(6)一年前

 

「イザークが!? どういうこと!?」


 ついさっきまで、二度と会わない決意をしていたのも忘れて、リーゼは耳打ちをしたマナーネに思わず迫るが、どうやら肝心のマナーネも詳しいことはわからないようだ。


「すみません、それ以上は……。ただ、一年ほど前からあちこち具合が悪くなられて、公爵夫妻ももう覚悟を決められているそうです」


「そんな!」


 まさか、イザークが一年の間にそんなことになっているとは思いもしなかった!


(イザーク!)


 だからマナーネから手を離すと、急いで階段に向かって走り出す。


「お嬢様、お手紙は!?」


 後ろからマナーネが叫んでいるが、振り返る余裕すらない。


 そのまま急いで厩に向かうと、一頭の馬を引き出そうとした。


「お嬢様、急にどうされました?」


「急いで出かけたいのよ!」


 故郷の街では馬にも乗っていたから、簡単な乗馬ぐらいならできる。だけど、乗馬服でもないドレスで馬に手綱をつけようとしているのは、さすがに危ないと思われたらしい。


「お待ちください。すぐに馬車を出させますから」


 そのまま厩番が、急いで走って行くと、すぐに御者に用意をさせた馬車を連れて戻ってきた。


 だから、急いで赤茶に塗られた子爵家の馬車に乗り込んだが、話を聞いてすぐに飛び出したリーゼに驚いたのだろう。


 屋敷からマナーネが追いかけてくると、馬車で出ようとしていたリーゼに白椿のついた帽子を急いで差し出す。


「マナーネ……」


「本当に最後のお別れになるかもしれないので、何も申しあげません。ですが、どうかご無事でお帰りを」


「ありがとう……」


 幼い頃から、イザークに恋をしている自分を見てきた乳母の悲しそうな顔に、ただ頷いて帽子を受け取る。


 そして、すぐに馬に鞭をあてさせた。


 馬車はリーゼの希望通り、貴族の館が建ち並ぶ白い石畳を常ではない速さで駆けていく。しかし、中に座ったリーゼにはそれでも亀の歩みのようだ。


(どうして、イザークが……)


 生き返ってから何度か会ってはいるが、とてもそこまで重い病を患っているようには見えなかった。いや、考えてみれば、確かに顔色は以前よりも青くは見えた。ただ、冬の日差しのせいで白く見えるのだろうと思いこんでいたのだ。


(イザーク!)


 イザークの命が、自分よりも先につきるかもしれないなんて、一度も考えたことがなかった。まだ十八で、王太子の補佐役にも選ばれたばかりで、きっと彼に待っているのは明るい未来だろうと思っていたのに――。


 イザークが自分をおいて死ぬかもしれないと考えただけで、握った指先がかたかたと震えてくる。


 だから、ひどく遠く感じたブルーメルタール公爵邸につくと、御者が馬車の扉を開けるのももどかしく駆け下りた。


 そして、急いで玄関にいた衛兵に取り次ぎを頼む。


 けれど、今日奥から出てきたのは、普段客人の取り次ぎをするメイドではなく執事のギンフェルンだった。


 いつもと同じように灰色の髪を端正に後ろに撫でつけ、一分の服の乱れもない。


「あ……」


(どうしよう。この間はアンドリックが一緒だったから、イザークへ取り次いでもらえたけれど……)


 だが、ここで帰るわけにはいかない。


(せめて、一目だけでも会えるなら――)


「あの、私アンドリック・フィオレッヒェルンの従妹のリリーと申しますが……」


「坊ちゃまのお見舞いですか?」


 突然相手から振られた言葉に驚く。けれど、急いで首を縦に振った。


「ええ……お具合が悪いと伺いまして……。先日、こちらのお屋敷でお話をさせていただいたので、もしもお見舞いができるなら……」


 断られるかもしれない。この間リリーとして会った時に、イザークは自分にひどく怒っていた。公爵邸中を取り仕切り、ましてやイザークのことを特に中心とした仕事を行っているギンフェルンならば、リリーとの間にあったことは当然知っているかもしれないのに。


「こちらです」


 しかし、リーゼの予想に反して、あっさりとギンフェルンの背は、階段へと向けられた。


 だから、後ろから急いで一緒に紺色の絨毯が敷かれた大階段を上る。


「あの……! この間はお元気に見えたのですが、なんの病気なのですか?」


 救貧院で、職人を引き受ける時に病気のこともかなり教わっている。難しい病気でも、いくつかは通いの医者に特効薬や最新の治療法を聞いたこともあるから、もし少しでも心当たりがあれば、なにか力になれるかもしれない。


