(3)始まりを告げる声
三日後、誰もいなくなった子爵家の館は、静謐な空気に満ちていた。
いつもはアンドリックと弟が話す元気な声や、おいしい香りが漂っていた居間にも、今はただ窓から静かな光だけが注いでいる。
きらきらと空気の中に舞うのは、目に見えないほど小さな塵だろうか。掃除は留守宅を預かる使用人達によってきちんとされているが、やはり人が少ないと普段は気にしないほど細やかなものにも目がとまるのだろう。
(ついに今日だわ)
先ほどから、窓の外ではいくつもの貴族の馬車が舗装された白い石畳を慌ただしく走っていく。きっと式が始まるまでに、少しでも神殿の良い席をとっておこうと――そして、あわよくば今日の結婚で、更に縁が深くなるオルヒデーシュヴァン大公家とブルーメルタール公爵家に少しでもお近づきになっておこうという腹づもりで――それぞれが道を急いでいるからなのだろう。
今も窓の外を走って行く馬車の音を耳にし、リーゼはゆっくりと一度息を吸い目を閉じた。
そして、心を決めたように開く。
「お嬢様」
後ろから声をかけてきたのは、今日これから一緒に帰ることになっているマナーネだ。けれど、本当のことを話してあるマナーネの表情は、ひどく不安そうにリーゼを見つめている。
「ああ、マナーネ。頼んでいたものができあがったの?」
「はい……ここに」
マナーネが、そっと視線を抱えていたものに落とすと、綺麗に畳んである緑色の布をリーゼに差し出した。
「お嬢様……ご決心は変わりませんか?」
服をもつマナーネの手は微かに震えている。それでも、頼んだ通りに作ってくれたところを見れば、きっとリーゼの気持ちは伝わっているのだろう。
「ごめんなさい。でも、どうしても許せないの――」
これまでの自分に起こった全てをマナーネには話した。最初は驚き、怒りを露わにしたマナーネだったが、リーゼの決意を聞いた時には微かに涙を流してもいた。
「そうでしょうとも。許せるはずがございません――まさか、そんなことをあのイザーク様が……」
うっうっと、今も涙をこぼしているマナーネは、幼い頃からのリーゼの恋をよく知っている。
「カトリーレ様に心変わりをされたのだけでも許しがたいのに、それがまさかそんな権力欲のためだったなんて……。お嬢様の命をなんだと思っておられるのか」
「マナーネ」
「叶うならば、今すぐに私が殺しにいってやりたいほどですのに」
けれど、ゆっくりとリーゼは首を振る。
「だめよ。それに、あの後、ブルーメルタール公爵家の警備は強化されて、イザークにはもうどうしても会うことができなくなってしまったわ」
(だから本当に、決行するなら今日しかない――)
今日を逃せば、イザークはカトリーレの夫になってしまうだろう。
「だから、ごめんなさい。こんな危険なことにマナーネを巻き込むことになってしまって」
「お嬢様……」
けれど、マナーネは柔らかく微笑むリーゼに、首をふる。いつもは光を浴びて優しいクリーム色に揺れるリーゼの髪が、今日はまるで枝から落ちたような朽ち葉色に染められていたからだろう。なんのために髪を染めたのか――そこにリーゼの決意を見て取り、俯いて肩をふるわせている。
「いいえ。私はお嬢様を赤子の時からお育てしてきました。僭越ながら、勝手に二番目の母と思ってお世話をしてきたのです。それなのに、どうしてお嬢様の悔しい気持ちがわからないはずがありましょうか――」
幼い頃から育んだ信頼も、恋も、それどころか命でさえもが、王位の前には全て邪魔だと思われてしまったのだ。リーゼが生きてきた全てを。その無念さは、育ててきたマナーネにも怒りを宿す何かがあったのだろう。
「――ありがとう」
だから、受け取った神官服を抱きしめながら、育ててくれた乳母に礼を言う。そして、優しく肩に手を置いた。
「きっと後から行くわ。だから、先に船着き場に行っていて」
「きっと……! きっとですよ!」
何度も繰り返して念を押すマナーネの手には、昔よりもずっとたくさんの皺が刻まれている。この皺ができる一本一本の間に、自分と弟を大切に育ててくれたのだ。そう思うと、感謝しか湧いてこない。
だから、リーゼは無理に笑った。
「ええ。必ず行くわ。そして、今度こそキーリヒで、みんなで穏やかに暮らすのよ」
普段よりも力強く。まるで自信に満ち溢れているかのように。その笑みで、やっとマナーネの気持ちも落ち着いたのだろう。
「お嬢様……」
しばらくリーゼの笑みを見上げていたが、やがてエプロンで涙を拭う。
「そう、そうですね。そして、今度こそ生き返られたお嬢様と、幸せにみんなで暮らすのですから――」
「ええ。だから待っていて。もしも船の時間に遅れても――必ずエレンツェでは追いつくから」
だからとリーゼは笑った。
「じゃあ、私はそろそろ行くわね。遅れないように頑張るから」
「はい、お待ちしています」
深く頭を下げるマナーネに微笑むと、リーゼは側の小部屋に入って渡された神官服に着替えた。そして、上に冬用の簡素なマントを纏うと、マナーネに微笑んで子爵邸を後にする。
もう二度と戻れないかもしれない――。
ふと、門まで歩いて振り返った時に、そんな想いも湧いた。だから一瞬足を止めて、冬の日差しをあびた子爵邸を見上げるが、後ろの道を通りすぎていくけたたましい馬車の音に、軽く首を振って歩き出す。
(もう決めたことなのだから――!)
