(2)夜会事件の裏と後
手足を動かしてみたが、どうやら体は普通に動くようだ。だから、リーゼはとりあえず服を着替えて、一階におりることにした。
どこで着替えていたのか。寝ているリーゼが身につけていたのは、牢で汚れた白いドレスではなく、フリルがいくつもついた体をしめつけない柔らかなデザインのものに変わっていた。
(――こんなドレス、見たことがない)
絹ではないが、滑らかで手触りのよい明らかな高級品だ。コルセットなしでも身につけられるような作りに、どこか特注品のような印象を受ける。
腑に落ちないものを感じたが、使い慣れた衣装棚に近づくと、そこから首の隠れるデザインのドレスを選んだ。リーゼが好きだった柔らかなアイボリーのドレスだ。一年も着ていなかったのに、いつでも着られるように手入れをしてしまわれている。
(お母様……)
犯罪者だといわれて処刑されたのに、今でも娘として忘れられていない。一年の間、ずっとリーゼが帰ってくるかもと想い続けてくれた母の気持ちを感じて心が温かくなる。
だから、着替えてメイドのマナーネが作ってくれた遅い朝食を食べると、居間にいる家族の元へと向かった。
南向きに作られた日当たりの良い居間は、リーゼが暮らしていた頃と同じ淡い緑の壁に包まれている。少し灰色がかってはいるが、派手すぎないモスグリーンの壁紙は昔からリーゼが好きだった色だ。
(昔のまま、変わらない)
この部屋も。机を囲むようにして置かれた長椅子に座った家族の姿も。
「リーゼ、こちらにおいで」
暖炉を背にする形で長椅子に座っていた父が、入ってきたリーゼにそっと手を差し出した。
そして、座ったリーゼのクリーム色の髪を優しく撫でてくれる。
「食事は食べれたかい?」
「ええ。マナーネが作ってくれた味は、前と変わらずにおいしかったわ」
マナーネは、リーゼの乳母も務めてくれたメイドだ。お蔭でリーゼの好みを知り尽くした味は優しく、小さい頃から苦手なものは細かく切るなどの配慮も行き届いていた。
「そうか。確かにさっきよりも少し顔色がよくなって、ほっとしたよ」
髪を撫でながら話す父の顔は、言葉の通り、本当に心から安堵している様子が伝わってくる。
いつの間にか、母はさっきまで着ていたはずの喪服を脱いでいた。リーゼの記憶の中で、母が好んでいた薄紫に小花をあしらったデザインのドレスだ。大好きな服を身に纏い、表情も明るくなったせいか、さっきまでよりも若返ったように見える。
けれど、どこかまだ心配そうにリーゼを見つめると、ことんと自分で淹れてくれたお茶を目の前に置いた。
「どこか痛いところはない? 朝は、リーゼがどこかから逃げ出してきたのかと思って、お医者様を呼ばなかったのだけれど。もしどこか苦しいところがあるのなら、すぐにでも内緒で――」
けれど、リーゼはお茶を受け取りながら、柔らかく首を振る。
「いいえ。本当にどこも苦しくはないわ」
そして、母の淹れてくれたお茶を一口飲む。温かい。飲んだ喉の奥から、そして白磁のカップを持つ指の先から、全身にじんわりと温もりが広がっていくかのようだ。
だから勇気がでた。
「それよりも教えてほしいの。私が捕まってから、一体何があったの?」
なぜ、自分は無実の罪で殺されなければならなかったのか。そして、今どうして突然生き返ってここにいるのか。なにもかもがわからないことだらけだ。
前を見つめるリーゼのきっとした瞳に、決意が伝わったのだろう。父が隣の長椅子に座った母を見つめ頷くと、次に隣に座っていた弟、そして反対側に座るアンドリックと見回してもう一つ頷いた。
そして、両手の指を組みながら、ゆっくりとリーゼに視線を戻す。
「一年前のお前が夜会に行った日――突然、お前とアンドリックがカトリーレ様暗殺の疑いで捕まったという知らせが入った」
「え……アンドリックも……」
驚いて振り返った左側では、アンドリックがこくりと頷いている。
「ああ。一緒に行っていたお前が、カトリーレ様を切りつけたと言われて、無理矢理宮殿の一室に監禁されたんだ」
「そんな――カトリーレ様は、アンドリックには事情を聞いているだけだって……」
