(9)最高の貢ぎ物

「イザーク!?」


 今、目の前でなにが起こっているのか――。


 だが、夢かと疑う隙さえないほど、リーゼの右手を包んだイザークの両手は温かい。そして、更にぐっと自分の方に引き寄せた。


 同時に、銀の刃の先端が、更にイザークの胸に潜り鈍い音をあげている。ずずっと肉を突き刺す感覚は、短剣の横から迸り出てくる血の量からも、彼の命を貫こうとしているのに間違いがない。


 慌てて短剣を引き抜こうとした。僅かに後退した刃の間からは、赤い血がどろりと噴き出してくるが、それなのにリーゼの手が剣を引き抜こうとするのをイザークの両手が許さない。


「もっと――もっと深く刺すんだ! リーゼ!」


 言われている言葉がわからない。だから必死に首を横に振って拒もうとしたのに、更にイザークはリーゼの右手を包む両手に力を入れてくる。そして、カリーの短剣を更に胸にめりこませようとした。


「俺の命は君の体を元に戻すのに使って、もう生き返らせるのには足りないんだ! それでも残りの全てを吸い込めば、もうしばらくは君が生きていることができる! だから!」


「いや……いやよ……」


(イザークが私の殺された体を元に戻した?)


 では、やはりあの夢はただの幻ではなかったのだ。思うのと同時に、体中から渾身の叫びが吹き出してくる。


「いやよ! どうして私が生き返らせてくれたあなたを殺さなければならないの!?」


 裏切られたとずっと思っていた。最初は見放され、嫌われたのだと。そして、次は、自分と過ごした日々はなんの価値もなく、殺されたのでさえイザークには家畜の処分のようなものだったのだと絶望していたのだ!


 だけど、命をかけて生き返らせてくれた。しかも、自分が殺されないように、処刑の寸前まで必死になって交渉してくれていたというのに――。


「嫌よ! 絶対にあなただけは殺したくない!」


 涙が白い珠のように迸る。


 どうして、ここまで自分に尽くしてくれた人を殺さなければならないのか――――。心の底から、愛している人なのに!


「リーゼ!」


 しかし、拒むリーゼが腕ごとカリーの剣を引き抜こうとしたとき、不意に伸びてきたイザークの右腕が、リーゼの体を抱きしめた。


「あっ」


 ずっと焦がれていた腕だった。だけど、それをまさかこんな瞬間に与えられるなんて――。


 咄嗟に必死に後ろに手を引いたが、刃の先端がぐしゃりと肉をわける嫌な感触が短剣から伝わってくる。


 そっと、イザークが嬉しくてたまらないようにリーゼの頬に顔をよせた。けれども、その顔はすぐに申し訳なくてたまらないように苦しげに歪んでいく。


「ごめ……ん……。最後、まで……きちんと、生き返らせて、あげたかった……のに……」


 そして、するりと手から力が抜けた。


「イザーク!?  しっかりして!?」


 そのままリーゼの胸に凭れるように倒れてしまったイザークの胸から、慌ててカリーの短剣を引き抜く。そして、側に投げ捨てると、急いで頭に巻いていた神女のベールで傷口を塞いだ。


 けれども大きな傷口だ。圧迫しただけでは、下から次々と湧き出るように血が溢れてくる。


「だめよ! イザーク! お願いだから、死なないで!」


 口から出る言葉は、完全に悲鳴だ。きっと自分が処刑されていく時にも、イザークはこんな風に叫んでいたのだろう。


 リーゼの声が聞こえたのか。一度閉じた瞼が薄く開くとイザークはそっと藍色の瞳で見上げる。苦しいだろうに。命を吸い込むカリーの剣は、もう胸から引き抜いたとはいえ、この大怪我だ。それなのに、目の前で涙をこぼす様子に、リーゼから死が遠ざかったことに気がついたのか。嬉しそうに微笑んでさえいる。


