咄嗟に突き飛ばして逃げてしまったのだが、今あの時のことを思い出しても顔に火がつきそうになる。


(あんなにイザークの顔が近くに……なんて、何を思いだしているの! 私!)


 けれど、真っ赤になってしまったリーゼの様子に、今まで冷たかったイザークの瞳が少し和らいだ。


「ふうん」


 そして、今度は顔を林檎のようにしているリーゼの方を向き直る。


「じゃあ、今なら俺がキスをしても逃げないと?」


「そ、それが、私が婚約を嫌がっていないという証明になるのなら――――」


 両手を握って叫んだが、もう顔は爆発しそうだ。なんで今、イザークが突然こんな話題を出したのかもわからない。


(だけど、これで機嫌を直してくれるのなら――)


 決死の覚悟でイザークに向かって目を閉じると、緊張した顎をくいっと指で持ち上げられた。


「リーゼ……」


 そして、柔らかなものがリーゼの唇に触れる。最初は軽く重なるだけ。長い間、飲み物もとらずに話し続けていたせいだろう。イザークの唇は、上の方は少しかさついているが、内側はしっとりと柔らかく濡れている。それが一度軽く触れて、そしてもう一度しっかりと重ね合わされた。


 初めてのキスだ。


 子供同士が怯えながら、人目を忍んでかわすようなたどたどしいキス。


(――だけど、なんて優しい)


 まさかさっきまで怒っていたイザークが、自分にこんなに愛おしそうなキスを重ねてくるとは思わなかった。触れているだけなのに、離れていくのが惜しい。


「あ……」


 遠ざかっていく温もりを追うように目を開くと、見上げた先ではイザークが幸せそうに微笑んでいた。これ以上ないほどの幸福そうな笑みで――――。


(え……)


 そして、ぽんと優しくリーゼの頭を撫でる。


「もうだいぶ夜も遅くなってきたから、先にお帰り。手紙さえくれたら街には一緒に行くから――」


「あ……はい」


(もしかして)


 久しぶりに見たイザークの笑みに、顔に更に血が上ってくる。


(最近冷たかったのは、私がこの間キスを拒んだから?)


 だから、拗ねていたのだろうか。


(まさか――そんな子供っぽい理由なんて)


 あるはずがないと思うのに、火照ってくる頬を止めることができない。思わず両手で押さえだが、止められないのは顔の熱だけではなく、こぼれてくる笑顔もだ。


(イザーク!)


 こんなに身近で触れあったのは、初めてかもしれない。しかも、自分だけに恋人にする仕草をしてくれた。


(私、やはりイザークが好き!)


 リーゼに手を少し挙げて、歩き去って行く背中に想いが溢れる。


 小さい頃、父の友人の子供ということで出会った時から気になっていたかっこよくて、誰よりも美しい男の子。それなのに、口調や態度はたまに意地悪で。つれないこともいっぱいなのに、リーゼが貴族らしくなく一人で街に出るというと、いつも心配してついてきてくれた。


 田舎娘なんて馬鹿にはせず、少しでも領地の発展になるものはないかと探すリーゼに、どこで調べたのかいろいろな知識を持ち寄っては、いつも最後まで付き合ってくれていた男の子。


 口調ではからかったり、冷たかったりするのに、いつも心配して側にいてくれた。


(うん! 私もつまらない悪口なんかに負けずに、イザークにふさわしい奥さんにならないと!)


 正直言って社交界は苦手で、必要以上に関わりたくはないが、それでもイザークのためなら頑張れる。


 だから、バルコニーに出た時とは正反対の浮かれるような気分で広間へ戻ろうとすると、急に見事なストロベリーブロンドが近づいてきた。


「貴女」


 すっと金細工で作られた扇を持ち上げるのは、今日の主役カトリーレだ。けれど、扇の端で指されたリーゼは、普段は話さない相手からの思わぬ言葉に慌てて身を屈める。


「私……ですか?」


「そう。少しお話があるの」


 しかし礼をとるリーゼを見つめる緑の瞳は、傲慢なまでに見下している。いや、どこか怒りを押し殺しているようにさえ感じられるではないか。


「よろしくて?」


 だから、全身から威圧を発するカトリーレの不穏な貫禄に、リーゼはただ頷くことしかできなかった。

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