だから心配する必要はないと言っていたのに。それなのに、あれも嘘だったのか。
けれど、愕然とするリーゼの隣で、父は当時のことを思い出すように、瞳に暗い色を宿す。
「もちろん、私達はお前がそんなことをするとは思わなかった。だからブルーメルタール公爵家や、知り合いのラルド伯に頼んで、なんとかお前を牢から出せないかと相談していたんだ」
「お父様――――」
(やはり、私のために必死になって助けようとしてくれていた……)
つんと目頭が熱くなるリーゼを、いつもおっとりとした母も真剣な眼差しで見つめている。
「ええ。だから私もベルツ夫人やハーゼンバイン候爵夫人、ほかにも知り合った社交界の夫人達にお手紙を書いて、とにかくお前を助けてほしいとお願いしたの。昔からお前のことを知っている方達はみなさん、お前はそんな恐ろしいことをする子ではない。きっとなにか誤解があるはずだと、陛下に再調査を嘆願するとおっしゃってくださったわ」
「私を信じてくれた人もいたのね……」
誰からも信じられず、人を殺そうとしたと思われて生涯を終えたと思っていただけに、寄せられていた信頼が嬉しい。
だが、と父は寄せていた眉を更に強くひそめると、苦しそうに大きな溜息をついた。
「貴族達から再調査を嘆願する手紙をいただいて、王宮に向かう馬車に乗り込もうとしたとき――お前が、処刑されたという知らせが届いたんだ」
父は一息で言い切ったが、当時の苦しい気持ちを思いだしたのだろう。横にいる母の手が細かく震え出す。
「あの時は、本当に目の前が真っ暗になったわ。――――真相を知るために、王宮へ行っても、お前の処刑がされた時の話ばかりで――――」
「母さん」
側に座っていた弟のエディリスが、喉を詰まらせた母を慰めるように、そっと肩に手をおく。
「まさか――と思ったわ。でも信じられない気持ちで家に帰れば、首を切り落とされた上に、黒く焼け焦げたお前の死体が届けられて……」
残酷な記憶に耐えられなくなったのか、肩がわなわなと震えている。
「グレーテ……」
すすりなく母に、同じ思いを抱いたのだろう。名前を呼んだ父も、空色の瞳を沈鬱に伏せると黙り込んでしまう。
だから、広がる沈黙の悲痛さを紛らわそうとしたのか。ぽつりと、アンドリックが口を開く。
「あの時は――俺もショックだったんだ」
けれど、瞳ははっきりと持ち上げられている。だから、なんと言えばいいのかわからない空気の中で、慌ててリーゼもアンドリックの方を振り返った。
「あ、アンドリックは!? 捕まったと聞いたけれど、なにかひどいことはされなかった!? 拷問とか」
けれど、アンドリックがこちらに向ける視線は複雑だ。むしろなにか申し訳なくてたまらないというように、リーゼを見つめる琥珀色の瞳が揺れている。
「いや……俺は、お前が罪を認めて、全部一人でやったと自白したということで釈放されたから……。だから、これはきっと、お前が俺を守るために嘘の自白をしたんだと、ずっと思っていたんだが……」
「私が嘘の自白?」
「違うのか?」
けれど、リーゼは大きく首をふる。
「違うわ。私は、絶対に罪を認めなかったし――それに、アンドリックがずっと監禁されていること自体知らなかったんだもの!」
なのに、それでアンドリックがこの一年リーゼへの罪の意識に苦しんでいたなんて。
許せない。
「どうして……私が、やってもいない暗殺の自白なんて――」
(では、みんな私がやったと思っているというの? だから、あんな風に死刑の瞬間を見に来て――)
だとすれば、どうしてカトリーレはここまでリーゼを追い詰めるのか。
けれど、思わずドレスを握りこんでしまったリーゼの意識を戻すように、弟のエディリスが声をかけた。
「姉さん……一体、夜会の時になにがあったの?」
エディリスの言葉にみんなの視線が一斉にリーゼに降り注ぐ。だけど言ってもいいのかもしれない。
(私を信頼してくれている家族になら――)
だから、リーゼは心を決めると家族を見回した。
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