「おねがい……誰か、イザークを助けて……」


 今、縋れるのならどんな神や悪魔にだって魂を売るだろう。


 けれど、かつんと白大理石の空間には乾いた靴音が響いた。


 涙にまみれた顔で振り返れば、深紅のドレスを纏ったカトリーレが、駆けつけた衛兵達の前に立ちながら、こちらをただじっと見つめているではないか。


「カトリーレ様……、あの、これは……」


 きっと急いで来た衛兵達も、目の前で繰り広げられた光景に困惑しているのだろう。


 結婚式当日だというのに、花婿がほかの女の腕の中で自害しようとしている。しかも、その光景を見ていた花嫁のカトリーレは、ただ妖しく微笑んでいるではないか。


「ああ、いいのよ。手を出さないでちょうだい」


「しかし……」


「いいわね?」


 おそらく衛兵達の責任者なのだろう。一際立派な体躯を持つ男に命じると、そっと空中に白い手を伸ばした。


「ラッヘクローネ様」


 カトリーレが、呼びかけた名前に目を開く。それは、腕の中でリーゼを見上げていたイザークも同じだったらしい。まだ何かをするつもりなのかと、藍色の瞳を大きく見開いたが、カトリーレの白い両腕は、奥にあるラッヘクローネの像へと伸ばされていく。


「どうでした? 私の貢ぎ物は?」


 その言葉に、リーゼの空色の目が更に大きく開かれた。


(今、カトリーレはなんと言ったの?)


 貢ぎ物――確かに、そう聞こえた。


 けれど、息を呑む眼差しの先では、さっきまでリーゼが隠れていたラッヘクローネの像から、燃え上がるような白い炎が舞い上がり、ふわりと銀の火花が空中に舞い散ったではないか。


 銀色の荘厳な光が空間を埋めていく。きっと多くの者にとっては、初めて見る光景なのだろう。多くの衛兵が息を呑み、幾度か見たリーゼすらもまばたきを忘れる前で、ラッヘクローネは血だまりとなった神殿の上に降臨すると、満足そうな笑みを浮かべている。そして、呼び出したカトリーレを、ちらちらと金と青が瞬く瞳で見つめた。


「確かに受け取った。最高の復讐劇――見事な出来映えで、なかなかに面白かった」


(今、ラッヘクローネ様が言ったのはどういうこと?)


 最高の復讐劇? そして、これがラッヘクローネへの最高の貢ぎ物だというのなら、自分を生き返らせるように願ったのは、カトリーレだということなのだろうか。


(なぜ!?  私を殺したカトリーレが、どうしてそんなことを――)


 けれど、カトリーレは蹲っているリーゼには一顧だにしない。


「言った通りになりましたでしょう? あの娘の死体に黄泉返りの法を与えてイザークに渡せば、きっと生き返らせるために、命をかけて私を狙い続けるだろうと――」


(なっ――!)


 信じられない言葉に目を開くが、頷くラッヘクローネは満足そうだ。


「確かに、そなたが申した通りになった。それで? この結末で、完了か?」


 しかし、カトリーレは鮮やかにストロベリーブロンドの髪を横に振る。そして、さっきまでイザークがカトリーレに向けていた短剣を拾うと、握った。


「いいえ。あと、一つ。これで本当の仕上げですわ」


 まだなにかあるのか。


「来ないで!」


 だからこちらを振り向いたカトリーレに、咄嗟にリーゼは叫んだ。そして、さっきまでイザークの胸に刺さっていた剣を床から拾うと、急いで構える。


 何をする気なのか。


(だけど、これ以上イザークを傷つけるつもりなら許さない!)


 けれど、腕に抱いたイザークの体を抱きしめるリーゼに、カトリーレはくっと笑う。


「いいの? 今私を刺せば、イザークはあなた共々、確実に死ぬわよ?」


「くっ――――」


 自分は、元々助からなくても仕方がないと思っていた。


(だけど、イザークは別よ! 私を命がけで助けてくれたイザークを道連れにするなんて、今の私にはとてもできない!)


 裏切られたと思っていた時なら、ともかく。今は彼の本心を知っている。


「ごめんなさい、イザーク……」


(あなたを信じ切れなくて……)


 だからそっと腕の姿を抱きながら謝った。


「リーゼ……」


 けれど、返ってくる細い声に、刃をきっとカトリーレに向ける。


「でも、イザーク! あなただけは殺させない!」


 白い刃を鋭くかまえるリーゼの目は、今までにない迫力だ。


 その姿に、ふっとカトリーレは笑った。


「さあ! だからこれで私の復讐劇は仕上げですわ! お受け取りくださいませ、ラッヘクローネ様!」


 その言葉と共に、高らかにカトリーレはカリーの短剣を振り上げる。そして、そのまま振り下ろすと、衛兵が駆け寄る隙さえなく鋭い銀色の先端で自らの胸を貫いたではないか。


 薔薇のように赤い深紅の血が、白い空間に鮮やかに飛び散っていくのに、リーゼは瞳を大きく開いた。

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