4話 覚悟のかたち
数日後、銀夜に案内されてやってきたのは、誰よりも見慣れた顔だった。
「やあ、
支月は銀夜がさっさと出て行った襖を睨んでいたが、気軽に言う緋華に、ますます顔をしかめた。
敵地に気を引き締めていたはずの支月は、ため息ひとつ吐いてから、下座に腰をおろす。
「緋華様」
咎めるように呼んでから、苦笑した。
「お元気そうで何よりです」
「うん。この通り、今のところ無事だ。支月が来てくれて心強い。雪道は難儀だったろう」
「こちらはひどく冷えて、爺やには堪えます」
いつものように受けてから、支月は少しためらった後で、ゆっくりと言った。
「このような折、誰よりも緋華様のお側にあるのは遠野殿でしたでしょうに、残念です」
本来ならば、今そばにあるのは
緋華は心配そうな支月の顔を見ていられず、視線を落とした。
「そうだね。葬儀は、無事に執り行われたのか」
「滞りなく。遠野の家督は伯父君が継がれたようです」
「そうか。揉めずに済んだのなら良かった」
もともと碧輝が桜花に来たのは、跡目の件で揉め事があったからだった。彼が亡くなった今、神宮家中だけでなく飛田の家中も揺れ動く今、小さな火種も起こらずに済んで、本当に良かった。
穏やかに受けた緋華に、支月はまたためらいがちに言う。
「あまりお耳に入れたくないのですが、申し上げなければならないことが」
「なんだ」
「飛田のどなたかから、神宮の臣へ、調略の手が伸びているようです」
緋華は驚きを隠せなかった。
「随分と早いな」
予想はしていた。臣の動揺は避けられないし、これから問題がたくさん起こるだろうことは分かっていた。けれど、思ったよりも早い。
「神宮は飛田に飲み込まれた、これから神宮の臣への粛正があるだろう、と噂を流している者があるようで」
「両家が一つになろうかと言う時に、まさか、飛田にひきずり込むというわけじゃないだろう」
国が一つにまとまったその後に自分の地位を確立するため、派閥を作ることに躍起になっているということも考えられるが。
そうですね、と支月は緋華の言葉を継ぐ。
「白蛇に緋華様がいらっしゃる間に、飛田征西将軍もろとも討ち取って、両家を終わらせてしまおうということではないかと」
「そうだろうな」
よもや、飛田の家臣の誘いに、神宮の臣が揺らぐとは思いたくない。
だがそもそも、緋華が女ながらに当主になったこと自体が異例だったのだ。その時は皆に倣って緋華に従っていても、今度こそ緋華の我が儘を承諾できないと思う者が出てもおかしくはなかった。
――神宮を、緋華を捨て置け、と誰かが思っては、これは何もかもが水泡に帰す話だ。
「婚姻による同盟を公言したところで、わたしがこんなところに閉じ込められていたんでは、信憑性がないということなんだろうな」
別の道を示されて、賭けてもいいと思わされるものならば、乗るものが出るかもしれない。――緋華が、あの戦の時に、この道を選んだように。
応じる者がいるかどうか、それも気にしていなければならないが。白蛇にとどまっている今、手を講じるならば飛田の臣にだろう。
「こちらで打てる手を打とう。家老の三島殿は、どれほど信用できるものかな。先日、飛田と神宮の婚姻に先陣切って反対したと聞いたが、いくらか情報を集められただろうか」
「三島の父親は、飛田晟青が跡目を継いだ時に殺されています。それを恨みに思っていてもおかしくはないのですが、飛田先代に付け込んで、娘を押し付けた父親ほどの野心はないものだと、わたしは見ております。先陣切って反対して、言い分を退けられたというのに、自領に帰ってひきこもったわけでもないようですし。評定を外されることを恐れているように思えます」
今までの在り様を根底から覆すようなことを聞かされて、真正面から反対して退けられて失望し、腹を立て、抗議を続けるほどの気概はないということか。
父親の築いた地位にただ胡坐をかいて、飛田晟青の逆鱗に触れないようにしてきたのだとしても、神宮と飛田が一つになって、その後の地位が揺らぐ可能性はある。己の地位に固執するならば、おかしな調略を行うことだってあるかもしれないが。
「地位を失いたくないならば、こちらからの呼びかけにも応じるかな」
緋華の言葉に、支月は珍しくふてぶてしい笑みを浮かべた。緋華の前では爺やの顔ばかりだが、やはり彼も歴戦の武将なのだ。
「藪をつついてみましょうか」
神宮の臣におかしな流言をするならば、こちらも同じようにするまで。逆に孤立させて、動かせる。
「くれぐれも、無茶だけはしないでくれ」
緋華の言葉に、いつもならばすぐに応じるはずの、支月の声がない。
「支月?」
不審に思っていると、支月は重々しい表情をして、傍らに置いていた長い袋包を緋華の前に差し出した。
