(8)呼んでくれる名前

  カトリーレの背後では、今まさにイザークが剣を掲げて、その頭上から振り下ろそうとしている。両手で持つ銀の鞘に描かれた模様は、白百合にも似たカリーの花だ。


 自分だけが持っているはずのカリーの短剣を掲げるイザークに、蹲ったままリーゼの瞳は大きく開いてしまう。


(あれは、ラッヘクローネ様から渡されたのと同じ短剣!? どうしてイザークが持っているの!?)


 けれど、ざんと振り下ろされてくる銀の輝きを、赤いドレスを翻しながら、カトリーレは紙一重でよけた。


 そして、踏みしめていたリーゼの足から飛び退くと、イザークを見つめたまま、かつんと白大理石に踵を鳴らす。


「ついに本音を現したわね? そろそろだとは思っていたけれど」


「当たり前だ! お前は狡猾で用心深かったからな。だから護衛を外して、二人きりになる瞬間を待っていたんだ!」


「あら? 心外ね? 私はイザークには何もしてはいなくてよ?」


 くすくすとカトリーレは面白そうに笑う。しかし、その様子を、イザークは藍色の瞳に宿した憎しみを隠しもせずに睨んだ。


「よく言う! 俺を騙してリーゼを処刑したくせに! そのお前をどうして俺が許せると思うんだ!?」


(えっ!?)


 驚いて顔を上げるが、苦しくて目を開くので精一杯だ。


 けれど、怒るイザークに対峙するカトリーレは、飛びすさったところでさらりと立ち上がると、いつもと同じように笑っている。


「あら? だって謝罪はしなかったでしょう? リーゼの処刑を取り消す条件は、あなたが婚約を破棄することと、あの娘の謝罪――。もっとも、この取り引きを話さない条件をつけたお蔭で、予想通りあの娘は勝手な誤解をしてくれたみたいだけれど」


「約束の猶予はまだあった! それなのに、三日後だった処刑を勝手に翌日に早めて、抗議に行った俺の目の前で、あろうことかリーゼの首を――――!」


 叫ぶイザークの表情は今にも血の涙を流しそうだ。けれど、思い出したのか、手が怒りに震えているイザークの様子に、艶やかにカトリーレは笑う。


「ええ。だから思った通り、あの娘は誤解して死んでいったわね。生き返っても、その瞬間をずっと引きずっていて。とても面白い見世物だったわ」


「許さない!」


 ばっとイザークの足が白大理石を駆け出した。


「なにがあってもお前だけは! あの時、俺は残りの人生の全てを賭けても、お前に復讐をすると誓ったんだ!」


 ざんと短剣を振り上げるが、カトリーレの前には持っていた赤いベールがざらりと広げられる。


「くっ……」


 リーゼが苦戦したのと同じだろう。身の丈よりも長い金属の板の連なりに、イザークの刃はカトリーレまで届かせることができない。


 けれど、蹲るリーゼは胸の痛みをこらえながら、頬を涙が流れていくのを感じていた。


 ――嬉しい。


(やっぱり、牢の中で信じていた通り、イザークは最初から最後まで、私を助けようとしてくれていた……)


 見捨てられたのではない。家畜のように思われていたのでもない。


 幼い頃から共に培ってきた日々は、イザークにとっても大切で、やはりお互いの間には深い絆が築かれていたとわかったことが、どうしようもなく嬉しい。


(そして、ごめんなさい……)


 もう、息もかすれ始めて、うまく顔をあげることができない。


 だけど、遠くの方からは、きっとさっき出て行った大司教と神女が呼び寄せたのだろう。ものものしい装備をつけた衛兵達がこの回廊へと迫ってくる足音が聞こえる。


 このまま自分は、再度カトリーレ暗殺犯として捕まってしまうのかもしれない。家族は逃がしたし、リリーにも迷惑はかけないようにした。


 最悪の場合でも、今度は自分一人が死ねばよいだけのはずだ。


(だけど――!)


