(11)命の炎
壮麗なアーチ型に組まれた天井の下には、星形の花と春の恵みを告げる野いちごがいくつも彫り込まれている。スタースと呼ばれる青い花は、幸せな家庭を司るツナイリーベの象徴だ。飢えた冬が終わり、我が子の口に含ませてやる野いちごと一緒に、今もツナイリーベの像にも持たされている。
けれど、小さな子を抱く灰色の石像の目が、今はゆっくりと開いた。そして、石ではありえない柔らかなオレンジの瞳を、中から現していく。まるで暖炉で燃える炎のような――。だが、ラッヘクローネのように激しい色ではない。煮炊きに使う火のような。飢えた家族にスープを温め、みんなの冷えた体に安心を与える優しい色だ。
けれど、開いたその瞳は、今は目の前で舞うラッヘクローネを見据えるように厳しくなったではないか。
「これは、どういうことじゃ。わらわの神域をそなたの余興で、血に汚すとは――」
ちっとあからさまにラッヘクローネが舌打ちをした。
「ふん。少しの手違いじゃ。そなたの神域を犯すつもりはなかったわ、ツナイリーベ」
突然現れたもう一人の神に、リーゼはイザークの体を抱きしめながら驚くが、見上げた先ではツナイリーベの顔は、不愉快そうにこちらを見下ろしている。
「しかもわらわの前で、人の愛情を弄ぶなどと――いくら、最近威勢がよいとはいえ、少々行儀が悪すぎるのではないかえ?」
「別に年増の領域を侵すつもりはない。ただ、そこの娘が少しせきすぎただけじゃ」
「誰が年増じゃ! 最近、信仰が増えたからといって、そなたの無作法は目に余る!」
ツナイリーベは、今でこそ参詣者の数でラッヘクローネに負けてはいるが、元々は国内で最も多くの分祀を持つ神だ。古来より、小さな村々でも祠で祀られ、結婚式や出産といった人々の喜び事には必ず祈願を受けてきた。それだけに、今回結婚の儀という日に、自分の目前でラッヘクローネに捧げるために行われた復讐劇は見逃すことができなかったのだろう。特に、愛情が絡むとなれば尚更――。
(だけど、愛情と家庭を司る神様なら、ひょっとして――)
リーゼの腕の中で、細い息になっていくイザークの体を見下ろす。このままでは、今は助かってもあとどれぐらい体がもつかわからない。
だから、イザークを抱きしめながら、現れた女神へ必死に叫んだ。
「お願いします、ツナイリーベ様! どうか、イザークを! イザークの命を助けてください!」
声の限りに頭上にいる神に叫ぶ。けれど、ツナイリーベは、ちらりと、リーゼに抱えられた、恋人を助けるために血だらけになったイザークの姿に目をやるだけだ。そして、抱きしめているリーゼを見つめた。
「生憎じゃが、寿命はわらわの範疇外じゃ」
「そんな――……」
では、やはりイザークは助からないのだろうか。
「いやです! お願いします。何でもしますから、イザークをどうか助けて……」
ぼろぼろと涙が溢れてくる。必死に布で傷口を押さえているが、イザークの胸に空いた穴からは今も絶えず赤い鮮血が流れ続けているのに。
けれど、ちらりとツナイリーベはラッヘクローネを見つめた。
「だが、ラッヘクローネのあの狡猾な願い主が、自分の愛する男に何も手を打っていないとは思えぬ。わらわの前で、無作法をした詫びじゃ。その女の願いに添うように、少々の色をつけて返せ」
ふんとラッヘクローネは笑う。
「さすが、年増は侮れん。あの娘とかわした、貢ぎ物に満足したらの交換条件じゃから仕方がない。その年増の顔もたてて、当初思っていたものの倍にして、その男の命の炎を増やしてやる!」
叫んだラッヘクローネの手からは、きらきらと細やかな金色の粒がこぼれ、それがイザークの頭上へと降り注いでいく。
「イザーク!?」
それと同時に、今まで消えそうだったイザークの息がゆっくりと深くなり、顔に微かに赤みが戻ってくるではないか。
「私は、命を生み出すことはできないがの。今ある闘志を倍に増やすように、命の炎を膨らませて燃やすことぐらいならできる。だが勘違いをするなよ? 神の業(わざ)で、増やしたとて残りをどう使うかは、その者次第じゃ」