「緋華様、勝手ながらお持ちしました」
黒い布袋を手に取る。ずしりと重い。袋の口を開け、中におさまっていたものを取り出す。
目になじんだものがそこにあった。
黄金の束飾りのついた、反りの無い十束の剣。
神居の剣だ。桜花城の謁見の間の、上座に祀られているはずのもの。
瞬きする間に、まざまざとあの城が、あの土地が脳裏に浮かんだ。まるで桜花にいるような錯覚まで覚える。
「これをあなた様の元にお持ちするべきだと述べたとき、万一にも飛田にこれを奪われてはならぬと申す者も多くおりました。これは神宮家の、この国の至宝。あるべきところに納めておくべきだと。ですが、私の独断で持ち出しました。神宮の臣にも、これを翻意だと受け取る者があるかも知れません」
「支月の忠義を疑う者など」
「それだけの事態なのです。緋華様」
支月は穏やかに、だがきっぱりと言った。そしてまっすぐに緋華を見て続ける。
「しかしこれは、神宮の御初代様の身を証したもの。あなた様の身を証すものでもあります。これを持って、飛田の者へ思い出させるのです。あなたが何者であるのかを」
それは同時に、緋華へも思い起こさせようという、支月の決意のようにも思えた。
決して短慮を起こしてはならない。何があっても生き延びるようにと。――この上、何があっても。
緋華は神居の剣を握りしめ、唇を引き締める。そんな彼女に、支月はふいに微笑んだ。
「支月は息子に家督を譲りました。今わたしに何があっても、武藤家には影響はありませんし、何も感知しないようにと息子に言い渡してあります。何があっても戦をおこさせるなと、厳命しています。神宮の家中がどのように揺れようとも、初代からお側にあった我々三家は揺らぎません」
「支月」
自然と責めるような声になった緋華に、支月は苦笑する。
「緋華様、このようなこと、簡単に話が進むなど思ってはおられないでしょう」
緋華は言葉に詰まる。
誰も死なせずに、戦を終わらせたいと思った。そのために無理に道を通した。どこかに歪みが出てもおかしくはない。戦中に血路を開くために死ぬ者がなくても、他の場で他の理由で、命を落とす者がいなくなるわけじゃない。
でも緋華は、支月の目を見て、強く言った。
「だけど、もう誰にも死んでほしくないから、婚姻による同盟に踏み切ったんだ。碧輝のように、わたしのために支月が死んでは何にもならない。長生きして、緋華の子に小言を言うと、約束しただろう」
何が何でも、支月を無傷で帰さなくてはいけない。
支月はそんな緋華を見て、少し悲しそうに笑う。
「緋華様。本当に、お父上に似てこられましたね」
桜花の城下でのいつもの小言と同じような言葉だったが、いつもと声音が違う。
「……もともと、わたしは父上そっくりだと言われてきたけれど」
突然の支月の言葉に、緋華は戸惑った。支月が言いたいのはそういうことではないのだと、気づいていて、わざと受け取らなかった。
――そう、母の言葉を思い出す。母の前でだけ弱い姿を見せたと言う、父のことを。
「遠野殿のかわりにはなれないでしょうが、爺やの前でくらい、文句を言ったり弱みを見せられても良いのですよ」
「いつも、支月には甘えているつもりだ」
「緋華様」
頑迷な緋華に、支月は何かを言いかけたが、口を閉ざした。何を言いたかったのか分かるが、支月ももう口に出して言えなかったのだろう。
今、碧輝が側にあれば、どれだけ心強かったか。さっき口にしたのとは意味合いが違う。どれだけ、緋華の心の支えになったかと。
碧輝がいないから苦しい。
その支えに碧輝を求めるのはおかしいのに、どうしても願ってしまう。もう望んでもどうしようもないことなのに。穏やかで優しいその笑顔を見たいと。緋華の不安を騙し続けてくれた笑顔を。
けれど緋華は、支月を咎めるように、強く言った。
「わたしが決めたことだ。今更、ここで支月が死ぬこと以外に、わたしに弱みなんてない」
「緋華姫」
珍しく、緋華を姫と呼んで、支月は言った。
「神宮の家督を継がれるまでは、心から泣いて笑うあなたを、皆眩しい思いで見ておったものです。このように我慢を強いることになるのならば、あなたが跡目を継がれる折に、賛同するのではなかった」
「支月」
「爺やの愚痴です。またあなたが心から笑えるように、尽力いたします」
言ってから、やれやれ、とわざとらしくため息をついた。いつものように。
だから緋華も、いつものように笑って見せた。
「それならば、くれぐれも、自分の命を軽んじないように」
承知いたしました、と、今度は
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