 せめて、一度謝りたい。勝手に誤解していたこと。ずっと、あの日からリーゼのために頑張ってくれていたのに、信じ切れなかったことを。イザークに謝ってから死にたいのに、もううまく顔をあげることもできない。


「うっ……!」


「リーゼ!?」


 甦ってから、初めてイザークが名前で呼んでくれた。涙がこぼれてくるほど嬉しいのに、遠くからは走ってくる衛兵の音が近づいてくる。


(逃げて……! 逃げて、イザーク!)


 自分など置いて。どちらにしても、自分はもう長くは生きられない体だ。だから、せめてイザークだけでも幸せに生きていってほしいのに、霞む視界の中では、カトリーレのベールに縫い合わされた金属を繋ぐ糸をざんと切り裂きながらも、倒れたリーゼの様子に慌てて振り返っている。


「イザ――……に、げ……」


 叫びたいのに声にならない。


(ごめんなさいって、言いたいのに!)


 それなのに、必死に目を開いた途端、胸にはまた切り裂くような痛みが襲ってきた。


「ああっ!」


 前よりも強い。まるで背筋に槌を下ろされ、体中を潰されていこうとしているかのようだ。


「リーゼ!」


 リーゼの異変にはっきりと気がついたのだろう。焦ったイザークの体の向きが、いくつかの糸を切ったカトリーレの前から変わるのと、回廊の入り口に衛兵達がなだれ込む音は同時だった。


「カトリーレ様、イザーク様! 大丈夫ですか!?」


 もう逃げることはできない。いや、体自体が動かなくて、這うことすらできない。


 どうして、自分は最後までイザークを信じ切ることができなかったのだろう。いくらひどい言葉を言い続けられたとしても、イザークが本当は口下手で不器用なことはよく知っていたはずなのに。


「ご……め……」


 ごめんなさいとただ一言を伝えたい。ずっと好きだった――だから信じてもらえないと思ったときも、裏切られたと思ったときも、心の底から絶望したのだ。


(せめて一言、あなたを好きだったからと伝えられたなら――――)


 だけど、今度こそ命は切れたのだろう。急速に暗くなっていく視界の中では、走ってくる衛兵と、こちらに駆け寄ってくるイザークのおぼろげな影しかわからない。


 もう呼吸も吸えなくなった。唇はわななくのに、肺へ空気を送ろうとしない。


(ご、め……ん……な……)


 すっと瞼が下がった。その後ろに広がるのは、黒々とした虚無の穴だ。この中に吸い込まれてしまえば、また自分の意識は消え、二度と陽の光を見ることはできないだろう。イザークへの想いでさえ、真っ暗な穴の奥で何も残らずに消えてしまう。


(イザ――……)


 もう、顔を見ることもできない。最後にうまく逃げてくれたのだろうか。わからないまま、体は酸素を送られなくなったことで細かく揺れ、温かかった体の全てが冷えていこうとしている。


 もうすぐ心臓の鼓動も止まるのだろう。胸の中心がわななき、もう呻きにもならずに唇と指の先を震わせているのを感じる。


 わからない。何もかもが、深淵へと呑み込まれていく。


 けれど、その時冷えていく手の先に、なにか温かな雫が触れるのを感じた。


 それは右手から流れ込み、急速に体の内側にまで血流にのって届いていく。まるで空気が、手から直接体に送り込まれているかのようだ。苦しんで冷えていこうとしていた心臓が、血の流れにのって入り込んできた温かな力に、もう一度鼓動を取り戻そうと伸縮を繰り返すのを感じる。


 はっと大きく息を吸えた。


(なに――?)


 戻ってきた感覚に、薄く目を開ければ、自分の白くなった手を誰かが握り締めて、両手で掲げるように持っているではないか。


 握られた手の間に、ぽたっと赤い血が滴るのが見えた。


 思わず目を見開く。


「イザーク!?」


 目の前には、カリーの短剣をリーゼの右手に握らせ、それを両手で支えながら自分の左胸を貫いている信じられないイザークの姿があった。


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