(8)希望

 

 どれくらいの間意識を失っていたのだろう。初めて受けた拷問で体と心が疲れ切っていたせいで、気がつけば壁の横に蹲るようにして眠っていたらしい。


「おい、出ろ」


 ぎいっと重い鉄の扉を開けた看守の声に、石の床に伏せていた睫を持ち上げた。冬に掛け布さえせずに眠ってしまったせいで体は冷え切っているが、夜会用に来ていたドレスの生地が分厚かったお蔭で凍死は免れたらしい。それでも、走った震えに体を抱きしめてしまう。


 開けられた扉から入ってきた光に室内を見渡せば、いつのまにか朝食が運ばれてきていたらしい。


 牢屋の基準なんて知らないから断言はできないが、昨日よりは豪華だ。固いパンに、野菜のスープ。昨日はこれだけだったのに、今日はハムを薄切りにしたものと小さな赤い林檎まで剥かれておいてある。


「食べないのか?」


「いらないわ……」


 強がりではない。本当に食欲がないのだ。だが、看守は無理に食べさせるつもりはなかったらしい。


「立て」


 くいっと顎でしゃくると、のろのろと立ち上がったリーゼの腕を後ろで縛りあげた。


(今日は何をされるのだろう……)


 だが、もう逆らう気力も体の中からは出てこない。黙ったまま看守が腕を縄で縛り上げるのにまかせていると、ようやく終わったのか、くいっとまた顎で外を指し示す。


「来い」


 そのまま言われた通り、看守の背中について歩き始めた。廊下にはいくつかの松明が灯されているせいか、牢よりは明るい。心なしか空気も牢の中よりは暖かいようだ。


 だけど、昨日足を何度も踏みつけられたせいで腫れてしまっているのか。じくじくとした痛みで歩きにくい。


 だが、看守は足を引きずりながら歩くリーゼをちらりと見ると、昨日とは違う小部屋に案内した。そして、部屋の中にいた白髪の老人に「任せる」と頷く。


「どうしますかな?」


「本来なら切るが、できるだけ外見を変えないようにみせしめろとの話だ。くくってくれ」


「はいよ」


 何の話だろう。周囲でかわされる会話に、リーゼが怪訝げに眉をひそめた時だった。


 絡まっていたクリーム色の髪に無理矢理櫛を入れられて、頭皮を引っ張られる感覚に息がつまりそうになる。


「いっ……」


「もったいないなあ。本来なら綺麗な髪じゃから、切れたら鬘にしたいほどなのに」


 言いながら老人は、櫛でとかしたリーゼの髪を前側に垂らしてきつく編み上げていく。


(今からなにがあるのだろう……)


 固くほどけないように編み上げられていくクリーム色の髪を見ながら、そっと心で呟いてしまう。


(髪が邪魔ということは、昨日見た焼きごてで背中を焼かれるのかもしれない。それとも、鞭で自白するまで叩かれるのか――――)


 そんなことをしても、どこにも真実などないというのに。


 自嘲のようにリーゼが笑みを浮かべた前で、老人は長いクリーム色の髪を編み上げると、きゅっと赤い紐で小さな蝶々結びを作ってくれた。


「これがわしにできる精一杯のはなむけだ」


 そして、ぽんと肩を叩いてくれる。


「神様に祈りなさい」


(何を? 昨日祈ったのに、まだ助けてくれない神様に?)


「出ろ」


 しかし、看守の指示に、リーゼの言葉は口から出る前に消えた。


 そして、長い廊下を歩いて行く。だけど、どうやら行き先は昨日の拷問部屋ではないらしい。


 地下牢は薄暗く幾度も折れ曲がる通路だから自信はないが、昨日とは明らかに逆の方向に向かっているようだ。


(この道は――昨日、外に出るときに通った……)


 どうして――と思うのと同時に、はっとした。


(ひょっとしたら裁判が始まるのかもしれない)


 だから、拷問をしたことを取り繕うために、最低限の身だしなみを整えさせようと髪を編んだのではないか。それに貴族達に裁判で落ちぶれたリーゼの姿を見せつけたかったから、カトリーレは拷問でリーゼの外見が変わることを嫌がったのかもしれない。これなら、さっきまでの看守の言葉ともちょうど合う。


(神様は、まだ私を見捨ててはいなかった……!)


 そう思うと、自然と前を行く看守についていく足も軽くなってしまう。


 けれど、看守は昨日向かった出口とは違う方向に折れ曲がると、灰色の石が黄色い煉瓦に変わった道をまっすぐに歩き始めた。


(どこに向かっているのかしら)


 周りをくるりと見渡す。少しかび臭い匂いがするところを見ると、どうやら頻繁に使われている通路ではないようだ。


(だけど、法廷は確か王宮の北西にあると聞いたから……)


 少し離れた建物に行くのに、囚人が逃げないよう専用の通路で案内しているのかもしれない。


(だけど、法廷で調べてもらえれば、私が何もしていないことはすぐにわかるはず……!)


 ナイフを入手した先。細工師や鍛冶屋を訪ねて、カトリーレを切ったナイフを誰が購入したのか。買ったのが自分ではないとわかれば無実を証明する手がかりにもなるはずだ。


(そうすれば、きっとこの嘘のような悪夢も終わる……!)


 終わっても――もう、元通りにはなれないのかもしれない。思い出したイザークの顔に、ぎゅっと唇を噛む。だけど、少なくとも実家の子爵家の名誉を回復することはできるはずだ。


 だから、足早に歩く看守に急いでついていった。だが不意に看守が足を止めた扉を怪訝げに見上げる。


「ここだ」


 立ち止まった扉は、銅が使われているのか。古びた金属の扉には、ところどころに錆びたような緑色の粉がついている。


「ここ……?」


 重たくて、人を見下ろすように威圧する金属の扉からは、とても裁判所に繋がる気配は感じられない。


 まるで、二度と出られない奈落に監禁されるような――。


 あまりの重苦しさに、思わず立ち止まって見上げた。


 けれど、「開けろ」という、看守の一声で、緑の粉を纏った金属の扉は、ぎぎぎと重くきしみながら外へと開かれていく。


 冷たい冬の空気と同時に、流れ込んでくる人々のざわめき。ぐるりと周りを観客席に取り囲まれた中に、作られた円形の小さな灰色の舞台。そして、中央におかれている両側が少しくぼんだ台と長い柄の斧を持った人の姿――――。


「ここは、まさか……」


 ――――処刑場!


(私は今から殺される!)


 開かれた先に待ち構えていた予想もしていなかった光景に、リーゼは思わず息をのんだ。

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