 だから階段を上りながら、切れる息で尋ねたのに、ギンフェルンはいつもと同じようにちらりと振り返っただけだ。そして灰色の眼差しで見つめた。


「残念ですがわかりません。イザーク様は、公爵夫妻の一人息子ですから、それこそ藁にもすがられる思いで、国中の医者を探されましたが、いまだに病名すらわからない状態です。だだ、一年ほど前から、謎の発作を起こされるようになりました」


「一年前――?」


 最近、妙によく聞く年月だ。思わず問い返したが、ギンフェルンはただ深く頷く。


「はい。一年ほど前のことです。ご婚約者であったリーゼロッテ様が、反逆の疑いで処刑されてから半月の間、イザーク様は廃人同様でした」


「イザークが……」


(私が死んだ後?)


 どうして――――。イザークは、リーゼを疎ましく思っていたのではないのか。


 けれど、微かに眉を寄せたリーゼを振り返りもせずに、ギンフェルンは登り切った階段から向きを変えると、同じように紺色の絨毯が敷かれた通路を歩き始める。両側の壁には金でアイリスの花模様が描かれ、奥に伸びる通路は優美な雰囲気だ。けれど、墓場を思わせるように漂う沈鬱な空気が、ひどく重たい。


「はい。余程リーゼ様の死がショックだったのでしょう。イザーク様は、半月ほどの間ほとんど枕から頭があがらず、何も食べられない状態が続きました。このまま後を追って亡くなられてしまうのではないか――と、公爵邸の誰もが危惧し始めた頃。急にお出かけになったイザーク様が、お元気な顔でお帰りになったのです」


「半月……」


 なんだろう。さっきから、奇妙にリーゼの死後にかかわる言葉が飛び出してきている。


「だから、公爵邸の者は、誰もがこれで以前のイザーク様に戻ってくださると喜んでいました。ですが、前のように笑顔をおみせになるようにつれて、謎の発作を度々起こされるようになり……公爵夫妻も、手を尽くされましたが、今では諦めて、せめて一人息子が最後にしたいことを叶えてやりたいとお考えになっております」


 それは、きっと余命を覚悟したということなのだろう。


 たった一人の息子が先立つかもしれない悲しみ。だからだろうか。間もなく、次期女王候補と言われる女性との結婚を控えた邸内にしては、驚くほど喜びの色が見えない。


 ただ、近づく死を意識してか、ひどく悲しい空気だ。


(でも、まさかイザークがそんなに私の死を悲しんでいてくれただなんて……)


 今の様子からは思いもつかなかった。ならば、なぜあの時、カトリーレの横で自分の処刑を見ていたのか。


 わからない。だが不意に前を行くギンフェルンの足が止まると、くるりとリーゼを振り返る。


「医者からは、次の発作が起きれば、命の保証はできないと言われています。ですが、リーゼロッテ様――いえ。リーゼロッテ様にそっくりなリリー様が、見舞ってくだされば、きっとイザーク様もお元気になられると思うのです」


 その言葉と同時に、金のドアノブがかちゃりと開かれた。


 初めて入ったが、イザークの寝室なのだろう。瞳とよく似た青色のカーテンがかけられた室内は、ひどく重い空気に満ちている。


 だけど、天蓋つきのベッドの中で眠っている顔に、リーゼの瞳は一瞬で吸い寄せられた。


「イザーク!」


  急いで、藍色のカーテンが吊り下げられた寝台へと近づく。だが、白いシーツに沈み込むように寝ているイザークの額には玉のような汗がいくつも浮かんでいるではないか。


 短く繰り返す息は、明らかに苦しそうだ。きっと今は呼吸をするのでさえ辛いのだろう。せわしなく胸が上下して、微かな息を何度も吸い込んでいる。


(まさか、ここまでひどいなんて……)


 だが、きっとこの症状がいつものことなのだろう。枕元に立ったリーゼの姿を確かめると、静かにギンフェルンが扉を閉める。


 だから、目の前のイザークの様子に、せめて汗を拭いてあげられるものはないかとサイドテーブルの上を探した。


 清潔に洗われた白い布が盥の側に置かれているのを見つけて手を伸ばす。


 けれど、リーゼの白い布を持った手が、汗を浮かべる額に近づいて触れようとした直前、イザークの唇が動いた。


「リーゼ……」


「えっ……」


 意識がないまま呟かれた切なそうなイザークの声に、リーゼの空色の眼が驚きに開いた。

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