だから、使用人達以外はほとんど歩く者もいない貴族街の通りを、誰にも見られないようにマントで顔と全身を包んで歩いた。
今リーゼが着ているのは、この国の大神殿に使える神女が着る神官服だ。普通は、大神殿で働く神女だけが司祭から渡される服装だが、白と緑で作られたシンプルな上下一続きの衣装は、裁縫のうまい者なら誰でも作れる。
(少し緑の染料の調合は難しかったけれど……)
それでも昔訪ねた染色技術者に聞いた話を思い出して、三回染料を変えて染めれば、同じ色を再現することができた。念のため、首には、銀の円にそれぞれの神のシンボルである花を描いたロザリオをかけているが、これは大神殿に仕える神女ならば誰でも身につけている品だ。だが、さすがにこれは簡単に偽造することができなかった。だから、代わりに下町の質屋を探して、いくつか盗品として売られていた品から手に入れたのだが、実際は金がほしくなった神女が、盗まれたということにしてこっそりと売りにきたらしい。
(神様の国でもお金がいるなんてね)
くすっと笑みがこぼれてしまう。結局、神に心身を捧げても、現世との理は断ち切れないのだ。
(でも、これで私が神女ではないと見破れないはず――)
だから、貴族街の通りから、都の大通りに出ると、人がごったがえしている道を、かぶったマントがとれないように手で押さえながら進んだ。
「今日はすごい人出だねえ。なにかあるのかい」
きっと遠くからきた旅人なのだろう。大通りの両端を埋めるように集まっている人々を見回しながら、露天の店主へと尋ねている。それに、店主はチーズをかけて焼いた芋を紙に包みながら、愛想良く答えた。
「これから未来の女王様と、公爵家の若様との結婚式があるのさ。そのパレードを見ようとみんな集まっているんだよ」
「へえーそれはいい日にきたもんだ。楽しみだな」
後ろで交わされる声から逃げるように、足を速める。
道を埋める人々は、みんなこれから式場に向かう馬車に乗った二人を見ようと、黄色い声を上げながら街道の奥を今か今かと背伸びをして見つめている。
(しっかりしなさい! リーゼ! 今日がイザークの結婚式だということぐらい十分にわかっていたはずでしょう!?)
だから、足早に歩くと、家を出てから三十分ほどの距離にある中央大神殿へと向かう。
これから王族に連なる二家の結婚式が行われるのだ。
だから万が一の不備もないようにだろう。敷地の周囲にはぐるりと衛兵達が張り巡らされ、不審な者が神殿に入らないように目を光らせている。
物々しい警備に、リーゼはふうと一度深呼吸をすると、かぶっていたマントを外して、横の入り口を守る衛兵へと近づいた。
「お役目ご苦労様です。すみません、帰りが遅くなったので入れていただけますか?」
にこっと手を神に祈る時のように、ロザリオに組み合わせて挨拶をする。
すると、相手は不審そうにリーゼを見つめた。
「今日、お使いに出られた神女の話は聞いておりませんが」
少し怪しんでいるのだろう。じろじろと見つめてくる瞳は不躾だが、それをにこりと笑って誤魔化す。
「はい。実は今日参列された方に、お飲みいただくように届けられた聖酒の数が間違っていたのです。だから、送られた隣の神殿に急いでお知らせに行っておりました。数が合わないと、向こうも帳簿と数が合わなくて慌てておられるでしょうから」
「ああ――」
「式まで時間がないので、急ぎのあまり衛兵の方にお話しするのを忘れておりました。申し訳ありません。中に戻っても大丈夫ですか?」
途中で配る聖酒とは、花婿と花嫁が二人だけでガルダリア国を守る多くの神々に結婚の報告と誓いを行う間、待っている参列した人たちに配られる果実酒のことだ。
普段は飲酒が禁止の神殿だが、結婚式でだけは特別に振る舞われる。だが、神殿の酒蔵は別にあるので、連絡のために急いで行って、今リーゼが手ぶらで帰ってきたとしてもおかしくはない。服の袖に隠した一本の銀色の短剣を除いては。
けれども、衛兵はじろじろとリーゼを見下ろす。
「失礼ですが、一応確認をとらせていただきたいと思います。所属と命じた者のお名前を教えていただけますでしょうか?」
(まずい!)
いくらなんでも神殿に確認されては、リーゼの嘘がばれてしまう。
「言えませんか? 命じた者のお名前は?」
額に汗が浮かぶ。
(どうしよう!? 知っている司教様のお名前を言えばいいのかしら?)
だが、それでこの場をしのいでも、衛兵が確認のために名前を出した司教に問い合わせれば、リーゼの嘘はすぐにばれてしまう。
(どうしたらいいの!? もう、イザークをカトリーレ様に渡さないためには、ほかに日がないのに!)
ぎゅっと円形のロザリオを握りしめる。
けれど、リーゼがためらいながらも誤魔化すために口を開こうとした時、後ろで急にわあっという歓声があがった。
「花嫁行列が来たぞ――!」
ついに結婚式が始まる声に、急いでリーゼは振り返る。
とうとうイザークとカトリーレの馬車がここまで来てしまった。
(イザーク!)
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