けれど、呼吸が楽そうになったイザークに泣きたくなるほど嬉しくなって来る。
「よかった……」
だから、一度ぎゅっと抱きしめた。腕の中の体は、温かい。それが泣きたくなるほど嬉しい。
けれど。
「倍――――最初の予定って……」
言われた言葉に不安になってしまう。元々、リーゼの体を治すためにかなり使ってしまっていたイザークの命だ。最初のカトリーレと約束した時に想定したものの倍にしたというが、それは一体どれくらい生きられるものなのだろう。
けれど、心配そうなリーゼに顔に、ラッヘクローネはふんと鼻で笑った。
「知りたいか? だが、寿命なぞ知ってどうなる? いつ消えるかなど、人は知って生きたいものではあるまい」
「それは……」
確かにそうだ。自分の命があと何年か、あと何日かなど考えるだけで地獄なことぐらい、今のリーゼはよく知っている。
だから、言葉を濁したリーゼにラッヘクローネはふっと笑った。
「第一、命の炎とはそんなに単純なものではない。ただ生きているだけなら、命の炎も静かに燃やし続けるだけだが、静かに定量通りに全うする者などほとんどおらぬ。まだ命の炎は燃えさかっておるのに、突然戦で断たれる者。消えそうに少なくなっていても、大切に、細く、細く燃やし続けて、思わぬ長生きをする者もいる。命の定量の不確かさは、そなたが身をもって味わったであろう?」
「それは……」
確かに――。半月と言われたリーゼの命は、実際は十日とたたずに燃え尽きようとしていた。
だが、思えばこの十日足らずの日々は、復讐のために、自分の命の奥まで激しく燃やした日々だったともいえる。
しかし、俯いたリーゼの瞳にラッヘクローネはにやりと笑う。
「命の火の量とは、すなわち寿命ではない。左右はするが、どれだけ生きるかは、後はその者の生き方次第」
(そうよ……。私だって、言われた日にちと変わったじゃない……)
「だから自分の信念に従い、激しく短く生きるもよし。家族を愛し、長く平穏に生きるもよし」
ラッヘクローネは、くるりと体に纏ったひれを翻す。
そして、高らかに歌い上げるように二人を見つめる。
「残った命の炎をどう使うかは、持っている者の自由じゃ! どうせ、いつかは必ず消える命! 好きな生き方を選べ!」
叫ぶようにいうと、ぱんとラッヘクローネの姿は消えた。
あとには、ただ白い光がまるで新年の初雪のように降ってくる。ふわりふわりと。
見上げれば、なぜかその中には、青い星にも似たスタースの花も交ざっているではないか。そして、慈しむようにリーゼの髪にふわりとのった。
「愛し合う恋人達に祝福を――」
柔らかな色のスタースの花は、リーゼとイザークの上に舞い落ちていく。そして、カトリーレの亡骸の上にも優しく降り注ぐ。
「命をかけても助けたい恋人。誰にも渡せないほどの愛情。そして、自分を殺しても愛されたいほどの恋心には、愛の神として胸を打たれました。もし、なにか困ったことがあれば、訪ねてきなさい。その時は、力になりましょう」
「ツナイリーベ様……」
今、見上げるツナイリーベの顔は、子を抱く母にも似た優しい面立ちを浮かべている。きっと、こちらがツナイリーベの本当の姿なのだろう。
消えたラッヘクローネに満足したように話しかける慈愛の女神に、リーゼは息が楽になったイザークの体を抱きしめながら、涙をこぼした。
「ありがとうございます……」
きっと、愛の神から見れば自分たちの愛情はあまりにも傲慢なものなのだろう。それでも、これも愛には違いないと認めてくれた神に、心の底から涙を流しながら、リーゼはどうしても手放せない愛する人の体を強く抱きしめた。
そして、それと同時に、衛兵の後ろから多くの人々が押し寄せてくる。きっと、中で起こった騒ぎを聞きつけたのだろう。たくさんの高位貴族らしき姿と、外を守り固めていた騎士たちの姿に、リーゼ達は囲まれ、血まみれになったイザーク、そして事切れているカトリーレの姿に、神殿中は大騒ぎとなった。
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